第五話 怨恨
あるところに丸石と共に広がる河原があり、浅瀬にはザリガニが水の中を歩き、それをタヌキが獲って食らう光景があった。
その河原のほとりに一人の男がいた。
「へへへ! 今日は儲けもんだ!」
男は頭と顔に布を巻いて素顔を隠し、手には幾つかの財布を持ち、下品に笑う怪しげな風貌であった。
「全くもってちょろいもんだぜ」
男はニヤニヤとした笑みを浮かべながら、財布の中から取りだした銅銭を手の平に乗せて数え始める。
「金なんて、俺にかかればいくらでも手に入るもんさ!」
どうやらこの男は盗人のようで、これまでに幾つもの盗みを働いてきた者であった。
「さて、これで何買って帰るかな~?」
男は数え終えた金を財布に戻し、その収益に喜びながら足を進めるその先に、一人の少年が木の陰で身を隠していた。
「大丈夫だ。あの時みたいにまた殺れる……!」
そこには、男がこちらに来るのを待ち伏せして、息を潜めている飛若がいた。懐に隠していた小刀を手に取り出し、その刃を小さく輝かす。
「へへへ」
だが、男はそれに全く気づかず、自分の盗んだ金に目を眩ませながら、ゆっくりと飛若の隠れている樹木に近づいてくる。
(殺れる! もう一度殺れる!)
飛若は距離を取り、盗人のゲラゲラと笑う声を聞き取りながら目を瞑り、心を落ち着かせて小刀の柄を強く握りしめる。
そして、盗人が飛若の隠れている樹木に近づいたその瞬間!
「どりゃあ!」
飛若は盗人が通り過ぎて背を見せたその隙を狙い、後ろから飛び掛かって、小刀を盗人の首筋に刺した。
「うぐっ……! がっ……!!」
盗人は苦悶の表情を浮かべると、飛若はすぐさま首に刺した小刀を引き抜き、盗人は首から血を噴き出しながら吐血して、その場にうつ伏せで倒れ込む。
しかし、盗人はまだ生きていた。
一体何が起きたのか分からないというような表情を浮かべながら、盗人は刺された首に手を当て、もがき苦しみながら何度もその場に立ち上がろうとする。
よほど生きる為の執念に燃えていたのか分からぬが、その必死な姿を見た飛若は盗人の息の根を確実に止める為に、小刀を逆手に持ち替え、倒れている男に目掛けて何度も何度もメッタ刺しにした。
グサ! グサ! グサ!
何度も刺す度に噴き出た血が飛若の身を赤く汚し、その姿はまさに血にまみれたケダモノそのものであった。
やがて、盗人はピクリとも動かなくなってしまい、何も分からず、悲鳴も上げず、呆気なくその場で息絶えてしまう。
ズタズタにされた衣服は血にまみれ、その死体の周りを赤く染める。
「やった……!」
最初、飛若は一撃で仕留められなかったことに一瞬焦ったが、何とか抵抗されずに殺す事が出来たことに思わず一安心する。
何せ相手は同じ人でも悪人である。もし、一歩間違えていたら返り討ちにされ、自分が殺されてしまうのではないかという不安も抱えていた。
だが、彼は安心している場合もなく、まず、周りに誰か人が見ていないかを確認した。
「誰も見てないよな?」
いくら悪人相手でも人殺しは人殺しである。もし、誰かに見られでもしたら、人を呼んでしまうかもしれない。
そして、自分が罪人としてお縄につくかもしれない。それを避けるためにも彼は常に用心していた。
「よし!」
やがて、周りに誰もいないことを確認すると、彼はすぐさま盗人の身ぐるみを素早く剥ぎ取り、金目の物と着ていた着物を奪った後、裸姿の死体を川に放り投げ、急いでその場から離れた。
「これなら、しばらくはなんとか生きていけるな」
飛若は走りながら、手に持っている金と着物を見ながら、ようやく一安心をする。
やっていることは盗人と同じだが、同じ人として生きる為には仕方なく、ましてや善人ではなく、悪人を主に狙えば世直しの為になると、この時の飛若はそう思っていた。
それから彼は少し離れた河原で、血で汚れた体と衣服を洗い落とした後、盗んだ金と衣服で食料を買いに人里へと向かった。
―――――――――――――
河原を辿ってから一里(約四キロ)ほど歩くと、山地を囲う盆地にとある町が見えた。
「よし! 人里だ!」
飛若は喜びながら町に向かうと、そこは彼にとって今までに見たこともない未知の世界があった。
街道は市場が建ち並び、各地からやってきた多くの行商人や旅人が店で物を買ったり、売ったりする光景が目に見えた。
辺りは人だかりの中、市場の店は米、魚、酒、着物、陶磁器、藁細工、金物など、人が生活するには十分な品が揃っていた。
「賑やかな町だな」
山育ちの飛若にとっても、これほど栄えている町を見るのは初めてであり、まだ齢十二の彼はその町並みを見て少しだけ心を躍らせる。
「さて、どこか泊まれる所はないかな?」
飛若は早速、宿を探し始める。今回は少しだが金がある。食料も買える。 希望が少しずつ見えてきた。そう思いながら、しばらく町を廻って探していると、
「おい小娘! 今日こそは金を返して貰うぞ!」
「ん?」
飛若はとある路地から怒声が聞こえ、その方向に振り向くと、そこにはまだ年端もいかない小柄な幼女がボロボロになり、一人の男に髪を掴まれている姿が見えた。
「もう堪忍して……! ウチにはお金がないの……!」
「金がないなら、儂等のもとで働いてもらうぞ!」
男はへへへと下品な笑みを浮かべながら、太い手で幼女を強引に連れて行こうとする。
「あれは!」
飛若は幼女が大の大人にいじめられているのを目の当たりにする。
「いやあああああああああああああああああああ!」
幼女が悲鳴を上げると飛若は無理やり連れて行かれる幼女を見て放っておけず、彼は咄嗟に懐から小刀を取り出し、問答無用で男の背後を襲った。
「がぁ……!」
男は背中から心の臓を刺された途端に呻き声を上げて、その場に倒れると、飛若はすぐさま幼女のその手を掴んだ。
「逃げるぞ!」
「う、うん……!」
飛若と幼女は血染めの死体が倒れているその場から逃げ、誰かに見られる前にただ、ひたすら走り続けた。
やがて二人は人目のつかぬ橋まで走ると、彼らはようやくそこで足を止める。
「ハァ、ハァ……!」
「ここまで来れば大丈夫だろ……!」
二人はその場で息を切らしながらゆっくりと深呼吸をして、気持ちを落ち着かせると、幼女の口が開く。
「お兄ちゃん誰? なぜ、あたいを助けたの?」
「目の前に女が虐められていたら普通助けるだろ?」
まるで当たり前だと言わんばかりの飛若の返答に幼女は俯く。
「で、でも……!」
「大丈夫、俺は良い奴の味方だ」
飛若はそう言いながら、ポンポンと幼女の肩を優しく叩きながら笑顔を向けると、彼は幼女に尋ねた。
「助けた代わりに聞きたいんだが、この町で泊まれる宿はないか?」
「あるにはあるけど、ここは商人の町だから、大半の宿は行商人のお客しか受け入れてくれないの」
「そうか、また野宿か……」
長旅で疲れていた飛若は、やっとの思いで雨風を凌げる宿がある人里に着いたと思ったが、その期待も無くなってしまったことに少し落ち込むと、
「あの、だったら、あたいの家に来ない? 助けてくれたお礼に泊めてあげれるけど?」
すると、幼女は少し照れながら飛若に恩返しをする為に、自らの家に招き入れようと話を持ちかけた。
「いいのか? 助かる!」
飛若は喜びながら幼女の頭を撫でて礼を言うと、幼女は恥ずかしそうな表情で俯く。
そして彼ら二人はそのまま幼女の住む家へと向かい始めた。ひときわ、寂しい狭い町の路地を共に歩く中、幼女は道を案内しながら飛若を連れて行く。
「ここが、あたいのお家だよ」
二人がたどり着いたその場所はボロボロの家であった。
井戸は枯れ果て、茅葺の屋根には穴が開き、戸は壊れており、更に彼はそのボロい家の中に入り始めると、床はいくつかの穴があり、真ん中には囲炉裏と鍋と、その横にまな板と包丁だけが置いてあるのが見えた。
誰が見ても貧しいのが分かる家に来た飛若は、雨風が凌げるなら、まだマシだと思った。
何故なら今夜は雨が降りそうで、流石に外での野宿だけは勘弁したかった。
「お兄ちゃん床に気をつけてね」
彼は床の穴に落ちないように足元を気にしながら、ゆっくりと囲炉裏の近くまで来て無言で腰掛け、幼女はその向かい側に座って囲炉裏に火をつけ始める。
「そういえば名は?」
「衣与……」
「衣与か。歳は?」
「八つ」
ポツンと座りながら俯いている幼女と物静かな家の中を眺めた飛若はふと、ある事を思い始めた。
「衣与は一人で暮らしてるのか?」
「おっかあは流行病で死んで、おっとうはあたいの為に出稼ぎに旅に出たの……」
「そうか。お前も大変だな……」
飛若は衣与がこの家で孤独に暮らしていることに空しさを覚え、両親のいない自分とどこか同じように感じた。
「俺は飛若だ」
そして、今度は飛若が自らの名を名乗ると、衣与はそんな優しい笑顔を向ける彼を見て、少し気になる事を聞き始めた。
「飛若お兄ちゃん。さっきは助けてくれて、ありがたかったけど、なんで人を殺したの?」
その時、衣与のその質問に、飛若は心が揺らぎ始める。
普段、考えないようにしていた自分の呪いの事を再び思い出してしまい、彼は内心動揺し始める。
「お、俺は悪者退治の為に旅をしてるんだ……!」
飛若は幼女に嘘をついた。怖かったのだ。
自分の呪いのことを伝えたら、衣与は必ず自分をケダモノのように蔑むだろうと。彼はそれが怖かった。
また、飛若は人を殺しても、善人でいたいという強い気持ちもあった。
自分は悪人じゃない。悪人を殺す善人として、世直しをする者だと、自分にそう言い聞かせていた。
「あたい、お兄ちゃんがあいつをやっつけた時、嬉しかったけど同時にお兄ちゃんの目が怖かった。なんか私達とは違う生き物見たいで」
飛若は衣与のその言葉にますます動揺すると、
「そ、そんな事より、何か食い物あるかな? 俺腹減って死にそうなんだ! これと交換してくれないか?」
彼は咄嗟に話を変えて、先ほど追い剥ぎで得た盗人の着物を見せた。飛若にとってその話は聞きたくなかった。
自分がいつか化物になってしまうかもしれないという残酷な定めを受け入れたくなく、思い出したくもなかった。
「う、うん……! まだ粟と味噌が少し残ってるから今から作るよ!」
衣与はもう少しだけ話を聞きたかったが、すぐに切り替えて飛若の為に料理を作ることにした。先ほど悪漢から助けてくれた恩を返すためである。
衣与は炊事の支度をしようと立ち上がったその時、
「ところでお兄ちゃん……それは……?」
衣与は飛若が持っていた着物に目が止まる。
「ん? ああ、これか? さっき道中で悪人を斬った時に手に入れた物さ」
「そう……」
衣与はその飛若の持っていた血塗れの着物を、物々交換として無言で受け取る。
それからしばらくすると、衣与は粟の入った袋とタケノコの皮で包んだ味噌を用意して、味噌粥を作り始める。
やがて、外は夕暮れになり、空は雨雲で隠れて薄暗くなってしまう。
衣与の家の囲炉裏には、火で温められた鍋からぐつぐつと粥が煮えたぎり、湯気を立てていた。
衣与が真心を込めて作った味噌粥である。粟特有の黄色の彩りと、味噌の香りが飛若の鼻に突き刺さり、食欲を引き立てた。
「はい、お兄ちゃん。召し上がって」
衣与は囲炉裏鍋に入った粥をお玉でお椀によそい、飛若にゆっくりと差し出す。
「頂きます!」
飛若はそのお椀を取ると、一気に口にかき込んで食べ始めた。
熱々で舌や喉が焼けるのではないかと言わんばかりの凄まじい食べっぷりであったが、彼はよほどの空腹であったのであろうか、そんな事など気にせずにただ、ひたすら粥を胃に入れる事に専念した。
「あ、あの、おかわりあるよ……?」
「すまない。もう一杯頂く!」
飛若は衣与の言葉に甘んじて、無言で空になったお椀を差し出しておかわりを貰い続ける。やがて、彼は鍋の中の粥をあっという間に平らげてしまい、満腹になった彼は一息ついて、ようやく心を満たす。
「ふ~う。腹が膨れた。かたじけない」
満足した飛若はふと、ある事が少し気になり、衣与に話を持ちかける。
「そういえばお前、昼間にいたあの男なんだが、あいつとは一体どういう関係なんだ?」
衣与は飛若のその質問を聞くと、どこか辛そうな表情をして俯きながら語り始める。
「ウチはもともと織物を扱う店を開いていたんだけど、ある時、三田家という悪い人たちがこの町にやって来て、その下っ端達がウチの店に押しかけて、『ここは儂等のシマだ』と言われたの」
「じゃあ、さっき会った奴はその三田家とかいう奴らの手下だったわけか?」
衣与はコクリと頷く、その表情はどこか泣きそうであった。
「それからというもの、あたいらに毎日払えそうにないほどのお金をせしめて来て、例え払えない日でも足りない日がやって来ても、いつもあたいらを殴り続け、店をめちゃくちゃにされてきたの」
「そりゃあとんだ悪人だな」
飛若は衣与に同情し、その三田家という者達に対しての憤りを覚えた。
「そのおかげで、おっとうは店をやめて、あたいとおっかあを残して出稼ぎに行ったの。その後におっかあは死んだけど……。それ以降も三田家はたまに、ウチの借金を取り立てにやって来て、あたいに暴力を振るってくるの……」
飛若は察した。これまで衣与は今まで惨めな境遇に一人で耐えてきた事を。幼女はひとりぼっちであったのである。
「でも、大丈夫! おっとうは言ったんだ! 必ずまた帰って来るって! そして、あたいらを絶対に裕福にさせてあげるって!」
「それで今に至るか」
「うん!」
先ほどまで悲しい表情をしていた衣与は、突如無邪気な笑顔に変わり始める。衣与は今までどんなに辛くても、父親が帰ってくる事を信じて待ち続け、希望を抱えていたのだ。
「でも、今はあいつらにやられてるんだろ? この先ずっと父親を待っていても、あいつらは未だにお前を虐める事をやめようとしない。それでいいのか?」
「いいよ。あたい強くないから……」
飛若は衣与の今置かれている状況を知って可哀想に思った。何もできずにただ暴力を振るわれ、ひたすら父親を待ち続けていることに。
「よし! 決めた。俺がかわりにそいつらをやっつけてやる!」
「へ?」
「一宿一飯の恩だ。もういじめられないように、これからその三田家の奴らを俺が一人残らずやっつけてやる!」
飛若は決意した。衣与を救う為に、そして、自分の呪いを止めるためにも丁度いいと思いながら彼はその場に立ち上がる。
「お兄ちゃん……」
衣与はそんな飛若を見上げて、こう言った。
「さっきお兄ちゃん言ってたよね? とんだ悪人だって……」
衣与は無表情で呟く。
「うん。お兄ちゃんほどじゃないけど」
「……!」
衣与がその一言を呟いた瞬間、飛若の体に異変が起きた。全身にいきなり強い痺れを感じ、息が出来なくなり、その場に倒れてしまう。
「ぐっ! がぁ……!」
飛若は一体何が起こったのか分からなかった。視界は霞むが横になったまま見上げると、その目の前に衣与が立っていた。
憎々しげな表情を浮かべながら、手に包丁を持っていた衣与が。
「一体何が起こったか教えてあげるね?」
苦しみながら倒れている飛若を見下ろした衣与は答えた。
「さっき食べさせた粥の中にあたいが毒を入れたの」
「……!?」
信じられなかった。さっきまで親しくしていた衣与が突如豹変し、今自分を殺そうとしていることに事に飛若は驚愕する。
「本当わね。三田家のあいつらにやり返す為にとっておいたの」
(なら何故? なぜ衣与はそいつらより俺なんかを殺す為に毒を使ったんだ!)
飛若は疑問に思うと、衣与の口から衝撃的な言葉が出た。
「死ぬ前に教えてあげる。さっきお兄ちゃんから貰ったあの着物あるでしょ?」
そう今日河原で殺したあの盗人の着ていた血塗れの着物の事である。
「あれ、おっとうの……!!」
「なっ……!」
その一言で飛若は絶句する。
「何で……? 何でおっとうまで……? おっかあが死んで、何でおっとうまで死ななきゃいけないの……?」
衣与は泣きながら絶望する。今まで母親を失った悲しみを背負い、悪人にいじめられてきても尚、必死に耐えて、父親の帰りを待ち続けて来たのに、その苦労も生きる希望も何もかも全て失ってしまったことに。
飛若は衣与の言葉を聞いて罪悪感を覚える。あの時、もし衣与の父親である盗人を殺してなければ、長い間、待ち続けていた衣与と再会出来た筈なのに、それを彼が奪ったのだ。
「神様は空っぽのあたいに……! あと何を奪えば気が済むのよおおおおおおおおおお!」
「グボッ! ガハァ……!」
衣与は全てを呪い、狂うように絶叫すると、飛若は口からドス黒い血を吐き出す。
「ゆっくり苦しんで……。そして、最後にあたいの手で止めを刺してあげる……」
「ハァ、ハァ……!」
衣与は瀕死の状態の飛若を見て、もう動けないだろうと察すると、今度は弱った飛若を仰向けにさせて馬乗りになり、包丁を逆手に持ち替えて刃を心臓に向ける。
楽にはさせず、父親と同じようにズタズタに殺す気である。
「おっとうの仇!」
そして遂に、衣与は両手で包丁を飛若の心臓に目掛けて思いっきり刺した。
だが、その瞬間、飛若は死にたくないという思いで、咄嗟に右腕で包丁の切っ先を受け止めて防いだ。
右腕から血が流れて激痛を感じても、彼は何とかその心臓を守った。
「毒がまだ回りきれてなかったか! この死に損ないの疫病神めえええええええええええええええええ!」
衣与は包丁で何度も何度も飛若の体に目掛けて刺し続けた。しかし、飛若はそれらを両腕で全て受けて防ぎ続け、必死に抵抗して心臓や急所を守る。
体中のあっちこっちを刺され、毒に侵されても尚、飛若はその身を守り続けると、彼はなんとか力を振り絞って、幼女の小柄な体を力強く突き飛ばした。
「化け物……に……なりたく……ねえ……!」
彼は毒と刺し傷で苦しみながらも、化け物になる呪いを恐れ、人間の尊厳と命惜しさのあまりに、目の前に落ちてある小刀に目が付き、芋虫みたいに這いながら必死にそれを手に取ろうとする。
「おっとうの仇いいいいいいいいいいいいいいい!」
衣与は叫びながら再び起き上がり、包丁を手に持ちながら弱っている飛若に向かって襲いかかったその刹那!
「……!」
飛若は落ちていた小刀を手に取って咄嗟に引き抜き、衣与の喉を斬ってしまった。幼女の喉から血が噴き出し、衣与は手で喉を押さえながら、その場に倒れ込んでしまうと、飛若はそこでようやく正気に戻る。
「グッ……! ング……!」
「……い、衣与!」
彼はよろけながらも倒れている衣与に近づく。咄嗟の行動とはいえ、殺す気など全くなかったのだ。
「グブ……! グゥ……ング……! グヴッ……!」
見るに耐えられない。幼女が喉を斬られて、吐血しながら苦しんでいる姿を見ると。
「ゴホッ……! 衣与! 死ぬな……!」
飛若は苦しんでいる衣与に必死に呼びかける。頼むから死なないでくれ!生きてくれ!と心の中で叫び続けるが、その願いも届かず、幼女はやがてピクリとも動かずに絶命した。
「お、俺が……衣与と……衣与の父親を……殺し……!」
彼は生まれて初めて、底知れぬほどの罪悪感を覚えた。悪人退治とはいえ、人を殺してこのような結果になってしまった。
自分の今までやってきた行いは正しくなかったのだと。
――何なんだ? これは一体?
「なっ! 人殺しだ!!」
その時、いつの間にか衣与の家の戸が開けられて、三人ばかりの人相の悪い男達が血の付いた小刀を持っている飛若を見て叫んだ、おそらく彼らは三田家の下っ端で衣与に金を取り立てにやって来たのであろう。
「誰か人を呼べ!」
人相の悪い男達三人は慌てながら、すぐさま近くで人を呼ぼうとしたその時、飛若の目の色が変わって動き出した。
「うあああああああああああああああああああ!!」
彼は小刀を手に持ちながら、その場にいた男達三人に何かの思いをぶつけるかのように襲いかかる。
「ぎゃああああああああああああああああああ!!」
男達の悲鳴が響く中、彼の心が徐々に歪み始める。
――何なんだこの呪いは? 何なんだこの世は?
ザザザザザザザザザーーーーーーーーーー
その後、町に雨が降り始めると、彼が立つその周りには三人の無惨な死体が倒れていた。
手に持った小刀と彼が着ている白い衣に付着した返り血、そして、その場の死体に広がる血溜まりが雨で洗い流される中、彼は悟った。
――自分の運命に抗うからこうなったんだ。
――この呪いに、
――善人はいらない。
その時、飛若は走り出した。彼は今までやってきた行いを後悔しながらも、心を改めた。
――悪人退治なんて偽善者がやることなんだ。
――人を殺すことに良い事なんて一つもない。
「お、俺は……俺は……好きで人を殺してるわけじゃないのにいいいいいいいいいいい!」
飛若は自らの背中の刺青を呪って絶叫した。
「うああああああああああああああああああああ!」
彼は町を出ると、広大な大地をただひたすら走り続けた。それから一体どれだけ走り続けたのかも分からなくなり、ただ、彼の叫び声が雷鳴と共に大地へ鳴り響く。




