幸田露伴「いさなとり」現代語勝手訳(6)
第六 過誤から得た好都合
下田には時々大きな蒸気船も寄港り、西洋型の帆前船も入港ので、諏訪湖より広い海など見たこともない信濃男や、長良川を大きな流れだと思っている美濃の人のように、船というものを珍しがって、お染は千早艦が見たいと言ったのではない。ただ軍艦が物珍しく、国家を護る水上の城とはどのようなものなのか、何インチもの鉄板を打ち抜く大砲はどれ程のものなのか、白雲たなびく向こうの青空の下、海面がぼうっとするほど水煙の立つ遙か彼方まで、乗り切り、乗り回し、何も恐れない我が海軍の強くて勇ましい大胆な水夫、士官は一体どのような人なのか、きっと艦内には見たこともない武器や機械なんかもあるのだろう、思いもかけない言葉や規則、習慣があるのだろうと、そんなことを知りたくて見たいと思ったのだ。結局、普通に陸の人と同じで、お染も艦を一つの小さな外国と見做し、それを見たい気持ちは、言ってみれば江戸見物をしたいという気持ちと同じなのである。
彦右衛門親子、主従は愛敬館を後にして、横浜に到着し、明日はお染を先頭に見物するのに便利のいい所を宿にしようと、名も呑海楼という三階建ての立派な、海に面した大きな建物に入った。
今日は何もすることはなく、まだ日も高いので、市中の様子、山手の有り様、南京町の風情などを見ようとそぞろ歩きをし、夕方帰って、例の通り、一同は睦まじく色んなことを語り合っていたが、早くも夕食も終わり、いつもの通り、お染が新聞を読んでいる時、梅吉は何か用足しに楼下に降りていった。
しかし、室に帰ろうとしても、場所が広く、室数も多くて、同じような部屋ばかり。襖の外から、どれが我が主人のいる所で、どの次の間が自分のいた所か、気をつけていても番号を覚えていなくては、ややもすれば間違いやすい旅館のこと、万事がそそっかしい粗忽者の梅吉、何の考えもなしに、たしか此所だとがらりと引き開けて、ついと入れば、そこには薩摩飛白の綿入れと同じ羽織に木綿紐、全幅白金巾の書生帯を鮒の昆布巻きのようにぐるぐる巻いた、馬鹿な顔をした二十一、二の男臭い奴がいて、間髪入れず、一喝、
「何奴!」と叫びながら胸倉取って引き据えた。
梅吉はびっくり仰天、泣き出しそうになって、
「恐れ入りました、恐れ入りました。室を間違えました」と、平蜘蛛のような格好で謝罪ったが、男はなおもくどくどと罵るのを止めない。初めの一声に何事かと耳をそばだてた彦右衛門、その理由を陰で聞き取っていたが、少し不憫に思い、自分が口を添えて謝罪てやろうと、その部屋の入口まで行った時だった。上の室の間の襖を開けて、静かに出て来て、書生を叱り止める人物がいた。金縁眼鏡が顔に輝き、一楽の御衣服をざっくりと着て、縮緬の帯は純白。これが書生の主人と思われ、自ずから備わる威厳のある人柄である。
「僅かの過誤をそのように責めることはない。許してやれ、許してやれ」と言いながら、眼鏡の中から光る眼を一層光らせて、梅吉の頭上を睨んでもう一足進めて室に入ろうとすれば、彦右衛門、その人にちょっと会釈をして、
「私はこの者の主人でございます。ただ今はこれが思わぬ不調法をし、お騒がせいたしました。誠に失礼の段、幾重にも相済みませんところ、早速お許し下さいましてありがとうございます」と挨拶するのを、軽い手真似で打ち消しながら、
「何の、ありがちな粗相を、そのように仰られては劫って痛み入ります。暴言を吐いた書生奴をことの分からぬ馬鹿者と叱らずにおられません。いえ、もう我等が引き連れました者は、何かと言えば直ぐに目くじらを立てたがるがさつ者で困ります。まぁ、そこではあまりでございますので、こちらへお入り下さい」と、姿には似合わず、なかなかの如才ない口の利きよう。
彦右衛門も打ち解けて、二言三言交わしたのが縁となり、
「あなたはどんなご用で横浜に来られましたか」とこちらが訊けば、不思議なこともあるもので、同じく軍艦見物で、先ほどの男は娘が読んでくれる新聞で、時折名を聞いたこともある政治家の磯貝太郎という紳士。
「私等はその艦の副長が昔の友人でございますので、その関係で不都合なく見学できる筈。ということなので、ご遠慮は要りません、明日、一緒にお出でになりませんか」と言われれば、彦右衛門は喜んで、
「であれば、お言葉に甘えましてそうお願いしたいと思います。いや、誠に妙なご縁で」と、それからは自分の部屋に帰って、酒肴を命じ、今度は磯貝を迎え、二人して色んな話に花が咲かせ、娘にも女房にも引き合わせた。
つづく