第九章
1
本館二階の東側に位置する診療エリアの一画。ずらりと列を成す大量のソファーの一つに初芝はあぐらをかいていた。
外来の診療時間は二時間前に終わり、周りにひとの姿はない。
ネクタイを緩めた初芝は、仏頂面で天井に設置されたカメラを見つめ、時々思い出したようにため息をついていた。
「あ、あれ。刑事……さん?」
ソファーとソファーの間にある通路から、看護師が初芝に声をかけた。
初芝は声の方に目をやる。二階西ナースステーションの看護師泗水みずきが怪訝な表情をうかべていた。
「まだお帰りにならないのですか」
「事件が起きたのは夜ですから、実際に病院の夜がどんなものか確認しておこうと思いまして」
「はぁ、なるほど」
「上から指示を受けたはいいけれど、具体的にどうしようかと考えているうちにこんな時間になってしまいました」
「大変ですね。あ、そうだ」
右手に持っていたバインダーを両手で抱え、泗水は初芝に一歩近づいた。
「そろそろ診察エリアの電気を消しますので、移動してもらえますか」
「電気を消す?」
「二階と一階の診察エリアは十九時過ぎには消灯します。これだけ広いと電気代もばかになりませんからね」
初芝は夜間の渡り廊下入り口を捉える監視カメラの映像が薄暗かったことを思い出した。ここ本館の二階では、夜間になると南西にある病棟以外の照明を落とすと篠栗看護師が教えてくれてたではないか。
初芝は重い腰を上げ、革靴のかかとを踏み潰したまま、泗水といっしょに二階西ナースステーションへ向かった。
ナースステーションには四人の看護師がいた。昨日も泗水と共に話を聞いた二人の看護師もいた。チェックのアルスターコートと灰色のボアジャケットを着ていた二人だ。左手奥のテーブルに座っていた二人の看護師は、初芝の存在に気づき会釈をした。テーブルの上にはぶ厚い本が二冊ある。
「消灯します」
泗水はカウンター越しにナースステーションの中へと声を張る。中の看護師たちが返事をする。泗水は中央エレベーターの方に向かい、エレベーター正面の壁にある照明のスイッチを押した。
フロアの半分が暗闇に包まれる。初芝は太陽が半分に欠けたかのような印象を抱いた。
「刑事さん、よければ中へどうぞ。お茶菓子がありますので」
泗水に促され、初芝はナースステーションの丸椅子に落ち着いた。壁にかかった鏡に緩んだネクタイが写り、慌てて直す。
泗水は個包装のお菓子と常温のペットボトルの緑茶を初芝の前に置いた。
「どうですか。捜査は順調ですか」
「ぼちぼちといったところですね。すみません、いただきます」
銀色の個包装を開ける。中にはチョコレートブラウニーが入っていた。甘い香りが初芝の食欲を刺激する。十センチ近いサイズのブラウニーを初芝は二口で食べ終え、間を置かず次の個包装に手を伸ばした。
「それで、刑事さんはこの後どうなさるのですか」
泗水がテーブルに着いて訊ねた。
「とりあえず、病院の上から下まで回ってみようと思います。外もぐるりと回って、死亡推定時刻が近づいてきたら現場の方に行ってみようかと」
「でしたら、一階の診察エリアも既に照明が消えていますのでお気をつけください。それと、正面入り口は閉まっておりまして、西側にある救急外来専用の入り口からしか外に出ることはできません」
初芝は礼を言ってナースステーションをあとにした。
合計五本のチョコレートブラウニーを食べた初芝は、運動がてらと北西にある階段を上り始めた。階段の踊り場には階数表示のパネルが貼ってある。パネルから三メートルほどの高さの位置に蛍光灯のソケットホルダーがあるが、肝心の蛍光灯は収まっていない。どうもこの階段は各フロアからの光量を頼りにしているらしい。手すりの上にある腰高窓は枠の内側を暗闇色に染めていた。
五階に着くとフロアを横断し、北側エレベーターの横にある階段を上る。院長室や大会議室が並ぶ六階へは北側エレベーターとこの階段からしか行けない。
エレベーターホールを出て、アラベスク模様の絨毯が敷かれた長い廊下をのぞき込む。初芝は大げさに足音を立てながら歩いてみるた。特別人の気配はしない。右手の壁に等間隔にかかる絵画。その絵画の間にある明り取りの小窓を覗くと、暗闇の中にほのかな輪郭を造る屋上テラスが見えた。
「下に行くか」
五階に降りて、フロアをぐるりと一周する。途中、看護師の一人に岸の所在を訊ねるが、会議中とのことだった。時刻は午後七時二十分。気長に九時まで待とうと、初芝は四階へ降りた。
「おっと」
北西の薄暗い階段から四階のフロアに出ると、初芝は何か小さなものを蹴飛ばした。
その小さな何かはリノリウムの床の上をするするとすべって自販機コーナーの中に入っていく。追いかけて拾い上げてみると、それは赤いゴム製のキーカバーを被った鍵だった。
「落とし物かな」
初芝は目と鼻の先にある西側のナースステーションへ向かった。しかし、ナースステーションの中に人の姿は見えない。一分ほど待ってみたが、誰も戻ってこないので、初芝は東側のナースステーションへと向かった。
「あの、すみません」
こちらのナースステーションには二人の看護師がいた。目元に小じわを寄せた看護師がカウンター越しに初芝に対応した。階段のそばで鍵を拾った旨を伝え、預かってもらう。
「反対側のナースステーションにも伺ったのですが、どなたもいらっしゃらなくて」
看護師は小じわを歪ませて舌打ちをした。
「ああ。またどこかの病室で井戸端会議でもしてるんですよ」
「井戸端会議?」
「向こうのステーションは怠けものが多いんです。話好きな患者さんの病室で、おしゃべりに花を咲かせてるんでしょ。病棟が消灯になっても、休憩室でくっちゃべったり、ステーションのすみっこでスマホを弄ったり、職務怠慢ですよねえ」
「ナースコールとか鳴ったらどうするんでしょ」
「大丈夫です。向こうの病棟は重症患者はいません。先生たちも分かっているから、そういった患者さんはこちらの病棟に回されます」
暗に自分たちは優秀と言いたいらしい。初芝は微笑を作り賞賛の意志を表した。
「四階東の病棟は北と南に分かれていますからね。とにかく仕事量が多くて大変なんですの。それなのに患者さんったら、大した用事でもなくナースコールを鳴らしたりして」
小じわの看護師は初芝の微笑に気をよくしたのか、とくとくと愚痴をこぼし始めた。
「もちろんそれに対応するのがわたしたちの仕事なんですけどね、ベッドから出れば手が届く場所にある本を取ってくれだとか、売店まで新聞を買ってくれだとか、そんなことまで頼んでくる患者さんもいるんですよ。看護師をメイドか何かと勘違いしてるんじゃないかしら。本当に大変なんだから」
舌から出かけた『ぼくも大変です』という言葉を初芝は飲み込んだ。
2
木製の手すりに触れながら中央階段を降りて行く。院内は水を打ったように静かだ。
階段室から三階のフロアに出る。顔なじみとなった篠栗、谷岡両看護師がいないかと三階東ナースステーションをのぞいてみるが、当直をしていたのは別の看護師だった。
その看護師はノートパソコンのマウスとキーボードを凄まじい速さで操作しており、初芝の存在に気づいていないようだった。
初芝はそっとナースステーションを離れ、さてどこに行こうかとため息をついたところ、手術室の自動ドアが開き、一人の女性が出てきた。
北側エレベーターがある手術室の正面のエリアは、二階の診察エリアと同じく照明が消えている。スクラブウェアを着たその女性の後ろ姿を、手術室内の照明が白く輝かせていた。
「剣淵さん」
初芝は小声で呼んだ。
剣淵氷織は振り返り、小さく頭を下げた。
「捜査ですか」
小さな声で剣淵は訊ねた。
「はい。夜間の病院の雰囲気を把握しておこうと思いまして。事件が起きたのは、ほら。夜ですから」
「ご苦労さまです。失礼します」
初芝の言葉を背に剣淵は去っていく。
「ちょ、ちょっと待ってください。あの、剣淵さんは事件当夜も当直をされていたんですよね」
剣淵の背中に初芝は訊ねた。剣淵は速度を落とすことなく北側エレベーターの前を通り過ぎた。
「はい。それが何か」
「事件があった日、何かおかしなことはありませんでしたか」
「ありません。他の刑事さんにもお話ししました」
剣淵は振り返り、初芝をにらみつけた。
「わたしを疑っているのですか」
『まさか』と初芝が否定する前に、剣淵は冷たい息を吐いた。
「わたしは九時まで手術室で仕事をして、十時までは一階のデータセンターで休憩をしていました。その後は手術室に戻り、十二時まで仕事。十五時前まで仮眠室で横になり、十五時から明け方までは手術に入りました。手術室では同僚といっしょでしたし、データセンターにいたことは岡さんが証言してくれます。仮眠室に行く途中で、四階東のナースステーションで当直の看護師とあいさつを交わしました。わたしのアリバイは完璧です」
「いや、ぼくは何も……」
「それに、これ」
剣淵は天井に付けられた、北側のエレベーターを向いた監視カメラを指さした。
「ご存じのとおり、院内には至るところに監視カメラが設置してあります。カメラに映ることなく健診センターに入るなど不可能です。もしわたしを疑っておられるのなら、カメラをよくご確認ください。わたしはわたしが潔白であることを知っています。見られて困るものは、何も映っていません」
踵を返し、剣淵は照明の灯っていない自販機コーナーに入っていく。初芝もあとを追うが、剣淵はすぐに自販機コーナーから出て、目の前にある北西階段を降りていった。
「ちょ、ちょっと。待ってください」
慌てて初芝も階段を降りる。一足早く二階に降りた剣淵は、三階と同じく照明の灯っていない自販機コーナーに入った。
「ひょっとして、お目当ての飲み物が売り切れていましたか」
剣淵は自販機の取り出し口に入った手を止めた。右手を自販機に飲み込まれたまま、身体を曲げて初芝をにらみつける。ゆっくりと取りだしたその右手はメロンソーダのペットボトルを握っていた。
「まだ何か」
ささくれ立った口調で剣淵は言った。
「鼓太郎くんのことなんですけど。どうにもならないんですかね」
「患者さんの個人情報についてはお答えできません」
「でも、ぼくはもう鼓太郎くんとは友達ですよ。友達になら教えてもいいじゃないですか」
「お答えできないというより、これ以上お伝えすることがないと言うべきですね」
剣淵はペットボトルに口をつけた。
「鼓太郎くんは過去に何度もオペを受けています。そしてわたしは、何度も彼のオペに器械出しとして参加しました。どの手術も決して成功率は高くないオペでした。難しいからではありません。オペに鼓太郎君の脆弱な身体が耐えられないのです。放射線治療だって決して楽な治療ではありません。まともな医者なら、治療を中止して当然です」
「それならどうして下川さんは反対したんですか」
初芝が声を荒げて訊ねた。
「桜井さんから聞きました。三か月前当時の主治医だった寺内先生は、治療の中止をご両親に提言しました。しかし下川さんがそれを遮り、鼓太郎くんを治してみせると豪語した。病院の皆さんから話を聞く限り、下川さんは性格に難はあるけど、医者としては優秀だったと評判です。そんな優秀なお医者さんが、どうして鼓太郎くんについては『まともな医者』たる判断をしなかったのでしょう」
剣淵は濡れた右手をスクラブウェアにこすりつけた。こすりつけ、こすりつけ、何度も何度も――
「んんあぁぁぁぁ」
間延びした声が自販機コーナーの中を飛び交った。
初芝と剣淵は飛び上がった。その声は自販機の光が届かない奥の方から聞こえていた。
目を凝らして見ると、壁際に置かれた丸椅子に、うりざね顔の男性が座っていた。
そこにいたのは、越前乩京老人だった。
「越前さん。どうしてこんなところに」
剣淵はペットボトルを初芝に押し付け、乩京のもとに駆け寄った。
「勝手にベッドから抜け出さないでください。怪我をされたらどうするんですか」
「うん。申し訳ない。申し訳ないけどさぁ。もう眠くてね。眠くて仕方がないからね。眠る前に会っておこうと思ってね」
乩京老人は大きく口を開いてあくびを漏らした。
「んんあぁぁぁぁ。看護師さん、今何時」
「八時半です」
「そっか。やっぱり真夜中じゃないと先生は来ないんだねぇ」
「ビーチャム先生のことですよね」
初芝が前に出て、乩京の皺だらけの手を優しく叩いた。
「ほう。おたくはビーチャム先生のことをご存じ」
「お名前だけ。有名な音楽家なんですよね」
「その通り。いやぁ嬉しいね。こんな若い人でも先生のことを知ってるんだ。どうかな。わたしといっしょに、ビーチャム先生の演奏を聴かないかい」
「今夜はきっとお越しになりませんよ。さ、ベッドに戻りましょう」
初芝が促すと、乩京老人は『そうだねぇ』と呟き、立ち上がった。
初芝と手をつなぎ、エレベーターを使って乩京老人の病室がある五階へと向かう。乩京老人は小さな声で歌い始めた。
「タムチィヴェー プリヴォーリニィピエーシニャー トゥイトゥダー イーウリタァー」
初芝と剣淵は、乩京老人を五階西のナースステーションの看護師に預けた。二人は中央エレベーターまで行き、剣淵が下りのボタンを押した。
「刑事さん。おーい、刑事さん」
初芝が声の方に向くと、東ナースステーションの前で、白衣姿の岸が小さく手を振っていた。
「じゃ、すみません。ぼくはこれで……」
「ビーチャムって何のことですか」
エレベーターが到着すると同時に、剣淵が訊ねた。
「外国の作曲家だそうです。乩京のおじいちゃんは昔、そのビーチャム先生に指導を受けたことがあるらしいんですよ」
「そうではなくて」
「なんでもあの自販機コーナーで、ビーチャム先生に会ったらしいんですよ」
剣淵は冷ややかな目で初芝をにらみつけた。
「やめてください。幽霊だなんて。子どもたちが怯えたらどうするんですか」
エレベーターの扉が開く。無人のかごに剣淵は乗り込んだ。
「でもねぇ、乩京さんはビーチャム先生に会ったって言うんですよ。しかも、事件が会った日の翌朝に」
「幽霊は夜に出るものです」
「あ、そうか」
越前雷京は今日、乩京老人が『昨日の朝から、ビーチャムビーチャム』と言い始めたと初芝に語った。しかしそれは息子である雷京が初めて『ビーチャム』について聞いた時間のことであり、父である乩京が『ビーチャム』に出会った時間のことではない。
そしてビーチャムが幽霊であり、幽霊が夜間にしか現れないならば、乩京老人は真夜中に二階の自販機コーナーで『ビーチャム』に会ったことになるはずだ。
「え、ということは。ビーチャムが現れたのは事件当夜……」
初芝は自身に語り掛けるように言った。
金属が擦れ合う音に顔を上げる。エレベーターのドアが閉まった音だ。ドア越しに作動音が聞こえる。インジゲーターの4がオレンジ色に点灯した。
「犯人は幽霊だった。幽霊は壁をすり抜けて健診センターに侵入。これが事件の真実だ。なんちゃってね」
初芝は岸が待つナースステーションへ足を向けた。
途中、ふと初芝は足を止めた。
――やめてください。幽霊だなんて。子どもたちが怯えたらどうするんですか――
「剣淵さん。ビーチャムが亡くなってることを知ってたんだ」
3
「結論から申します。だめでした」
A4用紙をナーススーションのテーブルの上に差し出しながら岸は言った。
紙の上には、宇治家看護師が調べた『会議』の名前が羅列してある。その全ての名前に横線が引かれていた。
「『病院の未来』というほど大層な議題があがる会議はなかったそうです」
初芝は紙を手にとり唸り声をあげた。
星野が先月参加した『会議』は、どれも大した会議ではなかった。
しかし、下川はその『会議』について星野に訊ねた。また第一外科の雲仙教授と内科の水科教授は、今江と初芝が星野と接触するのを忌避した。
「あ、そっか」
初芝は手を叩いた。
今江と初芝は、星野から『会議』について聞いた直後に、雲仙教授と水科教授が面談室に飛び込んできたので、両教授は『会議』について聞かれるとマズいことがあるのかと思い込んでいたのではないか。つまり、雲仙と水科にとって『会議』などどうでもいいのだ。彼らが星野の口から洩れるのを恐れたのは、『会議』とは別のことではないか。
急に肩の力が抜け、初芝は椅子の上で身体を崩した。
岸に礼を言い、ナースステーションをあとにする。初芝はエレベーターを使い、地階まで降りた。
エレベーターが開くと、目の前を横に廊下が伸びている。廊下を右に進み、突き当りのT字路を左に曲がる。左手にカウンターがあり、カウンターの内側にはパソコンが乗ったテーブルや書類棚が置かれた八畳ほどの空間が広がっている。
初芝の背後で扉が開き、男が現れた。
「あれ。どちらさまですか」
白衣姿の男はハンカチを折りたたみながら首をかしげる。エレベーターの前にあるトイレから出てきたばかりのようだ。
「急患? まさかMRI。冗談でしょ。元気そうなのに」
前髪で隠れた両目を光らせて、男はくちびるをとがらせた。
初芝が察手帳を見せると、男は鼻息を荒くしてカウンターの内側に入った。
「放射線科技師の今野です。よろしく」
テーブルの上に散らばった書類を片付けながら今野は名乗った。
「夜の病院の様子を把握しておこうと思いましてね。院内を巡回しているところです」
「ご苦労ですねぇ。でも残念ながら、陽の光が届かない地下は昼も夜も関係ない。何も発見はありませんよ」
「放射線科でしたっけ。地下に他の科はないわけですね」
「そ。うちの事務所と資料倉庫。あとは奥に診察室とMRIがあるぐらいだよ」
「MRIって、あの画像診断装置の。機械の中に寝転がるだけで、体内の詳細な写真が撮れるってやつですよね」
「大雑把だなぁ。そんなんで刑事が務まるの」
「不勉強でして」
「そ。なら勉強する? ちょっと来なよ」
今野は廊下を北側へ進み、突き当りの左手にある大型のスライドドアを開けて中に入った。
六畳ほどの横に伸びた部屋。隅にはカーテンで囲われた区画があり、なかには椅子と脱衣かごが置いてあった。
部屋の奥に入り口と同じ大きなスライド扉があり、扉の左手には室内の様子をうかがえる小窓がついている。小窓の向こうには、直径二メートルほどの筒状の大型機械が口を横に向ける形で構え、その口から灰色のマットが敷かれた健診台が伸びていた。
「MRIを受けたことはあるの」
今野が訊ねた。
「あります。学生の頃にバスケをしていたら頭を床に打ちまして。運ばれた病院で念のためにと受けました」
「けったいな装置でしょ」
今野が顔を歪ませて笑った。
「はい。ベルトであの健診台に固定されて筒の中に運ばれるんですもの。人体実験でもされるんじゃないかってびくびくでしたよ」
「ガキんちょ相手はとにかく大変だよ。部屋の雰囲気にビビって、この前室にだって入ろうとしない」
「あの機械でどうやって画像を撮影するんですか」
小窓をのぞきながら初芝が訊ねる。
「簡単に言うとね、あの筒の中で電波を飛ばして身体の水素原子の位置を確認するんだ」
「それは『簡単』というより『簡素』なのでは」
「『簡単』と『簡素』って違うの?」
今野は腕を組んで思案顔を浮かべた。
「つまりね。あの筒の内側には強力な磁石が入っていて、その磁石が筒の中にこれまた強力な磁場を発生させるの。磁場の中で電波を飛ばして人の身体に当たると、体内の水素原子は核磁気共鳴によって微弱な電気信号を発信する。その信号をキャッチして、画像化するってわけ。簡単でしょ」
「いえまったく」
初芝の苦渋の表情を前にして今野は鼻を鳴らした。
「まぁ何となくわかってくれればいいよ。電波を飛ばすだけだから人体には影響がないし、詳細なデータが取れるから重宝されているわけ。デメリットもあるよ。撮影時間は三十分近くかかって、その間筒の中では工事現場みたいな音がガンガンと響く。磁石に引っ張られて機械に激突するから、指輪やイヤリングのような貴金属は絶対に外さなきゃならない。磁力に引っ張られてMRIに衝突するからね。当たり所が悪かったり、機械の中に入ったりしたらそれだけでMRIはぶっ壊れるかもしれないんだ。それからあんまり知られてないけど、化粧や入れ墨もNG。どちらも金属成分を含んでいるからね」
「そういえば腕時計とかネックレスは外せって厳しく言われた気がします。高校生だからそんなもの持ってなかったのに」
「そこまで厳しく言うのが当然なの。そもそも、金属をつけた部分の画像は真っ黒になるから診察にならないんだよ。そうだ。最たるデメリットと言えばね」
今野の表情が真摯なものに変わる。
「値が張る。一台でいくらすると思う」
「これだけ立派な機械ですからね」
初芝は小窓越しにMRIを見つめた。
「一千万円はするでしょう」
「はずれ。ゼロが二つ足りない」
「じゅ、じゅ、十億!?」
初芝は思わずその場で後ずった。
「せっかく買ったのにもったいないからって、うちの病院職員の健康診断では必ずMRI検査を行うんだよ。まぁさっき言った通り検査には時間がかかるから、ご多忙の医者先生達は嫌がっているけどね」
「貴重な機械なのに。もったいないですね」
「貴重じゃないよ。人口百万人あたりのMRI保有数は先進国の多くが二十から三十台なのに対して、日本は群を抜いて五十台。文字通り世界トップの保有率を誇っているんだ」
「十億の機械が、日本にはそんなに沢山あるんですか」
「町の個人病院にだってあるよ。もっともMRIばっかりあっても、それを使う技師の数が足りないんじゃどうしようもないけどね。刑事さん、二〇二四年の四月から、医師の時間外労働規制が適用されるって知ってる?」
「医師の働き方改革でしたっけ。詳しくは知りませんが」
「診療従事勤務医の残業時間は、年九六〇時間以内、原則月一〇〇時間未満とする。普通の働き方改革では、年三六〇時間、月四五時間以内の残業時間が規定されたというのに、この差は一体何だろうね。医療従事者は同じ人間ではないのかな」
今野は丸椅子に腰を降ろした。あごからは無精ひげがぼつぼつと生えている。
「そう。同じじゃないんだ。日本は他の先進国と比べて、病床あたりの医師数が圧倒的に足りていない。どうしてだと思う。働くから。医療従事者たちは自分の身体にムチを打って膨大な医療ニーズに応えてきた。効率性を高める具体的な改革を施すでもなく、患者を門前払いで追い返すでもなく、過重労働という愚にもつかない方法で国民の健康を守っているんだ」
今野の声が熱を帯びてきた。くちびるを噛みしめ、その目は何もない部屋の隅を見つめている。
「医療従事者は頭がおかしくなっている。ぼくたちは自分が特別な存在だと思い込み、自分がいなければ医療は死に、国が亡ぶと思い込んでいる。だから働くんだ。身を粉にして、脳みそを液状化して、仮眠室のベッドにぼろぼろの身体を横たえて働く。医師の働き方改革? 蚊帳の外の人間が考えた机上の空論だ。賭けてもいい。働き方改革が執行されても何も変わらないよ。変わるのは記録上の就業時間だけだ。ぼくたちはこれからも働き続ける。自分たちを特別と思い込みながら、壊れた身体で働き続ける」
初芝は今野の口調に既視感を覚えた。同じような話をつい最近耳にしたような気が――
――コリンズ・竜一だ――
コリンズ・竜一は語った。自分たち医者は合法的に人を傷つけることができる特権階級にいると。
今野は医師を含む医療従事者全体について語った。その内容は表面的には同一だった。この仕事は自分たちにしかできない。この仕事がなければ社会は終わる。劣悪な労働環境に悪態をつきながらも、その手を休めることなく、限られた医療資源を工面して患者たちに尽くす。
コリンズ・竜一だけではなかった。
今野も、この病院で働く医療従事者たちも――
いや、違う。
この国で働く医療従事者たちは全員が全員、自分を特別な存在だと思い込んでいる。
そしてそれは、決して幸福なことではないはずだ。
4
初芝はエレベーターの横にある階段から一階に上がった。
半分以上の面積を診察エリアが占める一階は、泗水看護師が言った通り照明が落ちている。二階と違い、照明がついた病棟やナースステーションがないので、一階を歩くには棒人間が駆けていくイラストが描かれた緑色の非常誘導灯や、橙色の光を発する豆電球のように小さな夜間灯といった、頼りにならない光源を頼りにせざるを得ない。だがその夜間灯も、南西にある救急救命センターとエレベーターの間にあるばかりで、一階の右半分は漆黒の闇に包まれていた。
初芝は一階の西側からこのフロアを回ることにした。
北西にあるシャッターが下りた売店を通り過ぎ、北側のエレベーターへ至る。エレベーターの前も照明は落ちている。エレベーターから先は診察エリアとなっており、黒い影に色を変えた無数のソファーが横並びになって並んでいる。
ソファーの群れの中を進む……その前に、初芝は右に曲がり、データセンターへ向かった。
デスクトップパソコンのキーボードを軽やかに叩く男の背中。男の横では、看護師が二人、黄色い声を上げながら机の上のモニターを見ていた。
「こんばんは」
ほどよい声量で初芝が言う。
キャスター付きの椅子に座った男は――力を入れ過ぎたのか――椅子ごとくるりと一回転した。
「ほ? 誰?」
「昨日の朝お会いしたじゃないですか」
「朝? 朝って。眠る時間。あ、でも昨日の朝は」
桃色のトレーナーを着た岡は、机の上のウェットティッシュで手を拭いた。
「そうだ。刑事さんだ。ハードディスクをお渡しした刑事さんじゃないですか」
「正解です。昨日はお世話になりました」
初芝がつかつかと近寄ると、モニターを観ていた二人はバツが悪そうな表情をして去っていった。
「で、今日はまた何でまた夜にまた」
太鼓腹を揺らしながら岡は立ち上がった。パーテーションで区切られた休憩所に入るよう初芝を促す。
「いえ。長話するつもりは」
ちらりとパーテーションの内側に視線を送る。中には長椅子の上にうつ伏せで寝息を立てる、ごま塩頭の男の姿が見えた。
「夜間の病院の様子を確認しておこうと思いまして。事件が起きたのは、ほら、夜だから」
初芝は小声で言った。
「なるほど。それで館内を回っているわけですね。先ほどからスーツ姿のひとがウロチョロしていると思ったら、刑事さんでしたか」
岡は監視カメラのモニターを指さした。
「不審者だとは思いませんでしたか」
「事務課の職員か、学会帰りの医局の先生かと思いました」
「お騒がせしてすみません。ところで、事件について何か思い出したことはありませんか」
「ないですねぇ」
岡は首を振った。
「本当にありません。いつもと同じ夜でしたよ。逆に殺人事件があったことが信じられないくらいで」
初芝は礼を言ってデータセンターを後にした。診察エリアに出た初芝に、部屋の中から岡が言う。
「隣の休憩室、使っていただいて構いませんからね。お疲れになったらまたどうぞ」
初芝はもう一度礼を言ってドアを閉じた。
ソファーの間を通って診察エリアを進む。南東部に来たところで、初芝は二階へと繋がるらせん階段に頭からぶつかった。ソファーにばかり気をとられ、目の前にそびえ立つ黒い影の存在に気づかなかったのだ。
昼間に寺内医師に殴られ、夜はらせん階段に頭をぶつけ。今日は厄日かとつぶやきながら初芝は進む。
事務課の入り口にある監視カメラがその横にある小さな照明に照らされて輝いていた。その照明は事務課の入り口のあたりだけを照らしている。なるほど。この暗闇の中でも、あの監視カメラに見つかることなく事務課に入り、鍵を盗み出すことはできないだろう。
南側にある受付と会計のカウンターの前を通り正面入り口へと向かう。ガラス製の自動ドアにはたしかに鍵がかかっていた。ドアの内側には立て看板が置いてある。看板には『夜間外来は左側にあります』という赤文字が、左を向いた矢印といっしょに記載されていた。
一階の西側には救急外来センターとICUが軒を連ねている。救急外来センターが南西側に位置し、その北側にICUがある。救急外来センターの南側には夜間入り口の空間が広がっており――
初芝の耳にサイレンの音が聞こえた。
瞬間、全身を流れる警察官の血が沸騰した。
事件か。しかしサイレンの音を聞いているうちに血の温度は徐々に下がっていった。
その高音は二つの音が短い周期で繰り返されていた。普段自分が鳴らしている警察車両のサイレンはもっと音の周期が長い。警察車両のサイレンじゃない。この音は救急車のサイレンだ。
サイレンの音は徐々に大きくなっていく。山吹医科大学附属病院に向かっていることは間違いなかろう。
好奇心に駆られ、初芝は夜間入り口に続く自動ドアのガラス戸を開けた。
六人の救急外来のスタッフが、矢のような速さで駆けていく。マスクの下の顔には疲労の色が広がって見えた。
救急車のサイレン音が止んだ。
左手にある夜間入り口の外に、バックドアが開いた救急車が停まっている。ドアの外に救急外来のスタッフたちが集まり、焦燥感と緊張感、その他もろもろそれらを合わせて『殺気立った』と称すべき空気をその場に形成していた。
白いヘルメットをかぶった救急救命士がバックドアから患者の乗ったストレッチャーを降ろす。初芝は近づき、裂帛を帯びた専門用語が飛び交う輪の外側から、患者の姿をのぞき込んだ。
ストレッチャーに横たわっていたのはワイシャツ姿の中年男性だった。額に血の染まったガーゼが貼られており、顔はタコのように赤い。初芝は救急救命士の声を盗み聞きした。泥酔して転んだ際に、スナックの電光看板に頭をしたたかに打ちつけたらしい。
邪魔になると思い、初芝は救急車の横に移動した。ベージュ色のレンガ道にいくつもの乾いた足音が鳴り響く。救急外来の職員たちと救急救命士が一人、初芝に見向きもせずストレッチャーと共に病院の中へ入っていった。
「はぁ、すごい迫力だなぁ」
初芝は医療従事者たちの熱量に圧倒されていた。ぽかんと口を開きながら病院の中に戻ると、診察エリアにつながる自動ドアが開き、白衣姿の男が現れた。
小さな顔に細いあご周り。二重の奥で黒目がちな瞳がまどろんでいる。整った顔つきではあるが、目の下の隈と、無数の若白髪が男の雰囲気を冴えないものに変えていた。
白衣の袖から伸びる両手が脱力して揺れている。男は口を開いて大あくびをすると、初芝に気づいたらしく首をかしげた。
「怪我?」
男は訊ねた。ウシガエルのように低い声。これまたその甘いマスクには似合わないと、初芝は苦笑をかみ殺した。
「いえ。警察です」
男は両目を細くした。
「一昨日の殺人事件を担当しているものです。事件当夜の雰囲気を把握しておこうと、病院を歩き回っているわけで」
「本館にいるってことは本館の人間を疑っているわけか」
「そういうわけではありません」
「本当か。だとしたら相当な無能だな。犯人は本館の人間だ。うちの職員に決まっているじゃないか」
「どうしてそう思うのですか」
初芝は訊ねた。男は真摯な表情で迫る初芝を見て噴き出した。
「冗談だよ。そんなムキになるなって。うちの病院にいるのはクソ野郎どもだ。クソ野郎。自分の利益のためなら殺人も厭わないクソ野郎だ。ははは」
男は乱暴に髪をかきむしった。白と黒のくせ毛が宙を舞いながら落ちていく。
「救急外来の甲斐だ。刑事さんは。初めて見る顔だな」
「初芝と申します。甲斐先生は事件当夜当直をなされていましたか」
「おう。七十二時間連続勤務のクライマックスに、殺人事件が起きたんだよ。とっとと帰ってスーパー銭湯にでも行こうと思っていたのに、警察が来るから待つようにって上司から命令が来てね。本当にふざけんなだよ」
「ご協力いただき感謝します」
「本当にな。とっとと終わらせてくれよ。あんたら、当直をしていなかった職員のアリバイまで確認しているそうじゃないか。家で寝てただけなのに疑われてるって、みんなブー垂れてるぞ」
念には念を。甲斐の言うとおり、警察は事件当夜当直の任についていない職員たちのアリバイも確認していた。病院という特殊な環境下で起きた今回の事件。犯人はその病院の内部構造また内部事情に通じている可能性が高いからだ。
しかし、事件当夜病院外にいた職員のアリバイはこの時点ですべて確認を終えていた。多くの職員は病院が用意する社員寮に住んでいる。社員寮はオートロック付きの大型マンションで、出入り口には防犯カメラが設置してあった。事件が起きた時間帯よりも前に、ほぼ全ての職員がマンションの中に入り、出てくることはなかった。外出していた職員のアリバイもほとんど確認を終えている。社員寮に住んでいない職員のアリバイも同じく。
「申し訳ありません。これも仕事でして」
初芝は丁寧に頭を下げた。甲斐は小指を耳にいれて執拗にほじくりまわす。
「それで先生。事件当夜、何か変わったことはありませんでしたか」
「ないって。別の刑事さんに話した通りだよ」
「思い出したことはありませんか」
「だからないって。しつこいなぁ。しつこくないと刑事にはなれないのか。ねぇ、刑事さん。実際、どう思ってるの。殺人犯はこの本館から健診センターに向かったと思うわけ」
「正直に申しますと」
初芝はため息をついた。
「思っています。ですが、その方法がわからない」
「カメラのせいだね」
甲斐は自動ドアの横に設置された監視カメラを指さした。監視カメラは夜間入り口の方を向いている。
「このカメラは、夜間における唯一の出入り口である夜間入り口を常に監視している。でも、映像に不審者は映らなかった。そうじゃない」
初芝はうなずいた。
「おっしゃる通り。加えて、この夜間入り口には、外にもカメラが設置してありますね」
二人は外に出た。刃のように冷たい木枯らしが二人の肌に鋭く触れる。
「あそこ、正面に一つあります」
立体駐車場の北西部に設置されたカメラを指さした。
「この夜間入り口は二つのカメラによって監視されています。カメラに映らず出入りするのは不可能でしょう」
初芝はもう一度ため息をついた。天神署でカメラの映像を確認している班は、既に事件当夜の二つのカメラの映像を確認している。映像の中に不審者の姿はなく、救急外来センターでの処置を終えて帰宅する患者など、夜間入り口を出た人はすべて、数十秒後には病院敷地内入り口のガードマン詰め所にある監視カメラの映像に、病院の外へと出る姿がとらえられていた。健診センターに寄って殺人を犯す時間などはない。
闇の向こうから小さな音が聞こえた。
そのかん高い音は寝静まった夜の町を駆けながら、少しずつ大きくなっていく。
「また来たな」
甲斐が舌打ちをした。
救急車のサイレンの音だ。ほんの数分前に一台来たばかりだというのに。
「うちの病院じゃ珍しくないよ。夜も更けてきて、酔っ払いやら乱暴な運転をするドライバーが増えてくるから」
「大変なお仕事ですね」
本心から初芝は言った。甲斐は不敵な笑みを浮かべて本館の中に戻った。
「大変だよ。でも、おれたちがやらないと患者は死ぬんだ。死なせるわけにはいかないだろ」
自動ドアがしまり、甲斐の姿が消えた。
5
詰め所の中の男は無言で立ち上がると、椅子の後ろにかけていた紺色のコートを羽織った。
「すみませんね。お忙しいところ」
ガラス戸越しに初芝が言う。男は机の固定電話から受話器を取りどこかにかける。電話はすぐに繋がったようで、男はぼそぼそと呟いて受話器を戻した。
「どちらへ電話を?」
「データセンター。巡回に行くから。ここのカメラをよく見ておくようにって」
小島はネックウォーマーで首の周りを包むと、金のエンブレムがついた帽子を手に詰め所の裏手にある出入り口に向かった。
白い息を吐き出しながら詰め所から出てきた小島は『行くよ』と独り言のようにつぶやいて歩き出した。
時刻は午後十時。一晩に三度行われる院内巡回の一回目だ。
「小島さん。事件当夜のことで何か変わったことはありませんでしたか」
「ない」
初芝の問いかけに小島はそっけなく答えた。
歳は五十代にさしかかった所だろうか。肌は黒く焼け、丸めた背中を左右に揺らしながら歩いている。
旧館の前を通り、本館と健診センターの間の通路に向かう。
夜間の病院敷地内には、大人の男の腰の高さほどのポール型照明が点々と生えている。白く淡い光を発するその照明で光量は十分とは言えず、小島は大型の懐中電灯を手にしていた。
小島が足を止めて手袋をつけた右手で健診センターの入り口を指さした。
健診センターの入り口は自動ドアだ。その前にはカラーコーンが二つ距離をおいて置いてあり、その間に規制用テープが貼ってあった。
「鍵がかかってるか確認したいんだけど」
くちびるを動かさず小島は言った。テープの内側にある自動ドアに触れてもいいのかと訊ねているのだ。
「あ、どうぞ。手袋もつけていらっしゃいますし。構いませんよ」
小島は自動ドアを横に引いた。開かない。
「警備員は施錠確認はされないと聞いていましたが」
菊池老人は昼間にそう言った。施錠確認までは業務内容に入っていない。故にやらない、と。
「今までは。でも、事件があったから」
今後は施錠確認もするということらしい。
自動ドアから手を離すと、小島は自動ドアの右手にある、勝手口のドアも施錠確認をした。
小さく『よし』と口にしてから振り返り、小島は歩き出した。
通路を抜けると、小島は左に曲がり健診センターの裏側に向かった。
初芝は思い出した。事件当夜の監視カメラの映像を確認した際、小島は健診センターの裏側には向かわず、右に曲がって本館の裏へと向かっていた。
初芝がそのことを訊ねると、小島は顔をしかめ、視線を足元に逃がした。
「知らなかったんだ」
「知らなかった?」
「裏口があるってことを。健診センターの入り口は、表側の二つしかないと思っていた」
小島は健診センターの裏側に入っていき、裏口のドアのノブを握って回した。警察が鍵をかけたので開かない。しかし、事件当夜は開いていた可能性があったのだ。
健診センターを離れ、本館の裏手に回る。トタン屋根のかかった駐輪場には、ほこりを被った自転車が二台放置されていた。
小島は本館北側にある自動ドアの施錠確認をすると、時計回りに本館の周りを歩いた。
本館南側に来ると、正面入り口の施錠確認をして(こちらも問題なく閉まっていた)、立体駐車場に向かう。三階建ての駐車場の中を隅々まで点検してから、詰め所に戻ってきた。
「お疲れさまです。同行させていただき、ありがとうございました」
詰め所の前で初芝は頭を下げた。小島はかすかに上半身を前に傾けた。お辞儀のつもりらしい。
「また何か思い出したことがありましたら、ご連絡ください。事件の早期解決へのご協力を……」
「あの」
それまでとは打って変わって、鼓膜に響く声量で小島が声をあげた。
帽子を両手で握りしめ、苦渋の表情で小島は初芝を見つめている。
「お、おれがしっかりしていれば、あの若い先生は殺されずに済んだのかな」
「え」
切迫した口調と切実なもの言い。初芝は思わず呆けた声を返した。
「おれ。警備員なのに。おれがしっかりしていれば、事件が防げたんじゃないかな。この詰め所にいるんじゃなくて、不審者がいないかもっと頻繁に巡回したりすれば、あの若い先生は殺されることはなかったんじゃないかな」
手袋の下で拳が震えている。詰め所の壁に身体を預け、右手が必死にざらついた壁をさすっていた。
「何年も前に、おれのおふくろがこの病院でヘルニアの手術を受けたんだ。おふくろ、おれが子どものころから工事資材の問屋で働いていて、ずっと腰痛に悩まされていて。ヘルニアの手術をしたら本当によくなったんだ。おふくろだけじゃない。脳梗塞で倒れた親父もお世話になったし、バイクで転んで大けがをした友達だってこの病院は治してくれた。おれも五年前、盲腸の手術をここで受けた。予防接種だとか健康診断とか、いろんな形でこの病院にお世話になってきた。だからおれ、この病院で警備員として働けることに誇りをもっている。地元のみんながこの病院を頼りにしてるんだ」
小島は鼻息を荒くして地団太を踏んだ。
「それなのにおれ、若い先生が殺された時に何もできなかった。ネット掲示板とSNSには既に病院の悪口でいっぱいだ。『不要な手術で殺される』とか『山吹で処方された薬を飲んだら体調が悪くなった』とか。根も葉もない噂ばかり! おれがしっかりしていれば、殺人事件を止められれば、この病院が悪く言われることもなかったんだって、そう思うとおれ……おれ……」
「そんな、そんな悲しいことを言わないでください」
初芝は小島の背中に手を置いた。
「一人の人間にできることなんて、本当に些細なことだけなんです。警察は組織力によって事件を解決します。一人ひとりの力は微々たるもの。だから手を組んで悪意に立ち向かうのです」
初芝の瞳が憂いの色を帯びた。その瞳の奥に過去の陰惨な事件の様相が映る。
初芝は知っている。悪意のもつ力を。警察の組織力を遥かに上回る悪意の実在を。
「警察の組織力とは、警察官の力のことだけじゃありません。小島さん、あなたのような人が必要なんです。あなたたち市井の人の協力のおかげで事件が解決されるんです。お願いします。わたしたちに協力してください。どんな些細なことでも構いません。何か思い出したらご連絡を」
初芝は自分の名刺を小島の手に握らせた。
小島は帽子といっしょに名刺を握り、何度も頭を下げた。
6
初芝が夜間入り口から本館に入ると、背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
暗闇の中を誰かが駆けてくる。その誰かを視認して思わず初芝は『わぉ』と声をあげた。
「どーもこんばんわぁ。お夜勤ご苦労様ですぅ」
緑色のトリミングコートを着た宇治家看護師がそこにいた。手提げかばんを手にした宇治家は、チェック柄のマフラーを取り、初芝に近づいた。
「こんばんは。どうしたんですか、こんな時間に」
「広大さんを応援しようと思ってぇ、お夜食作ってきました」
手提げかばんを両手で持ち上げる。中でプラスチックの何かがカタリと音を立てた。
「それはありがたい。ちょうどお腹がすいてきたところです」
うす暗い院内の廊下を抜けて、二人はデータセンターに向かった。
「あ、刑事さん。おかえりなさい。ん? 宇治家さん。今夜は当直でしたか。いや、私服?」
「気にしないでくださぁい。広大さんに差し入れにきただけだからぁ」
初芝の腕を引いてパーテーションの内側へ入る。休憩所には誰もいなかった。
「さ、座ってくださぁい」
宇治家は手提げカバンからタッパーを五つ取り出す。水色のふたを開けると、中には色彩豊かなおかずが詰まっていた。
「ほう。これはすごい」
黄金色に輝く鶏のから揚げを見つめながら、初芝は感嘆の声をあげた。
「宇治家さんが作ったんですか」
「たくさん食べてくださいねぇ」
宇治家は巾着袋からラップで包んだおにぎりを取りだした。
「おーう。これはすごい。本当にすごい」
のそのそと歩きながら休憩室に入ってきた岡は、ソファーに座り首をかしげた。
「すごいね宇治家さん。前に食事はルームシェアしている後輩に全部作ら……ふぐ!」
テーブルの下で宇治家のショートブーツが岡のスニーカーを踏みつけた。初芝がそれに気づいた様子は、ない。
「お飲み物を用意しますねぇ。温かいお茶でいいですかぁ」
「あ、できれば冷たいものをもらえますか」
宇治家は部屋の隅にある冷蔵庫を開けた。
「あ、あれ?」
「どうかした?」
「岡くん。お茶ないよ」
冷蔵庫に顔を突っ込みながら宇治家が言う。
「ない? 本当? 奥の方に入ってないかな」
「ないない。絶対ない。ちょっとちょっと、広大さんが飲みたいって言ってるのにぃ」
「あ、ぼく。自販機まで行って買ってきますよ。よければお二人の分も。お弁当とハードディスクのお礼も兼ねて」
初芝はデータセンターを出ると、北西の階段を上り二階の自販機コーナーへ向かった。一階にも自販機はあったのだが、初芝は場所をよく覚えていなかった。データセンターから北西の階段は目と鼻の先。階段から二階の自販機コーナーも目と鼻の先。故にデータセンターから二階の自販機コーナーも目と鼻の先というわけだ。
自販機コーナーの中では三台の自販機が稼働音をあげながら震えていた。
自販機の唸り声とシンクロするように、微かに耳をくすぐるような音が聞こえる。初芝は音のする方――自販機の人工的な光が届かない、コーナーの奥に目をやった。三つの丸テーブル。雷京老人はもちろんいない。老人が昼間座っていた席の背後に、換気用の突き出し窓が暗闇に浮かんでいた。
突き出し窓に近づく。ハンドルを弄るが、施錠はされている。建付けが悪いのか、施錠してもわずかなすき間から風が吹き込んでくるようだ。
ハンドルを握った際に油がついた人差し指を親指とすり合わせながら自販機の前に戻る。
初芝は財布から小銭を取り出し――
「あ」
手を滑らせて皮の財布が逆さまに落ちていく。開いていたコインポケットから小銭が大量にこぼれだす。シャンシャンと甲高い音が夜の病院に響き渡った。
「あ、あ、あ!」
自販機の頼りない光の下で初芝はうろたえた。黒い陰をまとった小銭たちが回転しながら自販機の下へ潜っていく。コインポケットには五百円玉が三枚入っていたことを思い出し、初芝の叫びはワンオクターブ高くなった。
小銭はそのほとんどが自販機の下に吸い込まれていった。スマートフォンのライトを差しこんでもよく見えない。仕方なしに初芝は千円札を自販機にいれて飲み物を買った。
「おや、何かありましたか」
憔悴した様子で戻ってきた初芝に、岡は首を傾げて訊ねた。
「いえ、何でもありません。ははは。はぁ……」
初芝がテーブルにお茶とコーラを置くと、それと同時に奥の流しにいた宇治家が声をあげた。
「岡くん! お茶、ここにあるじゃない」
宇治家は流しと冷蔵庫の間にあるすき間を指さしている。そこにはダンボールが積まれており、手前にお茶のロゴが書かれたダンボールが置いてあった。
「あ、あれれ。気づかなかったよ。ごめんね、刑事さん」
「ははは。大丈夫ですよ」
初芝は弱々しく息を吐いた。
7
宇治家の夜食を食べ終えた初芝は健診センターへ向かった。
北西の階段を二階へ上がり、ナースステーションの横を通って渡り廊下に入る。ナースステーションの看護師たちは奥のテーブルに座り、難しい顔で言葉を交わしていた。手元にはぶ厚いテキストが開いて置いてあった。今夜も自習に励んでいるようだ。彼女たちの邪魔をしないよう、初芝は静かに渡り廊下を通った。
健診センターの中では、橙色の常夜灯が淡く暗闇を照らしていた。
初芝は下川仁の遺体が見つかった待合室に一礼してから入った。手を宙に突き出して振ってみる。手の動き。見える。一メートルほど先の壁にかかった案内板。見える。太陽の下と同じようにとはいかないが、常夜灯のおかげで目の前の相手の胸にナイフを突き刺すことは、無理ではない。
夜間独特な現象が起きないだろうか。初芝は暖色の暗闇の中で手持ち無沙汰に時間を潰した。
何も起きない。遠くからサイレンの音が聞こえる。救急車が院内に入ってきたようだ。
時間を置いて、また一台。時間をおいて、また。四両目が入ってきたところで、初芝はカウントを止めた。ここは病院だ。救急車が来るなんて、当たり前じゃないか。
待合室を出て、一階へ。そして次に屋上にもあがる。何もない。目につくものといえば、屋上から見上げた星空と右端が欠けた居待月くらいのものだった。
腕時計の文字盤に目を凝らす。時刻は午前一時を回るところだった。初芝は渡り廊下を通って本館に戻った。
北西の階段から三階に上る。手術室の前を通って東ナースステーションへ。
初芝はあっと声を漏らした。ナースステーションの奥のテーブルに、紺色のスクラブウェアを着た男が座っていた。
横顔が傾き、初芝を見つめる。
そこにいたのは、寺内医師だった。
寺内はノートパソコンを閉じると、それを抱えて初芝の元に寄ってきた。
「刑事さん。昼間は悪かったな」
挨拶を飛ばして寺内は言った。自身のほほを撫でている。初芝もつられてほほを撫でる。篠栗看護師の手当てがよかったのか(はたまた元より大した怪我ではなかったのか)、脹れはひき、ガーゼは既に外していた。
「たいしたことはありませんでしたから」
「名誉の負傷か」
「名誉?」
「女性を守ったんだから」
「いえ。守ったのは先生のことですよ」
「は?」
寺内は目を丸くした。数秒を置いてから歯をのぞかせた。
「たしかに。あの女刑事さんを殴ったりしたら……な」
初芝と寺内は声をあげて笑った。薄暗い院内に二人の笑い声がこだまする。
「あそこのテーブル」
初芝は寺内が座っていたテーブルをあごで差した。テーブルの横には棚が立っている。
「事件当夜、あのテーブルに下川さんが座っていたんですよ」
「篠栗と谷岡から聞いたよ。あそこで雑誌やら解剖書を読んでいたらしいな。ご覧の通り、あそこの棚には医療系の本が大量に入っている。医局にも同じ本はあるが、先輩医師が自分のテーブルに確保していたり、後輩から横取りするなんてこともしょっちゅうだ。下川は賢い。研修医なら、ステーションで勉強するのが正解だよ」
「下川さんも紺色のウェアを着ていました」
初芝は寺内のスクラブウェアを指さした。
「同じ服の人が、同じテーブルに座っていたわけで、びっくりしちゃいましたよ」
「そうか。それじゃあおれも今夜殺されるのかな。冗談。縁起でもない」
二人は笑った。今度は、声を押し殺して。
笑みが終えると同時に、初芝は大きくあくびをかみ殺した。
「眠いのか」
初芝は目頭を拭いながら首をふった。
「嘘を。おれは医者だぜ。医者は患者の嘘を簡単に見抜く。警察以上かそれと同等程度には、人間観察のプロフェッショナルだ」
「眠るわけにはいきません。まだ事件解決の手がかりが……コーヒーでも飲んで目を覚ましてきます」
「カフェインはやめとけ」
叱りつけるように寺内は言った。
「眠くなったら眠るのが一番だ。先月うちに十歳の子どもがカフェイン中毒で運び込まれてきた。小学生だぜ。毎晩エナジードリンクを飲んで受験勉強に励んでいたらしい」
「ぼくは子どもじゃありません」
「でも同じ人間だ。人間なら寝ろ。ついてこい」
寺内はわきに置いてあった白衣を羽織り、ナースステーションの外に向かった。初芝は大人しく寺内のあとを追う。
「耐えられなくなったらうちの仮眠室を使えよ」
中央階段を上りながら寺内が言う。
「場所だけは教えておくからさ。カフェインなんて糞くらえだ」
「すみません、お忙しいところ」
「いいよ。ちょうどおれも仮眠しようと思っていたところだから」
階を一つ上がって階段室を出る。東ナースステーションの前を通り、病棟がある南側へと寺内は向かった。正面の壁を右折し、すぐ目の前にある一つ目の角を左に曲がる。左右にドアが並ぶ長い廊下を寺内と初芝は進んでいく。
寺内はライオンのように大きく口を開けてあくびをした。
「お疲れですね。そうだ、今日は当直じゃなかったんですよね」
屋上での一件を思い出す。本来、今夜の当直は研修医の糸島の仕事だった。寺内は採血でミスをした糸島に激昂し、彼を家に帰らせた。寺内は糸島の代わりに当直についているのだ。
寺内は『あぁ』とつぶやいた後に、速度を落として初芝と横並びになった。
「言い過ぎだったかね」
「言い過ぎでしたね」
寺内は首をふった。
「言い過ぎなもんか。おれは間違ってない。糸島には覚悟がない。第二外科で仕事をする覚悟ってもんが分かっていない。第二外科は神原先生が作り上げた最後の希望なんだ」
神原教授。二十年前、心臓手術の権威として総合外科を統治していた落合現院長に、反旗を翻し第二外科を立ち上げた伝説の外科医。
「最後の希望。何とも大げさな」
「大げさなものか。神原先生は大学病院を万魔殿と呼んだ。健やかなる医療を志し、患者のために尽くす若き医師たちはこの万魔殿に飲み込まれ悪魔と化していく。権力闘争に明け暮れ、私利私欲と自尊心を満たすために白衣を羽織る白い悪魔だ」
寺内の白衣が翼のように波を打った。
「だけど神原先生は違った。先生はただ一人悪魔に抗い、その白衣の純潔を守り続けた。神原先生の弟子にあたる関教授も、秋月先生だって同じだ」
「寺内先生はどうなんですか」
「おれは悪魔だ」
寺内は鋭く言い切った。
「おれが大学の医学部を卒業するその年に神原先生は亡くなった。二十四歳の時だから、もう十二年前になるのか。おれの世代から後は神原先生の訓示を受けていないんだ」
純潔なる名医の指導を受けていない。だから自分は万魔殿に飲み込まれたというわけか。
寺内は足を止め、両目を閉じた。ほんの数秒、閉じた両目で頭上を見上げる。
「神原先生はおれが山吹の学部に入学した年に第二外科を旗揚げした。注射のうち方さえろくに知らない一年生たちの間でも、第二外科創設の知らせはセンセーショナルな話題だった。一枚岩で山吹医科大学を掌握していた総合外科が分裂したんだ。しかもこの分裂のきっかけが、これまたすごい」
寺内は目を開き歩き始めた。初芝は横目で、寺内の顔がほころんでいるのを見た。
「旗揚げの二年前。この病院に一人の患者が現れた。心臓病を患った小学一年生の子どもだ。この患者は既に五つの病院から治療を拒否されていた。理由か。簡単だ。無理だからだ。その手術自体の成功率が非常に低く、さらにその患者の虚弱体質が輪をかけて成功率を下げていた」
初芝は桜井鼓太郎少年のことを思い出した。鼓太郎少年の身体では手術に耐えきれない。手術の成功率は患者の健康状態と密接に相関する。
「当時の総合外科医局長で、心臓手術の権威でもあった落合先生がその患者を診察した。先生もまた、前の五つの病院の医師と同じ判断を下した。無理だ。できない。この身体でオペなんて自殺行為だ。天寿を全うして生きることがこの子のためだと。だけど、神原先生はその患者を見捨てなかった。先生はカルテを見て、まるで皿洗いの当番を担当するかのように軽く言ったそうだ。『じゃ、ぼくがやるよ』と」
寺内は失笑した。
「その後は医局内で大喧嘩だ。落合先生は、医局長として無謀なオペを認めるわけにはいかないと唾を飛ばした。失敗すれば、馬鹿げたオペに踏み切ったと山吹は大恥をかくことになる。他の医師も医局長に賛成した。同僚や上司が必死になって神原先生を説得するが、先生は一向に納得しない。どうしてオペをするんだ。そう訊ねられ、先生はこう答えた」
――だって、かわいそうじゃん――
「両腕を組んで、苦笑いしながらそう言ったそうだ。まるで子どもだ。道端の捨て猫にパンをやる子どもと同じだ。苦しんでいるから。かわいそうだから。それだけだ。それだけなんだよ」
寺内はこの話を伝聞によって知ったはずだ。そこにはいくらか脚色がかかっているかもしれない。
だが寺内の言葉には臨場感があった。寺内は幻視によって過去を見つめている。過去に起きた事実として、一連の出来事を見つめている。それは彼が神原教授を狂信しているからだ。万魔殿に堕ちたと自称するこの医師は、堕ちたからこそ神に憧れているのだ。
「最終的に神原先生は自身の進退を条件に落合先生から承諾を得た。当時の落合先生にとって、同世代の神原先生は目の上のたんこぶだった。今は自分が医局長という立場でリードしているが、手術の腕は神原先生の方が上。神原先生がいつ自分に牙をむいてくるかは分からない。何より神原先生の専門は消化器外科だ。いかにそのメス捌きが優れていようと、進退をかけた緊張の中でこれほど難しい心臓手術がこなせる訳がない。体よく医局から追い出すことを期待して、落合先生は手術を承諾したわけだ」
粘度のある権力闘争の事情を耳にして、初芝は力なく首を垂らした。
「神原先生がすごいのはここからだ。先生は、他の患者と同じスタンスでこの患者の治療にあたった。当時研修医だった秋月先生とその指導医の関先生に日常業務の担当をさせた。この患者と神原先生が顔を合わせるのは一日一回。朝の健診くらいのものだった。神原先生は当時教授職に就いていたから、患者のこの待遇は当然だ。だが、この患者の手術の結果によって先生は病院から追い出されるかもしれないんだ。だったら付きっきりで担当をするのが当然じゃないか。だけど神原先生にとってそれは当然じゃなかった。先生は他の患者と同じ様にこの患者を扱い、そして執刀の際にも、他に腕が立つ医師がいたにも関わらず、関先生と秋月先生を助手にしたんだ」
「常軌を逸していますね」
初芝は鼻を鳴らした。寺内の熱のこもった口調に初芝は吞まれていた。
「落合先生の期待に反して手術は成功した。手術の最後の縫合は助手に任せることが多い。神原先生はこの時も縫合を第二助手の秋月先生に任せたそうだ。秋月研修医は拒否したそうだよ。たかが縫合、されど縫合。手を滑らせて術部を傷つけたりしたら……。神原先生は大きくあくびをして言ったそうだ。『いつも通りやりなよ。いつもの手術なんだから』と。こうして神原教授は外科医局で絶対的な権威を手にした。メンツを潰された落合先生と神原先生の間には決定的な壁が生まれ、総合外科医局内では落合派と神原派で派閥抗争が始まった。このいざこざに嫌気がさしたのか、神原先生は総合外科からの分裂、新たな医局の旗揚げを病院側に提案し、手術から二年後に第二外科は誕生した。だけど、神原先生は……」
寺内は右の拳を壁に叩きつけた。深夜の病棟に濁音が響く。
「先生は、その六年後に亡くなった。真夜中に緊急手術を成功させたあと、医局のソファーで横になり、虚血性心疾患で急死された。百二十時間働き続けたなんて伝説も残るほどワーカホリックだった神原先生の身体は、紙人形のように脆く壊れかけていた。先生は亡くなり、第二外科は関先生が継いだ。だけど関先生は神原先生のような鋼のメンタルの持ち主ではなかった。院内政治の圧力に屈して心を病み、表舞台から姿を消した。今や関先生は週に数回医局に顔を出すだけで、あとは専ら学部で講義。医局に残されたのは齢四十になったばかりの秋月准教授。第二外科旗揚げの発端となったあの手術に携わった秋月先生は、否応なしに医局トップの座に着いた。もう一度言う。否応なしにだ」
寺内は右手の壁にあるドアの前で止まった。ドアノブに手を置き、その姿勢のまま振り返る。
「第二外科は神原先生の献身から生まれた。おれたちはその意志を継いでいかなければならない」
「だから、糸島さんに辛く当たるんですか」
初芝が訊ねる。寺内は鷹揚にうなずいた。
「糸島には覚悟がない。医師としての献身の覚悟があいつにはない。たしかにおれたちは神原先生にはなれない。だけど少しでも、少しでも近づかなきゃならないんだ」
寺内がドアを開けると、そこには常夜灯の光が照らす暗闇が広がっていた。
横に伸びた長方形の室内に、二段ベッドの輪郭が連なって並んでいる。いびきが、寝言が、衣擦れの音が室内を力なく飛んでいる。
「眠たくなったらここに来い。空いてりゃどのベッドを使ってもいい」
初芝が小声で感謝を述べると、寺内は近くのベッドにもぐりこんだ。
足音を立てないよう、初芝は出口へと向かった。ドアを開き、外に出ようとしたその時、初芝はたしかにその声を耳にした。
「近づかなきゃならないんだ」
その声何度もは聞こえた。自らに暗示をかける呪いのように――
「近づかなきゃならないんだ。少しでも、近づかなきゃ……」
8
寺内と別れ、館内をもう一度巡回した初芝は中央エレベーターを上り屋上テラスにやってきた。
ガラスに囲われた屋上テラスに人の姿はなかった。
初芝は自販機でコーヒーを買おうとしたが、ほんの少し逡巡して麦茶を買った。
扇状に並んだベンチに腰を下ろす。天井に向かって伸びる壁のレールに筒型の照明が連なっている。ガラス張りの天井から夜を包む帳を眺める。ガラスはぶ厚く、汚れのせいか星の姿は見えない。
うなり声を上げながら一度大きく身体を伸ばす。身体の節々が不快な音を立てた。蓄積した疲労の存在を感じながら初芝は麦茶のペットボトルに口をつける。
壁掛けの時計は午前四時を指している。事件当夜なら、秋月医師が緊急手術を行っていたころだ。屋上テラスに来る前に、初芝は手術室を訪れていた。何か事件に関して心当たりがあったわけではない。当然、事件に関することは何もなかった。
事件当夜の雰囲気を把握しようとやって来たが、捜査が進展するような情報は得られなかった。
捜査は(日付が変わって)今日で三日目を迎える。明日になれば落合院長が天神署の上層部に圧力をかける。タイムリミットは実質的に今日一日というわけだ。
『自殺説』を積極的に肯定する直接的な証拠はない。否定する根拠もないが、無数のカメラにその姿を捉えられないよう健診センターに侵入するのは不可能ではないか。健診センターを訪れたのが下川だけならば、下川を殺したのは下川本人以外にあり得ないことになるのだ。
初芝は眠気に抗いながら麦茶を胃に流し込んだ。味なんてしない。冷たい液体が食道を落ちていく感覚がするだけだ。
ほんの少し休んだらもう一度院内を巡回しよう。そんな思いに反して、初芝の身体はベンチに崩れた。まぶたが落ちていく。脳がまどろみに包まれていく。何をしている。薄くなっていく視界の中で初芝は自身に檄を飛ばした。その檄はまどろみに包まれて気配を消していく。
それから数時間後、ジャケットの中のスマートフォンが揺れて、初芝の身体はソファーの上で飛びはねた。
「も、もしもし」
「今江です。おはよう」
スマートフォンから今江の声が聞こえる。初芝はその声にどこか黒い陰を感じた。
「こんな朝早くに申し訳ないんだけど、今から行ってほしい場所があるの」
今江が住所を口にする。それほど遠い場所ではない。山吹医科大学附属病院から車で二十分といった距離か。
「どこなんですかそこ」
初芝が訊ねた。
「糸島研修医の自宅」
一拍をおいてから今江が言った。
「あの研修医、自殺したみたい」




