幕間H
「お待たせしました。申し訳ありませんが、今江は外に出ておりまして、恐らく本日は直帰するかと」
受付の制服警官は受話器を戻すと、慇懃な態度で頭を下げた。
赤いダッフルコートの長身を曲げながら、『そうですか』と法律はくちびるを曲げた。
「困ったな。ぼく、自営業でして今日ぐらいしか時間がないんですよ」
「あの、失礼ですが具体的なご用件を伺っても?」
「一年前の強盗事件の際に今江さんにお世話になりましてね。いえいえ、ぼくが犯人だったわけじゃないですよ。偶然現場に居合わせただけ。で、たしかあの事件はまだ解決していなかったと思うんですけど、犯人について思い出したことがあるんで、こうして天神署に足を運んだわけですよ」
制服警官は『まぁ』と驚嘆の声を漏らすと、もう一度受話器を手に取った。
数分後。緑色のリノリウムが貼られた階段を巨体の私服警官が駆け下りてきた。
「ど、どうも。新崎と申します。今江さ……今江は席を外しておりますので、わたしが代わりに対応させていただきます」
はちきれんばかりのスーツに巨体を包んだ新崎刑事は、その体躯に似合わず丁寧に頭を垂れた。
「お若いですねぇ。去年の暮れ、ちょうど一年前の事件についてなんですけど、ご存じでしょうか」
「場所はどこですか。強盗事件もそこそこの数で起きておりますので」
「栗金四丁目の交差点です」
「栗金の……? あそこで強盗事件なんてあったかな」
「ナイフをもった男がご婦人に襲いかかった事件ですよ。ちょうどぼくの目の前で男がご婦人に襲いかかって……。今江って刑事さんが現場にいらっしゃっていろいろとお話ししたのです。しかし今江さんはいい人ですよね。他の刑事さんからも尊敬されているんじゃないですか」
「もちろん。ぼくみたいな新米にとっては鬼のように怖い先輩ですが、理不尽なことを口にしないあたりは尊敬してます。警察組織ってやたらと精神論を垂れる先輩が多いんですけど、今江さんはそういう理不尽を口にしませんから」
新崎は破顔して首筋をかいた。両目は赤く充血している。
「ふぅん。今江さんはいらっしゃらないとのことでしたが、捜査ですか?」
「ごめんなさい。詳しいことは言えないんです。今日は恐らく署に戻ってこないかと」
「戻ってこないほど遠くにいらっしゃるわけですね」
「あ、いえ。そんなに遠いわけでは……厄介な事件を担当しているだけですよ」
「そんな事件を任せられるとは優秀な刑事の証拠ですね。階級は何ですか。警部?」
「ドラマではよく警部クラスの人材が現場に足を運びますけどね、実際に革靴をすり減らすのは巡査部長以下の人間ばかりですよ」
「へえ! 知らなかったな」
「今江さんは巡査部長です。警部クラスなんてぼくからしたら雲の上のような存在ですよ。口にするだけでも恐れおお……」
「新崎。何をしている」
男の声が聞こえた。
顔面を蒼白に変えた新崎刑事は、声の方に振り返り、稲妻のような早さで敬礼を構えた。
紺色の冬制服を着た警察官が立っていた。面長の上に四角いフレームの眼鏡をのせている。ガラスの奥のたれ目がほんの少し焦点をずらして法律に向けられた。男は何も言わず再び焦点を新崎刑事に戻した。
「お前は山吹の事件を担当しているはずだろ。ここで何をしている」
「あ、あの。この方が去年の、栗金の交差点の強盗事件について……」
「そんな事件は記憶にないな。どうせカバンが取られたとかチンケな事件だろ」
男は目じりに皺を寄せて、法律にもはっきりと聞こえる舌打ちを放った。
「とっとと上に戻れ。確認する映像はわんさか残ってんだろうが!」
「は、はい。あの。失礼します」
新崎刑事はロケットのような勢いで階段を上がっていった。
「それでお宅は。何。強盗事件? 悪いけど忙しいんでね。また後日出直してくれるかな」
法律は目の前の男の制服についた階級章を見て苦笑した。金色の桜葉にタンザクは二本。なるほど。雲の上のような存在が降りてきたわけだ。
「あ、それ嘘です。そんな事件は起きてませんよ。栗金って地名も、グーグルマップでテキトーに調べただけです」
「なんだ? あんたいったいどういうつもりで……」
「今江巡査部長さんについてお聞きしたいことがありましてね。いやぁ。あなたのようなお偉いさんが捕まってよかったよかった」
男の顔色が一瞬にして朱色に染まった。いまにも怒声が発せられんと歪んだ口を制するように、法律は開いた右手を差し出した。
「ぼくは桂さんの使いです」
瞬間。男の顔色がみるみる内に朱色から蒼白に変化した。
「あぁ失礼。そちらのお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「は、はい。捜査一課の課長を任されております田所です」
「田所さん、田所さん。あぁ、お噂はかねがね。うれしいなぁ。田所さんならお話しも早く済みそうだ」
「どうぞ。いまお部屋にご案内しますので……」
「いえ、ここでいいですよ」
警察官と市井の人々が行き交う天神署のロビーで、法律は両手を広げてニコリと笑った。
「そんな大げさな話をするわけでもありませんし」
げんなりとした表情の田所課長は額の汗を制服の袖でぬぐった。
「桂さんは今江巡査部長について気になっていることがあるそうなんです。今江さんは、田所課長からみてどんなお人ですか」
「あまりいい警察官とは言えませんね。上からの命令に素直に従わないことがあります。上官に対して畏敬の念を抱いている様子もありませんし、融通を利かすのも下手です。警察組織には向かないおん……女性ですよ」
女性なのか。法律は表情を一ミリも動かすことなく内心でつぶやいた。
「そんな刑事をどうして警視庁の刑事と組ませたのですか。うちの初芝のことはご存じでしょう」
「奇妙なことをおっしゃる。初芝巡査に今江を組ませるよう指示されたのは、警視監ではないですか」
法律の表情が一ミリだけ崩れた。
「あぁ。そうでしたそうでした。警視監殿のわがままでしたね。いつも通りの勝手なわがまま。なるほど。それからもう一つお聞きしたいのですが、今江巡査部長は午後五時になると必ずご帰宅されると聞きました」
「再雇用の際に人事とそのような条件を結んだのですよ。残業をしない刑事なんてね、信じられませんよ」
「何か事情があるのですか」
「ご存じないのですか。今江はですね……」
法律は田所課長の見送りで天神署をあとにした。四車線の国道沿いを歩いていく。
「なるほどね。そういう事情だったのか」
法律は商店街に入り、肉屋で牛肉コロッケを二つ買った。
商店街を歩きながら、ほくほく顔でコロッケをパクつく。法律の表情は明るく、釈然とした様子で探偵は帰宅した。




