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幕間E

 法律ほうりつは手帳の電話番号を確認すると、鼻歌を奏でながらスマートフォンのキーパッドを叩き始めた。

 コール音を耳にしながら鼻歌を続ける。オアシスの『モーニンググローリー』のサビに入りかけたところで電話はつながった。

 電話口から、〇.五倍速にかけたような老婆の声が聞こえてくる。こちらも〇.五倍速の口調で名乗る。老婆は法律の名前を聞いて歓喜の声をあげた。

 「はぁぁ。ほぅちゃん。あのめんこいほぅちゃんですか。えぇえぇ。覚えてますとも。お元気にしておりましたか」

 「本当にご無沙汰しております。元気ですとも。菊代きくよさんのお加減はどうですか」

 「えぇえぇ。菊もすっかり齢をとりましてね。最近は玄関を降りるだけで一苦労ですよ。去年先生が自ら手すりを作ってくださるとおっしゃいましてね、いざ完成してみたら、靴箱の前にぽんぽんと手すりが立ってるじゃないですか。わたしゃ驚いて声も出ませんでしたよ。先生のお靴がだせないじゃないですか。覚えてらっしゃるでしょう。先生はお靴の収集家で、履きもしないお靴をお屋敷の中に大量に溜めこんでおりますの。冬眠中のリスみたいで情けないったらありゃしない。いえ、リスはちゃんと蓄えたエサを食べるんですから、リス以下ですね。ひっひっひ」

 菊代のカンカン声を耳にしているうちに、法律の脳裏に、十年以上も前の記憶がよみがえってきた。

 十代後半の法律少年は実の妹に会うために、海食崖の上に建つとある洋館を訪れた。

 当時高校生の妹は部活動の合宿のためその洋館にはいなかった。三日後に帰ってくるという妹を待つ間、法律は洋館の近くにある漁村を探索することに多くの時間を費やした。

 初めは興味本位で漁村を練り歩くに過ぎなかったのだが、漁村に隣接する漁港で起きた殺人事件に巻き込まれると、警察嫌いの漁港職員たちの依頼で捜査のために漁村を練り歩くことになった。

 漁港の職員の多くはその漁村の住人達だった。半日ほど漁村を歩き回り、とある民家の前で大量の干物が置かれた網を野良猫たちといっしょに眺めていると、法律は事件の真相にたどり着いた。閑話休題。

 「『靴箱からお靴が出せないじゃないですか』とわたしが声を荒げますとね、先生ったらきょとんとした顔で『人間工学的観点から設計するとこの場所に設置するのが最適です』なんておっしゃるんですよ。もう菊は飽きれてものが言えませんで。おかげで今も玄関の床は先生のお靴が散らばっておりまして、それを避けてかまちにあがるのに難儀しております」

 「ははぁ。それは大変ですね。先生もかわらないなぁ」

 法律と菊代は三十分の時間を過去の思い出話に費やした。スレート屋根の上に立つ風見鶏が台風に吹かれて文字通り空を飛びあがった話の途中に、菊代は小さな悲鳴をあげた。

 「あぁびっくりした。先生、いつからそこにいらっしゃったのですか」

 息を切らした菊代の声の後ろから、男の小さな声が聞こえる。

 「法律様です。恒河沙ごうがしゃの法律様。あのかわいいほぅちゃんが電話をしてくださったのですよ。あぁ、そうですね。法律様。もしかして先生に御用があったのでは。何ですか。それならそうと最初からおっしゃってくださればよろしいのに。さささ。いま先生に代わりますのでね。はい、どうぞ先生」

『ありがとう』という小さな声の後に、こつんと受話器を耳に当てる音が聞こえた。

 「お電話代わりました」

 その声を聞いて法律の心中に安堵の気持ちが訪れた。

 愛する妹を立派な淑女に育てあげてくれた先生・・の声。抑揚のない無色透明なその声は、冷静沈着な彼の性格を著しく現わしていた。

 「法律です。どうもご無沙汰しております」

 「何の御用ですか」

 無愛想ここに極まりといった口ぶり。しかし法律が心を害するようなことはなかった。

 法律は彼の性格を知り尽くしていた。決して悪意や無関心がその声に抽出されたわけではない。十年前に心に深い傷を負い、実の父親から逃げ出した男からの電話。何の用で自分に連絡をしてきたのだろう。思いつかない。わからない。気になる。早く教えてくれ。そんな意志が『何の御用ですか』なる言葉に抽出されていた。

 つまるところ、この男は壊滅的なまでにコミュニケーションが下手なのだ。

 「山吹医科大学附属病院で殺人事件が起きました。昨夜の話です」

 返事はない。驚嘆の声もない。ましてや、ショックのあまりに息をのむなんてことも。

 「病院の研修医がナイフで胸を刺されて死亡しました。検視官は死亡推定時刻を午前零時から前後一時間以内とみています。ですが、当直の看護師は午前一時以降に生きた被害者と接触しているそうです」

 「それがどうかしたのですか」

 けろりとした口調で彼は言った。

 「その程度の錯誤を解く仮説なら、現時点で三十二個ほど供することができます。警察は決して馬鹿ではありません。どんな奇怪な事件も、時間さえあれれば解決されます」

 それだけですか、と彼は続ける。受話器の後ろで菊代が声を荒げている。高圧的(と取られても仕方がない、言うまでもなく本人にその気はない)な主人の口ぶりを非難しているようだ。

 「心配ではないのですか」

 「何がですか」

 「愛娘まなむすめが働いている病院で殺人事件が起きたのですよ」

 「わたしはあの子の親ではありません」

 「二歳から育てていらっしゃる。親同然だ」

 「理人りひと氏から依頼されたに過ぎません」

 「それでも、親同然だ」

 「用はそれだけですか。それなら、電話代がもったいないので」

 「いえいえ。実はもう一つお伝えしたいことがあります。かつらさんが警視庁の刑事を事件現場に送り込みました」

 「警視庁の桂十鳩(じゅうばと)ですか」

 逡巡の間もなく彼は言った。

反謎アンチミステリー』の名を冠する名探偵恒河沙理人(りひと)の弟子の一人として、彼は過去何度も桂と共に怪事件の捜査に尽力した。彼は桂をよく知っていた。所轄で起きた()()()殺人事件に、()()桂がその食指を伸ばすなど、ありえない。

 「桂十鳩の目的は、()()()ですか」

 彼は訊ねた。

 「もちろんそうでしょう。ぼくは先月、恒河沙理人に代わって桂さんと手を結びました。ですが、ぼくはまだ未熟です。妹たちの力を借りてやっと一人前。そこで皆に協力を依頼したのですが――」

 「あの子は断った」

 「わかりますか」

 法律は尻からソファーに飛び込んだ。ぼすりと身体が沈みこむ。

 「もちろんです。十年前の事件を経て、あの子はあなたに深い失望を覚えました。恒河沙探偵事務所に戻るなど、ありえない」

 失望。そうだ。十年前のあの日、法律は失態を犯した。パトカーの前で人形のように崩れ落ちる兄の姿を見て、その妹はいったい何を思ったのだろう。

 「ですが、桂十鳩は『恒河沙』の名前に執着している」

 彼が言った。

 「職場で起きた怪事件に、あの子は否が応でも反応する。恒河沙の血が騒ぎだす。桂十鳩は、あの子の様子を探るために刑事を送り込んだわけですね」

 「どうでしょう。今も昔も、桂さんの考えてることはわかりませんから」

 「なるほど。それで、どうしてあなたはわざわざわたしにこのことを教えてくれたのですか」

 法律の心臓が音を立てて飛びあがった。

 一秒にも満たない沈黙のすき間が、法律には永劫の如く思われた。

 「伝えるべきかと思いました」

 「嘘をつきましたね」

 責めるでもなければ、嘲笑うでもない。

『嘘をついた』という、この世界に存在する事実についての言及。一切の抑揚を欠いた冷たい声が法律の脳髄を麻痺させる。

 「義務なんて感じていないでしょう。きみが本当に思っていることを正直に吐き出してください」

 「ぼくは桂さんに感謝しています」

 法律は額に手を置いた。

 「ぼくはあの子に拒絶された。もう探偵には戻らない。協力はできないとはっきり拒絶されたんです。あの子はいまの自分を愛している。探偵ではなく、医療に従事する道を彼女は選んだ。だけど桂さんの企てが成功した暁には、ぼくはもう一度頭を下げるつもりです。いっしょに戦ってくれないかと、探偵事務所に戻ってくれともう一度頼み込むつもりです。先生は、こんなぼくを許してくれますか」

 「許しますよ」

 即答だった。

 「許します。わたしもかつては探偵業に従事した男です。探偵という仕事の持つ魅力を否定するつもりはありません。だから、許します。ぼくの中の探偵は、法律くんを許します」

 「先生」

 「……そのかわり、条件があります」

 言い淀んだ。つばを飲んだ。彼の声の変化に法律は気づいた。初めて見せる感情の発露。それは――それは――

 「あの子を二度と悲しませないと約束してください。十年前のような悲劇は絶対に起こさないと。理人氏の手の上で踊らされるような無様なまねは二度としないと、いま、ここで誓ってください」

 それは――熱を帯びた、我が子を想う、父親の声だった。


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