幸田露伴「いさなとり」現代語勝手訳(2)
第二 平穏な夜語り
文明開化の世に読み書きができないのは、宝の山に風呂敷を持たずに行って、金銀瑠璃硨磲を拾い損ねたような気持ちがするようなもの。世の中の面白いことの半分も知ることができないのはどれほど口惜しいことだろう。
彦右衛門は「七」という字の尾が右に曲がるか左に曲がるかも覚束ない老爺。普段は快活気に笑って暮らし、年中沈んだ顔をすることもない質ではあるが、文字の話になると、心細げに打ち萎れ、皆の後ろに退いて、年寄りには似合わない子どもっぽい紅葉を散らしたようなあどけない顔になり、額に汗を滲ませるほどである。正直に自らを恥じるので、村の者も気の毒がって、自然と徳ある者のために憚って、彦右衛門がいる時には学問の話を控えることになった。しかしながら、人の考えというものは妙なもので、自分が文盲の悔しさからか、
「我は今更とても文字を覚えられる望みはないけれども、その代わり、娘には」と口癖のように言って、お染が六歳、七歳の頃から読み書きに力を入れること並大抵ではなく、十三の春には村の学校を早くも卒業させて、自慢の鼻高く、学問のこととなれば、お染が好めば好むままに出費を惜しまず物の本などを買い求めてやった。お染もまた素直な質で、これを嫌うどころか劫って喜び、十四、十五と様々な雑書なども読み耽って、何時しか読書の楽しみを知るようになった。村に類いない学問好きだという噂の通り、新聞を数多く購るのも彦右衛門の家、雑誌を数多く取るのも彦右衛門の家、新刊書を度々買うのも彦右衛門の家、ことさら東京の書肆を捜して面白くて珍しい古書などを買い取ってくるのは、恐らく伊豆では唯一彦右衛門の家だろうとの蔭の噂もあるくらい。それを聞いて、老夫はますます嬉しくなり、別に理由もなく、伝手あるまま、縁あるままに買いに買って読ませようとするので、学校の教諭が名さえ知らないものも彦右衛門殿の娘御は持っておられると、木工助、杢兵衛が唸るほど感心することもしばしばであった。
お染は当然のことながら、買ったものをすべて読む訳ではなく、ただ面白いと思う所だけを自分勝手に読み散らしていくのだが、読み書きのできない親は娘の部屋を覗いてみて、机にさえ向かっていれば善いことだと考え、良人が
「染は大人しく学問しているぞ。気が塞ぐだろうから茶を淹れて持って行ってやれ」、「それ、お婢や、あの菓子はもう飽きただろうから、好きな豆煎なんかをこしらえてやれ」などと言って、あくまでも甘く育てるのを悪いとも言い兼ねる女房だったが、かといって、女の子に針の使い方も教えなくてはと、膝元に呼びつけて、小切れを取り出せば、お染は素直な心の持ち主なので、母の言いつけに少しも背くことなく、過般読んだ「女鏡」に書かれてあった通りの気持でもって、ただ「ハイハイ」とおとなしく針を手に取ったが、そんな所に彦右衛門がやって来て、
「怪しからん! 学問をさせずに縫い針など習わせて何になる」と叱りつけ、
「染や、あっちへ行って書物を読め、書物を読め。そして今夜もまた面白い話をして我に聞かせてくれ。これ、嬶、先日も草木が実を結ぶ訳を聞いて、お前も我も驚いたではないか。学問というものはどれくらいの所にまで進んでいるか分からん。縫い針などはあまりにも詰まらないことだから、書物には書かれていないのかも知れんが、書物というのはとにかくありがたいもので、読みさえすれば何でも分かるのが不思議。その書物を読むことを止めさせるとはもっての外。お前も文盲ではないか。読み書きが出来ないくせに娘の学問を妨げるとは怪しからん。染や、縫い針などは知らなくてもいい、彦右衛門、この歳になるまで、縫い針を知らんことで恥をかいたことはないぞ」と真面目顔で言えば、女房は笑い出し、
「あなたは男だからそのはずでも、ちょっとでも気の利いた者なら布の裁ち方くらいは知っているもの。まして女ですもの、仮に一生傍にお針子を置くにせよ、知っていれば手抜きをされたり、布を盗まれることなどもないのですから、何でもかんでも学問尽くめと言う訳にもいきません」と言う。
彦右衛門が少し困って頭を掻いていると、傍から、
「父様のお言葉もありがたいのですが、お母様の仰るのもご道理。しかし、裁ち方はこの間書物で読んで覚えております」とお染が言えば、親父は急に頭を擡げ、
「それ見たことか、書物ほど恐ろしいものはない。染、では染、どうやって裁つ?」と問えば、母も聞く中、『のめし裁ち』、『逆おくび裁ち』、『背ちがい』、『前襟裁』のおおよそを間違いなく答えて、しかも母も知らない裁ち方も知っていたのに、彦右衛門より女房の方が恐れ入って、涙をこぼし、
「あヽ、もう字の読める人ほど結構なものはない。私が悪かった。何と言っても学問だの、学問だの」と参ってしまい、お染が席を立った後、夫婦顔を見合わせて莞爾と笑い、「我が子はえらい」と喜ぶのであった。
夫婦共にこんな風なので、娘を可愛がること半端ではなく、夜はいつも新聞雑誌をお染に読んでもらい、世間の色んな悲しい話、可笑しい話を聞くことが夫婦の一日の楽しみであった。たとえ、新聞に書かれていることが詰まらないことであっても、すらすらと淀みなく読み下す声を聞けば、夫婦は頻りに笑みを含んで喜ぶのであった。
お染もまたこれを一日の勤めにして、父母が笑い出すことなどがあれば、自分の手柄のように思って嬉しく、父母の文盲を蔑む気持ちはまったくないけれど、自分が字を読めるのを楽しいことだと考え、昼間読んだ書物の中の怪しいこと、可笑しいこと、恐ろしいこと、道理なことなどを物語ったりすることもあって、大抵毎夜、一家三人、しめやかに睦まじく語らい、その後心安らかに床に就くのが常であった。
今宵も例の通り、新聞を読んでいると、上野の墨陀の花(*東京上野にある隅田川の堤に植えられた桜)は今が盛りで、都の男女が面白げに遊び戯れている様子が表現豊かに美しく書かれていて、きっと綺麗なことだろうと三人で噂していた。また、先を読んで行くと、横浜で帝国軍艦の千早号の縦覧が一般人にも許されているということもあり、お染は思わず「見てみたいもの」と、ぽつり独り言を言った。さらに読み進めると、浅草の某寺に何処かの秘仏の開帳があるともあって、母は思わず「参詣たい」と言ったが、こうして三人、この三つの話について、交互に思いを語れば、やがて彦右衛門は莞爾と笑いながら、
「我もこの二十何年お江戸を見ておらず、嬶もお染も東京というところは話に聞くだけだろう。この村からは驚く程遠いということもない。二十日か一月逗留して遊びながら見物してきても、忠助さえ家にいれば困ることはない。一度はお染に大都会の景色を見せておくのも学問の足しになるはず。行こう、行こう見物に。打ち揃って行こう」と言い出せば、
「それは本当か!?」と皆喜ぶのだった。
つづく