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第七章

 1

 「早いわね」

 コーヒーカップ片手に現れた今江いまえは、白い息を吐きながら言った。

 「遅れるわけにはいきませんから」

 本館の影から一歩進み出て、初芝は疲労が広がる表情を朝陽の下にさらした。

 「わたしに怒られるから?」

 「部下ですので」

 「警視庁の部下をもった記憶はないわ」

 「少なくとも、今はそうでしょう」

 「昨日はありがと」

 脈絡のない発言に初芝は小さく口を開けた。数秒の間隔をおいて感謝の言葉がどこに向けられていたのかに気づく。

 「いえ。そんな大したことでは」

 初芝は昨夜、天神署内で行われた捜査会議に参加した。その際初芝は、今江の指示でICレコーダーを机の上に置いていた。会議の一部始終を録音したレコーダー内のデータは、会議直後、メールに添付して今江のアドレスに送られた。

 今江は夜間の捜査会議に参加しない。それは天神署における不文律だった。参加しない代わりに、会議のデータを欲しがる。そして翌朝までにはその会議についての情報を全て頭に入れてくるのだ。

 「昨日、何やってたんですか」

 健診センターに身体の向きを変えながら初芝は訊ねた。背中に舌打ちが飛びかかる。

 「プライベートを話す義務はないでしょ」

 「捜査会議に参加しない刑事なんて聞いたことありません」

 「どうして参加しなくちゃいけないの」

 「え」

 大前提を問われて初芝の思考が渦を巻いた。

 「捜査の情報を共有するためには……」

 「したわ」

 スマートフォンを取りだして軽くふる。液晶画面に初芝が送ったメールが表示されている。

 「始まりから終わりまで全部聞いた。飛ばしたりしてないから」

 だいたいね――と今江は続ける。

 「捜査会議なんて参加したところで下っ端のわたしが発言することなんてないじゃない。捜査員たちが会議前に課長に報告して、その報告をもとに課長が捜査の指針を決める。わたしたちはそれに唯々諾々(いいだくだく)と従うだけ。それなら別に会議室に集まる必要なんてないでしょ。耳で聞いて、指示に従う。なんて効率的なんでしょう。お茶だって無料じゃないんだから」

 初芝は思わず自分のカバンのふくらみにふれた。そこには昨日の会議の際に受けとったペットボトルの緑茶が入っていた。

 制服警官たちと挨拶を交わしながら健診センターに入る。建物の中にまで真冬の冷気は浸透している。乾燥した空気を吸い込みながら二人は階段を上がった。

 「落合おちあい院長はなかなかの権力者ね。所轄に過ぎないとはいえ、警察に圧力をかけてくるとは思わなかったわ」

 かすかに毒気を含んだ口調で今江が言った。

 昨日、落合院長は土曜日までに犯人の目星がつかなければ、事件の捜査を『下川しもかわひとしの自殺』という形で幕を閉じるよう圧力をかけると明言した。

 戯言と鼻で笑い飛ばすことのできない自信が院長からは感じられた。事実、初芝が天神署の田所たどころ課長にその旨を伝えると、既に上層部から自殺説も検討するよう肩を叩かれたとのことだった。根回しは少しずつ進んでいるようだ。土曜日になれば、肩に置かれた手の重みは増すことになるだろう。

 何が厄介かといえば、下川仁を殺した犯人の検討がつかず、犯人が現場を訪れた様子がないという点から、自殺説が著しい説得力を有しているということだ。

 凶器のナイフに指紋がついていなかったのは、自分が誰かに殺されたと思わせるためだ。死体発見時下川は半袖のスクラブウェアを着ていた。シャツをめくり、その上からナイフを握り、自身の胸に突き刺す。決して不可能ではない。

 「残された時間は今日と明日。犯人は見つかると思いますか」

 「さぁね」

 自信も絶望も感じさせない、淡とした口調で今江は応えた。

 「とりあえず今日は『会議』について調べましょう。星野先生がだめなら他の医者に訊くまでよ」

 「それと、被害者のご遺族が石川県から来られます。何か事件に関することが聞ければよいのですが」

 二階の廊下を抜け、遺体が見つかった待合室に入る。遺体は既に運ばれてはいたが、褐色に酸化した血痕は未だ床の上に残っていた。

 二人は両手を合わせ、小さく頭を下げた。



 2

 他の刑事たちと今日一日の捜査方針を確認し終えたあと、初芝と今江は渡り廊下を通って本館へと向かった。

 「あ、すみません。ペットボトルを捨ててきます」

 左手にある自販機コーナーを指差しながら初芝が言った。右手には空のペットボトルがある。

 「急いでよ」

 初芝は小走りで自販機コーナーへと消えた。

 今江は何をするでもなく診察エリアに並ぶソファーに腰を降ろす。間もなく九時を迎える院内には、既に外来患者が何人も訪れて診察を待っていた。なるほど、地域医療の中心地という肩書は伊達ではないようだ。

 「………」

 何人かの看護師が今江の姿を見てぺこりと頭を下げていく。挨拶もそこそこに速足で遠ざかる者もいた。嫌われるようなことをした記憶はないが、好かれることをした記憶もない。警察官と喜んで接触したいというげ者もおるまい。いわば、これがニュートラル。

 「………」

 隣に座る着ぶくれした老婆が今江に声をかけてきた。膝の関節症に悩むこの老婆は、健診センターで起きた事件について話したくて仕方がないらしい。『犯人は昨年できちゃった結婚で退職した看護師』だとか『被害者は院内の薬品を横領してインターネットで売りさばいていた』などと今江が聞いたことのない情報を教えてくれた。真偽のほどは審議するまでもない。

 「………」

 天井のスピーカーに名前を呼ばれ、着ぶくれした老婆は診察室へと向かった。時刻は九時を回り診察が始まったようだ。時間の経過と共に周囲の人の数は増えていく。四方山よもやま話に夢中の主婦たち。泣きじゃくる子ども。足早に駆けていくストレッチャー。寝癖のついた無精ひげの医者。リズミカルに松葉杖を突いて歩く鼻ピアスの若者。

 「………」

 今江は立ち上がり、速足で自販機コーナーに向かった。横に並んだ三台の自販機の奥に三つの丸テーブルと白い椅子が並んでいる。

 その内の一つのテーブルに、初芝は缶コーヒーを片手に落ちついていた。

 「あ、今江さん。聞いてくださいよ、このおじいさんが面白いこと……」

 無言のまま初芝の頭を掴みテーブルに押し付ける。悲鳴をあげる初芝を尻目に、今江は初芝とテーブルを共にする老人を見やった。

 ひたいから頭の頂点までは綺麗に禿げ上がり、耳の上から後頭部にかけてを白いくせ毛が囲んでいる。あご先にはぽつぽつと生えかけの髭が伸びており、小さなくちびるがもごもごと動いていた。

 「そこで先生に会ったんだ」

 甲高い声で老人は言った。

 両目は小さく、肌の色は青白い。チェック柄のパジャマの袖から枯れ枝にょうな腕が伸びている。 

 老人の手首には入院患者を示す白いバンドが巻かれており、その先の人差し指が空中に線を描いて揺れていた。

 「先生に会ったんだ。本当に立派な人でね」

 「どなたなの」

 今江は訊ねた。

 「誰でしょう。自販機の前に来たら声をかけられまして。ご相伴に預かったわけです」

 けろりとした態度で初芝は答えた。テーブルの上には缶コーヒーが二本と、生八つ橋の包みが三つ置いてある。

 「まさかまた会えるとは思わなんだ。死んだはずなのにねぇ。先生」

 老人の瞳からポツリと涙がこぼれ落ちた。老人はそのままテーブルに顔を伏せ、おいおいと泣き始めた。

 「あ、あ。おじいちゃん泣いちゃった。今江さんが脅かすから」

 初芝は老人の横にしゃがみ込み、背中をさすりながら必死に宥めた。

 「大丈夫ですよ。ほらほら、泣かない泣かない。生八つ橋もういっこ食べる?」

 「この人ひょっとして」

 今江は口もとに手を置いた。

 「痴呆症? 看護師さんを……」

 「親父。こんなところにいたのか」

 背後から男の声が聞こえた。

 振り向くとそこに、老人と似た顔つきの端正な若者が立っていた。

 ライトブラウンのジャケットからハンカチを取り出し、荒い呼吸を繰り返しながら汗をふく。若者は今江と初芝に向かって丁寧に頭を下げた。

 「すみません。父が何か迷惑を?」

 「いえ。迷惑だなんて」

 「うちの親父、昔から徘徊癖がありまして。ボケちゃってからも健在でしょっちゅう病室から消えちゃうんですよ」

 若者は初芝に代わり老人の背中をさすり始めた。

 「あぁ。雷京らいきょうか」

 老人は息子の顔を見ながら言った。

 「ダメだろ、親父。ちゃんと病室で大人しくしててくれよ」

 雷京と呼ばれた若者は老人の耳元に顔を近づけて大声で言った。老人は耳が遠くなっているのか、平然とした表情でうんうんと頷いた。

 「すまんなぁ。ここで先生に会ったんだ。また会えると思ってな、来たんだよ」

 「きし先生なら朝の回診で会っただろ」

 老人は生八つ橋に手を伸ばし、震える手で包みを開けた。

 「あ、ひとのものを勝手に」

 「いいんですよ。お父さんに勧めたのはぼくですから」

 柔らかい声色で初芝が言った。

 「すみません。わたし、越前えちぜんと申します。こちらは父の越前乩京(けいきょう)です」

 「わぁ。おじいちゃんカッコいい名前ですねぇ。漢字どうやって書くんですか」

 初芝は乩京の皺だらけの手を揉みながら言った。老人は生八つ橋をほうばりながらうまいうまいと繰り返す。

 「『占う』の横にひらがなの『し』みたいなものを書く『乩』と、京都の『京』で乩京です」

 「あなたの名前はなんて書くんですか、『らいきょう』さん」

 初芝が訊ねると、男は頭の後ろをかきながら笑い声をあげた。

 「稲光いなびかりの『雷』に親父から一文字もらって雷京。名前負けしてますよね」

 今江にはそうは思えなかった。成人男子の平均をはるかに上回る身長の雷京はスマートな顔立ちをしている。その整った顔立ちが、口元の無精ひげを逆説的に清潔感が漂うものに演出していた。年齢は三十代前半といったところだろうか。

 「親父は先週から肺炎をこじらせて入院しているんですよ。大人しくしていればすぐに退院できるっていうのに、このざまだ」

 憎まれ口を叩きながらも、雷京の瞳には父親を想う感情が溢れていた。

 雷京が父親の口元についたあんこを指でとる。その時乩京はぐるりと首を回してつぶやいた。

 「ビーチャム先生はまだかな」

 雷京は目を点にして『誰だって?』と訊ね返した。

 「ビーチャム先生だよ」

 光悦とした表情で老人は繰り返す。

 「ピーちゃん? そんな変な名前の先生、この病院にいるんですか」

 初芝が訊ねる。雷京は首を振った。

 「親父の主治医は内科の岸先生です。他の先生の診察なんて受けたことがいないのに」

 「ここで先生に会ったんだ。何年も前に亡くなったのにねぇ。ここに来たら先生に会える。なぁおい、ビーチャム先生はまだかなぁ」



 3

 越前親子と別れて、今江と初芝はエレベーターで五階へと向かった。五階東のナースステーションに星野あやめ女史を訪ねる。

 「星野は本日お休みをいただいておりまぁす」

 茶髪を団子型にまとめた看護師が応えた。予定調和の返答だ。それなら別の医師を呼んでくれと頼み込む。今江の言葉に看護師は『喜んでぇ』と文字通り嬉々とした笑顔を向けた。ただしその笑顔は今江の肩を通り越して後ろに立つ初芝に向けられていた。

 茶髪団子の看護師は見事に依頼をこなしてくれた。見事に。そう。期待以上の結果を残した。

 「やぁどうも、お待たせしました」

 ずんぐりとした矮躯。脂ぎった顔。白衣の袖からつきでた太く短い指がぴょこぴょこと動いている。

 茶髪団子の看護師が連れてきたのは、雲仙教授が談話室に襲来した際、ドアの外でその様子を見守っていた男だ。名前は――

 「自己紹介はまだでしたね。内科医局長の水科みずしなと申します」

 「医局長自らおこしとは恐縮ですね」

 今江は自己紹介をしなかった。無駄だから。

 「医局の者をお訪ねと聞きました。たまたま手が空いているのがわたしだけだったものでして」

 水科はのどの奥でクツクツと笑った。

 「星野先生について――」

 「星野は休みです」

 「えぇ、でしたら星野先生のご自宅の住所を教えていただけませんか」

 「家まで行くつもりですか。それはご遠慮願いたい。彼女はいま、カゼをひいて寝込んでるんだ」

 「はぁ?」

 初芝が大きく口を開けた。

 「カゼって、昨日はあんなに元気だったじゃないですか」

 「昨夜は特別冷えましたからねぇ。治らなければ明日も休むと連絡を受けています」

 「そんな。あんたら、ぼくたちを星野先生に近づけたくないからって」

 鼻息を荒くした初芝が水科に喰ってかかった。今江の手のひらが初芝の身体を抑える。

 「心外ですねぇ。とにかく、星野に近づくのはご遠慮ください。なに、伊達にわたしも医局長を務めているわけではありません。星野にお尋ねしたいことについては可能な限り代わって答えさせていただきますよ」

 初芝とは違い、今江の心境は至極落ち着いていた。

 「星野先生は何か特別な『会議』に出席されていましたか」

 今江が訊ねる。水科は上唇をあげて黄ばんだ前歯を剥き出した。

 「特別? 彼女はたかだか研修医ですよ。『特別』な会議に参加なんてさせるはずがないでしょう」

 「やはり星野先生に伺うしかありませんね」

 「お聞きしたいのですが、その『会議』とやらが今回の事件に関係があるのですか。それはいったい、どのような関係ですか」

 二人の刑事は言い淀んだ。

 「確たる根拠もなく病人を叩き起こそうというわけですか。警察権力の乱用ですね。もう一度言います。理由もなく星野に近づくのはご遠慮いただきたい。万が一そんなことが起きたら。従業員想いの落合院長が黙っていませんよ」

 落合院長は警察上層部に事件の早期収束を働きかけるほどの力を持っている。水科の脅しをハッタリと笑う気にはなれなかった。

 「他に御用は? ないようですね。ではこれで失礼します。また何かありましたら、どうぞ遠慮なく」

 両肩をゆすりながら水科は去っていった。

 「むかつくオヤジですねぇ」

 初芝は廊下の壁にごつりと肘をぶつけた。

 「内科医局長も雲仙教授と同じく落合院長の傀儡ってわけですか。となると、他の医局も……」

 「そうかもしれない。だけど、末端職員まで傀儡の糸が届いているのかどうかは分からないわ。どこかのヒラ職員を捕まえてみるのはどう」

 「そのヒラ職員が『会議』について調べられるかもんですかね。少なくとも捜査一課のぼくは、交通安全課の誰それがどの会議に参加したなんて答えられませんよ」

 「お困りですかぁ?」

 ナースステーションのカウンターから、先ほど応対してくれた茶髪団子の看護師が声をかけてきた。

 看護師は口角を上げながら二人に近づく。二重瞼がとろりと落ちており、病院に似つかわしくない妖艶な雰囲気をかもしだしていた。

 美形と称されて間違いない外見。ただし、この手の美貌の裏には何かしら『陰』なるものが潜むことを、今江の経験は知っていた。

 「わたしぃ、あの人キライ。いやな奴ですよねぇ、水科センセって」

 茶髪団子の看護師は破顔を崩さずカウンターから出てきた。

 「ねぇ刑事さん。なにかお手伝いできることありませんかぁ。調べものならまかせて。わたしぃ、こう見えて顔が広いんですよぉ」

 ほほに手を当てて首を傾げる。後ろを通る男性職員が、でれりとした表情で茶髪団子の背中を見つめていた。

 「あなた、星野先生について……」

 「おばさんには何も言ってませぇん」

 茶髪団子は上体をほんの少し屈めて、今江の横を一歩前に進み出た。

 「わたしはぁ、お兄さんに言ってるんですよぉ」

 上目遣いで初芝を見つめる。しきりにまばたきを繰り返し、白衣の後ろに組んだ両手はイソギンチャクの触手のように組んずほぐれずを繰り返していた。

 「お兄さん、お名前は?」

 「えーと。初芝です」

 「下のお名前はぁ?」

 「広大こうだいです」

 「広大! わー! わたしの初恋の人と同じ名前だぁ。すごい偶然ですねぇ」

 茶髪団子は初芝の腕をとり、上半身を寄せ付けた。初芝はと言えば、ぽかんと呆けた表情で茶髪団子と今江の顔を代わる代わる見つめている。

 「わたしぃ、宇治家うじいえちえですぅ。ちえって呼んでくださぁい」

 「あ、どうぞよろしく」

 初芝は今江を見て『どうします』と瞳で訊ねた。今江はあごを突き出し、微かにほほを吊り上げた。

 「あの。宇治家さ……」

 「ちえって呼んでくださぁい」

 「……ちえさんは、星野先生と仲がよかったりしますか」

 「星野センセ? わたしは仲良くしたいんだけどぉ、医局のセンセってわたしたち看護師を見下してるんですよねぇ。あんなそっけない態度をとられるとぉ、こっちも声をかけずらくなっちゃうじゃないですかぁ」

 「つまり、不仲ってことね」

 背後から今江が口を挟む。宇治家は首を回して今江を睨みつけた。歪んだ口もとから小さな舌打ちがこぼれでる。

 「親しいわけじゃないなら、頼むわけにはいきませんよね」

 「そんなことないですよぉ。わたしぃ、広大さんのためならがんばりますからぁ」

 くるりと首を反転して初芝に向ける。

 「それじゃあ、話だけでも聞いてもらえますかね。今回の事件の被害者、下川仁について。彼は三週間前に星野先生とファミレスで会って話をしていたそうなんです」

 「星野センセってば趣味わる~い。下川先生ってすんごい無愛想で有名なんですよぉ」

 「これは星野先生から直接聞いたことなんですが、下川さんは星野先生に先月彼女が参加した『会議』について訊ねたそうなんです。星野先生がなんの会議に参加していたのか、調べていただくことは可能でしょうか」

 「なーんだ。それぐらいなら簡単ですよぉ」

 宇治家は強くその身体を初芝の腕に押し付けた。松葉杖を突いた男性患者がどす黒い視線を初芝に投げつけていく。

 「わかりましたぁ。広大さんのお役に立てるなら仕事なんてあとあと。すぐに調べますねぇ。なにか分かったら電話しますぅ」

 ぴょこんと飛び跳ねて両手を突き出す。

 「お名刺くださぁい」

 「あ、ぼくじゃなくて今江さんの方が……」

 「お名刺くださぁい」

 「この事件の指揮をとっているのは今江さんなので……」

 「お名刺くださぁい」

 「というかぼく天神署の人間じゃ……」

 「お め い し く だ さ ぁ い」

 「初芝。早く」

 茶革のケースから名刺を取り出す。初芝は両手を添えて縦書きの名刺を差し出した。

 「うわぁぁ。かっこいいなぁ。ありがとうございまぁす」

 ぴょんぴょんと跳びはねながら宇治家はナースステーションへと戻っていった。

 「いやぁ。親切な人がいてよかったですねぇ」

 両手を腰にあて、ほがらかに初芝は笑った。

 「あんたを連れてきてよかったと、初めて思ったわ」

 「はい? 何かおっしゃいましたか」



 4

 今江のスマートフォンに電話がかかってきた。事務課の五反田(ごたんだ)課長からだ。

 「先ほど、下川さんのご家族が到着されました。今は院長室にいらっしゃいます」

 「お会いできますか」

 今江が言った。

 「もちろん。こちらへお越しください」

 二人の刑事は北エレベーターホールへと向かう。院長室は一つ上の階だ。エレベーターを待つのも面倒なので、エレベーターの右手にある階段を上った。

 院長室の中に入ると、応接用のソファーに似通った背中が二つ並んでいた。

 「おお、刑事さんたち。どうぞこちらへ」

 落合院長が正面の豪奢な机から立ち上がり、軽やかな足取りで二人の刑事に近づいた。机の横で腕を組んで立っていた仏頂面の雲仙教授と、眠そうな眼で天井をぼんやりと見つめていた秋月助教授も、院長の後に続いた。

 「下川さん。刑事さんたちがお見えですよ」

 ソファーに座っていた二つの背中が立ち上がった。手前の男は、大きな目をぎろりと動かして今江たちを見た。口髭を蓄えた初老のその男は、ブラウンのスリーピースに白のワイシャツと赤いネクタイをあわせていた。

 二十代と思われるもう一人の男は、背中を丸めながら手にしていたスマートフォンをジーンズのポケットにしまった。灰色のパーカーには胸元に英字のロゴが描かれている。左手はくしゃくしゃにたたまれた青いジャンパーを握りしめていた。

 今江が名刺を渡すと、スリーピースの男は片手で名刺を差し出した。

 「下川の父です。この度は愚息がご迷惑をおかけしました」

 『株式会社 下川製作所 代表取締役 下川しもかわ 宗一郎そういちろう』。名刺にはそう書かれていた。

 「これは次男の宗也そうやです。大学生なので社会勉強を兼ねて連れてきました」

 ぼさぼさに伸びた黒髪を撫でながら下川宗也は頭を下げた。視線はずっと床を這っている。ぼそりと何かつぶやいたが、もしかしたらそれは挨拶の言葉だったのかもしれない。

 「この度はご愁傷様です。息子さんについていくつかお聞かせ願いたいのですがよろしいでしょうか」

 「それより先に。わたしたちはいつまで東京にいなければならないのでしょうか」

 「……はい?」

 今江の瞳に影が差した。

 「わたしは石川県で会社を経営しております。わたしがいないと会社が回らない。師走の忙しい時期に東京に滞在する時間なんてないんですよ」

 「自分の息子が殺されたってのに――」

 初芝が憤りの声をあげる。

 「殺されたですって?」

 下川宗一郎は鼻を鳴らした。

 「先ほど院長先生から、息子は自殺した可能性が高いと伺いましたがね」

 今江は無言のまま落合院長を睨みつける。院長は薄笑いを浮かべながら今江を見つめていた。

 「自分でナイフを胸に突き刺したとか。まったく。昔から何を考えているのか分からないガキだったけど、最後まであいつのことは理解できないままだったな」

 「仲はよろしくなかったようですね」

 「もちろん」

 下川宗一郎は音を立ててソファーに座り込んだ。

 「うちの会社は千名近い社員を抱える、地元石川県ではそれなりに名高い上場企業です。あの愚息は子どもの頃から勉強()()はできるようだったので、会社を継いでもらうつもりでした。愛想が無いぶん、感情に振り回されない冷静な判断ができる経営者になれると期待していたのです」

 ――それなのに――

 「中学三年生になると、医者を目指すなんて言い出して勝手に東京の高校に進学してしまった。親の心子知らずってのはこのことだ。その後のことは皆さんのほうがよくご存じでしょう。こちらの病院の大学に進学し、医師免許をとったわけです。前に訊ねたのですが、あいつは石川県の病院に勤めるつもりも、地元で診療所を開設するつもりもなかった。ずっと東京に居続けるつもりだったのです。地元に対する恩返しという考えはこれっぽちもありゃしない。薄情な男ですよ」

 「子どもの頃から下川くんは内向的だったのですか」

 雲仙教授があご髭をさすりながら言った。

 「それはそれは。どうやらわたしたちの指導に不満を抱かれていたわけではなさそうですな」

 声をあげて雲仙は笑った。横にいた秋月が渋い表情で首をふる。

 「孤独感を動機とした自殺は決して珍しい話ではないぞ」

 雲仙が秋月を睨みつけた。秋月はそっぽを向き、肩に触れる毛先を指に巻きつけていた。

 落合院長はテーブルの上に置かれたカップを手にとり、ため息をついてから口を開いた。

 「内向的な下川君は、友人とも同僚とも馴染むことができず、徐々に孤独感を募らせていった。一昨日の夜、彼の心はオーバーフローを起こし、その結果自らの命を終わらせるに至ったというわけですね」

 「自殺と決まったわけではありません」

 場の空気を払拭するように、今江は声を張り上げた。

 落合院長が苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべる。下川宗一郎は何か奇妙な生き物を前にしたような様子で眉をひそめた。

 「下川仁さんが人付き合いの悪い方だったことは事実でしょう。ですが『内向的』であるならば『孤独』である。『孤独』であるならば『自殺』するという論理展開には正当性がありません」

 「刑事さんの言うことは正しい」

 秋月が小さな声で言った。落合と雲仙が目を細くして助教授を睨みつける。ごほんと一度、秋月は咳払いをした。

 「……ですが、そこまで言うならば刑事さんには他殺説の根拠を、根拠がないなら捜査の展望を、さらに言えば、何者が犯人なのかを提示していただきたいですね。下川くんは自殺した可能性がある。他殺の可能性はない。この時天秤は確実に前者に傾きます。ぼくらは天秤の傾きに抗うわけにはいかないのです」

 「秋月先生のおっしゃる通りですな」

 両手を叩きながら雲仙教授が言った。

 「どうでしょう。刑事さん、捜査の進捗を教えていただけませんか。犯人の目星がついているのかだけでも」

 「捜査についてお答えできることはありません」

 今江がそう答えると、雲仙は両手を大きく広げて下唇を突き出す。挑発的な態度に今江はグッと奥歯を噛みしめた。

 「最初の質問に答えていただいておりませんね」

 腕時計を見ながら下川宗一郎が言った。

 「わたしたちはいつまで東京にいなければいけないのですか。それとも、もう石川に帰ってもよろしいのかな。では、遺体はいつになったら帰していただけますか。葬儀の手配を済ませなければならないのでね」

 「遺体は現在司法解剖にかけられています。早くとも週明けにはお帰しできるかと存じます」

 「警察の方で石川県まで届けてくれるのですか」

 「いえ、それはできません。ご遺族が葬儀会社を手配されて遺体を引き取りにこられるのが一般的です」

 「葬儀社の手配もしてくれないのか」

 「可能ですが、警察を通すと高くつきますよ」

 落合院長がからかうような口調で言った。

 「まぁいい。具体的な日程が決まったら連絡をください。地元の葬儀社を手配します。それではよろしいかな。これで失礼させていただきますよ」

 下川親子が立ち上がり、出口へと向かった。

 「あ、ちょっと待って」

 初芝は前に出て、父親に続こうとした下川宗也の腕をとった。

 「な、なんすか」

 下川宗也は怯えた声をあげた。

 「あ、いや。大したことじゃないんですけど。下川さんのお母さんは? いっしょじゃないんですか」

 「あ、うん。来てないっすよ」

 「来てない?」

 「家に残ってる。あの人兄が死んでずっと泣いてばかりなんです。本当は今日もいっしょに来る予定だったんすけど、泣きじゃくる姿をご近所に見られるわけにはいかないからって、親父が」

 「なるほど」

 下川宗也の顔をジロジロと見つめながら初芝は言った。

 「お兄さんとは似てないね。お兄さんはお母さん似なのかな」

 「あ、そうすね。あの、それじゃこれで」

 下川宗也は首をかすかに折り曲げながら部屋の外へと出た。

 今江と初芝は下川親子が出ていった木ドアをジッと見つめていた。



 5

 「なんだか悲しくなってきますね」

 エレベーターを待ちながら初芝はため息をついた。

 「下川仁の悪評の理由がわかりましたよ。あんな父親の元で育ったせいで歪んだ人格が形成されたわけですね」

 今江は両目を閉じていた。返事が来ないことに初芝は居心地の悪さを覚えたが、心が躍るような話題ではない。沈黙を享受して、初芝は腕をさすった。

 エレベーターのドアが開く。中には誰も乗っていない。

 「えっと、次はどこに行きます」

 操作盤の前で人差し指を上げながら初芝は訊ねた。今江は『ん』とどこかアンニュイな声を漏らしてから、『二階』とつぶやいた。

 「一度現場に戻って、頭を切り替えるわ」

 エレベーターから降りると、本館の二階は多くの人でごった返していた。

 この階は東側を主に診察エリアが占め、西側の半分を主に病棟が占めている。病棟がその階のほぼ全面を締める三~五階と比べると、昼間の二階はとにかく人の往来が多くなる。

 そんな人込みの中で、初芝のまぶたがピクリと動いた。

 視界の先には一人の女性がいた。

 女性の顔は狼狽に溺れていた。人込みの中で左右を見回し、白衣やスクラブウェアを着た病院スタッフがそばを通ると、懇願するような目でその背中を追いかける。

 「どうかしましたか」

 笑顔を見せながら初芝が女性に声をかけた。

 狼狽の表情はそのままに、女性は一度つばを飲み込んでから口を開いた。

 「あ、あの。子ども、うちの子どもを見ませんでしたか」

 「子ども?」

 今江の語尾が上がった。

 「お手洗いに行ってる間に消えちゃったんです。待っているように言ったのに。あの、このあと大事な用があるんです。病院の方に探してもらおうかと思ったけど、皆さん忙しそうで」

 「落ち着いてください。お子さんの名前は」

 「鼓太郎こたろうです。桜井さくらい鼓太郎」

 「年齢としは」

 「六歳です」

 「外見的な特徴は」

 「えっと、身長は九七センチ。体重は二十キロで痩せ型です」

 「わたしの質問が悪かったわね。服装は」

 「あ、すみません。青いトレーナーを着ています。正面にチクレン……特撮テレビのキャラクターがプリントされていて」

 「初芝」

 「はい、とりあえず二階をぐるりと回ってきます」

 「違う」

 今江は刃物のように鋭い視線を初芝に向けた。

 「この病院()()()()の方法があるでしょ」

 初芝は『そうか』と言葉を残して、階段を駆け下りていった。

 「大丈夫です。お子さんはすぐに見つかりますから」

 「あの、あなたたちは」

 女性の表情は狼狽を経て今度は怪訝なものに変わった。

 「警察です。隣の建物で殺人事件が起きたことはご存じですか?」

 「はい。もちろん知っています」

 女性は大きくうなずいた。その仕草に今江は違和感を覚えた。首を小さく傾けたわけではない。彼女は()()()うなずいた。まるで、自分が事件に関係があるかの如く――

 ポケットのスマートフォンが震えた。

 「お待たせしました」

 初芝の声が聞こえる。

 「六階です。日光が差しこむあのテラスに、子どもがいます。服装はよくわかりませんが、青い長そでを着ていることは確実です」

 「青い長そで」

 今江の言葉に女性が目をかっと開いた。

 「わかった。ありがとう。お母さん」

 スマートフォンをしまいながら女性に声をかける。

 「お子さんは六階のテラスにいます。行きましょう」

 中央エレベーターホールに向かうと、ちょうど一台のエレベーターのドアが閉まるところだった。

 声を張り上げて、エレベーターの中の若い医者にドアを開けさせる。エレベーターが六階に着くと、女性は開きかけたドアに身体をねじ込ませて外へ飛び出した。今江も女性のあとを追う。

 陽の光が差し込む箱型のガラス窓の内側、整列して並ぶベンチの最奥で、女性は一人の男の子を抱きかかえながら、力なくその場に座り込んでいた。

 男の子の顔は太陽の光に照らされて白く輝いていた。安堵の表情で肩を上下させる母親を見つめている。

 「鼓太郎くんね」

 今江が言った。

 「ダメでしょ。勝手にどっか行っちゃ。お母さんがどれだけ心配したか」

 エレベーターホールから音が聞こえた。いた足音がタイルカーペットの上に響く。

 初芝が手をふりながら現れた。今江の目じりが鋭く動く。初芝の背後に一人の看護師がいた。糸のように細い目の若い女性。見覚えのある顔だ。そう今江は考えた。

 「いやぁ、よかった。見つかって本当によかった」

 朗らかな笑顔を浮かべながら初芝が言った。

 「さすがですね、今江さん。頭の回転がお速い」

 この病院()()()()の方法。山吹医科大学附属病院の特徴と言えば、院内に設置された無数の監視カメラだ。

 今江の指示を受けて初芝は一階のデータセンターへ向かった。そこでは院内の監視カメラのデータが集約されている。初芝はモニター上にテラスでくつろぐ鼓太郎少年の姿を見つけて、今江に連絡をしたのだ。

 「桜井さん」

 初芝の後ろにいた看護師が前に進み出た。

 「時間です。面談室の方へどうぞ。三階東のBです」

 「す、すみません。すぐに行きますので」

 ほら行こう、と桜井と呼ばれたその女性は鼓太郎の腕を引いた。

 鼓太郎はベンチの上から動こうとしなかった。青いトレーナーにプリントされた、仮面をつけた五人のヒーローにそっと手を振れる。

 「ちょっとコタ。早く」

 「やだ」

 鼓太郎はそっぽを向いた。

 「何言っているの。先生が待っているのよ。とっても忙しいのに、コタの身体のために先生が時間を割いてくれているの。患者さんはコタだけじゃないんだよ。わかっているの」

 「先生は死んだんでしょ」

 今江の鼻がすんと動いた。。

 「コタ。死んだなんて言葉使わないで」

 母親が声を荒げる。そんな母親の手を振り払い、鼓太郎はベンチの端へと身体を滑らした。

 「みんなが言ってた。先生が死んだって。先生が死んだから手術はしない。手術はチームでするものだって先生は言ってたもん。一人でも欠けたらチームじゃないって、ケンチクレッドも言ってた。だから手術はやらない」

 「鼓太郎、お願いだから困らせないで……どうしてそんな馬鹿なことを言うの」

 「やだ。やだからやなの。手術やだ。くすりもやだ。もうやだよ。帰りたい。うちに帰りたい。もうやだ」

 鼓太郎の顔がみるみるうちに赤く染まる。次の瞬間、雷鳴のように鋭い泣き声がテラスの中を飛び交い始めた。

 「どうして泣くの! 先生もママも、コタのことを想ってこんなにがんばっているのに。どうして言うことを聞かないの!」

 鼓太郎の母親がヒステリックに叫び声をあげた。母親の怒声を聞いて鼓太郎の泣き声が輪をかけて大きくなった。

 「今江さん、どうしましょう。本当にどうしましょう」

 狼狽する初芝の前で細目の看護師が動いた。

 「鼓太郎くん」

 看護師は鼓太郎の前でそっと膝を曲げた。目の前に現れた看護師の顔に、鼓太郎の癇癪は微かに弱まった。

 看護師の表情はお面のように固まったままだったが、そこから不安や緊張のようなネガティブな感情は読み取られない。自信や楽観のようなポジティブな感情もまた。

 ただ、彼女は――

 「おそらく鼓太郎くんは、『建築戦隊チクレンジャー』の第十六話『死闘終幕! あかつきに流れるわかれの涙』の回のことを言っているんでしょ。たしかにあの回でケンチクホワイトは、悪の建築会社『デストラクション』の幹部にして、その完璧な外見とは裏腹に脆弱性の高いコンクリート建造物を造ることで悪の建築業界で名を馳せた『コンウィーク』の仕掛けた『デストラクショントラップNO.11。鉄筋のない(ノーライフ)巨大な橋(ビッグブリッジ)』から谷底に落ちて死亡した。だけど彼の後釜として新米施工(せこう)管理技士かんりぎしのチサトちゃんが二代目ケンチクホワイトとしてチクレンジャーに仲間入りしたでしょ。チクレンジャーと同じなの。下川先生はいなくなったけど、代わりに秋月先生が鼓太郎くんを担当してくださるから。鼓太郎くんのための特別チームはまだ存続しているの」

 淡々とした口調で看護師は語った。

 「秋月先生って?」

 「見たことないかな。肩まで髪を伸ばしたロン毛の先生」

 「……あるかも」

 見たこと、と倒置法で鼓太郎はつぶやいた。

 「秋月先生はこの病院の中で一番すごい先生なの。だから鼓太郎君の病気も絶対に治してくれるよ」

 「本当に?」

 鼓太郎の澄んだ瞳が看護師の瞳を覗きこむ。

 笑顔はなかった。表情はなかった。

 しかしその看護師は、大きく、深く、鼓太郎の瞳を見返して頷いた。

 「大丈夫。退院したらお父さんといっしょにチクレンジャーのショーを観に行くのでしょう。それなら早く秋月先生のところに行かないと。先生は忙しいから鼓太郎くんが来ないとどっかに行っちゃうかも」

 「わかった」

 鼓太郎はベンチから跳びはねると、気まずそうにそっと母親の手を握った。

 母親と鼓太郎はエレベーターホールへと向かった。すれ違いざま、母親は二人の刑事に頭を下げた。

 「ご迷惑をおかけしました……」

 「あの、お子さんは下川先生の患者さんだったのですか」

 今江が訊ねる。

 「はい。若いのに立派な先生で。ちょっと近寄りがたい雰囲気はありましたけど」

 「先ほどお話ししたとおり、わたしたちは隣の健診センターで起きた殺人事件について捜査をしています。もしよろしければ、あとで少しお話を聞かせてもらえませんか」

 「構いませんけど、下川先生は自殺されたのでは?」

 「そんなデマ。いったい誰が」

 「誰というか、病院の中で皆さんがおっしゃっていましたよ」

 母親が助けを求めるように看護師を見つめた。看護師は『そうですね』とつぶやいた。

 「あの、それでは失礼します。またあとで」

 もう一度母親が頭を下げる。親子の後に看護師が続いた。チラリと今江を一瞥する。緊張感を伴った二人の視線が空中で交差した。

 「外科の看護師さん?」

 今江が訊ねた。

 看護師は足を止め、首をふった。

 「手術室です」

 「え、手術室って専属の看護師さんがいるんですか」

『しらなんだ』と呟きながら初芝は手帳にペンを走らせた。

 「どこかでお会いしたかしら」

 「昨日お会いしましたよ」

 「……あぁ。データセンターで」

 昨日の夕方、データセンターを訪れた時のこと。目の前にいるのは、バウムクーヘンを切るミキに皿を渡したカーキ色のジャンパーを着た女性だ。

 「昨日あそこにいた看護師さんは当直の人たちって聞いていたけど」

 今江は左手をひねって腕時計を見た。

 「十時。まだお帰りにならないのね」

 「ご存じありませんか。医療業界は慢性的な人員不足に苦しんでいるんです。日直と連続する当直なんて、珍しくもなんともありません」

 「お名前をうかがってもよろしいかしら」

 「剣淵けんぶちです」

 「下の名前はなんて読むのかしら」

 今江は剣淵の首からぶら下がったネックストラップの先にある、写真付きの職員証を見つめていた。

 「氷織ひおりです」

 「あぁ、だから『ひぃちゃん』なのね」

 「もう行ってもよろしいですか」

 剣淵はキッと今江を睨みつけ、返事も聞かず踵を返した。

 「失礼だけど、事件当夜は何をしていらしたのかしら」

 剣淵の背中にそんな質問を投げかける。看護師の左手の親指がひくりと動くのを今江は見逃さなかった。

 「当直でした」

 背中を向けたまま剣淵は答えた。



 6

 「やぁ、ほんの少しだけ待っててください。ぼくがすぐに証拠を見つけてみさらせ!」

 灰色の防水シートの上を這いつくばる初芝を見おろしながら、今江はぼんやりと空を見つめていた。

 健診センター屋上からの犯人侵入説を捨てられない初芝は、今江に頼み込んで再びセンターの屋上へと戻ってきた。

 防水シートにほほをくっつけて這いまわっている初芝は、ロープの先につけられた(はずの)重石おもしが落ちてきた痕を探している。重石がない状態で本館屋上から降りると、ロープは本館側に引きずられて健診センターまでたどり着けなくなる。人間の身体を支えられるほどの重石を降ろして、本館の屋上と健診センターの屋上をロープで斜めに繋いで降りたと初芝は考えているわけだ。

 「あんたもこりないわね」

 「諦めが悪いと言ってください」

 「それって誉め言葉?」

 「刑事にとっては誉め言葉です」

 「一般人にとっては」

 「あんまりいい言葉じゃないでしょうね。人間なにごとも諦めが肝心です」

 「ということは刑事は天職ね」

 「刑事が天職! ははは。初めて言われましたよ。まいっちゃうなぁ」

 蜘蛛のような姿勢で初芝は屋上の奥の方へと進んでいった。

 その時、どこからか男の声が聞こえた。

 近くではない。だがたしかに怒気を含んだ男の声が聞こえる。今江は屋上の周囲を走るパラペットから腰を浮かし、下をのぞきこんだ。誰もいない。四つん這いの初芝は首を不自然な形に曲げて空を見上げていた。

 否。空ではない。

 今江は初芝の視線を追った。本館の屋上に白衣を着た二人の男がいた。短髪の男が怒鳴り声をあげ、もう一人の太った男は身体を丸めて委縮しきっている。

 ただの説教にしては度が過ぎる。男の怒鳴り声は種々多様な罵倒を含み、現代の日本社会に流布するコンプライアンスに照らし合わせてみれば、即刻アウトと判定されるであろう代物だった。

 短髪の男が、縮こまった男の白衣をつかみ、乱暴に振り回し始めた。

 「止めにいきましょう」

 汚れを払いながら初芝が戻ってきた。今江は『そうね』とつぶやき、ため息をついた。

 「本当に嫌になるわ。この病院」

 本館に移り、北西にある階段を駆け上がる。屋上へ通じるドアのテンキーの電子錠を今江は迷うことなく打ち込んだ。

 ドアを開けて屋上に出る。西側の柵の前に、二人の男はいた。

 「お前の『ごめんなさい』は聞き飽きたんだよ。挨拶よりも謝罪が多いな、お前は」 

 短髪の男は靴の裏で太った男のズボンを蹴っていた。太った男の姿を見て初芝は『あ』と声を漏らした。その男は、第二外科初期研修医の糸島いとしまだった。

 「そうやって頭を下げて、プライドを捨てて、惨めな男のまま生きてきたのか。他人に逆らうのが怖かったんだろ。波風を立てて、嫌われるのが怖かったんだろ。つまんねー男だなお前は」

 「そこまで。そこまでです」

 初芝は二人の間に割って入った。

 「おい。誰だよあんたら」

 短髪の男の三白眼が初芝と今江をにらみつけた。

 「病院の人間じゃねぇま。どうやって入ってきた」

 「あぁ、ドアのテンキーのこと」

 今江は腕を組みながら言った。

 「前に五反田課長が開ける所を見ていたから」

 「あんたら刑事か。下川の事件を捜査してるっていう」

 短髪の男は白衣を整えると、大きく鼻を鳴らした。

 「ご苦労なこったね。あんな男のために。おい糸島」

 男の声に糸島研修医の身体がびくりと跳ねた。

 「お前、今日はもう帰れ」

 「え、でも今日は当直が……」

 「帰れっつてんだろ! 動脈の採血もできねぇ医者に当直なんてできるか!」

 「ち、ちがうんです。ぼくだって普段なら採血くらい……でもどうしても集中できないんです。下川さんのこと、雲仙先生が――」

 短髪の男は初芝を払いのけて鬼気迫る表情で糸島に向かった。男は糸島の白衣とベルトを掴んでその巨体を乱暴に放り投げた。

 「この馬鹿野郎が! 失せろ! とっとと失せろ!」

 糸島は悲鳴をあげながら階下へ通じるドアの奥へと消えた。荒い息を吐きながら肩を上下させる短髪の男は、くるりと振り返り二人の刑事を睨みつけた。

 「刑事ってのは医者の仕事に口出しをする権限があるのかよ」

 「医師国家試験では、恫喝のやり方まで出題されるのかしら。知らなかったわ」

 今江の軽口に、男はひと際大きな舌打ちを返した。矢のように鋭い視線が今江に突き刺さる。しかし今江は、どこ吹く風の態度で、大きくあくびをした。

 「隣の健診センターまで声が届いていました」

 初芝が親指を後ろに向けながら言った。

 「そちらの教育方針に口を挟むつもりはありませんが、周りの迷惑になることはお控えください」

 「そうだね。今度からは聞こえないところでやるよ」

 男は白衣のポケットに手を入れて背中を向ける。

 「ちょっと待って」

 今江はその背中に声をかけた。

 「あんた、名前は」

 「他人ひとに名前を聞くときは?」

 歪んだ笑顔を男は見せる。

 「天神署の今江よ」

 「そりゃどうも、今江刑事殿。おれは第二外科の寺内てらうちってもんだ」

 「第二外科。それじゃあ下川仁さんとは……」

 「おれは下川のオーベン。指導医だ。ちなみに糸島の指導医でもある。まったく。どうせなら下川の代わりに糸島が死んでくれればよかったのにな」

 「不謹慎ですよ」

 初芝が苦言を呈した。しかし寺内は鼻で笑うだけだ。

 「事実を言って何が悪い。下川は性格こそ根暗のクソ野郎だったが、仕事に関してはしっかりこなしてくれた。だけど糸島はダメだ。あいつは見込みがない。実家が開業医で、後継ぎになるんだとか意気込んでやがったけど、動脈注射もできないような院長の病院なんて、怖くておれは行きたくないね」

 「糸島さんは前期研修医でしょ。失敗をカバーするのが先輩の仕事じゃないんですか」

 「ものごとには限度ってもんがある」

 寺内はもう一度つばを吐き出した。チラリと見せた不揃いの前歯はヤニで黒く汚れていた。

 「注射器シュプリツアを差しこんで患者がちょっと悲鳴をあげたら、あいつは針を抜いてその場にいた看護師に任せて逃げ出した。患者を前に逃げ出す医者なんてあり得ない。看護師に動脈採血を任せるなんてことも、おれからしたらあり得ないね」

 「確かに逃げ出すのはよくないけど」

 今江が眉を潜めて言った。

 「できないと思ったら他の人に任せるのは、間違いじゃないでしょ」

 「看護師に任せるのが問題なんだ」

 「そうですよ。今江さん、ご存じないんですか。静脈と違って動脈の採血は医師免許がないとできないんですよ」

 耳元で初芝がささやく。今江はその初芝の腹を肘で小突いた。

 「ご存じないのはあんたよ。二〇一五年に法改正があって、研修を受けた看護師でも動脈注射は打てるようになったの」

 「へぇ、物知りだな、刑事さんは」

 寺内はちろりと舌をのぞかせた。

 「『特定行為に係る看護師の研修制度』ってやつだ。でもな、考えてみろよ。これまで静脈は看護師にも許されていた。なのにどうして動脈採血は許されていなかったんだ。危険だからだ。動脈ってのは失敗するとアホみたいな量の血が噴き出す。しかも簡単には止まらない。だいたい動脈採血をする患者ってのは重症患者が多くてな、一歩でも間違えたら死に直結するんだ。おい分かるか。死ぬんだよ。そんな危険な医療行為を看護師なんかに任せるわけにはいかないだろ。だからうちの病院では動脈注射は医者がやるんだ。それが山吹うちのルールなんだ」

 「ずいぶん時代錯誤な考え方ですね」

 「……なんだと?」

 寺内は静かに歩み寄り、頭二つ分小さい今江を見おろした。

 「時代錯誤だと? なんだ、馬鹿にしてんのか」

 「動脈採血が医師免許を持たない看護師にも可能となったのは、注射器の性能が向上して容易になったことと、あなた達医師の蓄積してきた採血に関する知識が体系化され、それらの知識が研修という形で習得が可能になったからでしょう。時代が動脈採血を容易にしたの。それなのにあんたは過去の常識にしがみつき、看護師にはできないと頭ごなしに決めつけている。これを時代錯誤と呼ばずになんと呼ぶの。ひょっとしてあんた、医師の領域に看護師が踏み込んできたとでも思ってるの。医師免許を持った自分にしかできない特別・・を、医師免許を持たない看護師がやる。そんなの許せない。越権行為だ。プライドが傷ついた。だからあんたは――」

 「今江さん、ストップです!」

 初芝が今江の腕をとって引いた。今江の身体が半歩下がる。

 今江は見た。寺内の白衣がはためき、その右腕がふり上げられるさまを。

 「あっ」

 今江がそうつぶやくと同時に、寺内の右のこぶしが直撃した。左ほほ。一秒に満たないほんの直前まで、今江が立っていた位置にいる、初芝の左ほほに。

 「うぉっと。びっくりしたぁ」

 初芝は両足で踏ん張り、崩れた上半身を起こした。左ほほに手を当ててはいるが、けろりとした様子でその場に立っている。

 肩で息をする寺内はひと際大きなため息をつき、両手を差し出した。

 「ほら」

 「え」

 「逮捕しろよ。公務執行妨害だろ」

 「あ、そっか。警官を殴ったら。でも、イヤだな。こんな面倒なこと、籐藤とうどうさんの耳に入ったら……」

 ほんの数秒、頭をひねり、初芝は恐る恐るといった様子で口を開いた。

 「えっと、行ってください、寺内さん。ぼくはその、ここで転んで顔を打ったってことで」

 「いいのかよ」

 寺内の顔は初芝ではなく今江に向けられていた。今江は両目を閉じて何も言わない。

 「それじゃあお言葉に甘えて、失礼するよ」

 寺内は赤くなった拳をポケットにしまうと、そそくさと階下へ通じるドアの方へと向かった。

 ドアの中に消える直前、寺内は顔だけ出して初芝に言った。

 「悪かったな」

 音を立ててドアが閉まる。初芝は深く息を吐いた。

 「悪いのは今江さんですよ。正論でしたけど、正論だって人を傷つけるんですから」

 「そうね」

 今江は手すりに片手を置き、灰色の表情で足元を見つめていた。

 「ごめんなさい。わたしが悪かったです」

 「わかればいいんですよ、わかれば」

 初芝は手を離して左ほほを見せた。

 「腫れてます?」

 「腫れてるわ」

 初芝のほほは熟れたリンゴのように赤くなっていた。

 「ちょうどよかったわね。ここは病院よ。誰か手の空いている人に診てもらいましょう」

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