6話
身体の水分が全て出たのではないかと不安になるほど嘔吐を繰り返した拳児は、やっとその衝動が収まると、剣を杖代わりにヨロヨロと立ち上がる。口に広がる酸味や喉の焼ける感触に気分が未だ悪いままだが、再び地面に蹲るような事はない。
地面へ剣を突きながら、自分が入ってきた扉の前まで歩く途中、何かに蹴躓き膝が折れる。近づいてくる地面を確認し、もういいや、と頭のどこかで言いながら重力に抵抗する事を放棄する事にし、目を閉じた。
自分の身体を地面と逆に引っ張る力を感じても、拳児はそのまま目を閉じ続けていた。
迷宮白書
額に感じるひんやりとした冷気に気付き、拳児は閉じていた目を開いた。瞳に映ったのは小汚い天井にぶら下った、薄暗い灯りしか灯さないランタン。身体の気だるさを感じながら、額に乗っている塗れた布切れを押え、身を起こした。
壁際に並んでいる剣や槍がすぐに視界に入り、記憶の混乱なんかが起こっていない事を確認しながら、キョロキョロと首を回す。どうやら雑多な部屋に置いてあった長椅子に寝かされていた事に気付き、椅子の隣にある小さな棚に置いてある水の入ったデキャンタサイズの土壷に気付く。中を覗くと灯りを反射する水が入っている事を確認し、拳児はそれを無造作に掴み、一気に喉に流し込んだ。
途中咽ながらも口や喉にへばりつく酸味を追い出す勢いでガブガブと水を飲み、中身が空になった事を確認すると棚に置き、腰かけていた椅子から立ち上がる。多少力が入りにくい感じはするが、先ほどより余程マシな状態になった事を確認し、その場で軽い足踏みを行なう。正常に動く事を確認し、部屋を一回り見て、誰も室内に居ない事を確認すると、拳児は聖堂へ続いているはずの扉から通路へと出る。
通路の脇には、やはりオンボロな長椅子に二人、エルフの女と隻腕片足の男が腰掛けていた。男は拳児に気付くとその仏頂面をそのままに拳児を見据え、女は椅子から立ち上がり、拳児へと声をかけた。
「もう大丈夫ですか? 気分悪くない?」
「はい、すいません。ちょっと喉が痛い程度で大丈夫です」
嘔吐した際に焼けた喉に痛みを覚えつつ返事を返す。エルフの女、レテスと呼ばれた彼女は「ちょっと待ってね」と呟くと拳児の額に手を伸ばした。身長の低い彼女が額に当てようと手を伸ばすと、自然と拳児に近い距離になってしまう。その事に拳児はドキドキしながらも、真剣な顔をした彼女を見て、避けようにも避けられない事に気付き、ドキドキしっぱなしで彼女の手が額に触れるのを感じていた。
「……うん、熱もないし大丈夫そう。念の為に回復しておくわね」
え? と思う間も無く、額から何だかほわっとしたものが伝わってくるのを感じると、何となく身体が軽くなったような感じを覚える。彼女が額から手を離すのを確認してから、拳児は身体を捻り、先ほどまで感じていた気だるさが消えているのを感じた。
「すごい」
「水の魔法、キュアよ。重い体調不良を軽減させ、軽いものなら治してくれるわ」
医者いらずだ、とどこか見当違いな感想を抱きながら、拳児はやはり感心していた。魔法ってやっぱり凄い、と。
拳児の体調が回復したのを見計らったように、椅子に腰掛けていた男は立ち上がり、コツコツと硬質の音を立てながら、拳児へと近づいた。彼の仏頂面と、自分が体調を悪くした経緯を思い出し、拳児は顔を引き締め、次は何が来ても大丈夫なように心構えをする。
彼は拳児の顔を一睨みすると、ふん、とまるっきり不機嫌を現した擬音を発してから、拳児へと背を向けた。
「明日8時30分、聖堂中央の迷宮入り口前に来い。今日のような服装でも構わんが、なるべく汚れても良い物を着て来い」
言うだけ言うと、彼は硬質な音を立てながら通路を進んでいく。言われたことに一瞬呆けると、はっとして今のはどういう意味なのか聞こうか声をかけようとする。だが義足なのに意外な速さで進んで行く彼の背に声をかけるのが憚られ、拳児は隣へと視線を向ける。隣に立っていたレテスはそれに気付くと、クスリと笑って求める答えを教えてくれた。
「明日の8時30分に迷宮での訓練をするのよ。純粋な初心者さんにはそういう訓練が必要で、あの方は指導官だから」
冒険者になるのも大変だなぁと考えながら、拳児はふぅと溜息をついた。
聖堂中央の広場へ戻る道すがら、拳児は隣を歩く彼女にちゃんと名前を教えてもらった。彼女はレテスディアという名前で、愛称としてレテスと皆に呼ばれているらしい。彼女の役割は冒険者の能力測定と、初心者冒険者の適性検査。そして冒険者のサポートを行なう為の人員なのだという。
「それって……、冒険者の付き人って事?」
「いえ、下僕や奴隷と言ったほうが適切かしらね」
暗い表情を浮かべた彼女の言葉に、拳児は驚く。だが彼女は拳児の驚きをそのままに、つらつらと言葉を続ける。
「私のような、奴隷の子として生まれた人は、そのまま奴隷として一生を終える事が多いわ。
そんな奴隷の子でもちゃんとした『人間』として扱って貰えるチャンスがあるのが、迷宮がある各国の政策。
才能、能力がある人間はいくら居ても多すぎるという事はないから、各国は奴隷の中からそういった才能のある人間を選んで、
街に存在する各ギルドの職員にしたり、場合によっては国家運営に必要な人材として登用される。
私の場合、奴隷の母が今の私と同じ仕事をしていて、私にも魔法の才能があるのは分かっていたから、このギルドの職員として居られるの」
レテスは暗い表情をそのままに、キュッと拳を握り込み息を吐き出す。
「ごめんなさい、嫌な話して」
「いえ、そんな。……レテスさんも、その、サポート人員で」
「……いつか、そうね。10階層を攻略した冒険者にギルドが発行する指名権を行使されたら、サポーターとして就く事になる。
サポーターになればギルド員としての身分は剥奪され、指名した冒険者を主人とする奴隷になる。
多くのサポーターはその冒険者と共に迷宮へ潜って死ぬか、生き残っても再びギルド員として登用される事はなく、奴隷として生きていく事になるわ」
それでもね、とレテスは違和感を覚える程に明るい声色で話す。
「サポーターにならなければ、ただの奴隷として奴隷市場で売られ、多くの奴隷はただの慰み者になったり身体を売らされるだけ。
それに比べたら、冒険者と一緒に迷宮へ潜ったり、自身の有用性をアピールして妾になる事が出来るサポーターのほうがよっぽどマシなの。
私は奴隷の子として生まれて、もう母はいないけれど、今までギルドのお陰で生きてこれた。
その恩返しの為にサポーターとして、冒険者と生死を共にするって言うのも、悪くはないよねって最近思ってるの」
さ、行きましょう。レテスは明るい声を拳児にかけ、残る手続きを済ませる為先を急がせる。
拳児はそんな彼女を、痛ましい目で見つめながら、頭をぐるぐる回る彼女の言葉を整理していた。
再び聖堂のメイン、支柱を中心に据える広場の片隅にある小部屋へ入った拳児に、レテスから様々なものが手渡される。部屋の片隅に置かれた箱から取り出されたのは皮で出来ていると思われる胸当てと、大きめの銅色をした腕輪、そして皮で出来た肩掛けの袋だった。
「この腕輪は冒険者の腕輪。迷宮の階層を記録してくれたり、モンスターを倒して取得した生体エネルギーを身体へ馴染ませる補助をしてくれるわ。
こっちの胸当ては支給品で、まぁただの皮の胸当て。もっと良いのが欲しかったら自分で買ってね?
それと、こちらの袋は『小さな大袋』って言って、見た目の10倍ぐらいの量が中に収納する事が出来るわ」
レテスがかけてくる声に、拳児ははぁ、としか答えられない。先ほどの話が未だ尾を引いており、自分の中で考えが纏まっていないのだ。そんな拳児の様子にばつの悪いものを感じながら、レテスは話を続ける。
「それで、これから貴方の溜めている生体エネルギーを身体へ浸透させ、より強靭な身体になるようにするわ。
この腕輪をどちらかの手首に嵌めて、嵌めたほうの掌を水晶の上に乗せて」
言われるまま、拳児は差し出された腕輪を取り、右手首に嵌める。嵌めたほうの掌を水晶の上に乗せると、その掌の上に、やはりレテスの掌が乗せられた。
その事にやはり軽い動揺をするが、先ほどの話が引っかかったまま、拳児はぼけっとした思考で考える。
生きていく上で、奴隷となる事が必要となる仕事を行なわなくてはいけない彼女の心境は幾許の物か。自分だったら逃げる事しか考えないような状況なのに、彼女は忠実に仕事を行なっている。ギルドに対する恩義だけで、そこまで出来るものなのか、と。
ぼけっと考えていたら、自分の掌の上に彼女の掌が乗っていない事に大分経ってから気付き、慌てて手を引っ込める。そんな拳児に、レテスは苦笑いを浮かべていた。
「儀式は終わりました。今は気だるい感じがするだろうけど、時間が経てば身体が軽くなったのを感じると思うわ。
貴方の内包していたエネルギーが普通より多くて、急激に消費して身体を巡るようにしたから、きっと感覚が大きく変化するはずよ」
「はぁ、どうも……」
「それで、さっきの話は忘れて」
レテスの突然の言葉にえ? と目を見開く。そんな拳児を、レテスはやはりばつの悪い顔で見ていた。
「判るもの。さっきの話を考えてるんでしょう?
でも、貴方には関係のない事だから、気にしないで。
それと、本来なら余計な事を言っちゃってごめんなさい」
頭を下げて謝るレテスに、拳児は掌を振りいやいやと答えた。
「俺が勝手に考えてただけなんで、その、頭を上げてください」
拳児の言葉に頭をあげると、レテスは申し訳なさそうな表情を引っ込め、明るい表情で言った。
「明日の迷宮訓練、頑張ってね」
はい、と元気に答える事だけが、申し訳無さそうに頭を下げたレテスに出来る、拳児の唯一の行動だった。
小部屋を出て、はぁ、と息をつく。肩から提げた袋の重さ以上に、レテスの言葉の重さを心が感じている。奴隷ってなんだよ、そんな地位まであるのかよ。
彼女の笑顔と、胸にうずまくやり切れなさを感じながら、拳児は中央の支柱目指して歩く。と、途中でとん、と肩を叩かれた。
「おいおい、疲れたからってぼーっとしてんなよ、にいちゃん」
初対面と似たような台詞を言うガティに、叫び声ではなく、苦笑で答える事にした。