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第十章

 1

 朝もやに包まれた住宅街に短いサイレンの音がけたたましく響く。眠気を病院に置き去りにしてきた初芝はつしばは、手汗まみれの手でレガシィのハンドルを握っていた。

 国道に面した一軒の建物の前に人だかりができている。制服警官たちが野次馬を制しながら歩道をふさいでいた。人だかりの上に青い看板が立っている。『糸島診療所 日・木・祝 休診日』。

 レガシィから飛び出て、制服警官に警察手帳を見せつける。敬礼もそこそこに初芝は糸島診療所の敷地に入った。

 前庭の向こうに三階建ての家が建っている。二階のベランダには物干しざおがかかっていた。一階部分を診療所に、上階を自宅として利用しているようだ。

 中に入ると女性の嗚咽が聞こえてきた。声に導かれ、リビングに入る。エプロンをつけた中年の女性が、身体を丸めて泣きじゃくっていた。

 横に婦人警官がついて必死に女性を宥めている。日光が差しこむ大窓の前では、虚ろな目をした白髪頭の巨漢の男性が天井を見つめていた。

 初芝の肩に手が置かれた。

 手の主は今江いまえだった。ひたいから汗を滴らせた今江は、初芝の肩に手を置いたまま、陰鬱な視線をリビングにおくっていた。

 「上だって」

 三階の東側にある糸島研修医の自室。トレーナー姿の糸島は、警察の手によって床の上に横たえられていた。

 首の周囲に索状痕が走っている。制服警官によると、二段ベッドの柵にかけたロープで首を吊って亡くなっていたらしい。

 学習机の上に、大量の医学書や問題集が置いてある。どの本も手の脂がつき、付箋が貼られ、よれていた。寺内医師の評価はさんざんだった。だが糸島研修医は努力していたのだ。立派な医師になろうと、ひとの命を救おうと尽力していたのではないか。

 今江が一冊のノートを開いて初芝に差し出した。学習机の上にこのページが開かれた状態で置いてあったらしい。白いページにミミズのように波打った文字が書いてある。

 『こんなことをするために医者になったんじゃない』

 ノートには水滴がついた跡があった。小さな水滴が、いくつも、いくつも、いくつも――

 「どう思う」

 今江が訊ねた。

 初芝は何も言えなかった。

 何も言えず、必死に嗚咽をこらえた。



 2

 「まったくもって困ったことになりましたね」

 やすりで爪を削りながら落合おちあい院長は言った。その表情に焦りの色は見られない。

 「たった三日のうちに当院の優秀なスタッフが二人も亡くなってしまうとは。まったくもって恐ろしい。まったくもって困りました」

 「自殺であることに間違いはないのですね」

 窓辺に立つ雲仙うんぜん教授は顔をしかめて訊ねた。ワイシャツ姿の雲仙の横に、鬱屈した表情の秋月あきつき医師が立っていた。

 「疑う余地はありません」

 淡々とした口調で今江は答えた。

 「そうですか。うん、惜しいやつを亡くしたなぁ。残念、本当に残念だ」

 初芝の目には雲仙の態度が白々しく映った。高歌放吟こうかほうぎんのこの教授が、研修医一人を相手に慈愛の意思を表すとは思えない。

 「事件のストレスが彼を苦しめたのでしょうか。考えてみれば、職員のストレスケアに関しては何も対策をしていませんでしたね。職場を共にする仲間が亡くなれば、精神に変調をきたすのは当然ですからねぇ」

 落合院長は蛇のような目で今江と初芝を見つめた。

 「先日お話しした通り、研修医とは尋常ではないストレスの中で日常業務をこなしています。先輩医師からは怒鳴られ、看護師からは勉強不足と笑われ、そのくせ患者さんからは『先生』と呼ばれ医師としての責任を負わされる。わたしだって同じでした。雲仙先生も、秋月先生だって同じですよ。実に辛い。実に苦しい。いっそのこと死んで楽になりたい。そう思う機会は必ず研修医には訪れるものなんですよ」

 雲仙が『そのとおり』とばかりに腕を組みながら鷹揚にうなずく。

 「つまり。下川しもかわさんも自殺だったと言いたいわけですね」

 今江は口角をあげてつぶやいた。落合は破顔を崩して鼻をひくつかせる。

 「最初から言っているじゃないですか。事件があった夜、健診センターを訪れたのは下川くんだけ。あの場には下川くんしかいなかった。ならば下川くんを殺したのは誰か。本人です。下川くんは自分で自分を殺した。そう考えるのが自然なわけです」

 「自殺をする理由がありません」

 「だから研修医は心労が溜まりやすいと言っている」

 雲仙が荒い横やりを投げ入れた。

 「そういうことは、おたくの研修医が全員自殺をしてから言ってください」

 今江の言葉に雲仙は絶句した。秋月は窓の前から身体をずらし、日陰の下で憐れむように首を振った。

 落合が革張りの椅子から立ち上がる。乾いた両手を叩きながら院長は口を開いた。

 「よろしい。実によろしい。いやはや。刑事さんの仕事ぶりには頭が下がりますよ。真相の追及。結構じゃないですか。ぜひとも励んでいただきましょう」

 ――ただし――

 「忘れてもらっては困ります。明日、わたしは天神署の旧い友人と昼食をともにします。わたしに恩がある、大事な大事な友人です。犯人の目星がついたらそれ相応の証拠と共にわたしにご連絡ください。喜んで昼食会は中止にさせてもらいますよ。しかし、そうはならなかった場合……」

 落合は白い歯をのぞかせた。

 「刑事さんたちはどうなるのでしょう。しばらくお休みをいただけるのではないですか。はは。いいことだ。人間、休める時には休まないといけませんからねぇ」



 3

 「どうして糸島研修医が。ちくしょう」

 院長室を出た初芝は地団太を踏んだ。

 先を歩く今江はいら立った様子を見せない。それがまた初芝には不満だった。事件解決への手がかりなんてないのに、どうしてそんなにも落ち着いていられるのか。乱れた絨毯をそのままに、初芝は今江の背中をにらみつけた。

 「初芝」

 「はい」

 憮然とした声を返す。

 「報告。昨夜、どうだった」

 初芝は昨夜の病棟で起きたことを、時系列に沿って伝えた。何時ごろ、どこへ行き、誰と会い、何を話し、何を聞いたか。一挙手一挙動の詳細まで語ったわけではない。だが要点を漏らしたとの自負もなく、梗概としては適切だったろう。

 「正直に申しまして」

 初芝の口からため息が漏れ出る。

 「事件解決に繋がる成果は得られなかったと思います」

 「わたしもそう思う」

 今江のレシーブが初芝の脳髄を打ち抜いた。

 初芝はずるりと上半身を傾けて壁に崩れた。

 「だって真相がわからないんだよ。真相がわからないんだから、その真相に繋がる手がかりが何なのかもわからなくて当然でしょ」

 「詭弁じゃないですか」

 「わたしもそう思う。とにかく、何が真相に繋がるのかはわからないってわけ。昨日のことは頭の片隅にでも置いておきなさい」

 「承知です。今江さん、糸島の遺言ですが。

『こんなことをするために医者になったんじゃない』て。下川仁の死と関係があるんですかね」

 「そうだと思うけど」

 「糸島が下川を殺した? 『こんなこと』とは殺人のこと。遺書は殺人の自白だったのでしょうか」

 「可能性はゼロじゃないと思う。殺人はまさに医師の仕事とは真逆だからね」

 六階のエレベーターホールに着く。両腕を組んだ初芝はエレベーターを待ちながら苛立ちのリズムで足を揺らしていた。

 「たしかに糸島は事件当夜この病院にいた。だけど仮に彼が犯人だとしても、監視カメラにその姿が映っていない以上、健診センターにどうやって訪れたのかが問題となる」

 「結局、事件に進展はないわけですよね」

 「そうでもないでしょ」

 からのエレベーターに乗りこみ、今江は二階のボタンを押した。

 「糸島はわたしたち警察に対して、尋常ではない警戒心を放っていた。事件について訊ねた時の挙動不審な態度。あれは性格に加えて、何かしら事件について口外するのを恐れていたんじゃないかしら」

 「糸島は事件について何かを知っている。そして、医師がするべきではない『何か』をしていた」

 「気になるわね。手始めにそこから調べてみましょう」

 「大丈夫ですか。今日一日で犯人の目星をつけないと。明日の昼にはあの院長……」

 「できることをやりましょう。人間、できないことはできないんだから」

 二人は健診センターで天神署の刑事たちと合流した。情報を共有し、今日一日の捜査方針を固める。

 院内の捜査は初芝と今江が、他の刑事たちは周辺住人への地取りを担当した。また、署内で行われているカメラのデータの解析にもっと多くの人員を割くよう今江は指示を出した。事件当日以前のデータの解析は未だに終わっていない。そこに何か手がかりがあるのではないかと警察は念を入れて確認を急いでいた。また、署内の別の班には事件当夜のカメラデータを繰り返し確認させている。今のところ、変わったものが映ったという報告はない。しかし、見落としの可能性は十分ある。

 「あ、ちょっと待ってください」

 初芝は小走りで渡り廊下を抜けると、左に曲がり、本館二階の自販機コーナーに向かった。

 あとを追って自販機コーナーに入った今江は、眉間にしわを寄せながら、視線を下ろした。

 「あんた、何してんの」

 初芝は身体を横に倒して、自販機の下をスマートフォンのライトで照らしていた。

 「実はですね。昨日ここで小銭を落としちゃいまして。昨日は急いでいたんで諦めたんですけど……うーん、やっぱり見えないなぁ」

 今江はあきれ顔のまま視線を自販機コーナーの奥に移した。三つの丸テーブルには誰もいない。その後ろにある換気用の小窓から冷たい空気が漏れこんでいた。

 「ダメだ。見当たらないや」

 初芝はスーツについたホコリを払いながら立ち上がった。

 「やだなぁ。やっぱり一階の自販機を探せばよかった」

 「一階? どういうこと」

 初芝は今江に、昨夜この自販機を訪れることになった経緯を話した。

 「……で、この二階の自販機で飲み物を買ってきたんですけど、結局お茶は冷蔵庫の横に置いてあったんですよ。宇治家さんが冷蔵庫の中じゃなくて外も見てくれれば……今江さん?」

 刀剣のような鋭利な目つきで今江は初芝を見つめていた。のど元に冷たい刃を突き付けられたかの様な緊張感に初芝は息をのむ。

 「もしかしたら、つまり、そういうこと?」

 今江は早足で自販機コーナーを出た。

 初芝は慌てて今江を追う。今江は北エレベーターの階数表示灯インジゲーターを見て舌打ちをすると、中央エレベーターの方へと向かった。

 ここでもまた舌打ち。階数表示灯インジゲーターを尻目に、横にある階段を音を立てて上り始める。

 「い、今江さん。ちょっとま……」

 上階にあるエレベーターを待ちきれないのか、今江はものすごい速さで階段を上っていった。

 三階、四階、五階――初芝が五階の階段室を出ると、今江は右手にある東ナースステーションで看護師に声をかけていた。

 「少々お待ちください」

 ボブカットを揺らす看護師がPHSを取りだした。今江は微かに肩を上下させながら、カウンターに両手をついている。

 「ひぃひぃ。ど、どうしたんですか。いったい」

 息()()えの初芝が訊ねる。

 「あんたの話を聞いていて、一つ可能性を思いついた」

 「可能性?」

 「冷蔵庫のお茶よ。中にないならどこにある。中にないなら外にある」

 「は?」

 「お待たせしまし……あぁ! 広大(こうだい)さぁん!」

 黄色い声が廊下に響く。宇治家看護師は手にしていたバインダーを隣の看護師に押し付けると、小走りで刑事のもとに寄ってきた。

 今江は初芝の前に立ちはだかり、宇治家と対峙した。今江の鋭い両目に臆したのか、宇治家は顔を引きつらせて足を止めた。

 「申し訳ないけど、時間がないの。宇治家さん、昨日あなたに調べてもらった『会議』のことだけど」

 「は、はい。お役に立てなかったみたいで、すみませぇん」

 「謝ることなんてないわ」

 今江は宇治家の肩に手を置いた。

 「もしかしたら、いえ。たぶんきっとそう。わたしたちは見当違いなことを依頼していたのかもしれない」

 「見当違い?」

 初芝が首をかしげた。宇治家が困惑の視線を初芝に向ける。

 「中にないならどこにある。中にないなら外にある。下川さんが星野先生に訊ねた『会議』とは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 「今江さん。それはないですよ」

 初芝が傾げた首を左右にふった。

 「だって、下川さんは『病院の未来に関わる』て言ったんですよ。病院の外で『病院の未来に関わる』会議だなんて……」

 「あるかもしれませんねぇ」

 宇治家が初芝の声を遮った。

 「あ、あるの?」

 「はい」

 「星野先生は研修医ですよ。研修医の先生が病院の外の会議に出張することなんてあるんですか」

 「研修医だからじゃありません。美しいからですよぉ」

 「……どういうこと?」

 「会議に華を添える為ですよぉ」

 宇治家看護師はぷくりとほほをふくらました。

 「おじさん連中がひたいを揃えて議論を繰り広げる場に、見目麗しい一輪の華を添える。そのためだけに、星野先生が会議に呼び出されたんじゃないかなって。もう辞めちゃったけど、前に星野先生と同じくらいきれいな内科の先生がいたんですよぉ。この先生、大した発言を求められるでもないのに、無理やり外の会議に誘われたって怒っていましたぁ」

 「そ、そんなことあるんですか? 華? 馬鹿じゃないの。研修医って忙しいんですよね。そんな無駄な会議に参加させて、本当に馬鹿」

 「馬鹿ですよぉ。でもこの病院、というより、このI市の医療体制はいまだにパターナリズムが蔓延しています。女は男に従うもの。封兼的な、あまりにも封兼的なんですよぉ。この街は」

 「『会議』というのは、病院の外で行われた会議なのかもしれない。宇治家さん。申し訳ないけど、もうひと働きしてくれないかしら。先月、星野先生が参加した病院外・・・の『会議』について調べてほしいの」

 「おまかせくださぁい」

 「夕方までにお願いね」

 「今日の夕方ですかぁ。それはちょっと……今日は週末で忙しいし、病院の外ともなると調べるのが大変で」

 「上手くいったらこの男の休日をあげる」

 今江は初芝の襟首を掴んで差し出した。

 初芝が声をあげるよりも速く、宇治家は敬礼の姿勢を取り、踵を返して駆け出していった。



 4

 中央階段を降りて三階へ。階段室を出たところで、初芝の前に男が立ちふさがった。

 「おはよう。刑事さん」

 「寺内先生」

 白衣のポケットに両手を突っ込みながら、寺内はひとつ大きくあくびを吐き出す。鎌のような寝癖が頭の後ろから飛び出し、照明の光を白く反射させた。

 「寺内先生。糸島さんが」

 「聞いたよ。死んだんだってね」

 ――馬鹿なやつだよな――そう寺内は続けた。

 「逃げりゃいいんだよ。正面から向き合うからこうなる。辛いなら、嫌なら、とっとと辞めればよかったんだ」

 「責任を感じませんか」

 初芝はほほの内側を奥歯で噛みしめた。自身の衝動に自制を促す。警察学校で指導教官から教わった、原始的が過ぎるアンガーマネジメントの一つだ。

 「何が原因で自殺されたのかはわからない。だけど、昨日あなたが屋上で見せた脅迫的な態度が一因と考えるのは、おかしなことじゃないでしょう」

 悪びれた態度をとることなく、寺内は寝癖を弄り始めた。

 「そうかもしれない。だけどおれは自分が間違ったことをしたとは思っていない」

 「そんな」

 「必要なことなんだ。神原先生の意志を継ぐためには、生半可なやつはいらない」

 「寺内先生」

 作り笑顔を添えて今江が身を乗り出した。

 「糸島さんは遺書を残されました」

 「遺書ねぇ」

 「『こんなことをするために医者になったんじゃない』。それだけです。何とも不明瞭な遺書だとは思いませんか。実際、わたしたちは糸島さんが『何を』していたのか、見当がつかず困っているわけです。同僚である寺内先生なら、何か心当たりはありませんか」

 「遺書の内容を他人に教えるもんじゃありませんよ」

 寝癖を弄る手が止まる。寺内は微かに開いた口の中で、舌を横に走らせた。

 「ご遺族の許可は得ています。はぐらかさないで、質問に答えてください。糸島さんは『何を』していたんですか」

 「刑事さん。糸島はただの研修医ですよ。あいつ一人に特別なことなんて、させるわけないじゃないですか」

 「あ、いたいた。寺内先生」

 看護師が寺内のもとに駆け寄ってくる。三階東ナースステーションの谷岡たにおか看護師だ。

 谷岡は二人の刑事に会釈してから、寺内に向き直った。

 「秋月先生がお呼びです。糸島先生の件について、第二医局の皆で相談したいと。他の先生も集まっています」

 「わかった。それじゃあ刑事さん。失礼しますよ」

 寺内は踵を返し、廊下の奥へと向かう。

 その背中に向けて、谷岡看護師が声を張り上げた。

 「先小会議室です。()()()中会議室じゃないですからね」

 刹那。寺内が振り返り、鋭い眼光を谷岡に投げつけた。

 その視線がほんの少し角度を変え、初芝の視線と交錯する。

 初芝の中で、違和感が音を立てて跳ね上がった。違和感の正体は分からない。だがその実在は疑い得ない。

 なんだこれは。なんだこれは。いったいこれは、なんなのだ。

 寺内は廊下を行き交う人波の中に消えた。

 「谷岡さん。どうして今、中会議室じゃないとお伝えしたのかしら」

 柔和な表情で今江が訊ねる。しかし、初芝は今江のまぶたがほんの一瞬震えたのを見逃さなかった。

 「前回が中会議室だったからです」

 「前回? 前回って」

 「一昨日のことです」

 あっけらかんとした態度で谷岡は言った。

 「下川先生が亡くなった時も、朝から医局で緊急ミーティングが行われました。一昨日のミーティングは中会議室で行われたんです。小会議室では人が入りきらないから。だって一昨日は、第一外科の皆さんも、ミーティングに参加されたんですもの」

 「第二外科だけでなく?」

 「はい。出勤されていた第一外科の先生も全員。緊急だからって、診察に出ていた先生たちまで中会議室に呼び出したんですよ」

 谷岡のPHSが胸ポケットの中で震える。看護師は辞去の言葉を口にして去っていった。

 「糸島が死んだ今日は第二外科だけでミーティング。下川が死んだ一昨日は第一外科も交えてミーティング。この差異は何なのかしら」

 両腕を組んで今江が訊ねる。

 「他殺と自殺の違い」

 「それは第一外科を呼ぶ理由になるの」

 「前期研修医と後期研修医の違い」

 「それは第一外科を呼ぶ理由になるの」

 「茶番はやめましょう。今江さんだって、ぼくと同じことを考えているわけでしょう」

 「下川仁が死んだ直後。二つの外科医局は垣根を跨いでミーティングを催さざるを得ない状況にあった。どんな状況。何が目的。下川仁の死を悼むだけなら、わざわざ第一外科を呼び出す必要はない。業務内容に関する打ち合わせなら、下川との業務に関わっていた第一外科の医師だけを呼べばいい。わざわざ全員を呼ぶ必要はないでしょう」

 「第一外科、第二外科。両方の医局の医師を集めざるを得ない事情があった」

 ――それは――

 「箝口令かんこうれい、でしょうか」

 初芝は流し目を送った。今江はうなずく。

 「二つの医局は、下川仁の死に関して思うところがあった。わたしたち警察に知られてはいけない何かがあった。箝口令。情報の共有。警察に聞かれても絶対に口にしてはいけない何かが外科医局にある。口止めを浸透させるために、二つの医局は中会議室に集められた。そう考えるのが自然かしら」

 「今江さん。この事件おかしいですよ」

 初芝はコートの上から腕をさすった。

 「最初から何もかもおかしかったんです。被害者の下川仁は無愛想だけど、腕の立つ研修医として評価されていた。人畜無害の存在です。そんな彼がどうして殺されなければいけなかったのですか。彼はどうして真夜中の健診センターを訪れたんですか。誰が彼を呼び出し、殺したんですか。そして何よりおかしいのは、死亡推定時刻のあとに目撃された被害者のことです。本当に死体が歩き回っていたというのですか。その死体はカルテを見ていた。その死体は書類にサインをした。そしてその死体は、同僚の看護師に声をかけた。まぎれもない生命です。死亡推定時刻のあとでも、下川仁は生きていたんですよ」

 「そうね」

 今江は初芝の肩をそっと押した。初芝は煩わしそうにコートを脱ぐと、乱暴に丸めて脇に抱える。

 その姿を見ながら今江はつぶやいた。

 「最初から。そう。最初から何もかもおかしかったのよ」



 5

 今江のスマートフォンに電話がかかった。天神署内でカメラのデータを検分している刑事からだった。

 「ちょっと、それどういうこと。実際に見た方が早そうね」

 スマートフォンをしまうと、今江は突き立てた親指を後方に向けた。

 「事件当夜のカメラにおかしなものが映っていたらしいの。署に行きましょう」

 天神署刑事部の奥にある個室に入ると、こもった熱気と油分を含んだ臭いが初芝の鼻腔を貫いた。六畳に満たない小部屋に、大の大人五人が肩を並べてパソコンのモニターを見つめている。

 「ひどい臭い。少しは換気しなさい」

 今江は乱暴にドアの開け閉めを繰り返し、内外の空気を入れ換えてから室内に入った。

 「それで、電話で言ってた不審者ってのはどれ」

 「これです」

 黒髪を脂で光らせた一人の刑事がモニターを指さす。画面上には一か所の監視カメラの映像がモニター全体に映っていた。

 「ここどこ」

 画面には縦に細長い部屋が映っている。右側から放たれた白い光に、画面の半分以上が同じく白に染まっている。

 「あ、これ。自販機の光ですよ」

 初芝がモニターに飛びついて叫んだ。

 「あそこ、夜は照明が落ちて、自販機は稼働していますから、監視カメラの映像もこんな風に白くなっちゃうんですね」

 「そうです。二階の自販機コーナーです。よく見てください。ここ、白い光の中を……」

 刑事は画面下のスクロールバーを動かした。表示された時刻は午前〇二時三〇分。

 白い光の中を、人の輪郭が奥へと進んでいく。よく目を凝らさないと見えないような微かな輪郭だ。輪郭の動きに焦りは感じられない。悠揚ゆうようとした足取りだ。

 「ほら、ここ。光の中をぼんやりと、人が通りませんでした!?」

 脂ぎった髪の刑事は煌々(こうこう)とした表情で鼻を鳴らした。

 そんな刑事に初芝は苦笑を返し、今江はといえば憮然とした態度でテーブルの上に置かれた書類に目を通し始めた。

 「あの。それ、誰だかもうわかってます」

 「わ、わかってる?」

 初芝の言葉に刑事はぽかんと口を開けた。

 「入院患者のおじいちゃんです。夜になると病室から抜け出すことがあるらしくて、やっぱり、事件当日も自販機コーナーにいたんですね」

 「おじいちゃん……」

 意気消沈した刑事に代わり、初芝がマウスを握りスクロールバーを動かす。時刻は〇三時〇五分。白い輪郭は奥の席から立ち上がり、カメラの方へ向かってくる。間違いなく越前えちぜん乩京けいきょう老人だった。

 「つまり、このおじいちゃんは特に事件には関係ないということですか」

 「そうだと思いますよ」

 初芝はうなずき、同時に考えた。乩京老人はこの場所でビーチャムに会ったという。真夜中にならないとビーチャムは現れないと老人は言った。しかしカメラに乩京老人以外の人物の姿はなかった。やはり、ビーチャムなる音楽家と遭遇したというのは、老人の妄想に過ぎないのだろうか。

 「これ、完成してたのね」

 今江はテーブルから拾いあげた書類を雑にふりまわした。

 宙を舞う書類を初芝が両手でつかまえる。それは山吹医科大学附属病院の地図に、監視カメラの撮影範囲を記入したものだった。












山吹医科大学附属病院 外部 カメラ撮影範囲

挿絵(By みてみん)



山吹医科大学附属病院 本館 健診センター カメラ撮影範囲

挿絵(By みてみん)








 「うん。めんどうな作業だったけど、なんとか終わらせたよ」

 無精ひげを生やした刑事が、ぶつくさと言った。年の功は今江と同じくらい。前髪の生え際は頭の頂点まで後退していた。

 「結局、健診センターに入るには二階の渡り廊下か、外部にあるセンター前のカメラに映らにゃいかんわけだ。この二か所の映像は重点的に調べたがな、犯人と思わしき人物の姿は映っていないよ」

 「今も調べています」

 部屋の隅に陣取る若い刑事が片手をあげて言った。前にあるモニターには、本館の中から夜間出入り口を監視するカメラのデータが映っている。

 「ここが外部からの唯一の出入り口ですからね。よく注意して見なきゃ……」

 スクロールバーの下には22:40と表示されている。モニターの中で、六つの人影が流れ星のように右から左へと流れていき、数秒後、ストレッチャーの周りを六つの人影が囲み、左から右へ、救急外来センターへと駆けていく。

 初芝は昨夜目の当たりにしたことを思い出していた。ひたいから血を流した酔っ払いは大丈夫だっただろうか。無事に家まで帰れたのだろうか。

 「でも不審者は映ってないわけでしょ」

 「まぁ、今のところは」

 若い刑事の目はモニターに張り付いている。今江の方を見るのが恐ろしいのだろうか。

 今江は監視カメラの撮影範囲が記入された俯瞰地図をコートのポケットに潜らせた。

 「他に、何かおかしなものはない。なければわたしたちは現場に戻るけど」

 うす暗い部屋に押し込まれた男たちは力なく首を振った。

 「わかった。あと、たちばな巡査」

 無意味なデータで巡査部長を呼び出したことに意気消沈していた艶髪の刑事は、当の巡査部長に名前を呼ばれ、その場で直立した。

 「は、はい!」

 橘巡査の全身は氷のように硬くなっていた。室内の気温がくっと下がる。他の刑事たちは視線をそのままに、耳だけを今江の方に向けた。

 「……また何か変わったものがあったら、遠慮なく連絡するように。それがあんたの仕事なんだから」

 そう言って今江は部屋をあとにした。

 橘巡査の全身から緊張の糸がほどかれ、玉のような汗を浮かせたその表情には安堵の色が広がっていた。

 ふと初芝の頭の中で違和感が針のようにひっかかった。

 この部屋に入ってからの数分間、自分の記憶と大きな齟齬をきたす()()があった気がする。

 違和感という名の針はずぶずぶと音を立てて初芝の脳にめり込んでいく。しかしその針の色も形も大きさも上手く捉えられない初芝は、首をふり、針をそのままに部屋を出た。



 6

 初芝と今江は山吹医科大学病院へと戻った。

 二人が東三階ナースステーションに顔を出すと、右手の廊下から嬉々とした叫び声が聞こえてきた。

 声の方に顔を向ける。廊下の奥から、白衣を着た秋月医師が向かってくる。秋月医師の両腕には桜井鼓太郎少年が収まっていた。

 秋月医師の横では、鼓太郎の母親が子どもの無作法を必死に詫びている。詫びの言葉が出るたびに、秋月医師は手のひらを母親に向けてふった。

 「あ、どうもご苦労さまです」

 二人の刑事に気づき、秋月医師が深々と頭を下げた。腕の中の鼓太郎少年も、医師の動きにつられてぐわんと下がる。少年は医師の両腕から離れると、今度は初芝の脚に飛びついた。

 「よーう」

 鼓太郎少年はにんまりと笑顔を見せた。

 「鼓太郎。『こんにちわ』でしょ」

 母親が戒める。

 「こんちわ!」

 「はい、こんにちわ」

 初芝は鼓太郎を両手で抱き上げた。

 「健診ですか」

 今江が訊ねる。

 「はい。先ほどまで秋月先生と退院の相談をしておりまして、これから二階の診察室に向かうところです」

 二人の刑事は秋月に視線を向けた。秋月は咳ばらいをして、鼓太郎少年の母親を見据えた。

 「ではわたしはこれで。鼓太郎くんの病院生活も、もう少しの辛抱です。がんばってくださいね」

 感謝の言葉を述べた母親は、鼓太郎少年を初芝の両腕から引きはがし、エレベーターホールへと向かった。

 「またねロンゲ先生!」

 鼓太郎が声を張り上げる。秋月は苦笑して鼓太郎に手をふった。

 「母親はいいですね」

 秋月はぽつりと言った。

 「ぼくは子どもを欲しいと思ったことがありません。たぶんそれは、ぼくが男だからでしょう。男だから。母親になれないから、自分の子どもに憧れをもたないのです」

 「全ての男は子どもを欲しないと?」

 今江が訊ねる。秋月は首をふった。

 「そうではありません。ただ、男は本当の意味ではになれないのです。子どもは母親のお腹の中から産まれてくる。もちろん、代理母出産といった例外もありますけど、多くの子どもは母親と肉体的な繋がりを、物理的な繋がりを持って生まれてくる。しかし男は違う。男は外から眺めているだけ。女と違い、男は子どもと肉体的、物理的な繋がりを持たない。男と女では、親子という関係性には根本的に異なるわけですよ。本当の意味で親になれるのは、女性だけなんです。父親なんてものは、本当は存在しないんです」

 「本当の親とは母親だけ。だから男は子どもの世話を女に押し付けるのですか。母親がしっかりしないから、子どもは非行に走るわけですか。子どもの成長の責任は、すべて女にあるわけですか」

 「その手の論争がしたいわけではありません」

 秋月は白衣から髪留めのゴムを取り出した。

 「父親の愛情を軽んじるつもりもありません。ただ、母親の愛情は特殊だと言いたいだけです。父親と母親では確実に子どもへの愛の性質・・が異なる。その性質の差異(ゆえ)に、母親は子どもを積極的に守り、その生涯を子どもに尽くすわけです。病床の子どもに対する母親の不安たるや尋常なものではありません。ぼくたち外科医は、患者の身体を治すことだけが仕事ではない。不安を取り除くこともぼくたちの大切な仕事なのです。でもぼくにはまだそれが上手くできない。神原先生のように上手くはできない」

 秋月は光悦とした表情で廊下の奥を見つめていた。桜井親子が消えた廊下の先。乳白色の壁に、子どもの歓声が跳びはねた。

 「神原先生は名医だったとか」

 初芝が言う。

 「寺内先生から聞きました」

 「すごかった。手術の腕だけじゃない。あの先生は患者の不安を取り除く点にも長けていた」

 「修辞学に長けていたわけですか」

 「違うよ」

 秋月は顔をしかめてみせた。

 「神原先生はそんなこざかしいレトリックを擁するひとじゃなかった。あの先生は純粋なんだ。純粋に患者を憂いていた。患者の苦しみを自分の苦しみと捉えるひとだった。だから患者にもわかるんだよ。このひとは本当に自分のことを心配してくれている、想ってくれるひとだって。それがぼくにはできない。ぼくだけじゃない。この病院にいる全ての医師がそんな能力を持ち合わせていない。本当に残念なことだ」

 「秋月先生は神原先生と親しかったのですよね」

 初芝が訊ねると、秋月は目の下をかきながら苦笑した。

 「いろいろと教えてもらったよ」

 「第二外科旗揚げの発端となる大手術に、当時研修医だった秋月先生も参加されたとか」

 「うん。小学一年生の子どもの心臓病でね。研修医のぼくでもこれは無理だと思った。山吹うちに来る前に診察したのは名だたる病院の名医たちだった。だからこそ、その子どもの母親の憔悴しょうすいと絶望感たるや凄まじいものがあった。その子どもの担当を任されたぼくは、何度もお母さんと面談を行った。だけど彼女は一向にぼくに心を開いてくれなかった。『早く治してくれ。手術をしてくれ』とせがむばかりで、検査や書類の説明なんてろくに聞いちゃくれなかった。肝心のその子どもだって、医者不信に陥り、ろくにこっちの目を見てくれやしない。ぼくの手におえないとわかると、神原先生はギリギリのところで助け舟を出してくれた。先生の説明を聞くうちに、先ほどまで取り乱していたお母さんはみるみる内に落ちついて、先生の言葉に耳を傾けてくれる。医療とは患者と向き合うことだと、ぼくは神原先生から学んだんだ。それからもぼくは必死になって、小学生の患者とお母さんと対話を試みた。退院するまでその挑戦は続けた。あの親子との意思疎通は最後までうまくできなかった。だけどぼくは、あの親子と神原先生のおかげで、本当の医療というものを学べたわけだ」

 ――だけど――

 秋月は右手を見つめた。病的なまでに青白く、血管が浮き上がった右手を。

 「よわい四十を越えてわかった。ぼくは神原先生にはなれない。今のぼくにとって患者とは、ベルトコンベヤを流れてくる材料に過ぎない。作り笑顔で患者を騙す。身体にムチを打って労働に励む。次から次へとベルトコンベヤは患者を運んでくる。患者の心を想うゆとりなんてものはない」

 秋月の右目から冷たい涙がこぼれ落ちた。

 「研修医の頃。ぼくは心臓外科医を志していた。同期の中でいちばん腕が立つと噂され、浮かれていて、落合先生に師事していればいつか名医になれると信じていた。だけど違った。神原先生といっしょにあの子の治療をすることで、ぼくは本当の治療の意味わかったんだ。だからぼくは神原先生についていった。第二外科に入局し、先生の下にいる自分は本当の意味での医者だと自負していた。大嘘だ。本物の医者は神原先生だけだ。ぼくは神原先生にはなれなかった」

 ――神原先生の意志は、継げなかったんだ――



 7

 「秋月先生」

 今江はポケットティッシュを秋月に差し出した。

 秋月は一枚取り出し、目元を覆った。

 「事件について伺いたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」

 「そうだ。くだらない話を聞かせてしまった。何でも聞いてくれ」

 ティッシュで目元を隠しながら秋月は言った。

 「糸島研修医が亡くなり、今朝第二外科医局で緊急ミーティングを催したと聞きました。なぜ、下川研修医が亡くなった時のように、第一外科医局はミーティングに参加されなかったのですか」

 秋月は目元からティッシュを外した。

 初芝は秋月の目を見て息を呑んだ。その目から悲傷の色は失われ、猛禽類のように鋭い視線が眼前の刑事を貫いていた。

 「そんなことを知って何になる」

 「さぁ。事件解決に繋がるかも」

 「下川は後期研修医です。第一医局にも知り合いが多かった。それだけじゃないか」

 「『()()()()()』? ずいぶんと他人行儀なお答えですね」

 「当然です。そもそもぼくが下川の死を知ったころには、既に雲仙教授が合同ミーティングの手配を始めていた。ぼくはそれに従ったまで。他人行儀で当然です。他に何か」

 「糸島さんが亡くなったことについて心当たりは」

 「知らない。落合院長が言った通りじゃないの。彼は他の医師と同じく心労が溜まっていた。二十代の心の殻なんてナッツのように脆いものだ。些細なショックで壊れちまう」

 「『こんなことをするために医者になったんじゃない』」

 「何?」

 秋月は眉を潜めて今江をにらみつけた。

 「糸島研修医の遺書に書いてありました。『こんなこと』とはどんなことでしょう。心当たりはございませんか」

 「……あったら言っている」

 踵を返し、秋月は去っていった。



 8

 初芝のポケットの中でスマートフォンが震えた。

 「お。もしや」

 通話の表示に指を滑らす。

 「もしもし、おつかれさまですぅ」

 宇治家看護師声が初芝の鼓膜を震わせた。

 「宇治家さん、もしかして……」

 「『会議』のこと、わかりましたよぉ」

 「お早い! さすがですねぇ、宇治家さん」

 初芝は今江にサムズアップを送る。今江は表情を変えずにうなずいた。

 「先月、星野先生は一つだけ外部での会議に参加されていますねぇ」

 「何の会議ですか」

 「えーと……」

 宇治家は言い淀んだ。

 「電話口で説明するのは難しいですねぇ。五階まできていただけますかぁ」

 今江と初芝はエレベーターに乗って五階に向かった。五階のエレベーターホールに宇治家が待ち構えており、三人は東側の病棟にある面談室に入った。

 「それで、星野さんが参加していたのは」

 テーブルに着きながら初芝が訊ねた。

 「『第二回地域フォーミュラリ検討委員会定例会』です」

 すらすらと宇治家は答えた。

 初芝は素早くまばたきを繰り返し――

 「ごめん。もう一回」

 「『第二回地域フォーミュラリ検討委員会定例会』です」

 「えっと、ホームラン検討会? 草野球の集まりか何か?」

 「ホームランじゃありません。フォーミュラリです」

 「フォーミュラリ(決まり文句)?」

 今江が訊ねた。宇治家看護師は人差し指を左右に振った。

 「一般的にはそれで正解。ですが薬学的には別の意味を持ちますぅ。薬の決まり文句。薬の形式化。薬のレシピ。薬の処方集のことですぅ」

 「つまり。薬の煎じ方に関するつどいってこと。みんなで漢方薬でも作るわけ」

 「お薬を調合するわけではありません。フォーミュラリについては少しこみいった説明が必要ですねぇ」

 宇治家はポケットからミニノートを取り出した。ページを開くと中にはびっしりと丸字が泳いでいた。

 「例えばですねぇ。初芝さんが犯人にナイフで切られて、腕に傷を負ったとします。きゃっ! 想像しただけで恐ろしい。今江さんに変えましょう」

 「なんでよ」

 今江の苦言を無視して宇治家は続ける。

 「犯人との格闘の末、今江さんは右の後前腕部に切り傷を負いましたぁ。止血はしましたが、刑事といえど乙女の柔肌。今江さんは慌てて病院に駆け込みますぅ」 

 「乙女じゃない」

 今江の苦言を無視して宇治家は続ける。

 「国家権力を幅にきかせて、今江さんは待合室の患者さんをすっ飛ばして診療室に駆け込みますぅ」

 「ちょっと」

 「ビール腹の老齢な医師は今江さんの迫力と警察手帳の後光を恐れ、慌てて診療を始めますぅ」

 「あんた覚えてなさいよ」

 今江の苦言を無視して宇治家は続ける。

 「切られた直後の出血こそ著しかったもの、傷の幅は小さく、長さも三センチ程度」

 「三センチ程度ならつばつけとけば治るでしょ」

 今江の苦言を無視して宇治家は続ける。

 「縫合の必要はありませぇん。医師は傷を消毒し、ガーゼを当て、包帯で固定してから、軟膏の処方箋を出しますぅ。今江さんは薬局に行き、軟膏を処方してもらいます。さて、今江さぁん」

 宇治家は顔を上げ、今江を見据えた。その瞳は凛として鋭い。

 「今江さんの手元にある軟膏。()()軟膏を選んだのは誰でしょう」

 「誰って。医者でしょ。ビール腹の」

 「正解ですぅ。ではもう一つ質問。世の中には製薬会社がいくつもあり、ほぼ同じ効能の軟膏は他にいくらでもあります。ビール腹の医者は、()()()()軟膏を選んだのでしょう」

 「その薬がよく効くからじゃないの」

 「ぶっぶー。前提として『ほぼ同じ効能』と言ったはずですぅ。これはあくまでも一般論ですが、多くの医師は習慣的に処方する薬を決めているんですよぉ。以前から使っている薬。長いこと患者に与え続けてトラブルの起きなかった薬。医師はそういった薬を選ぶ傾向にあるんですぅ。薬の処方権は医師に帰属していますからねぇ。すると一つの病院の中で同じ症状の二人の患者が、診察した医師の違いで異なる薬が処方されることがありえるわけですよねぇ」

 「例えば二人の同程度のカゼの患者さんがこの病院を訪れて、それぞれを別の医師が診察するとする。医師Aは患者Xにカゼ薬アルファを、医師Bは患者Zにカゼ薬オメガを処方することが、論理的にあり得るというわけね」

 「その通りですぅ。医療的には何も問題はありません。誤った診察をしたわけでも、誤った薬を処方したわけでもありません。ですがひとつ問題があります。それは、コスト(お金)ですぅ」

 「コスト(お金)?」

 初芝が首をかしげた。

 「薬の値段は商品によって異なりますぅ。フォーミュラリとは、性能が同等な薬の中から、より安価な薬を積極的に処方しようという考え方なわけでしてぇ。医師の好き勝手に薬を処方するのではなく、病院や地域によって、一つの症状に対して処方する薬を、最も安価なものに制定する。これにより、薬剤費の削減を目指すというわけなんですぅ」

 「それは、政府が主導して行っているの?」

 今江の質問に宇治家は首をふった。

 「たしかに発端となったのは、二〇一六年に内閣府が発行した『経済財政運営と改革の基本方針2016』、通称『骨太方針2016』ですぅ。この中に『生活習慣病治療薬等の処方の在り方等を検討する』との記載があり、ここからフォーミュラリの導入の検討が始まりましたぁ。ですが二年近く議論が続けられた末、二〇一九年七月に、政府は国会で『医薬品の使用方針を意味するものとして用いられるものと考えており、確立した定義やフォーミュラリの在り方についての確立した考え方があるとは承知していない』と答えたんですよぉ」

 「つまり、医療費削減を焚きつけておいて、具体的にどうするかは自分たちで考えろと?」

 「せいか~い! 実際、現行のフォーミュラリは、医療機関や地域によって検討、定義づけがなされていますぅ。こちらの病院ではカゼ薬アルファ。となりの病院ではカゼ薬オメガ、という状況は法的には許されているわけですぅ」

 「地域・・フォーミュラリっていうのは、どういうものなんですか」

 初芝が訊ねた。

 「その地域一帯で、共通したフォーミュラリを策定するわけですよぉ。例えば、I市一帯にある病院や診療所などで、共通した薬剤の処方方針を決めれば、その地域一帯でまとめて薬剤費の削減が見込まれるじゃないですかぁ。加えて、その地域の保険薬局も余分な薬を用意しなくて済むので、在庫管理が楽になるわけですぅ」

 「山吹医科大学附属病院ではフォーミュラリは導入されているのですか」

 手帳にペンを走らせながら初芝は訊ねた。

 「まだですぅ。水面下で長いこと検討が続いていて、今年の夏になってやっと『地域フォーミュラリ検討委員会』が発足されたそうですよぉ」

 「夏に第一回の定例会。冬に第二回の定例会ってわけ。ずいぶんと牛歩ね」

 「I市一帯の名だたる医療従事者や有識者を集めた会議ですからねぇ。そう簡単には開催できないんですよぉ」

 「二〇一六年に議論が始まったのに、四年経った今でも進展がないなんてね」

 「フォーミュラリは国外から輸入された概念なんですよぅ。鎖国メンタルで保守的なご高齢医療従事者は、自分が傷を負わないよう、この手の革新的な議論には慎重なんですぅ。それにお金が関わる話ですから、輪をかけて慎重にならざるを得ないわけですねぇ」

 「そんな会議に、なぜ星野先生が?」

 手帳から顔を浮かべて初芝が訊ねた。

 宇治家は口角を上げて、鼻を鳴らした。

 「言ったじゃないですかぁ。『華』ですよ。会議に参加するおじさん連中のために、見目麗みめうるわしい『お華』を献上する。実際、星野先生が会議中に発言したとは思えませんねぇ」

 「でもこの会議って、『病院の未来に関わる』ものなの」

 今江が疑問を口にする。

 「下川仁は、わざわざ星野女医を休日に呼び出してこの会議のことを問いただした。『病院の未来に関わる会議』。たしかに、高齢化社会における医療費の負担は国の未来を揺るがしかねない重要な議題だと思うけど……」

 「なんか、ずれてる感じがしますよね」

 初芝が言葉を繋いだ。

 「いろいろと難しい問題が残っているのはわかるけど、議論の終着点としては悪いものじゃない。無駄なお金を使わないようにしようって、積極的に節約するのはいいことじゃないですか」

 「そうですねぇ」

 宇治家は植物のように首をしならせると、PHSを取りだして顔をしかめた。

 「すみません。わたしそろそろ仕事にもどらないとぉ」

 「あ、えっと。はい。どうもありがとうございました」

 初芝は席を立ち、頭を下げる。

 今江も同じく立ち上がり――

 「今江さん?」

 初芝は今江を見た。

 席を立った今江は、手の甲を口に当て、その手をパチンと鳴らした。

 「会議に『華』を持ち込んだのは誰なの」

 「はい?」

 宇治家はPHSをポケットにしまいながら疑問符を呈した。

 「I市一帯の地域医療を牛耳る山吹医科大学附属病院が、まさかその会議に研修医一人を参加させたわけがないでしょう。さっきあなたはこう言ったわね。『I市一帯の名だたる医療従事者や有識者を集めた会議』て」

 「もちろんですぅ。うちの病院からはもう一人参加者がいました」

 「それは、誰ですか」

 初芝が訊ねる。宇治家はくすりと笑ってみせた。

 「そんなの決まっているじゃないですかぁ。I市地域医療の代名詞たる、落合院長ですよぉ」



 9

 今江と初芝は場所を屋上テラスに移した。

 「下川仁の考えが読めませんね」

 初芝が言った。

 「彼は星野女史と会って何を知りたかったのでしょう。休日にわざわざ外で待ちあわせだなんて。フォーミュラリ。結構な話じゃないですか」

 ベンチに座る初芝に背を向けて、今江はガラス張りの天井を見つめていた。

 「結局。事件とは関係なかったんですかね。単に下川はフォーミュラリについて勉強したかっただけで。雲仙教授が星野先生をぼくらから遠ざけたのは、他の事情があったんじゃないですか。フォーミュラリとは別に警察に聞かれてはまずいことを星野先生は知っていた。だから雲仙教授は慌てて面談室に飛び込んできた」

 「具体的にはなにを」

 「それはわかりませんけど」

 「今から調べる?」

 今江は腕時計を差し出した。時刻は午後三時半。タイムリミットは明日の昼。

 「試しにぼくらも星野先生の自宅に突撃してみますか」

 星野は今日も病院を休んでいる。体調がまだよくならないとのことだが、十中八九落合院長の差し金だろう。

 星野あやめが雲仙教授の手引きにより自宅で自主隔離を始めた直後、今江の手配で念のため天神署の刑事数名が星野の家を訪れた。しかし、刑事たちは小庭を臨む門扉の前で同居する星野の両親に追い払われた。星野の直属の上司たる水科内科医局長から、星野女史を警察と接触させないよう吹き込まれたらしい。I市市民にして山吹医科大学附属病院のご常連ヘビーユーザーたる星野家は、病院からの指示をさながら神の信託のごとく享受していた。

 「星野先生のご家族を払いのけて先生の部屋まで行くわけ。不法侵入ね。警察呼ばれるわよ」

 「笑えないジョークですね。じゃ、ぼくらの代わりに誰かを送りこむのはどうですか。誰か病院のひとにお見舞いに行ってもらって……」

 「いいアイディア。わたしたちにとってはメリットしかない。だけどそれで、その身代わりさんが病院の反感を買い、あとになって職場で不当な扱いを受けたらどうするの。わたしたちにその責任がとれないわ」

 初芝はくぐもった声を発しながらベンチに崩れ落ちた。

 「今江さん。まさか今日は定時で帰るなんて言いませんよね」

 初芝は身体をあお向けに返して言った。

 「タイムリミットは明日の昼。それまでに何としても犯人の目星をつけなくてはなりません。今夜は徹夜して、絶対に犯人の手がかりを見つけましょう」

 「今日も定時で帰らせてもらうわ」

 「い、今江さん。どういう状況なのかわかっているんですか」

 初芝は今江に喰ってかかった。

 「下川仁は自殺なんてしてない。自殺をする理由なんてないんです。誰かに殺されたに違いないのに、落合院長は自分の都合で『自殺説』で全てを終わらせようとしている。こんな理不尽がありますか。そんな理不尽を今江さんは許すつもりですか」

 「理不尽ってところには賛成。だけど、それはわたしが残業をしなきゃいけない理由になるの?」

 「なりますよ! 時間ギリギリまで頭を働かせて、現場を何度も歩き回って、そうやって真相にたどり着くのが捜査ってもんでしょ」

 「その通りよ。そして、わたしにとっての今日の『時間ギリギリ』は五時までなの」

 「わかりません。ぼくには今江さんの考えていることが、さっぱりわかりません。ぼくは今日もこの病院で夜を過ごします。自主的にです。明日の昼までに何とかして犯人を見つけてみせますよ」

 「それを止める権利はわたしにはないわ」


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