迷宮白書
拙作「迷宮白書」を御覧戴き、ありがとうございます。
拙い文章ではございますが、どうか最後までお付き合い下さいますよう、
宜しくお願いいたします。
なんてことのない日。
いつも通り講義を受け、コンビニで夕飯を買い、テレビでも見ながら食うかと思いつつ、帰路に着く。
駅前から徒歩10分程度の自宅までの間にあるコンビニ2件を物色し、目ぼしい弁当が中々見つからないのでカップラーメンに切り替えようかと思った時、
人間が生きていく上で必要とされる生理現象を放出せんと身体、具体的に言うと腹部が自己主張を始めた。
恐らくアルバイトであろう、レジスター前に構えた可愛らしい女性に「便所貸して下さい」と主張する恥ずかしい儀式を乗り越え、用を足す。ふぅ、と一息。
ズボンを上げ、自身の産み落とした排泄物にさようならを心の中で告げてから、レバーを廻す。
ゴボゴボと小川のせせらぎとは程遠い水の流れる音を聞きながら手を洗い、ガチャ、と店内へ続く扉を開く。
目の前には、圧倒的な質量をこれ見よがしに主張する、門があった。
「……はい?」
それが、小林拳児の日常との決別の瞬間であった。
迷宮白書
真に頭が真っ白になるというのはこういう事なんだろう。
拳児はどこか遠くの意識で思いながら、目の前に聳え立つ門を見上げる。石造りのその巨大な門は、まるでこちらを威圧するように聳えている。
見上げた視線をそのまま下げると、門の中へ吸い込まれるように次々と人が潜り抜けている。その人の多さと身なり、引き連れているものにどこか違和感を感じる。
門の両脇には人が立ち、吸い込まれていく人に目を向け注意を払っている。
拳児は、その身なりに目を引ん剥いた。
全身に重苦しい輝きを放つそれを纏った人は、中世の騎士もかくやという出で立ちであった。腕には凡そ3メートルはあろうかという長さの槍を持ち、腰には鋼色に輝く刃物が見える。
それはまさしく、騎士だった。
なんじゃあれは、と思いつつ違和感を抱えたまま、その騎士をぼうっと眺める。騎士は偶に門を潜ろうとする人に声をかけると、一頻り話をしては門に通す。
話しかけられる人間は総じて頭にフードを被っており、その身なりはどこか放浪者を思わせる出で立ちであった。
フードの中身を確かめるように騎士は話しかけ、また相手もそれに応じる。中にはフードを頭から剥がされる者もいた。
その頭から出てくるものは、大抵が金色の髪だったり、なんだか横に長く見える耳だったり、頭頂部付近に生えたふさふさとした毛並みを見せる獣っぽい耳だったり。
あれ、俺の頭正常なのかな?と考えた。
どう考えてもアレは人間ではない、と思う。アレはあれだ、ファンタジーの世界だ。
今の時代、余程古風なしきたりと伝統を重んじるような家でもない限り、子供の頃に一通りゲームの経験というものはある。
拳児も多聞に漏れずそういったゲームの経験はあり、一時期は勇者というものに夢を見て憧れた事もあった。
そんな世界で生活する獣人、森の民が確かあんな風なアレだったと思う。
あれ、やっぱりおかしい。
だって自分は大学から帰宅中、最寄り駅近くのコンビニで用を足して出てきたばかりだ。
それなのに何故こんな所に居てこんなものが目の前にあってアレやソレな人(?)がこんなに沢山いるんだ。
思考に思考を重ねて、袋小路に迷い込む。
何故自分がこのような場所にいるのか理解できない中、背中からどん、と軽い衝撃が走った。
なんだ、と思って振り向く。
瞳孔が縦に裂けた、鱗と目が合った。
「いくらおのぼりだからって、門の前でぼーっとしてんなよ、にいちゃん」
横から生えた鰓のようなものをピクピクと動かし、切れすぎた長い目、縦に裂けた瞳孔、鼻らしいものが見えないが顔の前面についた二つの小さい穴。
喋るたびに大きく裂け、裂けると見える小さな尖った歯がいくつも見える大きな口。時折覗く先が二つに分かれた舌。
どこからどう見ても。
それは、ヘビのような顔をした喋るなにかだった。
「うっ、ぎゃああああああっ!!」
大衆のど真ん中で挙げるべきではない叫び声を、拳児は腹の底から挙げた。
世界に響けと言わんばかりに。
「あははははっ、いやすまんかったなーにいちゃん。まさかあぁも驚くとは思わんかった」
「いえ……、こちらこそ、その、すいません」
ガヤガヤと騒がしい店内に、嗄れた声が響く。
拳児の持つ常識であればその声は目立つのであろうが、店内にはその声に注目するような人間がいない。
そこかしこから似たような嗄れ声が聞こえ、目の前から発せられた声も場の空気に溶け込んでいたのだった。
腹の底から叫び声をあげた後、それを聞きつけた門前の騎士が駆けつけてきた。
到着するなり騎士は槍を構える。
「何事だっ!」
槍の先には拳児とヘビ顔の男。
槍を突きつけられた拳児は今度はひっ、と小さく声を出しながら後ずさり、背中をどん、とヘビ顔にぶつけた。
やば、と思う間も無く拳児の肩にズシ、と重みが発生した。それと同時に、首筋に何ともいえない感触が走る。
その感触は拳児が未だ幼かった頃、両親に連れて行ってもらった爬虫類センターで首にヘビを巻いた格好で撮影する記念写真の時と同じ感触だった。
ぞわぞわと背筋に怖気を走らせた拳児の耳元に、小声が聞こえる。
「おいにいちゃん、面倒事は勘弁だ。ここは話を合わせろよ」
有無を言わせぬその言葉に拳児がコクリと頷くと、ヘビ顔は拳児の肩をバシバシと叩きながら高らかに笑った。
「はははっ、いやーすんません。コイツ同郷なんですがね、何せクソ田舎から出てきたもんだから門のでかさにビビっちまって。
ボケーっとマヌケ面晒してたもんで、肩叩いて振り向かせたんですわ。で、正面にゃ俺の顔がデン、と飾ってある。
その途端、アレですわ。がははっ、全くこいつぁ小せぇ頃からビビリでやして、へぇ。警護兵の皆様にゃ迷惑かけちまって。ほれ、何か言えっ」
「あっそ、その、えと……す、すんませんでしたっ」
ヘビ顔に小突かれ、やっと出てきた言葉で謝罪を示すと、警備兵と呼ばれた騎士達は苦笑いと共に槍を降ろした。
「呆けてる所にその顔じゃしょうがない。しかしそれぐらいで叫んでいたら、『大迷宮』に入った途端、喉が枯れてしまうぞ」
「がははっ、ちげぇねぇ。でも俺ぁ鍛冶職でしてね、コイツは助手でさぁ。『大迷宮』にゃ入りやせん。
おっと、ここまで迷惑かけてそのままじゃ商売人として恥ずかしい。こいつぁお近づきの印に、ま、見て下さいよ」
ヘビ顔はそう言うと懐から小袋を取り出し、その中から数枚の鉄の板切れを警備兵に手渡す。
受け取った警備兵は、その板切れを眺めてほう、と唸った。
「これは見事な彫り方だ。刻印術が出来るのか」
「へぇ、あっしの得意でしてね。そいつぁ自然の加護でちびっと傷を軽くするものでさぁ。
剣戟なんかにゃ効きやせんが、虫食いや枝で引っかいたりなんかにゃ効きやすぜ。
首から下げて持ってくだせぇ。また何かの折には、この鍛冶師ガティにご用命をお願いいたしやす」
「ははっ、商売上手だな」
警備兵は鉄の板切れを懐に仕舞うと、門の前へと帰っていった。
警備兵の後ろ姿を見ながらふぅ、と二人同時に溜息をつく。
お互いの溜息に気づき、苦笑いしながら二人は顔を見合わせ、そのまま二人でこの酒場に入ったのだった。
この酒場は門を潜ってすぐ右手にある「名も無き酒場」という名前の酒場。
ここには多くの種族、と思われる人の形をしたナニカが多く酒を飲み、食事を摂っている。
拳児とヘビ顔の二人はそのカウンター席に二人、肩を並べて食事を摂っていた。
「ま、迷惑かけちまったみてぇだからな。ここは俺の奢りだ」
「す、すいません。俺が叫んだせいですけど」
「なに、いいって事よ。あんぐれぇは慣れてるからな」
がははっ、と陽気に笑うヘビ顔。名はガティと自身で言っていた。
「それで、あの、ガティさん」
「おう、なんだ、と。そういやおめぇの名前聞くの忘れてたな」
そう言われ、確かに自分が名を名乗っていない事に気が付いた。
「あっ、拳児、小林拳児です」
「コバヤシケンジ? 随分変わった名前だな。どっから来た?」
「ケンジでいいです。えと、東京、てわかりますか?」
東京、そう口にした。
拳児は自分の冷静な部分で、分かるわけが無い、と思っている。
だがそれでも、分かって欲しい、と希望を持たずにはいられなかった。
トウキョウ、トウキョウ……、小さく呟くガティだが、頭を振ると、エールの注がれたジョッキの取っ手に手を伸ばした。
「どこだそりゃ? どんなクソ田舎だよ? がはははっ」
拳児の気も知らぬガティは相変わらず陽気に笑いながら、エールをガブガブを飲み込む。
拳児はそこに希望がある事を期待していたが、この瞬間に砕けてしまったのが目に見えたようだった。
ガティの笑い声に、怒る気にもなれず、ただただ落ち込む。
夢かなにかと思いたいが、こんな夢がある訳がない。
何も知らず、拳児はわけのわからない場所に来てしまった事を、否が応にも理解してしまった。
突然沈み込んだ拳児に、ガティは一瞬失敗したという苦い表情を浮かべてから、拳児の肩を叩く。
「なぁケンジ。おめぇ、なんでこんな所に来たんだ? その身なりだ、どっかイイトコの人間じゃねぇのかよ?」
確かに拳児の服装は、酒場の誰よりも身奇麗であり、ガティの言う良い所の人間の出で立ちだった。
光の反射を受けて煌めくその服と、舗装もされていない道を歩いてきたとは思えない綺麗な靴。
傍らには、どんな材質で出来ているのかわからない鞄が置かれている。
そんな人間が、荒くれ者が集うと言われている『大迷宮』の検問から入ってくるのは、ガティからしてみれば不自然なものだった。
そんなガティに、拳児は苦笑いを浮かべ、暗い表情をそのままに、ガティに告げる。
「違う世界から。って言ったら、どうしますか?」
嘘を言っているように聞こえないその言葉に、ガティは腰を据えて答える事にした。