第六章
1
「あの、すみません」
ガラス窓を叩きながら初芝が言った。
窓の内側にいる水色のシャツを着た老人は、手にしていたやかんを灯油ストーブの上に置き、ガラス窓を開いた。
「お見舞いの方ですか。向かって右側の大きな建物が本館ですので……」
「違います。警察です」
初芝が警察手帳を差し出す。
「初芝と申します。昨夜の事件のことでお話をうかがいたいのです」
「といっても、昨日は夜勤じゃなかったからねぇ」
「夜勤の経験はありますか」
横から今江が訊ねた。
「あるよ。先週も何回かやったさ」
「夜勤の最中、敷地内を巡回する仕事がありますよね。具体的にそのルートについて教えてほしいのですが」
「かまいませんよ。お役に立てるのなら何よりだ。口で説明するより実際に歩いてみましょうか。申し遅れました。わたし、菊池と申します」
「天神署の今江です。お忙しいところ恐縮です」
菊池老人はストーブの火を消すと、守衛室の奥へと向かった。
「ん。やっぱりそうだ。小島さんの次の出勤は明日の夜勤だね。明日の夜に来てもらえれば会えますよ」
ホワイトボードに挟まれたシフト表を見ながら菊池老人は言った。昨夜夜勤を行ったのは小島という人物らしい。
老人はホワイトボードの横にあるロッカーから金色のエンブレムがついた帽子を取り出した。
「小島さんはどんな人ですか」
守衛室の外から今江が声を張り上げる。
「少しめんどくさい人だね。ひねくれた性格だけど、まぁ常識の範疇だから害はないよ」
コートを羽織ると、菊池老人は守衛室の裏側にあるドアに向かった。今江と初芝もぐるりと回って裏側に向かう。
ドアを施錠した菊池老人はにかりと笑い、帽子をほんの少しだけ傾けた。
「それではまいりましょう」
三人は旧館の前を通って北の方へと向かった。
「夜間の巡回は一晩に何回やるんですか」
「三回。十時と十二時、それから朝の四時」
データセンターで見た映像には、二十二時五分に健診センターの前を歩く警備員の姿が映っていた。小島なる警備員は時間通り巡回を行ったようだ。
「実際、巡回していて変わったことが起きたりするんですか」
「ほとんどないよ。まぁ一応規則だからね。監視カメラのデータにも残るし、さぼるわけにはいかないから」
猫背の菊池老人を先頭に三人は歩いていく。
初芝は左手に建つ建物を見上げた。五階建てのその建物は、各階に平行に窓が並んでおり、窓の外側には汚れが目に付く銀色の格子が備え付けられていた。
「この建物。旧館でしたっけ。いつから閉鎖されているんですか」
「かれこれ二十年近くになるかな。わたしがサラリーマンをしていた頃はこの建物が本館と呼ばれていてね。わたしも何度かここでお世話になったことがあるよ」
菊池老人は近所に住んでおり、一昨年会社を定年退職してから山吹医科大学附属病院に警備員として雇われたらしい。
「この中には入れるんですか」
足を止めて今江が訊ねた。二羽のカラスが空中でもつれあいながら、屋上の手すりに停まった。
「無理だね。入り口のドアはチェーンが巻かれて南京錠で施錠されている。ご覧のとおり、窓にはアルミ格子がかかっているしね」
「無用の長物なら解体すればいいのに。ずいぶんと敷地を無駄に使っていますよね」
「おっしゃる通り。だけどこの年末から、この旧館は改装されることになったんだよ」
「改装。いったい何に」
「緩和ケアセンター。いわゆるホスピスってやつだね」
「緩和ケアって、何ですか」
初芝が訊ねた。菊池老人はうなずきながら微笑み、『つまりね』と言葉を続けた。
「医療の目的とは病をなくすこと。人間の身体にマイナスとして作用する病気を取り除くことが、これまで医療には求められてきた。だけど世界にはまだ治療の目処が立たない難病がいくつもあり、治すのではなく、その場しのぎの医療を受けて生き延びている人たちがたくさんいる。難病だけじゃないよ。手術に耐えうる体力がないため、治療を諦めて残りの人生を病と共に生きることを決めた人もいるわけだ」
ふんふんと初芝はしきりにうなずいている。菊池老人は興が乗って来たのか雄弁に語り始めた。
「緩和ケアとはそうした病人の身体や心の痛みを緩和すること、つまりは癒すことを目的とした医療なんだ。治すのではなく、苦しみを和らげる。入院して気持ちがふさがっている患者さん向けにオリエンテーションを催したり、投薬の影響で免疫力が低下した患者さんの外出に付き添ったり、患者さんとご家族だけでの外出中、身体に異変が起きた際の具体的な対処方法をプランニングしたりするのが主な仕事さ。入院児童を対象とした院内学校もこの建物の中で開かれる予定だよ。患者さんがひとりの人間として、病院の外の人と同じように人生を楽しむ。それが緩和ケアの目的さ」
「よく小児科の医者がクリスマスにサンタの格好をして入院中の子どもたちにプレゼントを配ったりしていますよね。あれを専門にした施設として考えればいいんですかね」
「まぁそんな感じだよ。悪いね。わたしもそれほど詳しいわけじゃないんだ。気になるようだったら落合院長に聞いてみるといい」
「院長に、ですか」
今江は組んでいた両腕をそっと解いた。
「ホスピス建設は落合院長主導のプロジェクトだ。先生は若いころからホスピス建設の必要性を訴え続けていたらしいけど、病院の幹部陣は全く聞く耳を持たなかったんだってさ。まぁ、大学病院なんて典型的な縦割り社会だから仕方ないよね。医者の仕事は治すこと。治療を蚊帳の外にするホスピスなんてけしからんって、若い頃は猛反発をくらったそうだよ」
「詳しいですね」
「先生の本に書いてあったからね」
小島は皺の寄ったほほをぐっと上げて、黄ばんだ歯を見せた。
「落合院長はすごいお医者さんだよ。あれだけたくさんの本を出して、I市の医療の中枢たるこの病院を切り盛りしていらっしゃる。先生のおかげでI市が成り立ってると言っても過言じゃないんだ。今回の事件で院長先生の評判に泥がつかなきゃいいんだけどね。刑事さん、なるたけ早く犯人を捕まえてくれないと困りますよ」
「尽力します」
灰色の声を今江は返した。
旧館の前を通り過ぎ、三人は健診センターの前で足を停めた。規制用テープの前に立つ制服警官が今江に向かって敬礼をした。けだるい表情のまま今江も敬礼を返した。
「巡回の際は、まず旧館の前を通って健診センターに来るわけですよね」
健診センターの正面入り口であるスライド式の自動ドアは、本館を背にした位置から見ると左側、旧館に寄ったところにある。そして、正面入り口の右に数メートル視線を移すと、アルミ制の小さなドアが地面より少し高い位置に構えている。このドアの内側はセンター職員の机が並ぶ事務室となっている。職員達はこのドアを通ってセンターに出入りすることが多い。就業前の開錠はこのドアから始め、終業後の施錠はこのドアを最後にするそうだ。
「施錠確認はなさいますか」
「それはやらない。ドア空いてたの? 今度からノブを握って確認するようにするよ」
今朝、職員用入り口のドアを開けた榊原は一階の鍵は全てかかっていたと証言した。自動ドアは内側から電源が切られ、ドアの下部についたサムターンがかかっていた。センターの裏側にある一枚ドアも同じく施錠されていたことを、警察は確認している。
だが施錠の有無はあまり大きな意味を持たない。今江と初芝はすでに健診センターの周囲にある三つのカメラの映像を確認している。カメラの映像には巡回に回った警備員の小島以外の姿はなかった。これらのカメラに映ることなく、一階から健診センターに入り込むのは不可能だ。故に鍵の施錠は決定的な意味をもたない。今江はそう考えていた。
「次は本館の裏側に行くよ」
本館の壁に沿って伸びるL字型の駐輪場を右手に角を曲がる。本館の裏側には広大なコンクリートの敷地が広がっていた。
「以前はここが駐車場だったんだ。病院の利用者が増え始めてキャパシティを大きくする必要が出てきてね、本館前の敷地を買い取って立体駐車場を建てたってわけ」
「え。このせまい道を車が行き交っていたんですか」
初芝は健診センターの方を向いて言った。
健診センターと本館の間は約六メートルほど、車一台分の幅しかない。駐車場に向かう車と、駐車場から出る車が同時に通ることはできないだろう。
「まさか。健診センターの前は一車線の入り口。本館後ろの東側に、これまた一車線の出口があったんだよ。今は塀を立てて一軒家が建ってるけどね」
こつこつと革靴の音を立てながら三人は歩いていく。本館の裏側を通過すると、東側に建つ塀に沿って右に曲がる。本館と塀の間にある数メートルの薄暗い通路を三人は歩き続けた。
通路を抜けると、正面に三階建ての立体駐車場が現れる。自走式の立体駐車場で、今も一台、黄色のカローラが降りてきたところだ。
立体駐車場の中を三階まで確認する。その後、本館の前を通って守衛室に戻る。
「夜間の巡回ルートはこれでおしまい。参考になったかね」
初芝は曖昧にうなずく。その横で今江は、コートのポケットに手を入れて旧館を眺めていた。
2
規制用テープをくぐり、開け放たれた自動ドアの中へと入る。正面の階段を横目に右に曲がり、健診センターの一階を横断する廊下を今江は進んだ。
「普通に考えたら一階から侵入するのが吉ですよね。二階の渡り廊下はナースステーションのすぐそばです。監視カメラの目から逃れられないというのはどちらも同じですが、一階なら少なくとも人の目はない」
初芝は首をひねりながら今江の後に続いた。
半分ほど廊下を進んだところで、左に分かれた通路を進む。その廊下は八メートルほどの長さに伸びており、両側の壁にほこりを被った白いスチール製の棚が並んでいた。
棚には何も乗っていない。メモ紙が一枚貼られ、そこには大きく『処分』とだけ書かれていた。
棚の横には金属製の架台がついた血圧計や、大型の体重計などの医療用器具が置いてある。そのすべてに『処分』と書かれたメモが貼られていた。
本棚の間を通って、廊下を進む。廊下の最奥には健診センターの裏側に通じるドアがあった。
「でもこのドアも締まっていたんですよね」
「今は捜査のために開いてるけどね」
初芝はノブを押した。目の前に三メートル近い高さの塀が現れた。吹き付けるからっ風に目を細め、初芝はすぐにドアを閉めた。
二人は健診センターの二階に上がり、死体発見現場である待合室に向かった。
待合室の中ではいまだに臨場が続いていた。広い待合室の中には大量のソファーが並んでいる。数人の鑑識課員がはいつくばってソファーの下でもぞもぞと動いていた。
今江が部屋の中にいた門脇巡査と情報交換を終えると、初芝は渡り廊下のドアを眺めて呆けていた。
「どうかしたの」
今江が訊ねると、初芝は唸り声をあげた。
「被害者はどうして十二時前に現場を訪れたのでしょう。当直の最中に、普段は誰も足を運ばない健診センターを訪れ、わずか十分ほどで帰っていきました」
「健診センターの職員に確認してもらったけど、盗まれたものはないし、建物の中は、遺体がある以外は昨日と何も変わらないって」
「指紋は」
「一日に何十人もの人間が出入りする施設だからね。数が多すぎるので調べるのに時間がかかるそうよ。でも今のところ、渡り廊下のドアと、待合室のドアからしか被害者の指紋は見つかってない」
待合室には等間隔で三つのドアが並んでいる。被害者の指紋がついていたのは一番渡り廊下に近いドアだ。
「でも実際に被害者はここに来たんですよ。何も盗らず、何も触れず、何もせずに帰ったというのですか。そんなはずはない。何か目的があって来たはずです。そうだ。誰かと会いに来たんですよ。例えば犯人、犯人に呼び出されたに違いない。しかし犯人は約束の時間に現れず、下川さんは諦めて本館に戻った」
「被害者が健診センターに来たのは二十三時時四十八分」
手帳を広げながら今江が言った。
「本館に戻ったのが日付をまたいで〇〇時十分。誰かと待ち合わせをするとしたら〇〇時ちょうどにするのが普通よね。だとしたら相手が現れなかったからといって、たかだか約十分、待てないものかしら」
「被害者は当直中でした。有事のために早く本館に戻りたかったのでわ」
「有事の際には看護師がPHSで呼び出してくれる。被害者が急いで戻る必要はなかったと考えるのが普通よ」
「じゃあ一体……だめだ、わかりません」
初芝は子どもの様に地団太を踏んだ。驚いた鑑識課員たちが好奇の視線を向ける。
「そうだ、屋上。今江さん。屋上を見にいきましょう」
返事を待たずに初芝は動いた。早歩きで廊下を渡る初芝の後を、今江はあくまでもマイペースについていった。
健診センターの南側にある階段を上る。子どもの侵入を防ぐためか、踊り場に二本のカラーコーンが立ち、その間にトラジマのコーンバーが伸びていた。
初芝はバーをまたぎ、今江はバーを持ち上げて通った。壁から突き出した水銀灯がジリジリと音を立てながら頼りない白光を発している。暗がりのなか、今江は躓かないよう慎重に階段を上る。初芝は一段飛ばしで駆けあがり、ドアのノブを掴んだ。
ドアの外に出ると、澄んだ空気の中、目の前に本館の巨大な姿が現れた。
「簡単な話じゃないですか。犯人はこの屋上から侵入したんですよ」
両手を広げ、空を仰ぎながら初芝は叫んだ。
「ドアはどうやって開けたの」
今江がドアを開き、内側のノブについたサムターンを二度、三度と回す。
「そんなものなんとでもなります。例えば犯人は事前にここに来て、鍵を開けておいたのかもしれない。昨夜施錠した職員は全てのドアを確認したと申しましたが、それは本当でしょうか。十中八九、普段はこの屋上は利用されていません。日常的に利用するならカラーコーンなんて置かないでしょう。つまり、そのドアはいつも鍵がかかっていた。だからわざわざ確認する必要はないと考え、施錠確認をしなかったのです」
「お見事。すばらしい心理型名探偵ね」
表情筋を動かさず今江は両手を叩いた。
「たしかに職員は、ドアは全て施錠したと証言したわね。だけど職員は自分でも気づかないうちに嘘をついていた可能性がある。この場合は無自覚なんだから誤っていたと言うべきかしら。職員にとって屋上へのドアは常に閉まっているものだった。開ける人のいないドア。開くことのないドア。故にそれは閉める必要のないドア。施錠はしたかと問われて職員は『YES』と答えた。でもそれは間違っていた。ドアは開いていた。犯人がここから侵入するために、事前に鍵を開けておいた――」
今江はドアノブから手を離し、ゆっくりと防水シートが貼られた屋上を歩き始めた。傷一つない灰色の防水シート。なるほど。普段から人が入ることはなかったようだ。
「それで。犯人が屋上から室内に侵入したとして、どこから屋上に来たっていうの」
「もちろん、そのドアからですよ」
初芝が今江の後ろにあるドアを指差す。たった今二人が通ってきたドアだ。
「屋上から室内に入るために、室内から屋上に出たってわけ」
微動だにせず今江は訊ねた。しかし初芝は先輩刑事の刺すような視線に屈せず鼻を鳴らした。
「おかしな話じゃありません。ポイントは時間です。犯人は健診センターが施錠される前に屋上へ出て、健診センターが閉館されるのを待っていたのです。あたりが暗闇に包まれ、人気がなくなってからドアを通って健診センターの中に戻る。どうですこれならかんぺ――」
「『き』とでも言うつもりじゃないでしょうね」
右肩をもみしだきながら今江は言った。やるせない表情を浮かべながら一つため息。
「実際にあんたが犯人だったとして、本当に屋上に隠れるの」
「隠れますよ。隠れて何か不都合が……」
今江の視線が初芝の背後に突き刺さり、角度を少しづつ上げていく。
初芝は振り返ってその視線を追った。
「あ」
二人の視線は目の前に立ちはだかる山吹医科大学附属病院の本館を捉えていた。健診センターの方を向いた本館の西側には、二階から五階まですべての階に窓ガラスがついている。
「健診センターが施錠されたのは夜の七時。たしかに十二月の七時なら外は暗くなっているけど、隣の建物の屋上でもそもそと動く姿を本館の人間に見られない保証なんてあるのかしら。それに、本館の西側には二階から五階まで病棟が並んでいる。犯人が屋上に入ってきたのは遅くとも夜の七時。病棟の消灯時間は九時。まだ先よ」
初芝は腹を抑えながらうめき声をあげ、その場でゆっくりと回転を始めた。六周したところで回転を止め、ぽんと手を叩いた。
「わかった。やっぱり犯人は屋上から健診センターに入ったんですよ」
「だからそうすると人の目に……」
「それは夜の七時だからでしょう。違います。犯人は消灯時間が過ぎた九時以降、いやそれどころか闇が更に深くなる真夜中に、屋上に現れたのです」
「それにしたって、事前に健診センターの中から屋上に出る必要があるでしょう」
「いやいや。そんな必要はありません。この屋上へたどり着くためのルートはもう一つあるじゃないですか」
「渡り廊下の上を通ったとか馬鹿なことは言わないでちょうだいね」
落ち着いた足取りで今江は屋上の際に寄った。
健診センターと本館をつなぐ渡り廊下。その上部は屋根板がしかれており、ある程度の起伏はあるが決して人が通れないような状態にはない。しかし――
「汚い。これ、元は青色ね」
渡り廊下の屋根は、長い年月をかけて蓄積されたであろう土ぼこりに覆われ、全面が黒く汚れていた。
「もしこの上を人が通れば足跡が残る。だけどそんなものは見当たらない。屋根の上はどこもかしこも黒一色」
「見くびられたものですね。渡り廊下の上を通る? ぼくがそんなスケールの小さい発想をすると思いましたか」
「思っていたけど」
初芝は口をすぼめて『クツクツ』と甲高い音を鳴らした。
「渡り廊下じゃありません。屋上です。犯人は、本館の屋上から来たんですよ」
「へぇ」
「まず犯人は、事前に健診センター屋上へ通じるドアのカギを開けておきます。そしてその場で犯人は健診センターを出て、夜中になると今度は本館の屋上に向かいました」
「なるほど」
つんと鼻を上げながら今江はアンニュイな声色をあげた。挑戦的なその視線に初芝は発奮した。
「そしてそこから、ロープです。ロープを健診センターの屋上に向かって投げるのです。時刻は深夜帯。素早く降りて行けば、人に見つかる可能性もありません。そうして健診センターの屋上にたどり着いたあと、事前に開けておいたドアから侵入する。どうです。完璧な推理じゃ――」
「質問」
初芝の言葉を断ち切って今江は言った。
「本館と健診センターの間には約六メートルの幅がある。本館の屋上からロープを垂らしても、それを降りたらロープが引っ張られて、本館の壁際に降りることになるんじゃないの」
「もちろん。ただロープを投げただけならそうなるでしょうね。ですが、そのロープの先にはかぎ爪状の金具……に類するものがついていました。本館の屋上から健診センターの屋上に向かってロープを投げます。ぐいぐいとロープを引くと、屋上の際に先端の金具が引っ掛かり固定され、本館と健診センターの屋上はピンと張ったロープで繋がれるわけです。犯人はこのロープをつたって健診センターの屋上に渡ったのです。深夜帯なら人目につく可能性も少ない。犯行後に本館に戻って、屋上からロープを回収すれば証拠は消えます」
初芝は腰に手をあてて鼻息を荒くした。今江はと言えば、何の感情も見て取られない様子で、明後日の方向を見つめている。
「その金具って、どこに引っ掛けたの」
今江が訊ねた。健診センターの屋上には手すりはない。ものを引っ掻けるような構造物も見当たらない
「それを今から探しましょう。大丈夫。見当はついています。あそこです。えっと、あれって名前はなんて言うんですかね」
床から三十センチほど立ち上がった屋上を取り囲む小さな壁面を初芝は指さした。
「パラペット」
「そうです。パラペット。うちの実家にもありましてね。パラペットは最頂部が内側に盛り上がっていて……」
今江は落ち着いた足取りで屋上の縁に近づいた。ポケットに手をいれたまま脚をパラペットの上に乗せる。
「あ、あれ」
初芝はすっとんきょうな声を上げた。
ウレタン防水が塗布された灰色のパラペットは、直線に立ち上がるだけで、内側への盛り上がりはなかった。
「どんな金具なら、こんな真っ平なコンクリートに固定できるのかしら」
「コ、コンクリートに突き刺さるほどの強靭な金具だったんですよ。位置を決めてから、例えばウィンチのような電動工具で引けば固定されるはずです」
「そう。それじゃあ、その金具が刺さった跡を探してちょうだい」
初芝はパラペットを凝視しながら屋上を一周し、今江のもとに戻ってきて気まずそうに頭の後ろをかきはじめた。
「なかったのね」
「え、えっと」
「なかったんでしょ」
「いや、ですから」
「なかったと言いなさい」
「そうか。金具なんか必要なかったんだ。この方法ならいける!」
「拝聴しましょう」
今江は人差し指と中指を撮影用カチンコのように動かした。
「重石です。犯人はロープをくくりつけた重石を本館の屋上から投げ落としたんです。人がロープをつたって降りてきてもびくともしないほどの重石。本館屋上の手すりと健診センター屋上の重石との間に走る一本のロープ。犯人はこのロープをつたって健診センターに降りたのです。空中に伸びるロープを誰かに見られたら大変ですから、検診センターに降り立つやすぐにロープを外したことでしょう。重石は屋上から落として、後から回収すればいい。もしくはこの建物にあってもおかしくないものを重石に使ったのかもしれませんね。これならわざわざ処分する手間が省ける。どうです。今江さん」
「その重石って、どれくらいの重さなの」
「重さ?」
呆けた顔で初芝は首をかしげた。
「そりゃ……人間の体重で引きずられても動かないわけですからね。軽いとパラペットまで動いて、飛び越して、そのまま外に落ちてしまいます。十キロ二十キロ、いや三十キロは裕に越す重さだったはずです」
「それを本館の屋上から投げるっていうの。本館と健診センターの間は約六メートル。わたしの細腕じゃとてもできない所業ね」
「犯人はとんでもないマッチョマンだったんですよ」
「マン? 犯人は男性なの」
「揚げ足! それならマッチョウーメンの可能性も考慮します。とにかく犯人はとんでもない筋肉質で、ロープを括り付けた重石を本館の屋上から投げ落としたんです。どうです。これなら侵入経路について説明がつきますよ」
「そうね。それじゃ、探して」
今江は伸ばした右腕を払うように後ろに流した。
そこに広がるのは、防水シートが引かれた屋上の床面。
「……は?」
「だから、探して。三十キロもの重石を落としたんでしょ。六階の高さの屋上から、三階の高さの屋上まで。そんな重たいものを落としたなら、落下エネルギーが加わって床の上に何かしらの跡が残るわよね」
「え、えっと」
初芝はその場に両ひざをつき、舐めるように顔を床に近づけた。
「ずいぶん綺麗な防水シートね。二年前にうちの署の屋上も防水シートを貼り直してね、竣工検査の時に屋上に上ったんだけど、まさにこんな感じだったわ」
たっぷり三十分ほど初芝は屋上をはいつくばって回った。 「うーんうーん」と唸り声をあげる初芝を尻目に、今江は子どもの頃飼っていた小型犬のことを思い出していた。
「……ありません。それらしきものは、何にも」
肩をすぼめて初芝は戻って来た。スーツの膝と袖の部分が茶色く汚れている。今江はため息をつきながら汚れをはたいて落としてあげた。
「す、すみません」
「重石説は捨てなさい。わかったわね」
「はい。でもロープを使って降りてきたと考えるのはいいアイディアだと思うんですよ。それならカメラに映らず侵入できますし」
「わたしはそうは思わない」
汚れた両手をはたきながら、今江は踵を返した。
屋上のドアを開けて室内に戻る。速足で進む今江を初芝は慌てて追いかけた。どこへ行くのかと訊ねても今江は答えない。階段を降り、二階の廊下を超え、渡り廊下を介して本館に入ると、今江は北西にある階段を登り始めた。
「い、今江さん。ちょっと待って……」
今江は左耳にスマートフォンを構え誰かと言葉を交わしている。四階と五階をつなぐ階段に足をかけたところで通話を終えた。
やがて五階の階段を上り切り、黒いドアの前で今江は足を止めた。肩で息をする初芝の後ろから声がした。
「どうもお待たせしました」
現れたのは事務課の五反田課長だった。五反田はすっと前に進み出ると、ノブの横についたテンキーロックを押した。
カチリという音がすると、今江はドアを開けて屋上へと出た。
灰色の空の下、吹き荒れるからっ風が初芝の身体を揺らした。ドアの正面には最奥に院長室が構える六階部分の外壁が伸びており、右手には透明なガラスで覆われた屋上テラスが建っていた。
今江は健診センターを見おろす西側の手すりに近づいた。手すりは白い塗装がところどころで剥げ、赤さびが露出している。
「どうしたんですか今江さん。屋上に来るならそう言ってくれれば」
今江は手すりを握りしめて揺すった。
「ちょっとこっち来て」
「はぁ……」
言われるがまま初芝が手すりに近づくと、今江は初芝のズボンのベルトを握りしめて持ち上げた。
「うわ! わわわわ!」
初芝の上半身が手すりを飛び越えて空中を泳ぐ。
「ちょ、ちょっと刑事さん! 危ない! 危ないですから!」
五反田が慌てた様子で駆け寄り、初芝の上半身を抱えるようにして手すりの内側に引きこんだ。
二人はもつれ合いながら床の上に倒れこむ。こちらの防水シートは長らく張り替えていないのか、二人のスーツは泥だらけに汚れた。
「い、今江さん。一体何を――」
「怖かった?」
食事の感想を訊ねるような口調だった。
「当たり前ですよ! こんな高い所から落ちたら死んじゃうじゃないですか」
「そう。死ぬわ。絶対に、死ぬ」
ぽつりぽつりと、抑揚のない声で今江は言った。
「この屋上からロープで降りてきたって推理は――なるほど、物理的にはあり得るわね。だけど現実的にはあり得ない。殺人の罪から逃れようとする人間は、一線を越えたという意味ではわたしたちと異なる存在だけど、合理的な思考の持ち主であるという点ではわたしたちと同じ。あのね、合理的な人間だったらこんな高いところからロープで降りようなんて思わないわ」
「そんなの心の持ちようによりますよ。捕まりたくない。だけど下川仁を殺したい。そんな狂信的な想いを抱いていれば可能です」
「できない」
今江はしつこく繰り返した。
「人間は死を信じていない。自分が死ぬなんて露とも思っていない。死の存在を信じるのは、それが確かな輪郭を持って目の前に現れた時だけ。たった今あなたが経験したようにね」
初芝の身体が芯からぶるりと凍えた。手すりを超えた瞬間に訪れた浮遊感。その浮遊感に追随して現れた絶対的な恐怖。逃れ得ない死の存在を初芝は感じとったのだ。
「『死』を前にすると人は必ず逃げ出す。『死』とマッチングしない別のルートを探し出すのがまともな人間なの。どんなに強固なロープをもってきたところで、こんな錆びだらけの手すりが信用できる?」
「しかし……」
初芝は周囲を必死に見回した。ロープを固定するようなものは、手すり以外に見つからない。
「詭弁じゃないわ」
今江は片手で手すりを掴んで揺らした。前後に小さく揺れる手すりを見て、初芝は息をのんだ。
「漫画や小説の空想世界なら奇術じみたトリックは許されるのでしょうね。だけどこれは現実なの。現実で起きた何のおもしろみもない殺人事件。犯人は被害者を殺害した後、捕まることを是として認めず現場から逃げ出した。どうして逃げ出したの。捕まりたくないから。どうして捕まりたくないの。自由を謳歌したいから。犯人は生きることを欲した。死ぬことを恐れた。そしてこの手すりの向こうにあるのは高確率の死。故に犯人がロープを使って隣の屋上にたどり着いたなんて推理はあり得ないの」
「それじゃあ、今江さんはどう考えているんですか」
くちびるを尖らせて初芝は言った。
「ぼくの意見を潰すばかりで、今江さんは何も意見を口にしない。ずるいですよ、ぼくばっかり否定されて。今江さんの考えを教えてください」
「わたしの考えなんて、ないわ」
悪びれもせず、開き直るでもなく、無知を誇るわけでもなく、あらゆる価値判断を払いのけるような無感情の声色を今江は発した。
「隠してるわけじゃない。片鱗さえ掴めない。能ある鷹が爪を隠しているなんて、穿った見方もやめてちょうだい。わたしはね、正真正銘、何も思いついていないの」
「そんな……そんな頼りないことを堂々と言わないでくださいよ」
予期せぬ今江の態度に初芝はうろたえた。無感情というよりは灰色。消極的というよりは鈍色。捉えどころがないというよりは玻璃の色。
「そもそもどうしてわたしに頼るの。あなたはわたしと同じ刑事でしょ。自分一人で謎を解くぐらいの気概を見せてくれないと困るわ」
「やめてください。ぼくみたいな若造に何ができるっていうんですか。今だって、見当違いの推理を並べて……恥ずかしいなぁ」
「そう思う気持ちはわかるけど、決して無意味なんかじゃないわ。どんなに非現実的なアイディアだろうと、頭の中だけで判断せず、実際に足を運んで『誤り』だと実証する。そんなことを繰り返していけばいつかは真実にたどり着く。少なくともその点で一歩、あなたはわたしの先を行っているわ」
今江は一度大きくあくびをかみ殺し、腕時計を見た。
「十五時半。秋月先生はもう出勤されたかしら。三階に向かいましょう」
初芝の肩を叩いて今江は階段の方へと向かった。怪訝な顔つきで事務課の五反田が後についていく。
手すりの前に立ち、初芝はいま一度階下を見おろした。全身に引力を感じる。遥か彼方から放たれるコンクリートの誘惑。ふらりと揺れる歪な視界。刃物のように冷たい風が初芝のほほを突き刺した。
「ロープでここを降りる、か」
はははと乾いた笑い声。
「やめよう、こんな馬鹿げた。本当に」
3
エレベーターのかごが三階で停まった。
一階の事務課へ戻る五反田と別れ、今江と初芝は東側のナースステーションへと向かう。
秋月清玄は既に出勤して、医局で事務仕事に勤しんでいるという。PHSで呼び出してもらうと、壁に身体をこすりつけながらナースステーションに向かってくる秋月の姿が廊下の向こうに現れた。
「先生。放射線科からクレームがきてますよ」
ナースステーションにいたおたふく顔の看護師が秋月に苦言を呈した。
「第二外科の健康診断の受診率が非常に悪いと怒っていましたよ。例年通り秋月先生に率先して受けていただかないと、部下の局員達が受けにくいだろと」
「あのねぇ。今年は去年より人員が三人も減ってるの」
今江は坂倉巡査の病院人事に関する報告を想起した。この病院の人手不足は重症だ。
「このくそ忙しいなか健康診断なんて……いいよ。今野くんだろ。あとで話しておく。あぁどうもお待たせしました。お名前、なんておっしゃいましたかね」
「初芝です。こちらは今江」
初芝が小さく頭を下げる。
「初芝くんと今江さんね。お待たせしてしまい申し訳ありません」
「お忙しいみたいですね」
秋月は苦笑をこぼしながら、肩口に触れる毛先を指にからみつけた。
「それで、何を聞きたいんでしたっけ。下川くんを殺した犯人ですか。知りません。ぼくじゃありません。事件については何も知りません。以上です。まだお聞きしたいことは」
「たくさんあります。とりあえず、どこかお部屋をお借りしてもよろしいですか」
初芝が言った。秋月はこめかみを両手でもみしだいていた。
「午前中は面談室を使ったのでしょう。同じ場所に行きましょう」
「その前に306号室の長峰さんと面会したいのですが」
踵を返す秋月の背中に今江の声が突き刺さった。
「い、今江さん。どうして言っちゃうんですか。こっそり行けばよかったのに」
顔をしかめた初芝を無視して、今江は『よろしいですか』と続けた。
「長峰さん。あぁ、長峰さんね。どうしよ。院長先生から警察を患者に会わせるなって言われてるんだけど。どうしても、だめ?」
「どうしても、だめです」
「まぁ、部屋番号まで知っているならね。いいよ。案内する。ついてきて」
ナースステーションから病棟へ進む。角を挟んで南東に分かれる二つのブロックのうち、306号室は東側のブロックに属していた。
病室の中では、左右三つずつに分かれてベッドが設置されていた。ベッドの上にいるのは全員初老の男性だ。
「長峰さん長峰さん。お加減はどうですか」
左側手前のベッドに横たわる男性に秋月は声をかけた。
「おぉ、秋月先生。聞いたよ。下川センセが亡くなったんだろ」
肥満体型のその男は、新聞紙を折りたたんでわきに置いた。
「そのことで刑事さんがお話を伺いたいようで、よろしいですか」
「刑事? ふぅん」
長峰は眼鏡に手をかけ、品定めするように二人を見つめた。
「天神署の今江と申します」
「おたくも刑事さんなの。女性の刑事さんか。階級は?」
「昨夜消灯時間にナースコールを押したと聞きましたが、それは事実ですか」
長峰はむすりと不機嫌な表情で眼鏡を外し、『あぁ』と答えた。
「刑事さんたちは来るのが遅いね。センセと話したのはおれが最後じゃないかって朝から病院中で噂になってな、午前中は何人ものナースがここに話を聞きに来たよ」
得意気な顔で長峰は言った。今江は特別反応を示さず、昨夜のことを話すよう促した。
「夜中に目が覚めて、そのまま寝付けなくなったんだ。入院してからはしょっちゅうだよ」
「ずっと横になっていると身体が疲れませんからね。軽い体操くらいならした方がいいと言ったじゃないですか」
秋月が白い顔を撫でながら言った。
「嫌だね。体操なんて女みたいな。まぁそれで、眠くなるまで横になっているのは退屈でいやだから、こういう時はすぐにナースを呼んで睡眠薬をもらってるんだ」
「睡眠導入剤ですね」
「同じだろ。茶々入れるなって。それで昨日はナースコールを押したら、下川センセが現れたわけだ」
「下川先生が現れた。間違いありませんね」
語気を強めて初芝が訊ねる。長峰は肩をすくめながらうなずいた。
「間違いないよ。ドアが開いたらナースじゃなくて下川センセがいてね。ベッドの横に来て、『眠れないんですか』って言ったな。おれがうなずくと、坊主頭を撫でてからいつもの薬をくれたよ」
「下川先生とは親しかったのですか」
「主治医だった。そうだ、センセが死んで、おれの主治医は誰になるのかね」
長峰は落下防止の手すりに寄りかかり身を乗り出した。
「今夜の会議で決める予定です。まだ何とも言えません」
秋月が答える。
「でも決定権は先生にあるんだろう。先生は第二外科でいちばん偉いんだから。頼むよ。先生が担当しちゃくれないか。糸島はダメだ。あいつだけは絶対にやめてくれ。あんなたまなしに診られるのはごめんだよ」
「善処します。約束はできませんが、大丈夫ですよ。誰が担当につこうと、他の職員たちでバックアップしますから」
4
秋月医師の案内で面談室に入る。午前中に二人の看護師から話を聞いた際に使用したのと同じ部屋だ。
「どうですか。捜査は順調ですか」
秋月が訊ねる。
「ぼちぼちです」
眉を寄せながら初芝は苦笑した。呼応して秋月も歯をみせて苦笑する。苦笑のデュエットを横目に、今江はため息をついた。
「それで、何をお答えすればいいのかな。刑事ドラマだとこういう場合、殺意だとかアリバイだとかを訊ねられるのが定石ですよね」
秋月は居住まいを正し、今江の方に身体を向けた。
「下川仁さんとはどのようなご関係ですか」
今江が口火を切った。
「それぐらい、もう調べはついてるでしょ」
「はい。ですから、先生のお口から聞きたいのです」
「残念ながら面白い話はありませんよ。あっちは研修医でぼくは助教授。彼と初めて出会ったのは、前期研修医として第二外科に来た時だ。あの頃から、無口で存在感のない男だったよ。『どこの医局に入りたいの』て訊ねたら、第二外科て答えて驚いたね。普段の仕事ぶりからは第二外科に対する熱意なんて全く感じられなかったから」
「普段の仕事ぶりと言いますと」
初芝が訊ねる。
「普通の研修医は配属を希望する医局に前期研修医として訪れたら、必死にアピールするのが当たりまえなんだよ。でも下川は違った。無表情で仕事をこなすだけで、担当の患者さんが退院しても笑顔一つ見せやしない。第二外科の仕事には興味がないと思って当然でしょう」
「手を抜いていたというわけですか」
「いや。その逆。下川の仕事は完璧だった。前期研修医にしちゃ十分すぎるほど医療に通じていたし、小難しいことを教えても真綿が水を吸うように吸収した。愛嬌のない下川を嫌う職員や患者はたくさんいたけど、医者の仕事を『病を治すことそれのみに限る』と定義するなら、彼は最高の医者だったよ」
「彼に殺意を抱いているひとに心当たりはありますか」
「そんなやついないでしょ」
「コリンズ・竜一を知っていますか」
「彼にそんな度胸はない」
二本の人指し指を突き上げて秋月は言った。
「ある種の獰猛さは臆病の裏返し。彼は偉大な御父上のもとに生まれながら、こんな島国で縮こまっている自分にコンプレックスを抱いている。ご存じでしょう。竜一君の御父上はあのキングスメディカルセンターの外科医局でメスをふるっているミハイル・コリンズ医師だ」
キングスメディカルセンターも、ミハイル何某も、今江と初芝には初耳だった。肯定とも否定とも取られ得る曖昧な初芝の笑顔を経て話は続く。
「竜一くんの技量もまずまずだが、はっきり言って下川には劣る。変にライバル視していたらしいけど、医局の違いは畑の違い。競争相手は自分の畑で見つけてほしいね」
「ドクターコリンズは下川さんを敵視していた。それは、医師としての技量に対する嫉妬心からですか」
両目を細めて今江が訊ねる。前髪がはらりと崩れた。
「そりゃもちろん。それ以外に理由なんてないでしょう」
秋月は星野女史を間に挟んだ三角関係についての顛末を知らないのだろうか。嘘をついているようにも見えず、初芝は口を閉じたまま奥歯をちろりと舐めた。
「たいへん参考になりました。もっとも、ドクターコリンズには昨夜のアリバイがあるようなので、彼が犯人である可能性は非常に低いのですが」
「はぁ。そうですか」
「失礼なことをお聞きしますが、下川さんが医療ミスで患者さんとのトラブルに見舞われたことはありましたか」
「ない。彼に限ってそんなもの。愛想が悪いことでよくけちを入れられたけどね」
「ありがとうございます。次に、昨夜先生がどちらにいらっしゃったかを教えてほしいのですが」
「もったいぶった言い方をするなぁ。ようはアリバイがあるかを教えろってことでしょう」
「話の早い方は好きですよ」
「同感。何ことも早くやるにかぎる」
重心を背もたれにかけ、椅子の前足を宙に浮かせる。リラックスした表情で天井を見つめる秋月は『たしか昨日は』と呟いてから――
「そう。昨日は十九時ごろに医局に戻ると、売店で買っておいたおにぎりと総菜を食べながら論文の査読と書類仕事をしていたんだ。夜の十時になるとさすがに眠くなってきて、仮眠室に向かったよ」
「なるほど。その後は」
「本音を言えば朝までぐっすり眠りたかった。というか、眠れると思ってた。二日連続の当直でくたくただったんだ。昨日は腕の立つ下川が一緒に当直に入ってくれてたからね、よっぽどのことがない限りぼくの出番はないと思っていた」
――ところが――
「よっぽどのことが起きた。三時頃にPHSが鳴って目を覚ました。複雑性腸閉塞の緊急手術だ。オペ室に向かってみたら、下川がつかまらないと篠栗たちが騒いでいたが、その頃下川がどこにいたかは刑事さんたちもご存じしょう。結局下川抜きでオペを行い、五時過ぎに手術は終わった。そのあとは医局のソファーに倒れこんで眠ったよ。四階の仮眠室まで戻る元気もなかったんでね」
「ありがとうございます。大変参考になりました」
目線を手元に降ろしたまま、今江は手帳のページを一枚めくった。
「手術はどなたが助手についたのですか」
秋月の目がギラリと光った。
「研修医の糸島だよ。彼も当直にあたっていた」
「昨夜は手術をする前に糸島さんに会いましたか」
視線を手帳に落としたまま今江が訊ねる。
「医局に来たかな。わからないや。あいつ、当直の時間中に院内を徘徊する癖があるんだよ」
「糸島さんはどんな人ですか」
「快活とは言えないね。人付き合いは苦手だけど、彼なりにがんばって勉強しているよ。ご実家は内科の開業医で、長男の彼は子どもの頃から医者になるようご両親に厳しく躾けられてきたらしい。スパルタ式の勉強が人格形成に影響してるんじゃないかな。それと彼、血が苦手でさ。外科の仕事にかなりうんざりしているみたいだよ」
「血が苦手。そんな彼と二人で腸閉塞の手術を行ったのですか」
今江が訊ねた。秋月は頬を上下させ、その視線は逡巡の色を伴って泳ぎ始めた。
「こんなことを申しても釈迦に説法でしょうが、手術とは一般的に三人の医師によって行われるのではないのですか。実際にメスをふるう執刀医と二人の助手。第一助手は執刀医の前に立つから『マエダチ』と呼ばれるんでしたっけ」
「二人で行う手術もあります」
「それでも、あなたの助手は血が苦手な若き研修医ただ一人だった。複雑性腸閉塞とはそれほど簡単な手術なのですか」
秋月は充血した両目をごろりと転がした。
「刑事さん。昨夜の手術が事件と何か関係があるのですか。手術は本館三階で行われ、遺体は健診センター二階で見つかった。関係なんて何も――」
「ないでしょうね。きっと、ありません」
今江は手帳から顔を上げた。
「ただ、気になるだけです。納得がいかない。釈然としない。あなたが昨夜手術を行ったことは疑う余地はありません。患者を、記録を、その他全てを偽造するなんてとてもできない。事実として手術は行われた。しかし、二人で? 血の嫌いな研修医と二人で手術を行った。わたしには納得できません」
「納得していただくしかありません」
両腕を深く組み、秋月は鼻息を荒くした。
「まぁしいて言うならば――手術とは医者だけでやるものではない。そういうことです」
秋月は椅子から立ち上がると、腰に両手を当てて上半身を大きく反らした。
「手術の話を聞きにきたわけじゃないでしょう。これ以上お話しすることがないなら、失礼してもよろしいですね」
「すみません。もう一つだけお聞きしたいことがあるのですが」
「事件と関係があることでしたらどうぞ。ミセスコロンボ」
「下川さんと、星野医師に関することです」
「星野?」
秋月は細い眉を潜めた。
「内科医の星野先生です。星野さんは下川さんと同期だそうですね」
「そうだったかな。ぼくは星野先生と親しいわけじゃないから。それで、星野先生がなんだっていうのかな」
「事件の三週間前に、下川さんは星野先生とファミリーレストランで食事をされていたそうです」
初芝が身を乗り出して言った。
「へぇ。あの下川が。高嶺の花に手を出したってわけか。やるじゃないか」
秋月はけらけらと声をあげて笑った。
「初耳だ。ぼくはその手の情報に疎いものでね。子どもの頃から勉強ばかりで、女性とまじめに交際したのは高校時代が最後だ」
「甘酸っぱい青春ですね」
「相手は二回りも年上の人妻」
「酸味が過ぎます」
「冗談だよ。なんだい、君らは今回の事件が痴情のもつれから生じたとでも考えているのか。なんだか急に安っぽい昼ドラの様相を呈してきたなぁ」
「星野先生は下川さんに呼び出されたそうです。恋慕の情ではないようです」
「本当かなぁ」
「星野先生本人から聞きました。下川さんは星野先生に、先月の『会議』について訊ねたそうなんです」
秋月はくちびるにそっと手を添えると、口の中で『会議』とつぶやいた。
「会議って、なんの」
「わかりません。何か思い当たることはありませんか」
「会議なんて、この病院では大なり小なり、毎日催されてるよ。というか何。星野先生は教えてくれなかったの」
「雲仙先生が割り込んできたんですよ」
初芝はほほをふくらました。
「当直明けの星野先生を長々と拘束されては困るって。あとちょっとで『会議』について聞くことができたのに」
「雲仙先生がねぇ」
「『会議』と聞くと、雲仙先生は慌てて星野さんを部屋の外に追い出しました。『会議』について知られると何かまずいことがあるのでしょうか。星野先生は、それが雲仙先生にとって都合が悪いことだとは思ってもいなかった様子でしたが」
秋月は親指の爪を齧りながら唸り声をあげた。剥がれた爪の表皮を引きちぎり、足元に向かって吐き出す。
「会議、会議、会議。いったい何の会議のことだ。雲仙先生は第一外科。星野先生は内科だ。二人が一緒に参加した会議なんてあるのか」
「思い当たりませんか」
「思いつかない。雲仙先生は外科医局のトップだ。あの人が参加するような会議に、他の医局の研修医が席を並べるなんて。そんな会議、あったか?」
「今江さん。提案です」
初芝が身を乗り出して手を挙げた。
「これから星野さんのお宅にうかがいましょう。本人の口から直接聞くのが一番ですよ」
「それは無理ね」
視線を交わさず今江が答える。
「無理ってどういう意味ですか」
「言葉通りの意味。言ったところで教えちゃくれないわ。あのね。面談室から星野さんを逃がして、それでおしまいのはずがないでしょ」
「……はい?」
口もとを手で覆いながら、秋月が声を立てて笑った。
「刑事さんの言う通りだ。あの雲仙先生ならやりかねない。やるね。絶対に、やる」
「え、え。ちょっと、二人だけで納得しないでくださいよ」
「若いなぁ、刑事さん。つまりさ、『教授職』という雲の上から、身分卑しき研修医に神託が下されたというわけだよ」
「意味不明が加速しました」
「口止め。雲仙先生は、『会議』について公言しないよう口止めしたに違いないって言ってるの」
「え、えええ」
初芝は悲鳴をあげた。
「刑事さんたちが後になって星野先生のもとを来訪するのは確実だ。眼を離したすきに『会議』について話されちゃ意味がない。雲仙先生は、落合院長の後釜として第一外科のトップに君臨した。病院職員の目からすると雲仙先生はいつも院長の後光で輝いている。この病院で長く働きたいっていうのなら、その後光に頭を垂れるのが正しい判断だ。そして、星野先生は正しい判断がとれる人だ」
――悲しいことにね――と秋月は繋いだ。
「『会議』か。ちょっとぼくも気になるな。時間があるときに調べてみるよ」
「よろしいのですか」
「うん。ぼくまで後光を拝み倒す必要はないから」
「そっか。秋月先生は第二外科の先生だ。聞きましたよ、第一外科と第二外科の遺恨の話。雲仙先生は分裂した二つの外科を一つにまとめようと画策しているんですよね」
あけすけな態度で初芝が言った。すかさず今江が後輩の頭を平手で振りぬいた。
「すみません。失礼なことを申しました」
テーブルの下で悶絶する初芝に代わって今江が頭を下げる。秋月は苦笑しながら両手を振った。
「さすがは刑事さん。情報が早いね。だけど、少しばかり誤解されているようだ」
――誤解?――とテーブルの下から声がした。
「たしかにぼくは雲仙先生のことを嫌っている。だけど、外科医局の再統合には決して反対してはいない。むしろ賛同しているくらいだ」
「それは本当ですか」
神妙な顔つきで今江が訊ねた。
「第二外科独立の旗を掲げた神原先生は亡くなり、そのあとを継いだ関先生は心労が重なり臨床の場から遠ざかった。そんな先人たちの無念を晴らしたいとは、思わないのですか」
秋月は首をふった。
「医局をまとめられるのは神原先生や雲仙先生のような超人だけだ」
「超人……?」
「そう。超人。ぼくはね、第二外科医局トップの席に着いて驚いたよ。医局のトップは文字通り死ぬほど忙しい。神原先生や雲仙先生のような尋常ならざるスタミナの持ち主でなければできない仕事だ。ぼくや関先生のような凡人にはとてもできない」
秋月は部屋のすみに置かれた観葉植物の前にしゃがみ込むと、白く細い手で緑色の葉に触れた。
「第一外科の配下に戻って、流されるままに生きてみたい。そんな希望が、ぼくの中にはあるんだよ」
5
データセンターのドアを開けると、季節はずれのアロハシャツをまとったミキが、厚切りのバウムクーヘンを頬張っていた。
「げふん。どうも失礼」
ミキはバウムクーヘンをごくりとのみこんでから言った。
「隣からおすそ分けをもらったの。玉島屋のバウムクーヘンて知らない? テレビによくでてる有名なやつ」
パーテーションの向こうにある休憩室から、さわがしい声が聞こえてくる。刑事たちが入って来たのにも気づかず、中の人たちはおしゃべりを続けているようだ。
「刑事さんたちも食べる?」
「いや、われわれは……」
「いただきます」
今江の意外な言葉に初芝は目を丸くした。
「何よ」
初芝の目を見ることなく今江が言った。
「おやつをいただくにはちょうどいい時間でしょ」
壁にかかったアナログ時計は午後四時三十分を示していた。
「お昼ご飯は食べないくせに」
「なにか言った」
「いえ何も」
二人の刑事はミキに続いてパーテーションの向こう側に入った。
私服姿の女性たちがソファーに座り、バウムクーヘンと紅茶、それから決して上品とは言い難い声量の会話を楽しんでいる。二人の闖入者が現れ会話が途切れたが、ミキの紹介で『なるほど』と彼女たちは肩をなでおろし、途切れた会話は再開された。
「みんなこれから当直に入る看護師さんなの。仕事の前にここに集まって、おやつを食べるのが日課なわけ」
ティーバッグや茶菓子、コーヒーカップが置かれたテーブルの前でミキが言った。紅茶を準備するミキの横に、カーキ色のジャンパーを羽織った若い女性が現れ、二枚の皿をバウムクーヘンの前に置いた。
「あ、ありがと。ひぃちゃん今日も当直?」
『ひぃちゃん』と呼ばれた女性は『まぁね』と短く返事をした。糸のように細い目をした『ひいちゃん』は、器用にバウムクーヘンを切り分けた。
一輪の白梅が描かれた小皿にバウムクーヘンが乗せられる。小皿は音を立てずに二人の刑事の前に置かれ、『ひいちゃん』は私服姿の看護師たちの群れの中に戻った。
「どっちかがダージリンで、どっちかがアッサム」
ミキはカップの取っ手を掴みながらソファーに戻って来た。テーブルに置いた際にカップが傾き、ほんの少し中身がこぼれる。
「実はミキさんにお願いがあってここに戻ってきたの」
バウムクーヘンにフォークをさしながら今江が言った。
「うちに?」
「現在進行形で院内の誰かが、監視カメラの映像を覗き見しているはず。それが誰なのか確かめてくれない」
「え。それって、誰かが別のPCから監視カメラの映像を見てるってこと?」
「そう。院内のオンライン環境は共有化されていて、ここ以外のPCからもカメラのデータにはアクセスできるんじゃないの」
「できないことないけど、管理者パスワードが必要だし、誰のPCでも簡単に見られるもんじゃないよ。ちょっと待ってて」
ミキはパーテーションの向こうへ飛んでいった。
「どういうことです」
カップの縁を掴みながら初芝が訊ねる。
「監視カメラを? いったい誰が。何のために。昨夜のデータを見るならまだしも、今現在のデータを見たところで」
今江は無言のまま立ち上がり、ゆっくりとミキがいる方に向かった。カップを置いて初芝もその後に続く。
「うわー。マジか」
PCの前でミキは驚嘆の声をあげていた。折り曲げた両脚をオフィスチェアの上に乗せて、ゆらゆらと不安定に身体を揺らしている。
「刑事さん、どうしてわかったの」
「誰かが見ていることはわかってたんだけど、誰が見ているかまではわからなかった。それで、誰なの。雲仙先生?」
「ううん。こっちにアクセスしてきてるのは落合いんちょ――」
その時、データセンター入り口のドアが開いた。
「やぁどうも。捜査ははかどっていますかな」
そこにいたのは落合院長その人だった。
快活な足取りで落合は今江に近づく。正面に対峙した今江は、口元についた紅茶を指で払った。
「落合&雲仙の師弟コンビは、ずいぶんとわたしたちの動向に興味を抱かれているようですね」
毅然とした態度で今江は言った。落合は鼻先で笑い、上目遣いで今江を見つめる。
「やはり気づかれましたか。データセンターに戻られる姿を見て、もしやと思いましたよ」
「院長室のPCからわたしたちを観察していましたね。院長先生とはそんなにお暇な役職なのかしら」
「まさか。休日の研修医を三人ほど呼び集めてPCの前に座らせているだけですよ。わたしが直接お願いをしたら、矢も楯もたまらないといった様子で協力してくれました。まったく、ありがたい話ですね」
「そりゃそうでしょう。院長の依頼を断って、明日から医局の椅子がなくなったりしたら大変ですもの」
落合の瞳が銀色に輝いた。鉄火肌の今江は相も変わらず憮然とした態度だ。
「どうしてわたしたちを監視しているのですか」
「それなら先に、どうして自分たちが監視されていると思ったのか教えていただきたいですなぁ」
「雲仙先生です。わたしたちが星野先生と話をしている時に、雲仙先生は面談室に飛び込んできました。五階にある面談室に、三階の外科医局の雲仙先生が飛び込んできたのです。どうして雲仙先生は、わたしたちが面談室にいることを知っていたのでしょう」
「誰かが教えたんじゃないかな」
「刑事が星野先生のもとに来たら自分に伝えろ? どうしてそんなことが。豈図らんや。そんな依頼を受けた方は不審に思うに決まっています。院内での評判に傷がつく可能性があります。それよりももっと簡単な方法がある。カメラです。この病院には常軌を逸する量の監視カメラが設置されている。そのカメラの映像を見て、わたしたちの行動を監視すれば、星野先生と接触したタイミングがわかるというわけです」
「はは。なるほどねぇ」
落合は白髪混じりの髪を手ぐしで整えた。
「とはいえ、非難されるいわれはありませんな。院長が院内のカメラをチェックして何か問題でも?」
「まさか。問題はありません。問題はありませんが、その理由は気になります」
今江と落合は、互いに一歩も譲らず視線を衝突させた。まばたき一つしない二人の様子を、パーテーションの陰から看護師たちが覗いている。
「『会議』とは何ですか。下川さんは何を調べていたのですか。あなたたちは、いったい何を隠しているのですか」
「人聞きの悪いことをおっしゃる」
落合は目玉が飛び出るほど大きく瞼を開いた。
「わたしは病院の治安を守るためにカメラの映像を視ていたに過ぎません。病院とは、患者と医療者の二者のみが立ち入ることを許された境界です。あなたたちのような悪性腫瘍にうろちょろされては困るんですよ」
「警察ですもの。今までもいろいろと悪口を言われてきましたがね」
今江は右ほほを吊り上げて顔半分で笑った。
「悪性腫瘍と呼ばれたのは初めてですよ」
「隠していることなんてありません。それより、あと数時間であなた達が来てから十二時間が経とうとしています。どうです。犯人の目星はついたのですか」
「捜査に関することはお伝えできません」
「どうやら犯人はまだおわかりにならないようですね」
落合の顔が愉悦に曲がった。
「そちらの若い刑事さんを見ればわかります。わたしの質問を耳にして、表情をこわばらせた。もし犯人の目星がついているなら余裕のある表情をみせるはずです。違いますか」
初芝は片手で自分の顔に触れた。力の入った表情筋を必死になってもみほぐす。
「ということはやはり、自殺ということでしょうな」
「え」
額をつまんでいた指を離して、初芝はグッと身を乗り出した。
「じ、自殺って。どういうことですか」
「簡単な話です。下川くんは自分自身でナイフを胸に突き刺したんです。聞きましたよ。現場の入り口には監視カメラが設置されているのに、どのカメラにも犯人の姿は映らなかった。実質的に閉ざされた空間。つまりは密室。この密室に犯人はどうやって侵入したのか。いいえ。もとから犯人などいなかった。あえて言うならば、カメラに映った下川くん本人が犯人なのです。何故なら下川くんは、自分自身の手で自らの命を奪ったのだから」
「動機は。自殺をする理由が下川さんにあったのですか」
今江の視線が落合に突き刺さる。しかし落合はそれを軽くいなした。
「最近の若者は思慮ってものにかけてますね。恋人にふられたとか、上司に怒られたとか、そんな下らない理由で心的外傷を受けたと戯言をぬかす。そんな戯言に操られ、一時の気の迷いで命を落とすのです」
「それが……それがあなたの望む結末なのですか」
今江が静かに叫んだ。
「院長先生。はっきり申し上げます。この病院に部外者が隠れて侵入するのは非常に難しい。下川さんが誰かに殺されたとしたら、その犯人はこの病院の中にいることになる」
パーテーションの陰から小さな悲鳴があがった。
「あなたは病院の人間が犯人として告発されることを恐れている。スキャンダルを恐れているんだ。だからあなたは、狂った職員が自刃に倒れたというシナリオを望んでいる。山吹医科大学附属病院にとって、もっともリスクが小さい結末を願っているのでしょう」
「ふん。くだらない」
侮蔑の視線を添えて落合は笑った。今江の横で初芝はくちびるを噛み、背中に回した拳をにぎりしめた。
「健診センターは地域の皆様の健康管理を担う重要な医療施設です。真相がわからないからといっていつまでも閉鎖されては困ります。早急に営業を再開したいのです。地域のみなさんが安心して利用できるよう、土曜日には何らかの形で事件の真相をお伝えしていただきたいですな」
「土曜日って……」
初芝は壁にかかったカレンダーを見つめた。今日は十二月十六日。水曜日。三日後には土曜日だ。
「そんな無茶な。殺人犯ってのはそんな簡単に見つかるものじゃありません」
「ならばもっと簡単な答えを、わたしが提示したでしょう」
「落合院長!」
「これ以上の話し合いは無駄なようですね」
落合は踵を返し、ドアへと向かった。
「病院長ともなるとそれなりに顔も広くてね、天神署程度に圧力をかけるくらいは簡単なことです。下手に意地をはると出世争いの椅子取りゲームから脱落しますよ。よく考えてください。あなたたちにとっても悪い選択ではないでしょう」
「いいえ、最悪ですね」
落合の背中に向かって、今江は唾を吐いた。
「本当に、最悪です」




