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第八章

 1

 「そうですか。寺内てらうち先生にお会いしましたか」

 消毒液をたっぷりとガーゼにしみ込ませながら、篠栗しのぐりさおりは瞳を曇らせた。

 丸椅子に座った初芝は、赤く腫れあがった左のほほに当てている冷たい缶コーヒーを降ろすと、遠慮がちに顔を突き出した。

 「あのひと少し乱暴なところがあるから。不快な思いをされませんでしたか」

 「えっと、いや全然。至極紳士的な会話ができましたよ。ねぇ、今江さん」

 初芝の後ろに立つ今江は、三回東ナースステーションの看護師たちが慌ただしく仕事に励む様子をぼんやりと眺めていた。

 「しかし刑事さんもドジですねぇ。何もない屋上で転ぶなんて。はい、ちょっとしみますよ。中途半端にやると効果ないですからね。ガっといきますよ。ガっと」

 「寺内先生は下川先生の指導医だったそうですね」

 初芝の悲鳴をBGMに今江が訊ねた。

 「はい。二人とも無駄な会話を好まない性格なので、相性がよかったみたいです。とはいえ、休日にいっしょにピクニックなんて関係でもないと思いますけど」

 初芝の悲鳴をBGMに篠栗が答えた。

 「寺内先生はいつも殺気立っていて、正直ナースの間でも評判はよくないんですよ。よくいるじゃないですか、その場に現れるだけで周りのおしゃべりをピタっと止めちゃう人。わたしたちがミスをするとすぐに怒鳴りつけるし、あの人が声をかけてきたら十中八九面倒ごとです」

 「医師としての腕はどうなの」

 初芝の悲鳴をBGMに今江が訊ねた。

 「その点は申し分なしです。会話を好まない分、必要最低限の問診で患者さんの病状を把握されますし、秋月先生の愛弟子だけあって、手術の腕もばっちり。加えて仕事中毒ワーカホリックなので事務仕事も早いんです。その点は本当に助かるんですけどね」

 ――ちょっと足りないかな?――と首をひねり、篠栗は新しいガーゼに消毒液をたっぷりとふりかけてから、初芝のほほに押し付けた。

 「ずっと気になっていたんだけど、この病院のスタッフさんって本当に忙しそうよね。さっき会った手術室の看護師さんも、当直明けから連続して日直についているって言ってたし」

 「もしかして剣淵けんぶちさんですか」

 「そう。()()()()()。かわいらしい名前ね」

 目じりをゆるめて篠栗は笑った。初芝の悲鳴をBGMに。

 「ひぃちゃんは手術室のエースです。とにかく手際がよくて、どの先生も手術の際にはひぃちゃんに器械出しを任せたがるんですよ」

 「き、器械出しって何ですか」

 悲鳴と悲鳴の間に初芝が訊ねた。

 「ドラマとかで見たことないですか。執刀医の先生が『メス』て言ったら、メスをすばやく渡すひと。あれが器械出しです。そういえば、ひぃちゃんも仕事中毒ですね。当直と日直の連続はわたしも何回か経験していますし、珍しいことじゃありません。でもひぃちゃんは七十二時間ぶっ続けで勤務していたこともあるし……」

 「そんなの、労働基準法違反にならないの」

 「なりますよ。残業時間の過労死ラインって、月に百時間でしたよね。ほとんどの職員が百時間以上残業しています」

 それが普通ですから。篠栗はけろりと言ってのけた。

 「休みなさい。そんなに仕事して、あなた達が入院するはめになるわよ」

 「でも患者さんが待っているんです。わたしたち医療業界の人間は、患者さんのことを想うとやる気が出てきて眠気を吹き飛ばすんです。休んでなんていられないし、休みなんて必要ない」

 篠栗は消毒を終えた初芝のほほに、たっぷりと軟膏を塗りこみ、ぶ厚いガーゼを貼りつけた。

 初芝と今江は感謝の言葉を述べてナースステーションをあとにした。

 「奉仕の精神ってやつかしら。むしろ放私・・って感じね」

 「今江さんには理解できない考え方でしょうねぇ」

 皮肉交じりの笑顔を添えて初芝が言った。

 「そうね。今日も定時に帰らせてもらうから」

 その時、北側のエレベーターホールの方から、大量の足音が聞こえてきた。



 2 

 白衣を羽織った若い六、七人の男たちが、大きく口を開けて雑談に興じながらやって来る。彼らの先頭にいたのは、第一外科のコリンズ・竜一りゅういちだった。

 「おや。刑事さんたちではないですか。どうもご苦労さまです」

 昨日とはうってかわっての上機嫌。初芝が『うわ』とつぶやく。

 「後輩たちです」

 親指を背後に向けてコリンズ・竜一が言う。

 「みんな、例の事件を捜査されている刑事さんだ。ご挨拶を」

 『こんにちは』と歯切れのよい声が折り重なって廊下に響く。糊のきいた白衣を羽織る若き研修医たちは、白い歯を見せながら頭を下げた。

 「いやぁ聞きましたよ。下川は自殺したんですって。あのくず野郎(スカム)にしては上出来な最期だ。他人が手を汚さずにすんだわけですから」

 研修医たちが声を上げて笑う。対照的に今江と初芝は、絶対零度の視線で若き医師たちを見つめていた。

 「下川が消えて第二外科は大慌てですよ。もともと少ない人材が自転車操業で回していた医局だ。秋月先生は立派な人だけど、他はどんぐ(ナッシング)りの(トゥ)背比べ(チューズ)。まったく。来年は第二外科に人員がずいぶん割かれるんじゃないかな。おっと、それ以前に第二外科がなくなるかもしれないのか」

 コリンズ・竜一は腹を抱えて笑い出した。金色の髪が蛍光灯の下で左右に揺れる。

 「風の噂で耳にしたわ」

 今江が言った。

 「第一外科は神原かんばら教授を筆頭に独立した第二外科を目の敵にしていて、あわよくば再統合を目論もくろんでいるそうね。そりゃ嬉しいでしょうね。かつて自分たちの顔に泥を塗ったライバルたちが、こうべを垂れて軍門に下るわけだもの」

 「人聞きの悪いことをおっしゃる。再統合はまだ確定しておりません。もっとも、所々のコストや業務効率化を考慮すると再統合がベストな選択であることは間違いありません。第二外科のせき教授は、ろくに姿を現さない幽霊教授・・・・です。こんな無責任な医者がトップを修める医局なんて解体されて当然だ。関教授がしっかりしていないから第二外科は無頼者ばかりが集まるんです。雲仙教授の指導があれば、彼らも少しはまともな医者になれるでしょう」

 「ずいぶん、自分たちの医局に自信があるのね」

 「……なんだと?」

 コリンズ・竜一の笑顔が停止した。

 その様子を見て研修医の一人が小さな悲鳴をあげた。

 「まるで自分たちが病院の顔であるかのような口ぶりだって言ってるの。雲仙教授や落合院長みたいな大物ならまだしも、たかだか後期研修医がラッパを吹くとね、どうしたって安っぽく聞こえて仕方がないわ」

 コリンズ・竜一の白い顔がみるみるうちに赤く染まっていく。研修医たちはおどおどとした表情でコリンズ・竜一の後ろに下がっていった。

 コリンズ・竜一は、研修医のひとりの白衣を引き寄せ、研修医の左胸を握りこぶしで叩いた。

 「刑事さん。こいつにナイフを刺したらどうなる」

 「どうなるって、死ぬんじゃない。下川さんと同じように」

 「そう言っているんじゃない。警察のあんたの目の前で、俺が、こいつに、こいつの胸にナイフを突き刺したら、俺はどうなるかって聞いているんだ」

 コリンズ・竜一の声には、溢れんばかりの敵意が備わっていた。

 「わたしの目の前で? そうね。とりあえず、明確な意思をもって刺したと見受けられるなら、暴行罪で現行犯逮捕かしら。凶器を取り上げて、身体を組み伏せて、バレないよう何発かパンチも入れちゃうかもね」

 「そうだ。あんたは俺を逮捕するだろう。でもな、俺はこの病院の中で何度も人の身体に刃物を突き刺してきた。手術室の中で俺たち医者は、人の身体にメスを走らせて金を稼いでいるんだ。胸を切り開き、胸骨をのこぎり(ストライカー)でそぎ落とす。赤い血液の海で絶え間なく伸縮を繰り返す心臓を見たことがあるか。ドクリドクリとリズミカルに跳ねる赤い心臓を見ていると、その脈動に呼応して自分の心臓も音を上げるんだ。こんな経験をできるのは、殺人鬼と医者くらいなもんだ。やってることは同じなんだよ。俺たち医者は、殺人鬼と同じく人の身体に刃物を突き刺してる。だけどあんたは俺を逮捕できない。何故なら俺は医者だから。人助けのために人を傷つけているからだ。こんな経験を繰り返しているとな、不思議な感慨が湧いてくるんだ」

 黄金色の前髪を手ぐしでかき分け、コリンズ・竜一はその大きな両目を見開いた。

 「俺たち医者は特権階級にいるんだ。理性が作り出したこの社会の中で、唯一合法的にも倫理的にも人を傷つけることを許された存在。あんたら一般人は、人を傷つけることを許されていない。だが俺たちは違う。俺たちは、医療という救済を錦の御旗に、いくらでもひとを傷つけていいんだ。病院の顔だと? そんなちっぽけな言葉に収まるもんか。俺たち医者は人類を超えた存在だ。傷害をいましめるこの世界で、唯一その罪を許された特別な存在。それが俺たちだ。偉そうな顔をして何が悪いんだ」

 間髪入れずにコリンズ・竜一は続ける。

 「前に厚生労働省のお偉いさんが、冠動脈バイパス手術を受けに来た。六十を超えたおっさんと聞いていたから、どんなしょぼくれた奴かと思いきや、そいつは二メートルを裕に越す筋骨隆々の大男だった。他人の顔を見上げるってのは久しぶりの体験だったね。小麦色に焼けた肌のその男は、傲慢な性格で、入院中わがまま三昧で俺たちをてこずらせた。ストレスが溜まっていく毎日を経て手術の日が来た。手術台の上に麻酔で意識を失ったその男が横になっている。あんなにも口うるさい男が、無防備に俺たちに身体を預けているんだ。助手を務めている俺の前で、雲仙教授のメスが男の肌を切り裂いていった。男の心臓を見ながらつい俺は言ってしまった」


 ――かんたんに殺せますね――


 「暴虐武人な男の態度に頭を悩ませていたのは俺だけじゃない。周りのスタッフも、雲仙教授も同じだった。みんなは俺の言葉の意味を理解してくれた。雲仙教授はこう言った。『できるとも。わたしたちには、それができるんだ』と」

 コリンズ・竜一の両目が愉悦に歪んだ。その両目が舐めるように今江を見つめる。

 「もちろん殺しちゃいない。だけどな、俺はその時に雲仙教授に教えられたんだ。あの場で俺たちは厚生労働省のお偉いさんを殺すことができた。百パーセント成功する手術なんてない。残念ながら手術は失敗に終わりましたと、合法的にあの男を殺すことができたんだ。あんなにも偉そうにしていた男の命は、俺たち医者の手の内にあった。何故なら俺たち医者はこの社会で特別な階級に属しているから。生殺与奪の権利を手にした存在。言わば医者おれたちは神だ」

 コリンズ・竜一は、今江の身体に肩をぶつけて脇を通った。

 「あんまり俺たちを馬鹿にするな」

 彼のあとを追いすがるように研修医たちが続いていく。去り際にコリンズ・竜一はもう一度口を開いた。

 「さもないと、殺すぞ」



 3

 「い、いやぁ。ものすごい剣幕でしたね」

 恐る恐るといった様子で、初芝は今江の機嫌をうかがった。

 しかし、初芝の不安とは裏腹に、今江は平然とした様子で腕時計を見つめていた。

 「ごめん、何か言った」

 「あ、いえ。別になにも。しいて言うなら、あの、失礼な男でしたね、はい」

 「そうね」

 「怒ってないんですか」

 「まさか。あの程度で怒るようじゃ刑事なんてやっていられないわ。でも面白い話だったわね。医者は神だなんんて。あら」

 今江は病棟側の廊下に目をやった。ぺちぺちと足音を立てながら近づいてくる子どもの姿が見える。桜井さくらい鼓太郎こたろう少年だ。

 「よーう」

 鼓太郎は笑顔を携えながら大きく手を振り、初芝の足に飛びついた。

 「うわ、びっくりした。面談室に行ったんじゃなかったの」

 初芝は鼓太郎の身体を高く持ち上げた。鼓太郎はけらけらと笑いながら両手をばたつかせる。

 「刑事さん。すみません」

 どたどたと足音を立てながら、看護師がやってきた。事件当夜当直をしていた谷本たにもと看護師だ。

 「ダメでしょコタくん。刑事さんたちは仕事中なんだから」

 谷本がそう言う間に、鼓太郎は猿のように初芝の首にもたれかかると、くるりと背中に回っておんぶの格好で抱えられた。

 「ほら、戻るよ。刑事さん、降ろしてもらって構いませんよ」

 「だってさ。降りてくれる?」

 「いや!」

 鼓太郎は初芝の肩に回す手に力を入れた。

 「コタくんがいなかったらお母さんたちびっくりしちゃうよ。それでもいいの」

 いやいやと拒絶の意志表示を繰り返すだけで、鼓太郎は初芝の背中から降りようとしない。

 「あの、鼓太郎くんの面談は終わったのですか」

 今江が訊ねると、谷本は『あら』と大きく口を開いた。

 「刑事さんたち、コタくんのお知り合い?」

 「先ほどお会いしたばかりです。これからお母さまといっしょに面談室に伺うと聞いたものですから」

 そうでしたか、と谷本看護師はうなずく。

 「今後の治療方針についての面談だったんです。最初にコタくんにも分かるよう優しくお話ししたあと、コタくんは退席して、今はご両親と秋月先生が詳しい話をしています。面談室の前でコタくんといっしょに待っていようと思ったのですが」

 「元気溌剌(はつらつ)で逃げ出したってわけね」

 今江は両腕を組みながら初芝の首にまとわりつく鼓太郎を見つめた。

 「もうすぐ退院できるんだ!」

 唐突に鼓太郎が叫んだ。

 「ロンゲの先生が言ってた。もうすぐ退院できるって。チクレンジャーのショーにも行けるって」

 「退院って。手術するんじゃなかったの」

 初芝が訊ねる。

 「しなくていいって。先生が言ってた。もう大丈夫だって」

 「すごいじゃないか。鼓太郎くんががんばったおかげだね」

 おんぶから肩車に移行した態勢で、初芝は鼓太郎の太ももをぺちぺちと叩いた。

 歓声をあげる鼓太郎を抱えながら、初芝は面談室の方へと向かった。そのあとを今江と谷本が続いていく。

 「あ、ここです」

 谷本が『面談室B』と書かれたプレートの横にあるドアを指さした。ドアの前には廊下を挟んでソファーがひとつ置いてあり、その前を一行が通った瞬間、スライド式のドアが開いた。

 そこにいたのは鼓太郎の母親だった。

 母親の姿を見て今江は息をのんだ。彼女は声をあげて泣きじゃくり、溢れる涙をハンカチで拭っていたのだ。

 歓喜の涙――というわけではなさそうだ。母親の横で優しくその腕をとる男は、沈痛な面持ちで必死に彼女をなぐさめていた。ツンと伸びた鼻が鼓太郎とよく似ている。

 「ママ!」

 鼓太郎は初芝の身体から飛び降りると母親の身体に抱きついた。母親は息子の身体を両腕で包みこむ。その姿を見て横にいた男はそっぽを向き、必死になって目じりを抑えていた。

 「ご家族でゆっくりと話あってください」

 部屋の内側から声がした。そこには、両目の下に濃いくまを走らせ、辛苦の表情に顔を歪ませた秋月医師がいた。

 秋月の後ろには剣淵看護師が無表情で立ちつくしている。剣淵は今江たちをちらりと一瞥すると、ほんの少しだけ眉をひそめた。

 「桜井さん。病室に戻られますか」

 厳しい表情の谷本看護師が母親に声をかける。母親は小さくうなずくと、鼓太郎を抱き上げた。

 「すぐに行くから」

 鼓太郎とよく似た男は、ふらふらと頼りない足取りで廊下に置かれたソファーに座り込んだ。鼓太郎とその母親、そして谷本看護師はエレベーターホールの方へと向かった。

 「では、桜井さん。わたしたちはこれで」

 『失礼します』と続けて、秋月医師と剣淵看護師も去っていった。去り際に秋月医師は刑事たちにも小さく頭を垂れた。

 「あの、大丈夫ですか」

 声をかけずにはいられなかった。初芝は男の横に座った。

 男は真っ青になった顔を向けて『あぁ』と呻くように声をあげた。

 年齢は三十代といったところか。栗色のセーターの上に銀色のネックレスを流したカジュアルな服装をしている。

 「鼓太郎くんのお父様ですか」

 「はい」

 「あの、鼓太郎くんはどうしたんですか。彼、ついさっき退院できるって――」

 「一年です」

 「……は?」

 鼓太郎の父親は身体を起こしてもう一度言った。

 「鼓太郎の余命です」

 「余命って、そんな馬鹿な」

 初芝は顔を引きつらせて飛び上がった。

 「血液検査の結果が悪かったんです。白血球中の異形細胞の数値がとんでもなく上がっていて。全身に転移もしています。抗がん剤が効いていないんです」

 「こ、抗がん剤って、それじゃあ鼓太郎くんの病気は……」

 「横紋筋肉腫おうもんきんにくしゅ。小児がんの一種です」



 4

 「二年前、四歳の鼓太郎は横紋筋肉腫を発症させました。小腸に悪性腫瘍ができていたのです」

 鼓太郎の父親――桜井健太郎(けんたろう)は語りだした。

 「こちらの病院は小児科こそ構えていないものの、各科にその科の小児医療に通じた医者がいるとの評判を以前から聞いていました。実際に訪れてみると、病院の方々はとてもよくしてくれて、抗がん剤治療と腫瘍切除手術を経て、悪性腫瘍はなくなりました」

 ――しかし――と、健太郎は苦渋の表情で続けた。

 「五か月前に、右足のももに悪性腫瘍が見つかりました。小腸の腫瘍が転移していたのです。今回は抗がん剤による治療を試みたのですが、いっこうに効き目がありません。決して珍しいこと例ではないんです。治療が上手くいくかどうかは運によるところが大きい。抗がん剤は効かなかった。さらに先日の検査で新しい腫瘍が見つかりました。髄膜ずいまく膀胱ぼうこうにまで腫瘍は転移していたのです」

 「手術をすればいいじゃないですか。それなのに退院されるのですか」

 初芝が声を荒げた。

 「退院です。もう、やめます」

 「どうしてですか。諦めるなんてひどいですよ」

 「鼓太郎の身体はボロボロです。長時間の手術に耐えられるほどの体力はないんです」

 「だったらせめて抗がん剤の治療を続ければいい。薬が効かないからってあきらめることないじゃないですか。根気よく続ければいつかは……」

 「初芝」

 今江が静かに言った。

 「あんた、抗がん剤の副作用って知ってるの」

 今江は厳粛な視線で初芝をにらみつけた。

 その言葉に、初芝はいくぶんのとげを覚えた。

 「ドラマで見たことがありますよ。髪が抜け落ちたりするんですよね。でもそんなの命の価値に比べたら……」

 「それだけじゃない」

 今江はかぶりをふった。

 「抗がん剤の副作用はそれだけじゃない。投薬後に繰り返される嘔吐。無数に増える口内炎。倦怠感や手足のしびれ。薬の成分で難聴になったり、子どもの場合は身体の成長を妨げることもあるのよ」

 「そんな、そんなに沢山……」

 初芝はくちびるを強く噛みしめた。

 「免疫機能が低下するから、ほんの些細な感染症でも命を脅かすことになる。虫歯ができると、治している暇なんかないから歯そのものを抜いてしまうそうよ。こんな副作用を生みだす投薬を、週に二回、一日に十時間以上も続けるの。確実に治るという保証もないのにね」

 「……だから、退院するんですね」

 「そうです」

 健太郎は一度深呼吸してから二人を見つめた。

 「秋月先生によると、このまま抗がん剤の治療を続けたところで完治する可能性は非常に低いそうです。それならいっそ、苦しい治療は止めて、残りの短い人生を家族で一緒に過ごしてはどうかと先生は提案されました。投薬を続けて辛い人生を送るくらいなら、たとえその時間は短くても、病院の外に出て、病気のせいでできなかったことを目いっぱい楽しむ。クオリティ・オブ・ライフ。人生の質を高めることこそが、鼓太郎にとって幸せなことだと、わたしたちは判断したんです」

 「大変なご決断でしたね。無神経に口出ししてしまい、本当に申し訳ありません」

 「いえ、いいんです。気にしないでください」

 頭を下げる初芝の腕を、健太郎は優しく叩いた。

 「あなたのように鼓太郎のことを想ってくれているかたがいるととても嬉しい。本当にありがとうございます」

 健太郎の両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。今江はポケットティッシュを取り出して健太郎に渡した。

 「こちらの病院さんには退院後も通院は続けます。秋月先生はホスピスの利用も勧めてくださいました」

 「ホスピス?」

 「ご存じないですか。この病院の敷地内にある閉鎖中の旧館をがん患者を主な対象にしたホスピスに改修するんですよ」

 初芝はガードマンの菊池きくち老人から聞いた話を思い出した。『治す』のではなく、『癒す』ための施設だ。

 「鼓太郎のような余命短い病人のためにもよくしてくれるそうです。本当にこの病院にはお世話になりっぱなしで、秋月先生には頭が上がりませんよ」

 そう言うと健太郎は両目をパチクリと広げて、スーツ姿の今江と初芝を交互に見やった。

 「あの、失礼ですが、お二人は病院の方ですか」

 「あ、申し遅れました。わたしたちは警察の者です」

 「警察……あぁ、あの下川ってやつが死んだ件ですね」

 健太郎は表情を曇らせて、舌打ちをした。

 「隣のなんとかってセンターで自殺していたんでしょう」

 「自殺かどうかはわかりません。捜査中です」

 「自殺でも他殺でも構いませんよ。あのヤブ医者が死んでくれたおかげで、秋月先生が来てくれたんだから」

 「ヤブ医者……ですか」

 初芝は首をかしげた。

 「お子さんの治療で下川さんは何か不手際を?」

 初芝が訊ねると、健太郎は両手を握りしめて全身を震わせた。

 「実は三か月前にも病院側から治療の中止を提案されたんです」

 「え」

 初芝ののどから驚きの声がこぼれた。今江はその横で両目を細めている。

 「三か月前の時点では、鼓太郎の主治医は寺内っていう先生だったんです。寺内先生は治療の中止を提言されました。だけど、横にいた下川が反対した。自分が絶対に治してみせると豪語して、治療を継続するようわたしたちに勧めてきたんです。わたしたちは鼓太郎を失うなんて現実を認めたくなかった。だから下川の判断に従い、治療の継続を願い出たのです。その後、鼓太郎の主治医は寺内先生から下川に代わりました。無愛想だけれど若いわりによくやっている。そう思っていましたが結果はこれです。抗がん剤治療は上手く行かなかった。あのヤブ医者のせいで、鼓太郎はこの三か月間、意味もなく苦しんだわけです」

 健太郎は立ち上がり、二人に力なく微笑んで見せた。

 「これでよかったんです。鼓太郎はもう苦しまなくていいんだ。これから会社に行って有給の申請を出してきますよ。これで、これでよかったんです」

 健太郎は立ち上がり一礼すると、家族が待つ病室の方へと重い足取りで向かった。


 5

 病院の周辺で聞き込みを行っている地取班から連絡が来た。周辺一帯の聞き込みがほぼほぼ完了したので、一度報告に伺いたいとのことだった。

 今江は地取班に、六階のテラスまで来るよう伝えた。本来なら部外者のいない健診センターで行うべきだが、陰鬱な心持ちの今、あの薄暗い場所には行きたくない。

 テラスに向かうと、そこには都合よく患者や病院職員の姿はなかった。ほどなくして地取班もやって来た。

 彼らの報告から事件解決に発展するようなものはなかった。事件当日、近隣で不審人物は見られていない。

 地取班は山吹医科大学附属病院の評判も併せて聞いていた。評判は上々。山吹で生まれ、山吹で死ぬ。ゆりかごから墓場まで。それが周辺一帯における近隣住民の総意のようだった。

 「それじゃあ、引き続きよろしく」

 聞き込みの範囲を広げるよう指示を出すと、地取班は意気込んでエレベーター横の階段を降りて行った。カツカツと階段を叩く大量の革靴の音が、少しずつ小さくなっていく。

 「パワフルな人たちですね」

 初芝は剃り残したひげを撫でながら言った。

 「地取りの仕事は現場から遠ざかるほど成果が出なくなるものです。皆さんはこれから、いくつもの無駄足を踏むことになるでしょう。それなのにあんなに意気揚々と……」

 「警視庁ではマネできない?」

 「警視庁というより、ぼくにはできませんね。稀代の怠け者なので。あぁ、つまり、そういうことなのかな」

 「何が」

 初芝は頭の後ろをぽりぽりと掻くと、下唇を斜めに突き出してた。

 「警視監がぼくをこの現場に送り込んだ目的です。桂さんは天神署の刑事課を評価されてるんじゃないですかね。だからぼくみたいなハンパ者をこの事件ヤマに送り込んだわけです」

 「あんた、昨日警視庁に帰ったんでしょ。桂さんには会った?」

 「まさか。巡査に過ぎないこのわたくしめが、副総監殿と越権など恐れ多いでございまする」

 芝居がかった物言いに今江は舌打ちを叩きこんだ。初芝はごまかすように空咳を奏でると、ネクタイを正してもう一度空咳。

 「今江さんは桂さんにお会いしたことがあるんですか」

 今江は無言で返事をした。拒絶という名のコミュニケート。

 その時、エレベーターの到着を告げる音と共にドアが開いた。

 ゆっくりとした動きで車いすが出てくる。その上には柔和な笑顔で首を左右に揺らす老人が座っていた。額から頭の頂点に向かって艶のある肌が露出している。耳の上から後頭部を囲う白いくせ毛。チェック柄のパジャマを着た老人を見て、初芝は『あ』と声を漏らした。

 その老人は、数時間前に二階で会った、越前えちぜん乩京けいきょうだった。

 「おや。奇遇ですね」

 乩京老人の車いすを押しながら越前雷京(らいきょう)が現れた。

 「どうもどうも。あれ。どうして車いすに? さきほどは乗っていませんでしたよね」

 初芝が訊ねると、雷京は苦笑しながらテラスの方へと車いすを押した。

 「お昼前は毎日院内を散歩するようにしているのですが、今日はちょっと事情がありまして」

 雷京は人差し指を老人の膝の上に向けた。

 乩京老人は膝の上にノートを開き、小指ほどの長さしかない鉛筆を必死にノートの上に走らせていた。

 「つい先ほど、親父の友人がお見舞いに来てくださったんです。そのご友人からノートを強引に奪い取ってからはずっとこの有り様です」

 「ほうほう。おじいちゃん、一体何を描いているんですか」

 腰を曲げてノートをのぞき込む。とたん、初芝は『ふん?』と首をかしげた。

 「これは……『描く』というより『書く』が正しいのかな」

 それはただのノートではなかった。

 B5サイズのページに、ひと固まりになって横に伸びる五本の直線が縦に十二個並んでいる。乩京老人はその五本の線の上に、鉛筆を走らせていた。

 そのノートは楽譜帳だった。五線譜が印刷され、自由に音符を並べられる楽譜帳。

 乩京老人は最下段の五線譜の右端はじまで音符を書き込むと、ページを開き、新たな五線譜に鉛筆を走らせた。

 「親父はクラシック音楽の指揮者だったんです。引退してからは他人の演奏を聴くばかりだったのに、こんな風に楽譜を書いている姿を見たのは久しぶりですよ」

 雷京は感慨深げに父親を見つめた。

 「ベッドのテーブルでずっと楽譜を書いていまして、今日は散歩はなしかなと思ったら『車いすを持ってこい』なんて言い出しまして。楽譜は書きたい。でも散歩にも行きたい。折衷案として、こうしてぼくが車いすを押しているわけです。全くわがままな老人ですよ」

 突然、乩京老人は顔を上げて両目を強く閉じた。息を深く吸い、大きく口を開き――

 「タムチィヴェー プリヴォーリニィピエーシニャー トゥイトゥダー イーウリタァー」

 老人は高々と歌い始めた。

 澄んだ夜空を思わせる高音カウンターテナー。老人の紫色のくちびるから飛び出す一つひとつの音が、射干玉ぬばたまの夜に光を放つ星々のように室内を駆けた。

 初芝と今江は老人の美声に圧倒されていた。老人は唐突に歌声を止めると、数回うなずいてから再びノートに鉛筆を走らせた。

 「驚きました。お金を取れるレベルだ」

 初芝はジャケットの内側に手を入れる。今江がその腕をピシリとはたいた。

 「子どもの頃は声楽隊に入っていたらしいんです。その後、イギリスに留学して指揮者の道を志したとか」

 「今のはなんという曲ですか」

 今江が訊ねる。雷京は首を振った。

 「わかりません。俺は親父と違って音楽はサッパリなんです。六歳の時までピアノを習わされたのですが、小難しいクラシックが好きになれなくてやめてしまいました」

 「じゃあ雷京さんのご職業は?」

 「売れない役者をやらせていただいております」

 「俳優さんでしたか。なるほど」

 初芝はつま先から頭の頂点まで雷京を舐めるように見つめた。

 「高身長で細長で小顔。無精ひげが好印象なのはイケメンの特権ですよね」

 「お褒めにあずかり光栄です。もともと役者の仕事も大してありませんし、親父が入院している間はほぼ休職状態で病院に通っているわけです。事務所の社長からは、『医療ものの仕事を取ってきてやるさかい、しっかり取材してくるんやで』なんて発破をかけられましたよ」

 再び乩京老人が歌い出した。車いすの後ろで、雷京は苦笑いを浮かべていた。

 今江と初芝は、その苦笑の片隅に父に対する敬愛の感情を感じ取っていた。音楽で通じあうことはできなかった。それでも彼らは別の形で親子の絆を築き上げてきたのだろう。

 「英語じゃありませんよね」

 初芝が訊ねた。

 「何語でしょう。ドイツ語?」

 「わかりません。今朝からしょっちゅう歌っているんです。病院中の人に見られて恥ずかしかったですよ。テラスなら誰もいないと思ったのに、刑事さんたちがいらっしゃるんですから」

 「あらあら。それは失礼しました。そろそろぼくたちは失礼しますので、おじいちゃん、思う存分歌っちゃってくださいな」

 初芝が膝を曲げてそう言うと、乩京老人はその小さな目で初芝を見つめた。

 「おたく、ビーチャム先生には会わなかったかい」

 「わ、また出た。おじいちゃん、それ誰ですか」

 「楽譜のノートをくれた方に聞いたんですけどね」

 雷京が言った。

 「ビーチャムというのは有名なクラシックの音楽家らしいんですよ」

 「そのビーチャムさんが、病院に来たと?」

 今江が訊ねた。雷京は声をあげて笑い出した。

 「まさか。ビーチャムは五十年以上も前に亡くなっているそうです。でも昨日の朝から親父は突然ビーチャムビーチャム言い始めまして。ひょっとしたら、親父はビーチャム先生・・の幽霊に会ったのかもしれませんね」

 老人は鉛筆を空中に突き出し、両手を広げて指揮棒の代わりに振り回し始めた。

 「ビーチャム先生に会ったんだ。あの場所で聞かせてもらったんだ。会いに来てくれたんだ。わたしも聞いてもらいたい。先生に聞いてもらいたいなぁ」


 6

 初芝と今江は事件現場である健診センターへと戻った。先ほどは屋上を調べている最中に、本館の屋上から寺内の怒鳴り声が聞こえたため捜査を中断してしまった。続行希望。初芝がそう申し出たので、今江も大人しく付き合った。

 約三十分ほど屋上を這いまわってから初芝は渋々と白旗をあげた。屋上に変わった痕跡は一つとしてなかった。

 ドアを開け、屋上から室内へと戻る。乏しい照明が弱々しく照らす階段を降りていきながら、初芝はぽつりとつぶやいた。

 「下川仁って、何者だったんでしょうね」

 今江は言葉を返さない。暗闇の中でその瞳は初芝の後頭部を見つめていた。

 「家族にも愛されず、同僚にも、患者からも嫌われていた。彼のことを想って涙を流す人なんて一人もいなかった」

 「鼓太郎くんや乩京おじいちゃんとはま逆ね」

 「だけど殺したくなるほど嫌っていたわけじゃないでしょう。いったいどうして、どうして彼は殺されたんです。彼が消えて、誰が得をするっていうんですか」

 階段を降りて二階に着いた。初芝の視線が廊下の向こうにある遺体発見現場に注がれる。開かれたドアの向こうにある広大な待合室。そこに下川仁の遺体は横たわっていたのだ。

 いまだに事件解決の展望が見いだせない警察に、死者と化した下川仁は何を思っているのだろうか。不甲斐ないと冷淡に笑うのか。税金泥棒と啖呵を切るのか。どちらにしても罵倒の言葉は避けられまい。初芝は白い息を吐き出した。

 遺体発見現場に向かう気にはなれず、階段の手すりを握ったまま一階へと降りて行く。一階の受付カウンターを超えて、正面にある出入り口へと向かう。自動ドアの電源は切られており開放されたままだ。からっ風が室内に勢いよく吹き込み、初芝は両肩を縮めた。

 ドアの外に出て、規制用テープの外側に立つ二人の制服警官に敬礼を向ける。制服警官も初芝に向けて敬礼を返した。

 「あれ。今江さん?」

 振り向くと、そこに今江はいなかった。

 室内に戻る。今江は一階の廊下の中央あたりに立っていた。直線に伸びる廊下は、途中から左手に一本の廊下が伸びている。裏口に通じる廊下だ。この廊下には昨日と変わらず『処分』と書かれた札が貼られた白いスチール製の棚や、大型の医療器具がほこりを被って雑多に置いてあった。

 「どうしたんですか」

 初芝が声をかける。今江は微動だにせず、八メートルほどの廊下の奥にあるドアを見つめていた。

 「大掃除」

 今江はぽつりとつぶやいた。

 「……はい?」

 「大掃除のことを思い出してた」

 「あぁ。もう十二月ですからね。え、何か大掃除でてなきゃいけないものでもありましたか」

 「違う。子どもの頃の大掃除」

 今江は鍵状に曲げた人差し指をくちびるに当てた。

 「大掃除で窓ふきをしたの。洗剤をかけて、タオルで拭く。それだけならいつもの掃除と変わらないんだけど、大掃除では、脚立を持ってきて欄間らんま窓も綺麗にするわけ」

 「欄間窓って、普段出入りするガラス戸の上にある、小さな窓のことですよね。おばあちゃんの家にあったな」

 「脚立を上ったらびっくりしちゃった。欄間窓の鍵がかかっていなかったの。ガラス戸は枠に触れていたけど、クレセント錠はかかっていなかったわけ」

 「驚くのは分かりますけど、特別おかしなことではないでしょう。欄間窓なんて、普段は開けないじゃないですか」

 「その通り。我が家の欄間窓もね、うちの父が脚立を上るのをめんどくさがって、箒の柄でかまちを枠まで押し込んで終わらせていたわけ。しかもそれをやったのはその年のお正月。つまり、約一年間、我が家の欄間窓は未施錠のままだったことになるわね」

 今江は眼前の廊下に向けて、大きく開いた手を差し出した。

 「質問。このセンターの職員は、普段この廊下を通っていたと思う?」

 ごちゃごちゃと処分予定のごみが置かれた廊下。その廊下から出入りする部屋はなく、外へとつながるドアがあるだけだ。

 初芝は息を呑んだ。驚愕で見開いた目を今江に向ける。

 「センターの職員は、奥にあるドアは鍵がかかっていると証言しました。しかし、それは本当にノブを押して確認したのでしょうか」

 初芝がそう言うと、今江は無言でうなずいた。

 「可能性は低そうですね。この廊下はごみが置いてあるだけ。ドアの向こうには建物の裏側で何もない。普段、この廊下を通る人はいないと考えるのが妥当です」

 「普段誰も通らない。誰もあのドアから出入りしない。遥か昔に鍵はかけた。()()()()()()()()()()()()()()。そんな風に思い込んだ」

 今江は素早くスマートフォンを取りだし、事務課の五反田を経て、健診センターの職員に連絡をとった。

 二人が予想した通りだった。普段は誰もこの廊下を通らない。奥にあるドアから外には出ない。だから、鍵は当然かかったままのはずだ。電話口で職員はそう言った。

 初芝は廊下を進み、ドアのノブに触れた。

 丸いノブに楕円形のつまみがついている。ロックがかかっている今、つまみは横に倒れていた。初芝はつまみを縦にして解錠した。廊下の先、ドアから約八メートル離れた位置にいる今江にうなずく。廊下はうす暗い。

 「わたしの視力は一・三」

 今江は腕を組みながら言った。

 「目はいい方だと自負しているけど、とてもそのツマミは見えないわ。それから、これ」

 今江の指がビニールシートに包まれた緑色の台秤体重計をさす。ほこりまみれのシートの上で、目盛板の上の部分に、手のひらほどの広さでほこりが拭われていた。

 「思わず手をついて、ほこりが落ちた。そんな感じね。ここ数日、何者かがそのドアの前に来たことは確実よ」

 「おどろいたな」

 初芝はドアを開けて、室外の白い光を部屋の中へと誘い込んだ。

 「事件当日、このドアは開いていた可能性がある。犯人が事前に開けておいた可能性は、捨て切れない。やりましたね、侵入ルートを見つけたじゃないですか」

 初芝は跳びはねながら今江のもとに戻ってきた。しかし、初芝の歓声とは対照的に、今江は渋面を浮かべたままだった。

 「今江さん?」

 今江は廊下を進み、ドアを開けて健診センターの北側に出るとため息をついた。

 「たしかにあのドアは開いていたかもしれない。だけど、あのドアまではどうやってたどり着くの」

 今江はそっと頭上を指差した。健診センターの北東部の外壁に設置された二台のカメラ。

 「そうか。そうでしたね。健診センターの周囲には、三台のカメラが設置されていて、このカメラに映ることなく、健診センターの北側に入ることはできないんだ」

 渡り廊下の下にあるカメラは、健診センターの正面入り口とその右にある職員用の入り口、更に健診センターと旧館の間にある通路を監視している。

 健診センターの北東部の外壁には二台のカメラが並んで設置してある。一台は本館裏手にある元駐車場の広い敷地と、駐輪場の北側を監視している。もう一台は南東に向いて駐輪場の入り口と健診センター前の通路を監視している。

 「仮に健診センターの裏のドアが開いていたとしても、そこまでたどり着くには監視カメラに映らざるを得ない。だけど、カメラにはガードマン以外に誰も映っていなかった」

 今江は渡り廊下の陰に入り、頭上に浮かぶカメラをジッと見つめた。初芝は首をひねりながらうんうんと唸り、本館の北西部にあるトタン屋根の駐輪場の中に入った。

 「中はほとんど空っぽですねぇ」

 初芝は駐輪場の通路側を囲う鉄製の柵に手を置いた。

 「ママチャリが数台。マウンテンバイクが一台だけですよ」

 「ここは山の上だからね。病人が自転車をこぐとは思えないし、病院職員か、付き添いかお見舞いの人の自転車じゃないの」

 「うーん。あ、そうか。わかりましたよ」

 初芝は柵を飛び越えて今江に駆け寄った。渡り廊下の陰の下で、初芝の目がてらてらと輝く。

 「簡単な話です。実に初歩的なトリックですよ。やはり犯人はこの道を通ったのです」

 「だからカメラには誰も映ってなかったでしょ」

 今江が両目を細める。しかし初芝は不敵に笑うばかりだ。

 「そう。カメラには映っていなかった。ではそもそも、カメラに映っていたのは本当にこの通路だったのでしょうか」

 「ちょっと何言っているのかわからない」

 「ですから、ですからね。こういうことですよ」

 初芝は健診センター北東部にあるカメラの元に駆け寄り、ぴょんぴょんと跳びはねながら、カメラのレンズを指差した。

 「写真です。犯人は、カメラの前に写真を吊るしたんですよ」

 今江は無言のまま初芝を見つめている。両腕を深く組み、その目は灰色。

 「犯人は事前に、こう、脚立でも使ったんですかね。監視カメラの高さから、自分のカメラで監視カメラが見ている映像とほぼ同じ写真を撮ります。そしてそれを現像し、カメラの前に写真を糸でぶら下げておくわけです。するとあら不思議。カメラに映るのは、普段と変わらぬ風景。しかし現実では、殺意を胸に秘めた犯人が意気揚々とカメラの前を通っていくわけです」

 「まず、そんな写真を撮ったとして、脚立を抱えてカメラの足元まで来るその姿が、監視カメラに撮られちゃうでしょ」

 「ですから、写真撮影自体は遥か昔におこなわれたのです。警察がカメラのデータを確認するはずもないほどの昔。一年前とかじゃないですかね。カメラには駐輪場の内側も映っていますけど、ここは立地的な理由で自転車の数が少ない。写真を撮った日と、犯行があった日もほとんど同じ自転車の数だったと仮定してもよいでしょう。さらに、駐輪場以外に特別、その日によって変わるものをカメラが映している様子はありません。ささ、今一度確認に行きましょう。真相はもうすぐそこ!」

 「その写真はいつセットしたの」

 「……はい?」

 初芝はこくりと首をかしげた。

 「だからさ、犯人はいつその写真をカメラの前にセットしたの」

 「そりゃもちろん。昼間と夜じゃ明るさが異なりますからね。犯行時刻が夜である以上、写真に映る景色も夜。ならば、写真をセットした時間も夜と考えるのが当然でしょう」

 「つまり、日が暮れてからなら何時でもいいわけね。今の季節だと日没は五時半ごろだからそれ以降かしら」

 「オフコースですね」

 「あのさ、それじゃあわたしたちは、その写真を取り付ける犯人の姿まで見落としているわけ」

 初芝は笑顔のまま凍り付いた。

 「あんたの説によると、写真をセットしたのは事件当日の五時半以降なのよね。でも、わたしたち警察は、監視カメラのデータを岡さんとミキちゃんからもらって、データは今も天神うちの署で捜査員たちが確認している。事件当日の健診センター前のカメラのデータは既に確認は終わっている。で、もう一度訊くわよ。わたしたち警察は、事件当日、脚立を持ってカメラの方へ向かう怪しい人物を見落としていたってわけ? 天神署の捜査員は、そんな怪人物を見落とすほど無能だとあんたは言いたいの」

 「い、いえいえいえいえ。滅相もない! 撤回! 前言撤回します! 全部忘れてください。あぁあぁ。そりゃそうだ。言われてみればそりゃそうだ」

 大きく両腕を振りながら初芝は今江の元に近づいた。

 「誤解です。訂正します。訂正というか消去です。議事録から消してください。つまりぼくは――おっと」

 渡り廊下の陰に入る手前で、初芝はポケットからスマートフォンを取りだした。

 「ありゃ。誰だこの番号」

 スマートフォンの画面には未登録の番号が表示されていた。

 「もしもし、初芝です」

 「わ! 広大さんだぁ。本当に広大さんが出てくれたぁ!」

 今江の元まで聞こえるカンカン声が初芝の鼓膜を貫いた。

 電話の相手は茶髪団子の看護師、宇治家ちえだ。

 「広大さん、今健診センターの前にいらっしゃいますよねぇ」

 「え、あ、はい」

 「そうしたら、本館のデータセンターまで来ていただけますかぁ」

 「はぁ。わかりました。え、あの。もしかして!」

 反射的に初芝は背筋を伸ばし、両目を見開いて今江に視線を送った。

 「そうですよぉ。星野先生が参加されていた『会議』について、調べおえましたぁ」


 7

 初芝がデータセンターの中に入ると、室内を二つに区切るパーテーションの間から宇治家が飛び出して来た。

 「わぁ、お待ちしておりま……えぇぇ!」

 嬉々とした表情から一転。宇治家は初芝の後ろに立つ今江を指さしてかん高い声をあげた。

 「なに。わたしがいちゃ悪いの」

 とつぶやく初芝を肩で押しのけ、今江は前に出る。

 「そ、そういうわけじゃないですけどぉ。あうぅ。とにかく、中へどうぞぉ」

 しょぼくれた背中で宇治家はパーテーションの中に戻っていく。

 初芝はあごの先をかきながら首をかしげた。

 「喜んだり落ち込んだりと、忙しい人ですねぇ」

 「わたしはお呼びじゃなかったみたいね」

 「まさか。今江さんがいないと捜査が進みませんよ。さ、行きましょう」

 パーテーションの内側の休憩所では、十人ほどの女性たちが二つのテーブルに分かれて談笑を楽しんでいた。私服姿のものもいれば、ナースウェアや白衣姿のひともいる。

 その中にアロハシャツ姿の水谷みずたに美紀菜みきなが混じり、白い歯を見せながら今江と初芝に手を振ってきた。

 宇治家は棚から桃色のティーカップを取り出し、ポットの中から琥珀色の液体を注いだ。先に置いてあった青いティーカップといっしょにお盆に乗せ、部屋の奥にあるテーブルへと向かう。

 宇治家がティーカップを置いたテーブルには先客がいた。白衣を着た三十代くらいの男だ。細い体躯をした馬面のその男は、さかんに左腕をさすりながら今江と初芝の方に視線を送っていた。

 「どうぞこちらへ」

 宇治家は馬面の男がいるテーブルに座るよう促した。今江と初芝は木製の椅子に腰を降ろし、自己紹介をした。刑事と聞いて男は『はぁ』と曖昧な返事を漏らした。

 「こちら、内科医局のきしセンセでぇす。お役に立っていただこうと思いましてぇ、つれてきましたぁ」

 宇治家の雑な紹介のあとに、岸はかすかに頭を揺らした。

 「あの、岸です。えっと、無理やりこの場に連れてこられて、まだ何をするのか伺っていないのですが」

 ぼそぼそと聞き取りずらい声で岸は言った。何をするのかは決まっているのだが、この男が何をしてくれるのかは今江にも初芝にも分からない。

 二人は同時に宇治家に視線を送ったが、宇治家はその視線に気づかず、クリアファイルから一枚の紙を取り出してテーブルの上に置いた。

 「これが先月星野先生が参加した会議でぇす」

 「星野先生の?」

 岸が声を上げる。今江と初芝は岸を無視し、頭を並べて紙をのぞきこんだ。


 十一月二日 十九時〇〇分 第十八回 医療機器整備委員会 定例会

 十一月三日 十九時〇〇分 第二十七回 治験委員会 定例会 

 十一月六日 二十時〇〇分 第四回 クリスマス会準備委員会 緊急会議

 十一月七日 十三時三〇分 第三十一回 地域医療連携委員会 定例会 

 十一月十二日 十九時〇〇分 第十八回 薬事審議委員会  定例会

 十一月十二日 十九時〇〇分 第五回 クリスマス会準備委員会 定例会 

 十一月十四日 十三時三〇分 第三十二回 地域医療連携委員会 定例会

 十一月十六日 十五時三十分 第九回 診療情報管理委員会 定例会

 十一月十六日 十八時三〇分 第十三回 院内感染防止委員会 定例会

 十一月十九日 十三時三〇分 第六回 クリスマス会準備委員会 定例会

 十一月二十一日 十三時三〇分 第三十二回 地域医療連携委員会 定例会

 十一月二十一日 十八時〇〇分 第八回 医局会会議 定例会

 十一月二十四日 十九時〇〇分 第二十八回 治験委員会 定例会

 十一月二十六日 十三時三〇分 第七回 クリスマス会準備委員会 定例会

 十一月二十八日 十三時三〇分 第三十三回 地域医療連携委員会 定例会

 十一月三十日 十八時三〇分 第十四回 院内感染防止委員会  定例会


 「これで全部なのね」

 紙面に顔を落としたまま今江が訊ねた。

 「院内で一般的に『会議』と呼ばれているものはこれで全部ですねぇ。あと医局の先生たちは、患者さんの医療方針を決める会合なんかもしょっちゅうやっていますが、こちらは普通『カンファレンス』と呼ばれまぁす。ね、岸センセ」

 「ん。まぁ、そうだね」

 岸は親指でのど仏を撫でながら言った。

 「『会議』と言ったら、ここにあるような各委員会が主催する会議を主に指すね。理事会や医局長会の会合なんかも『会議』と呼ばれるけど、研修医の星野がそんなお偉いさんの会議に参加するわけがないな」

 「どうでしょう。下川さんがどの会議について訊ねたのか見当がつきますか」

 「下川って、あの殺された? どういうことです。刑事さんたちは星野を疑っているんですか」

 後方の席で小さな悲鳴があがった。女子職員たちが聞き耳を立てていたらしい。今江が目を細めて振り返ると、女子職員たちは露骨に目を逸らした。

 今江はその女子職員たちの後ろに手術室の剣淵氷織がいることに気づいた。

 スクラブウェア姿の剣淵は紙カップを片手に持ったまま、雑誌に視線を下ろしている。

 「そういうわけではありません」

 初芝が首と両手を同時にふる。

 「下川さんは殺される三週間前、星野さんに彼女が十一月中に参加した会議について訊ねていたようなのです」

 「へぇ、そんなことが。でも、それが事件に何か関係があるんですか」

 「わかりません。ですが、星野さんと下川さんは休日にファミレスで食事をするような仲ではなかったと聞いています。わざわざ休日に呼び出したわけです。世間話で訊ねたとは思えません。何らかの形で『会議』と『殺人事件』には繋がりがあるのではないか。それを証明するために宇治家さんに調べていただいたわけです」

 初芝は視線を岸から宇治家に移して頭を下げた。宇治家は破顔一笑で身体をくねらせた。

 「ふーん、なるほど。星野は今日体調不良で休みですものね。本人に聞くわけにはいかないか」

 岸は星野が欠勤した理由を知らないらしい。雲仙うんぜん教授と水科みずしな教授が画策した本当の理由を。

 「『会議』のこと、岸センセはわからないですかぁ?」

 宇治家は岸の白衣の裾を引っぱりながら言った。岸は紙面に顔を降ろし、唸り声をあげながら眼球を動かす。

 「外科医の先生が興味を持つ会議となると、まずは災害医療対応委員会かなぁ。阪神・淡路大震災や東日本大震災レベルの災害が起きた場合、病院に運ばれてくるのは外傷を負った患者さんが多くなります。こうなると矢面に立って活躍するのは普段からメスをふるい血を見慣れている外科系の先生たちってわけ」

 「『病院の未来に関わる』会議と下川さんは口にしたそうです」

 今江が言うと、岸は顔を上げて疑問符を浮かべた。

 「病院の未来に? そりゃ、どれも大事な会議ですけどね」

 「クリスマス準備委員会も?」

 初芝が横やりを入れると、岸は顔をしかめた。

 「もちろんです。クリスマス会は、普段病院の外に出られない患者さん達に季節を感じてもらうとっても重要なイベントなんですよ。ハンドベルの演奏会に手品ショー。サンタクロース主催のビンゴ大会で盛り上がったあとには、みんなでケーキを食べるんです。毎年患者さんたちからは好評で、ぼくたち職員はクリスマス会が無こと開催されなければ安心して年を越すことができません。わかりますか」

 岸の剣幕に圧倒された初芝は『わかります』とつぶやいて、身体を縮めた。

 「岸先生。続きを」

 今江が促す。岸は咳ばらいをした。

 「そう。どれも大事な会議です。大事な会議ですが、『病院の未来に関わる』なんて尊大な枕詞をつけるに値するかと問われると……悩ましいところですね。会議なんてお偉いさんが決めた結論ありきで始まって、その結論について『吟味した』なる箔を付けるためだけに開かれるものです。山吹うちは旧態依然とした保守的な病院ですからね。大胆な改革なんてあり得ませんよ」

 「殺人事件につながるような話はないと」

 「そういうことです」

 岸は鷹揚にうなずき、白衣の襟を伸ばした。

 「下川さんが星野さん以外の会議出席者に話を聞いた可能性はあると思いますか」

 あごの下をかきながら初芝が言った。

 「ないんじゃないですかぁ」

 岸ではなく宇治家が声を弾ませた。

 「星野センセは口がお堅いけど、ほとんどの人はそんなことがあったら『下川センセにこんなことを聞かれちゃった』て口を滑らすと思いますもん」

 「下川先生が口止めを依頼したのかも」

 「守らないですよぉ。当の下川センセは死んじゃったんですもん。それに、いま院内ではみんな下川センセの噂話をしていまぁす。もし下川センセから『会議』について訊ねられた人がいたら、『前にこんなことがあったんだけど……』て必ずしゃべっちゃいますよぅ」

 「そうね。後ろめたい話ならともかく、変哲もない『会議』について聞かれただけなら、こんなことを聞かれたと世間話を提供するのが普通よね」

 「だと思いますよ」

 岸は再び紙を見つめた。

 「ちなみにぼくは『医療機器整備委員会』『クリスマス会準備委員会』『診療情報管理委員会』に所属しています。あと、二一日の『医局会会議』にも参加しています。十一月の委員会の会議には全て出席しましたけど、『病院の未来に関わる話』なんてものはありませんでした」

 「同じ内科の先生でも同じ委員会に所属されているわけではないのですね」

 「そこらへんは恣意的なんですよ」

 岸は首の後ろを平手で叩いた。

 「若手の医師はいろんな委員会に参加するよう上から強制されます。というのも医局は、その委員会に『うちのスタッフが名前を連ねている』という実績が欲しいわけです。そのため同じ内科でも所属する委員会は散らばる傾向にあります。無駄に就業時間ばかりが増えて本当にうんざりしますよ。こんなんで医師の働き方改革なんてできるわけないっての」

 「念のため確認します。岸先生の所に下川さんは来ませんでしたか」

 「来ておりません」

 初芝はのどの奥で唸り声をあげ、手帳のページに黒丸を塗りつぶした。

 「何でしたら、他の会議に参加した職員にわたしから訊ねてみましょうか」

 「よろしいのですか」

 岸の提案に初芝は目を輝かせた。

 「構いませんよ。明日の朝まで当直ですから、今夜中に確認しておきましょう。明日の朝、五階東のナースステーションに来てください。もっとも、先ほど申しました通り、この中に『病院の未来』に関する会議があるとは思えません。期待はしないでくださいよ」

 「ありがとうございます。ただ先生、少し事情がありまして、その確認はできるだけ早く行っていただきたいのですが」

 今江は眉を潜めながら言った。

 「明日の朝では遅いと?」

 「えぇ」

 「いや、ぼくも決して暇では……」

 「事件解決のためなんです。ご協力お願いします」

 「そ、そうですね。まぁ、夜の九時頃になれば全員に確認できるかと」

 「夜九時ですね。わかりました。その時間にナースステーションをお訪ねします」

 淡々と口にする今江の横で、初芝が目を丸くして今江を見つめている。

 「あの、今江さん。今江さんって今日も定時で」

 「帰るに決まっているでしょ」

 「じゃあ、その。夜の九時に岸先生をお訪ねするのって」

 「あんた以外に誰がいるの」

 初芝はのどをごくりと鳴らした。

 「あんたは今日、この病院に一泊するの」

 今江は委員会のデータを手帳に書き写しながら言った。

 「……初耳です」

 「さっき思いついたから。考えてみたら事件が発生したのは夜なのに、わたしたちはこの病院の『夜』をまだ知らないのよね。だからあんた、実際に事件があった『夜』がどんなものだったのかを今夜調べてきなさい」

 「刑事さんがいるなら、わたしも当直しよっかなぁ」

 宇治家は身体を蛇のようにくねらせた。上目づかいで見つめる宇治家に初芝は苦笑いを返す。

 「刑事さんも当直ですかぁ。ははは。医師といっしょで警察の働き方改革も先は遠いようですね……おっと」

 岸の胸ポケットでPHSが揺れた。

 「すみません。もう行かないと。それでは、刑事さん。また夜に」

 「わたしもそろそろ戻らないと怒られるかなぁ。ね、広大さん。わたし、六時ごろまでナースステーションにいるから暇だったら遊びに来てくださいねぇ」

 岸と宇治家はデータセンターをあとにした。

 今江はティーカップを手にとり、冷えた紅茶を一口で飲み干した。


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