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幸田露伴「いさなとり」現代語勝手訳(3)

 第三 愉快(たのしみ)目的(めあて)に旅立ち


 朝から晩まで、ぞろぞろと人が通る足音で騒がしく、馬や車の響きが年中(やかま)しい都に住んでいると、(おり)かけ(がき)(*折り曲げた柴や竹の両端を地面に刺して連ねた垣根)に鶯が人怖(ひとお)じもせず鳴き渡り、(よめ)()(よもぎ)がところ構わず萌え立っているような田舎の風情が好ましく感じられ、何でも思い通りにできる身分の人なら、湯治(とうじ)を理由にしたり、桜狩りにかこつけ、いよいよ都合の好い口実が見つからない時は、梨の花を見るためだの、桃の花を探しにだのと、風流めかして田舎にやって来るが、単に自分が俗物なのを誤魔化しているだけで、実は田圃(たんぼ)(みち)瓢箪(ひょうたん)(ざけ)を立ち飲み、そこら辺に飛んでいる蝶々までも引き合いにして、「優雅ではございませんか、ほれ、一献差し上げましょう」などと洒落かかり、退屈凌ぎに『光り長閑(のどけ)き春の日に』光る禿頭を振り回したりするのである。

 また逆に、田舎に住んでいれば、聞くのは下手な浪花節、喰うのは饂飩(うどん)(あん)かけばかりで、(かか)の手作りの五目飯ぐらいを最上のご馳走とするようでは、金銭(かね)がないのなら兎も角、懐中(ふところ)が暖かければ、東京見物をして遊びたいと思うのは自然であろう。


 彦右衛門一家の三人はかねてから抱いていたその気持ちを新聞記事で燃やし立てられ、ことさら彦右衛門自身は日頃しようと決めていたことを急にやろうとする気質の老爺(おやじ)である。明日一日を仕度(したく)に費やして明後日(あさって)出発しようと手筈を決め、それぞれ床に就いた。彦右衛門はいつものことだが、マイペースだと人に言われるくらいなので、寝つきも早く、直ぐにごうごうと(いびき)をかいて罪もなく夢に入るのだが、女房は思ってもみなかった都見物のことが気になって、自分のことより()ず娘にどの着物を着せれば好いのだろう、どの帯を締めさせれば似合うのだろう、東京の人の眼は高いだろうから、たとえ好い着物を着ても、取り合わせが可笑しければ、『ほほう立派な田舎者の雰囲気が出ておりますな』などと嘲笑(あざわら)われるだろう。我が()容貌(きりょう)は折角美しく生まれついているのに、物笑いになっては口惜しい。どうにかして(ひん)よくさせなくては親の身としても恥ずかしい。また、つれあいもなるべく可笑しくないようにさせたいし、自分自身も間抜けな様子をして、娘や夫の恥になるような(なり)も厭だ。お染には京御召(きょうおめし)が好いだろうか、少し地味すぎるだろうか。八丈(はちじょう)(*東京、八丈島特産の草木染めの絹織物)もおかしいか、いっそ中形(ちゅうがた)(*染の文様の大きさが中くらいのもの)の、いやいやあれは薬玉(くすだま)の模様がやはり田舎風だろうか。(もん)緞子(どんす)(*紋が入った厚くて艶のある絹織物の上等品)の帯か、博多帯かと、胸の中は着物、帯、頭髪(あたま)(くし)(かんざし)、しごき(*帯の下に巻いて後ろにたらす飾り)、羽織、持ち物と、色々なものを思い浮かべて心を躍らせていれば、眠られないのはお染も同じであった。

 明後日は父様母様と一緒にかねてから見たいと思っていた東京に行く。上野の山はどのような所なのだろう。都鳥がいるという墨田の川はどれ程大きくて景色が好い川なのだろう。博物館も見たい。千歳座(ちとせざ)(*明治座の前身)も見たい。図書館というのは何万巻という書籍(ほん)があると聞いているが、目録だけでも見に行きたい。もっと様子が知りたいのは東京にいて学問をされている姫君達。立派な方々のお嬢様達の状況。とても田舎育ちの私等は話もできないだろうけれど、どのように日々を送られているのか、その様子を知りたい。また、華族女学校や明治女学校も見てみたい。女学雑誌の巌本(いわもと)さま(*巌本(いわもと)(よし)(はる) 「女学雑誌」を創刊、明治女学校校長)という方にもお目に掛かりたい。けれど、これはいつも父様の癖で、男に口をきくのをお嫌いになるだろうからできないこと。それが理不尽だとは分かっていても、父様に逆らうことは厭なので仕方がない。さて、横浜に千早戦艦を見に行くのは、何もわざわざ出掛けて行ってまで見たいというほどではなかったが、いつも見られる訳でもないので、ふと見てみたいと言ったのを父様が取り上げられただけのこと。しかし、今見るものだと決まれば、また見たいような気にもなってきた、などと(とし)相応の智恵に加えて、雑書で蓄えた知識が様々に働き、一番(いちばん)(どり)が鳴く頃、ようやく眠りについた。


 明朝、彦右衛門は忠助を呼び出して、親子三人、東京へ行くことを語り聞かせると、太鼓の(ばち)(ぼう)よりも太い指の両手をついて、(つつし)んで(うけたまわ)り、

「お留守はもちろん万事不届きのないように、堅く家をお守りいたしますけれど、なるべくお早くお帰りくださいますように」との挨拶。この男を多くの小作人の中から見出して、彦右衛門が七年前から番頭として、家のこと一切を任せたが、確かに誠実さがあって頼もしく、

「お前が確かに留守をあずかってくれるなら安心だ」と、普段から人を疑わない主人の言葉。この常に人を疑わないということから、忠助は主人に深く(なつ)き、一層自分の心の限り誠実(まこと)を尽くさなくてはと励み、旅行の準備まで手助けしたので、その日のうちに万事整い、いよいよ明日出発ということになった。


つづく

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