幸田露伴「いさなとり」現代語勝手訳(4)
第四 笑顔つくっての都入り
朝日の光を羽根に受け、快気に飛び交って鳴く雀よりも、もっと心地よくその日の暁に起き出した親子三人、顔を洗うのも飯を喰うのも何となく忙しくして、お染の身支度を母が手伝うその横から、
「あの簪を挿させるのが良い」と、いつになく世話を焼く彦右衛門。
「あなたはそれより荷物の面倒を見てやって下され。梅吉一人にさせておいては手脱けがあるかも知れません」と、日頃は鈍間と言われている女房が、今日は逆に亭主に指図めいたことも言うのも可笑しい。
忠助がしきりに忠誠を尽くして、あれやこれやと動き回り、我が子の梅吉というのに自分が知っている限りの心得を言い聞かせ、
「いいか、ちょっとでもご主人から離れてはならんぞ。自分の興味に気を取られて、うっかりしてはいかんぞ。東京という所は油断のならん所だそうだから、よくよく気をつけよ。咄嗟の時のために備えて、道中はなるべく右手を空けておく方がいい。汽車の中で居眠りはするな。背面と横に気を配れ。余計なことをして身体を疲れさせるな。何をするにしても口数を少なくして、慎み深く旦那様の後につけ。市街を歩く時は、特にお嬢様の頭に注意を向けておけ」と、昨夜しっかり考えていたものと見えて、いつも口の重い忠助に似ず、教え諭すのを、お染は横で聞いて、
「梅吉、憶えられるか?」と笑えば、お調子者の梅吉、無遠慮にも、
「親父の言うことぐらい、憶えなくても知っております。今の若いものは利口過ぎるくらいだと、長楽寺の和尚さまにさえ言われた私でございます」と威張り返るその背中を親父が一つ打って、
「これ、その無駄口が第一いかん」と睨み付けると、
「恐れ入りました」と、逃げ出し、皆の履物を揃えにかかって澄ましている顔付きも可笑しい。
「さて、もうこれでよし。出掛けましょ、出掛けましょ。留守はくれぐれも頼むぞ」と忠助に言い置いて、彦右衛門が蝙蝠傘片手、小鞄片手に立ち出れば、一家の召使いの男女、忠助はじめその嬶、飯炊き女、下男、飼い犬まで送りに出て来た。
お染の姿を見て、
「あの美しさでは東京に行かれても人に優ることはあっても負けることはないだろう」と下女が小声で言えば、
「梅吉め、甘いことをしおって、江戸見物をした上、鰻飯、天麩羅、鮨、西洋料理と色んなものにありつけるのだろうな」と羨む権助。
村の端まで行く中には多くの小作人やら出入りの者やら、日頃恩を受けている者までぞろぞろついて来たが、
「皆々、もうこれで帰ってくれ。ただ留守を大切に、火の用心に気をつけて、怠けずに仕事をしてくれ。では」と彦右衛門が言えば、女房も忠助の嬶を振り返り見て、
「女達に不都合の無いよう気をつけてやっておくれ。皆の者も謹まねばなりません。新しい形の櫛やら、半襟(*着物の襟や長襦袢の襟に付ける替襟)やら頭簪やら、土産は必ず私が買って来てやるから、用心堅くして、戸締まりなどおろそかにしないように。では」と、女だけに情ある別れの言葉。大勢のものはいつもやさしい主人夫婦に深く懐いているので、外面の飾り言葉ではない真心籠めての挨拶、
「さようなら、ご機嫌よろしゅう。ご無事のお帰村をお待ちしております」と、口々に忠助の言葉通りに真似して送り、しばらく親子主従四人の後ろ影を見送ってたたずんでいた。
「あのお嬢様のしおらしいお姿は、どう見ても吉祥院の弁天様の生まれ変わりか、大悲庵の観音様の化身だろう」と言うものもおり、
「それにつけても、梅吉殿が嬉しがって威張って行くあの元気のよさはどうだ」と話す者もいたが、その時、急に思い出したことがあるのか、忠助の女房が駈け出して、慕うように後を追い、十七、八の我が子をいくつと思って呼ぶのか知らないが、梅坊呼ばわりで、
「梅坊、梅坊」と呼べば、それに答えてこちらへ一目散にやって来て、一叢の竹の翆の蔭、道禄神(じん)(*道祖神)の前で追う者、戻る者が行き合えば、母親は擦り切れた綿繻子の帯の間から赤い皮の小蝦蟇口を取り出して、中にどれくらい入っているのか分からないが、そのままやれば、有り難いとも言わずに、引ったくるように取って、自分の懐に捻じ込む心の中、嬉しいと思う顔付きが頬の緩みに表れたのを見て、共喜びに喜ぶ母。へそくり金を我が子の江戸での無駄遣いにやるつもりなのであろう。
元々急ぐということもない旅で、しかも、道連れは気心知り合った同士。山の形にも笑い、水が波立つのも面白がって打ち興じ、白浜、外浦、大川、和田と、海辺の道の景色に浮かれて、その夜の泊まりは少し興奮気味だったが、翌日は伊藤領の湯川、網代、今日は少し早いけれど、熱海に落ち着き、温泉宿の夢のような暖かさにぐっすり寝て、疲れを忘れ、あくる朝、列べて走らせた車の上では柔らかい風に身を煽らせ、国府津からは汽車で一飛びして、新橋へと到着した。
つづく