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幸田露伴「いさなとり」現代語勝手訳(7)

 第七 現れ出た夜叉(やしゃ)のような男


 港の内は風も静かで、(なみ)埠頭(ふとう)を噛まず、娘を連れての(ふね)見物にはこの上もない好天気。端艇(はしけ)(*本船と波止場の間を行き来して乗客・貨物を運ぶ小舟)に乗っている間も心穏やかに、海原遠く霞み渡る房総(ぼうそう)の山々を眺望すれば、眠りが覚めるような思いで、気も晴れ晴れするほどである。

 彦右衛門の女房は何故か、今日の同行を喜ばず、

「私は梅吉と一緒に留守番をしますから、その間に父様と二人でゆっくり見物して来なさい」とお染に言い聞かせると、

「そのようなことを仰らず、梅吉一人を残せばいいではありませんか。一緒に出掛けましょう」と娘が言うも、

「私の思うようにさせておいておくれ」と返す。その理由として、一つは達者とは言え、六十近い女の身なので、端艇(はしけ)を嫌うのだろうが、もう一つは、世間を知らない者にありがちなことだが、何となく勝手の分からない所へ行くのを恐がるからなのであろう。

「それならお前の好きにして、身体を休めていれば好い」と、彦右衛門も強いては勧めず、お染一人を連れて、隣室(となり)の磯貝と、昨夕梅吉を叱ったその書生と合わせて四人、千早艦に向かった。


 舷門(げんもん)(*船の上甲板の横側にある出入口)を過ぎると、磯貝は早くも副艦長を訪ね、久しぶりの対面を互いに喜び合う挨拶を丁重に交わし、取り分けわざわざ訪れてくれたのを先方は大いに嬉しがった。そして、同伴(つれ)の人は誰かと訊けば、これは(ふね)の見物を希望している人で、自分達も実は(ふね)の様子はまったく知らないので、浅くでもいいから一通りは眼玉に映し込んでおきたいと今日やって来たのだとその訳を語れば、

「雑作もないこと、私が案内しよう」と、親切に一つ一つ教えてくれ、お染も彦右衛門も好い機会を得て、甲板(デッキ)の上から幾層にもなる下室(した)まで、大方隈無く見物し終わり、その上、昼食のもてなしてまで受けたのだった。


 磯貝と副艦長の何某(なにがし)との話は、お染には大体理解出来たが、彦右衛門には難しく、彦右衛門は話の隙さえあれば、無遠慮にも副艦長をとらえて、船に関する質問ばかりを五月蠅(うるさ)いほどに問いかけるので、これにはお染も磯貝も一向に面白くなく、ただ二人とも、どうして蓮台寺村の金持ち農夫(ひゃくしょう)がこれ程船に関することを()ける知識を持っているのだろうと怪しむばかりであった。


 やがて時が過ぎ、それぞれ再会を約束して帰ろうとするその時、ふと来かかった老水夫が彦右衛門を見るなり、甲板に靴の音をがたがたと響かせ、無作法に駈け寄って、顔を覗き込むや否や、肩を打ち叩き、海上生活を送っている者らしい濁声(だみごえ)太く、

「やあ、網戸(みど)(*捕鯨漁師の中の(かしら))の親父(おやじ)の彦ではないか」と叫ぶので、お染は驚き、怯えるままに、二足、三足退けば、その声を聞いて彦右衛門の眼は電光(いなづま)が走ったようにきらりと(ひらめ)いて、たちまち莞爾(にっこり)と笑い、

「オオ、(さん)()か、珍しい」と手を取り合うのは昔の友達らしく、とは言え不思議、こんなところにこんな身分の人を父様が友達に持っているとは。しかも、今、網戸(みど)親父(おやじ)と呼びかけたのはどういうこと? 訳が分からないので、お染はじっとその水夫の顔を見詰めた。色はあくまで赤黒く、潮風に鍛えられた眼の中には、気味悪く光る恐ろしいものがあり、斜めに(かぶ)った帽子の縁の金文字が日に輝いて、その下から露見(あらわ)れ見える顳顬(こめかみ)創痕(きずあと)刀疵(かたなきず)やら打傷やらが針のように(つよ)そうな眉にかかり、美女ならこれを新月峨山(しんげつがざん)(*三日月のような眉)にかかっていると見立てるのだろうけれど、鬼のような男なので、言うべき言葉も見当たらず、ただただ何者だろうと思い迷って、お染は小さな胸を痛めるのであった。


つづく

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