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第一章

山吹医科大学附属病院 外部

挿絵(By みてみん)



山吹医科大学附属病院 本館 健診センター

挿絵(By みてみん)




 1

 内線のコール音が静寂を切り裂いた。

 電話機の赤い点滅の上には『救命救急センター』と書かれたラベルが貼られている。篠栗(しのぐり)さおりは脳髄(のうずい)を覆う眠気を追い払い、受話器に手を伸ばした。

「はい。東3階ステーション」

「救急です。当直の先生はいますか」

 受話器の向こうから落ち着きと焦燥を混ぜ合わせたハスキーボイスが聞こえる。

「どうしたんですか」

 ナースステーションの中央テーブルで電子カルテを眺めていた谷岡(たにおか)汐音(しおね)が、怪訝な視線を篠栗に送った。篠栗は後輩看護師に向かって胸ポケットのPHSを指さした。

「緊急手術。複雑性の腸閉塞(イレウス)です」

救急車(マルキュー)来ましたっけ」

 船をこいでいる内にサイレンの音を聞き洩らしたか。篠栗の心臓がキュッと小さくなった。

「いえ。家の車で来たみたい。腸閉塞なのに。信じらんないですよね。あ、ちょ……」

「今日の当直は誰だ」

 ハスキーボイスに代わって、泥酔したウシガエルのような声が受話器から聞こえてきた。救急救命センター実()部隊のトップを務める、甲斐(かい)三紀彦(みきひこ)助教授だ。

秋月(あきつき)先生と下川(しもかわ)先生、それと糸島いとしま先生です」

「下川ね。糸島ってやつも研修医だな。まぁ秋月がいるなら大丈夫だろ。三人とも手術室に送れ。患者は七十八のジイさんだ。血圧ドウルック最悪、脈拍プルス最悪、グラスゴーもひどいな。腸閉塞をただの腹痛と勘違いして布団の中で朝まで乗り切ろうとした大馬鹿ジジイだ。メンタルこそ強靭で診察台の上で強がってはいたが、身体の中は年相応にボロボロ。下手すりゃ二度と朝陽あさひは拝めんかもしれん。悪いがこっち(救急救命)も今夜は手一杯だ。あとは専門家に任せる」

「わかりました」

 篠栗の耳から受話器が離れるのとほぼ同じタイミングで谷岡が声をあげた。

「糸島先生と連絡が取れました。すぐに手術室に向かうとのことです」

「あの子また院内を徘徊していたの。眠気覚ましなんてしないで、医者らしく仮眠室にいればいいのよ」

 篠栗もPHSを手にとる。

「下川くんに連絡して。私は秋月先生に」

 篠栗はPHSで秋月清玄(せいげん)を呼び出す。秋月はスリーコールで電話にでた。

「……もしもし」

「先生。緊急手術です。複雑性腸閉塞。七十八歳男性。長いことがまんしていたらしく、かなり危ない状況みたいです」

「死ぬほど眠い」

 抑揚のない秋月の声に、篠栗のほほがひくりと波を打った。

「患者さんは死ぬほど苦しんでいるんですよ。早く起きてください」

「わかった。わかったから。下川と糸島は」

「糸島くんはもう手術室に向かっています。下川先生は、そっちにいませんか」

「いま、谷岡がコールしているの」

「はい」

 秋月は電話口で黙り込んだ。仮眠室の暗闇の中で、下川のPHSのバイブレーションの音を探しているのだろう。

「いないな」

 深いため息のあとに秋月は言った。

「とにかく谷岡は下川を呼び続けて。二人だけじゃオペはできない。最悪他所(よそ)から借りてくるか。いや、雲仙うんぜん先生に何を言われるかわかったもんじゃないな」

 通話を終え、篠栗は谷岡の方を向いた。

「出ない?」

「出ません。コールはずっと鳴っているんですけど」

「構わないから続けて。どこ行っちゃったんだろ。少し前までここにいたのに」

 篠栗は壁掛けの時計を見た。現在の時刻は午前三時二十分。つい三十分ほど前、下川(ひとし)研修医はこのナースステーションで解剖学書アトラスを開いていた。

 バタバタと慌ただしい音が聞こえてくる。篠栗と谷岡がいる東三階ナースステーションの正面にある中央階段から、秋月医師が飛び出してきた。

「オッケー。行ってくるよ」

 ナースステーションの隣にある手術室エリアに秋月は向かった。足取りこそ軽やかではあるが、目の下にはワインレッドのクマが下弦の月のように伸びている。

「あ、先生待ってください」

 篠栗は秋月を追いかけた。自動ドアを抜けて手術エリアの前室へ。前室からはまっすぐ長い廊下が伸びており、その左右に個々の手術室へとつながるドアが並んでいる。

 秋月は廊下の手前にある更衣室の中に消えた。篠栗が前室で地団太を踏んで待っていると、ものの数分で手術衣に着替えた秋月が出てきた。

「先生。先生ってば」 

「なに。手洗い場には入らないでよ」

 篠栗の声を聞き流しながら秋月は隣の手洗い場に入った。

「下川先生にまだ連絡つきません」

 廊下の入り口で篠栗が声を張り上げた。

「なんだそりゃ」

 両手を洗いながら秋月はため息をつく。

「別のステーションから男の看護師かドクターを借りてきて、男子トイレと……念のため仮眠室にいないか確認してもらって」

「わかりました」

 篠栗の横をスッと冷たい風が横切った。

 否。風ではない。人だ。手術着をまとった女性が、篠栗に一瞥もくれることなく手洗い場に入ってきたのだ。

「きみが器械出しか」

 その女性は秋月を意に介さず黙々と手洗いを始めた。

 細く白い指が無色の水に濡れてあでやかな雰囲気をかもしだす。自動噴出器から出てきた消毒液が、彼女の手のひらに厚く盛られた。

「よし。下川抜きでオペを始める」

「先生」

「大声を出すな」

 秋月は篠栗に不格好な笑みを見せた。

剣淵けんぶちさんがいるんだ。何も問題はない。大丈夫だ」



 2

 榊原恵さかきばらめぐみは自分の白い息が朝もやの中に消えていく様を見つめていた。

 十二月になって寒さはいっそう厳しさを増している。榊原が働く山吹やまぶき医科大学附属病院健診センターでは、ここ数日、主要業務として構える健康診断に訪れる患者よりも、インフルエンザワクチンを接種するために訪れる患者の方が多くなっていた。くしゃみと首に巻いた厚手のマフラーにはインフルエンザの存在を思い出させる効果があるらしい。 

 しかし、インフルエンザワクチンを接種してから体内に抗体が作られるまでは約二週間の時間を要する。日本では例年、十二月の時点ですでにインフルエンザの流行が始まっており、今になってワクチンを接種したところで後の祭りとなる可能性は否めないというのに。

 正面ゲートを抜け、病院敷地内左手奥にある健診センターへと向かう。センター入り口の自動ドアの向こうに音のない暗がりがたたずんでいた。

 渡り廊下の下についた監視カメラに睨まれながら、榊原は自動ドアの横にある職員用入り口のドアに手をかけた。開かない。今日も自分が一番乗りか。白い息を再び吐き出しながら、榊原は健診センターの右手に立つ病院本館へと足を向けた。

 本館一階にある事務課で健診センターの鍵とエアコンのリモコンを借りてくる。鍵はともかく、リモコンを受け取るためにわざわざ隣の建物まで行かなければいけないとは、難儀に思えて仕方がない。このリモコンはセンター内のエアコンの電源を全て入れたあとに事務課まで返しにいかなければならない。なんて不合理な規則だろう。エアコンの温度を変えたくなったら、また事務課まで足を運ばなければならないのだ。

 職員用入り口から健診センターに入る。ドアの向こうに広がる職員室には誰もいない。自分の机に着くと榊原はバッグからペットボトルのお茶を取りだしてのどを潤した。

 一息ついたところで、館内の照明とエアコンをつけてまわる。手始めに一階廊下の照明をつけ、建物左手の方にある正面入り口に向かった。

 正面入り口の自動ドアの鍵を開け、上部にあるスイッチをほうきの柄で押す。不格好な姿を誰かに見られないかと不安になるが、この時間に健診センターの前を通る職員は少ない。センターと本館のあいだにある駐輪場に自転車を止めにくる職員がいるくらいだが、小高い丘の上にあるこの病院まで自転車で通う職員は少ない。

 自動ドアが左右に開閉する様を見て「よし」と榊原はつぶやいた。受付とホールの照明とエアコンをつけて、その後ろにある階段から二階へと向かう。

 二階には縦に長い廊下が建物内を貫いており、その左右には診察室が並んでいる。廊下の突き当りまで行くと右手に両開きのドアがあり、ドアの向こうには本館二階へとつながる渡り廊下が伸びている。このドアは夜間の間も施錠はされていない。つまり、この渡り廊下からなら二十四時間いつでも健診センターの中に入ることができるわけだ。

 一階は施錠するのに二階は未施錠とは不合理に思われるかもしれない。だが渡り廊下の先には、二十四時間看護師が滞在しているナースステーションが居を構えており、それに加えて一台の監視カメラが渡り廊下の入り口をにらみつけている。仮に不審者が侵入を試みたところで、この二つの目から逃れることはできないのだ。

 健診センター二階の最奥には、廊下と一枚の壁を挟んでフロアの三分の一を有する大きな待合室が広がっている。三枚あるうちの一枚のドアを開き、沈黙が支配する無人の待合室へ。

 部屋の中には大量の桃色のソファーが整然と並んでいる。部屋の隅にはクッション性のブロックで囲まれた遊戯コーナーがあり、カラフルなタイルカーペットの上に小さな遊具が散乱していた。

 この待合室は解放感を感じさせるために、天井まで伸びた巨大な窓が何枚も備え付けてある。日光を大量に取り込んだ室内が、健康診断や予防接種に訪れた患者の不安を払拭してくれることを期待して設計されたようだが、健診センターは一日の大半が東側に建つ病院本館の陰に隠れてしまい、日光はそれほど差しこまない。

 手にしていたリモコンを天井のエアコンに向けてあげたとき、榊原は広間の中央に異変それを見つけた。

 木板の床の上に暗褐色の血だまりが広がっていた。半径数メートルはあろうかといういびつな円形。

 その円形の中央に、ぼうず頭の男がうつ伏せで倒れている。

 男の肌の白さに、榊原は視覚的に冷気を感じた。冷気と共に恐怖もまた。

 榊原は死体に近づいた。死体は紺のスクラブウェアを着ていた。病院の人間だ。誰だ。

 死体の首から伸びるネックストラップが曲線を描いて血だまりの海を泳いでいる。

 ストラップの先のカードホルダーは左半分が血だまりの海に沈み、辛うじて右半分だけが読める状態にあった。

 『職員証 第二外科 専修医 下川仁』




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