第四十九話 道場
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翌日、快晴の青空に小鳥が飛び交う昼頃、この日、正堂院の門下生達はいつもより早く帰ろうとしていた。
昨日、南大橋で出兵から戻ってきた三百人余りの兵達が、過激派僧徒中禅宗に一斉に斬られ、橋には大量の指や体の一部が落ち、派手に血が撒かれてあったという噂がこの正堂院にも流れてしまった。
穏健派僧徒真浄宗の拠点でもあるこの学舎で勉学を教える僧達も、この物騒な噂が耳に入り、危機感を覚えた僧達はこの日、門下生の身の安全を講じて、早めに自宅に帰らせる事にした。
門下生達は勉強ができなくて残念に思う者もいれば、早く帰って好きな事をするのを楽しみにする者もおり、彼らは賑やかに正堂院を去ろうとする。
そんな正堂院の室内でワイワイと賑やかに帰り支度をする子供達の中に、一人、凜々しい少年がいた。
「うう……まだ耳がムズムズする……」
昨日、瑞藻にさんざん耳をしゃぶられた飛若は、今朝からずっと勉学に集中できず、今だに左耳に手を当てていた。
「あの女狐め、覚えてろ……」
恥辱を晒された彼は悔しさを覚え、いつかあの女に絶対仕返ししてやると、心にそう誓った。
「でも……」
ところが、飛若にはそれ以上に思い悩む事があった。
「なんか……すごい柔らかかった……」
彼は頬を赤く染めながら、自らの両肩を掴んで体を強張らせた。
「女って、皆あんななのか……?」
抱きつかれ、包み込むように顔に押しつけられたミカヤの柔らかい胸の感触と、逃れられず朝まで体を密着してきた瑞藻の柔らかい体と唇の感触を覚えてしまった飛若は、未だに胸を高鳴らせていた。
女という未知の存在を知ってしまった彼は、モジモジとしながら、ただ床に俯く。
「どうされた?」
その時、悶々としていた飛若の真横に突然女子が現れた。
吉ノ国の姫、千代であった。
「うわぁっ!?」
飛若はいきなり側に現れた千代に驚くと、ついその場から離れてしまう。
「何もそう驚かなくても良かろうに」
「お前がいきなり現れるから、びっくりしたんだよこっちは!」
その余りの慌てぶりに、千代は少し心配げな表情をした。
「なにか、気に障るような事をしてしもうたか?」
「そういうわけじゃない」
飛若はそっぽ向いて答えるが、千代はいつもより愛想のない彼の仕草に、少し違和感を覚えた。
「何をそうひねくれておる?」
千代はキョトンと首を傾げながら、彼の側に近寄ると、
「べ、別になんでもない!」
彼は顔を真っ赤にしながら、距離を取る。
「ふふ〜ん」
千代はそんな飛若をジトーと見つめながら、ニヤける。
「何をそう照れておる?」
ネコのように寄り添ってくる千代に対して、慌てだす飛若。
「や、やめろ! 俺に近づくな!」
「なぜじゃ? 妾は普通に接しておるだけじゃが?」
千代は飛若のその挙動がとても面白くなり、彼女の中から小さな悪戯心が芽生える。
「あっちいけって!」
「そう嫌がることではなかろう?」
「嫌がってるだろう! こうやってよ!」
千代の笑顔が近づくにつれ、何とか距離を取ろうと逃げようとするが、なかなか離れてはくれなかった。
「誰か、助けてくれ!」
彼は周りにいる人間に助けを求めようとするが、
「って、もう誰もいねえのかよ!」
気づけば、周囲は誰もいなくなっていた。
「どんだけ早く帰りたいんだ! ここの奴らは!?」
皆、普段の務めから、一時の逃れに甘んじたく、はやく家に帰りたがった者達ばかりであった。
誰もいない室内で、彼らは二人っきりになってしまう。
「離れろって!」
「にゅふふ~ん」
ますます、彼の反応が面白くなり、距離を縮めようとする千代に、飛若は為す術を無くしたその時、廊下で通り過ぎようとする水蠆丸の姿が目に映った。
「お、おい水蠆丸!」
「ん?」
飛若の声で足を止める水蠆丸。
「水蠆丸! 助けてくれぇ!」
「なっ!?」
飛若は水蠆丸に助けを求めると、彼はこちらを見た瞬間に仰天する。
「ち、千代様! 何をなされて!?」
水蠆丸はすぐに彼らの元へ走ってくる。
「何もこうも、飛若殿に接しておるだけじゃが?」
「そんな破廉恥な……!」
水蠆丸はなんとしてでも、千代を飛若から離れさせようと、間に割って入る。
「いけませぬ千代様! 飛若殿が困り果てております」
「妾は困らぬ! 飛若殿に近づきとう!」
なんとしてでも、飛若に近づこうとする千代に、水蠆丸はどうにかこの場の状況を変えようと考えたその時
「そ、そうだ! 飛若殿はこれから、我が道場に来る約束をしたのだ!」
「約束?」
キョトンと首を傾げる千代。
「左様にございまする! この者、どうも我が剣技に興味があるらしく、今日、我が道場でその稽古をお見せするつもりでして……!」
「そ、そうそう! 俺、水蠆丸の道場に行きたくてな……!」
飛若も水蠆丸のその話に合わせる。
「む~! ずるい! 妾も連れてっておくれ!」
「いけませぬ。道場は男の神聖な稽古場。女子が来るようなところではありませぬ」
「嫌じゃ嫌じゃ~! 妾も行きたい! 飛若殿と共に行きたいのじゃ~!」
ワガママを喚いた千代はその時、飛若に飛びかかり、その腕を掴み始めた。
「うわぁあ!?」
「離さぬぞ!」
少女の柔らかい感触が腕に伝わり、飛若は顔を真っ赤に染める。
なんと言われても、彼の側から離れようとしなかった。
(くっ! かくなる上は……!)
その時、水蠆丸はある事を閃き、実行した。
「んなぁ!? 千代様! 飛若殿の頭にごきかぶり(ゴキブリ)が!?」
「にゃ、にゃにぃ!? きゃあああああああああああ!!」
その途端、千代は驚きの余りに飛若から離れた。
「今だ行くぞ!」
その一瞬の隙に、水蠆丸は飛若の手を掴んで連れて行った。
「すまない!」
飛若は水蠆丸に礼を言い、手を引かれるがままにその場を去る。
「おのれ、謀ったな水蠆丸! 妾が虫嫌いなのを知っておいて!」
その時、飛若は水蠆丸に問う。
「虫嫌いなのかあいつ?」
「うむ。千代様はあれでも虫も殺せず、触れも出来ぬ、かよわい女子なのでな」
普段、陽気な性格の千代にも、苦手なものがあったことを飛若は始めて知る事になった。
「待てええええええええええええええ!!」
廊下で響く千代の声は、やがて聞こえなくなり、彼ら二人は正堂院を去った。
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二人が正堂院を出てからしばらく経つと、水田地域と隣接している東町へとやってきた。
「フゥ~助かった」
千代からなんとか逃げ延びる事が出来た飛若は、両替屋の前で一汗を掻く。
「すまない。恩に着る」
「礼などいらぬ」
水蠆丸はどちらかと言うと、飛若を千代から遠ざけたく、彼を連れて行ったに過ぎなかった。
「しかし、千代様は何故、このような者を気に入ってしまったのやら……」
「知るかよ」
全力で走り終え、汗の雫が頬を伝わる彼のその横顔を眺める水蠆丸。
「むっ……確かによく見てみれば、大層な美男子であるの」
「俺の顔がそんなに良いか?」
怪訝の表情で水蠆丸に伺うと、本人は頷く。
「うむ。悔しいが、一目惚れされても、おかしくはないぞ」
「なっ、ないない! そんなわけあるか!」
(俺は元馬飼だぞ? 下賤な農民の出の俺に、高貴な姫様が惚れるわけないだろ?)
飛若はこれまで、自分の容姿の事など、気にしたこともなかった。ただ、泥にまみれ、馬糞を扱う汚ならしい仕事を生業にしてきた身、ただ、それだけの人間としか自分を評価していなかった。
自分がどんな容姿をしても、結局、その顔は泥と馬糞、そして返り血がつく汚い面に過ぎない。そういう風にしか、自分を捉えてなかった。
「そういうお前だって、千代に気があるんだろ?」
「バッ……何を申す!」
「顔に出てるって」
水蠆丸は赤面しながら否定する。
「お主こそ、さっき千代様に近づかれた時、顔を赤くしていたではないか!」
「あ、あんなに迫られたら、多少誰だって驚くだろうが!」
「なんとも羨ましい! また憎たらしくなってきた!」
「だったら、お前が変われよ!」
二人はぐぬぬぬぬ!と目に火花を散らす。
「プッ……」
「くっ……」
その時、二人の表情が綻ぶ。
「あはははははは!」
「だはははははは!」
彼らは大いに笑い合ってしまう。
「あ~なんか面白いなお前!」
「お主こそ!」
なんだかよく分からないが、二人は腹を抱えてしまう。
彼らはよく分からないが、何処かしらの友情を芽生えてしまったようである。
「ははは! 折角だ。よければ、我が道場に来ぬか?」
「お前の道場?」
「ああ! 歓迎してやる」
そう言うと、水蠆丸は飛若を実家である道場へと案内した。
やがて、泥水の中を泳ぐドジョウを捕らえるトキの群れが集まる水田地域まで歩んだ二人は、川沿いの近くに位置する古い道場屋敷へと辿り着いた。
門には、『小田原流武術 小田原道場』と書かれてる大きな看板が飾ってあった。
「ここが、我が道場だ」
二人は門に足を踏み入れると、多くの門弟が大声を上げながら稽古に専念する様子があった。門弟達の鍛え抜かれた上半身からは、大量の汗が流れる光景が目に見える。
激しい稽古をしている様子であった。
「ここはなんの道場だ?」
戸が開けられ、通気を良くした道場内では、木刀で激しく打ち合う門弟達の姿が見えた。
「剣術? いや、違うな」
剣術だけではなかった。庭で上半身裸で槍術の稽古をする門弟、池で褌一丁の姿になって水術(泳法、つまり水泳)を練習をする門弟、素手による張り手や拳、蹴りに四股、投げ技や固め技などを使う組討ちまでも行われていた。
「無論、剣術も教える。だが、剣術でも槍術でも、ましてや組討ち専門の道場でもない」
道場を案内する水蠆丸は淡々と答える。
「武術そのものである」
「武術だと?」
飛若は首を傾げた。
「うむ、多種の技を極め、あらゆる状況でも対抗できる実戦の鍛錬をする総合の武術、それが我が流派、小田原流武術である」
「なんか凄そうだな」
これまで、ただ感覚と勢いだけで戦ってきた飛若は、初めて武術という名の存在を知ることになる。
「無論、ここから東にある野ノ国の田舎武術と、この吉ノ国で暴れ回る中禅宗の武術を基に究めた技だ」
(あいつらの武術を……?)
精禅寺で、日々鍛錬していた僧兵達の稽古風景を思い浮かべる飛若。
「だが、本当に凄いのは、我が父上だ」
水蠆丸がそう答えながら、門弟達に近寄ると、
「お? 若がおかえりになられたぞ!」
門弟達は水蠆丸に気づき、挨拶をする。
「若、今日はお早いですね」
「勉学、お疲れ様でした!」
次々と歩み寄る親しい門弟達。
「兄上~! おかえりなさいませ~!」
そこへ、小さな少年が愛らしく走ってくる。
「お~豆丸か~! 良い子にしておったか?」
水蠆丸はその少年を優しく抱き上げ、頭を撫でながら大いに可愛がった。
「此奴の名は、豆丸。我が可愛げのある弟だ」
自分の弟を紹介する水蠆丸。弟思いの兄なのか、その可愛がりぶりには、深い愛情を飛若は感じた。
「父上はどこにおられる?」
水蠆丸は弟を抱えながら、門弟達に聞く。
「今、弓の稽古に励んでおります」
門弟の一人がそう言うと、水蠆丸は弟を下ろした。
「来てくれ飛若殿。父上に紹介したい」
彼は飛若を弓庭(弓の稽古場)へと案内した。
屋根付きで土が盛られている的場、そこには的の役割をしている巻き藁が立ち、それに向けて弓を放つ男がいた。
烏帽子を被り、鼻と口ひげを蓄え、引き締まった屈強な体を持ち、如何にも威厳のある風貌をしたその男の名は、吉ノ国、武術指南役にして、小田原道場七代目当主、小田原義綱であった。
(あれが、水蠆丸の父親か)
左の袖を脱ぎ、引き締まった腕と肩が、日々鍛えられている証を表わしながら、和弓を力強く引く義綱。
キャン!
甲高い弓のしなり音が響くのと同時に矢が飛来し、巻き藁のど真ん中に矢が当たる。
『お見事!』
師範の弓術を見物する門弟達は、義綱の腕を称える。
的まで四十歩(約二十八メートル)ほど離れてる距離を難なく巻き藁に当てた義綱の腕は、明らかに熟練の域に達しているのが分かった。
「父上!」
そこへ、水蠆丸が声をかける。
「水蠆丸か。今日は早いの」
「ええ。ちょっと良からぬ事件が起きまして。此度は早く帰らされました」
その言葉を聞いた義綱は、もう一本の矢を引く。
「中禅宗か……」
キャン!
飛来した義綱の矢が、またも薪割りの真ん中に当たる。
「此度は友を連れてきたか」
構えを解いた義綱は、水蠆丸の後ろにいた飛若に目を向ける。
「っ……!」
その途端、飛若は凍りつき、全身から鳥肌がたった。
(なんだ、コイツは……!)
一見、ただの大人の男に見えるが、どこか厳格で威風堂々とした雰囲気を帯びてるのを飛若は感じた。
「はい。この者は……」
水蠆丸が紹介しようとした時、飛若は自ら率先して名乗り出た。
「我が名は飛若。此度は水蠆丸殿のお誘いにより、当家にお越し仕りました」
教養のない村出身かつ、粗野で礼に欠いた性格の彼は、この時初めて、礼儀のある振る舞いで義綱に頭を下げた。
(この威圧感……あの刺客四人衆と同じだ……!)
中禅宗最強にして最凶の剣客、刺客四人衆。
彼は以前、その四人の異様な殺気に気圧されたが、この小田原義綱もまた、その四人に匹敵するものを感じた。
「そうかしこまらなくても良い。気楽にいたせ」
そうは言われても、当の本人は気を緩めずにはいられなかった。
決して怒らせてはダメだ。そう思い、普段から礼に欠いた振る舞いを下手に見せることが出来なかった。
「苦しゅうない。儂はただ武芸にのめり込むだけの人間に過ぎぬ。決して高い位に立つほどの者ではない。あくまでただの武者。それだけじゃ」
弓を持った義綱は飛若に歩み寄る。
「飛若。可愛らしいが、どこか響きの良い名だのう」
細身であるが、引き締まった屈強な体つきを持つ義綱を前にして、緊張感を抱える飛若。
「やってみるか?」
「え?」
その時、義綱は持っていた弓を見せて勧める。
「で、でも……!」
「心配いらぬ。儂が教えてしんぜよう」
初めて弓を迫られた飛若は一瞬戸惑ったが、威風堂々とした義綱を前にして断るわけにもいかず、承諾してしまう。
そして、一番引きの軽い初心者用の弓を渡された彼は、義綱に弓術の稽古を教授された。
「そう。基本、体は真横だ。物見は右目で見る感じに。弓を頭上に持ち上げたら、広げるような形で引くのだ」
始めに基本の構えと流れを教えられた彼はそのまま弓矢を取り、義綱の教えに従いながら、的に目掛けて弦を引いた。
「くっ……!」
「これ。右手が震えておる。しかも、段々持ってかれておるぞ。それでまともに飛ぶわけなかろう」
言う通りに右手を無理矢理にでも定位置に引き戻す飛若。
「そう。その調子だ。そのまま構えを解くな。一切震わさず、儂が良しと言うまで決して動かしてはならん」
義綱にそう言われた飛若は、そのままの構えを保った。
(まだかよ……!)
彼は腕の力が持たず、早く放って解放されたかった。だが、義綱はなかなか良しとは言ってはくれず、風の音だけが時間と共に過ぎ去っていく。
そして、
「良し!」
キャン!
ようやく、義綱が良しと言ってくれて、すぐさま弓矢を放つ飛若。
飛来した矢は巻き藁の端を掠め、盛り土に刺さる。
「端を掠ったか」
横から遠目で飛来した矢を眺める義綱。
「やっぱ、ダメか……」
「いや、そうとも限らぬ」
義綱は盛り土に刺さった飛若の矢を見ながら答える。
「初めて基本の構えを教え、初めて射ったにしては、矢は真っ直ぐ飛んでおったし、端を掠めたからのう」
義綱は意外にも飛若を評価した。
「たまたまですよ」
「いや、儂の目に狂いはない。才能はある」
そう言って、飛若の肩をポンポンと優しく叩く義綱。
「だが、力量が足らぬ故に腕の力が持たず、的よりも早く矢を放ちたくて、そちらに雑念が行ってしまっておる」
「うっ……」
ついさっき思ったことをそのまま口に出されて、何も言えなくなってしまう飛若。
「なに、力量などいくらでも鍛えられる。毎日体の鍛錬を欠かさなければな」
「鍛錬か……」
飛若は以前、作兵衛に言われたことを思い出した。
自分には、戦でまともに戦えるほどの力量がない。鎧も着こなせぬどころか、刀もまともに振れない。
更には、今回の稽古で弓すらもまともに引けぬという事実を知ってしまった。
明らかに戦では、まともに戦えない体であった。
「気が向いたら、いつでも道場に来るが良い」
義綱は思い悩む飛若にそう言い残して、弓置き場に弓を置く。
「えっ? 良いんですか?」
「構わぬ。お主には、武の才があると見ておる」
初めて会ったばかりの自分を受け入れてくれる義綱に、飛若は狼狽える。
「でも、稽古料払えるほどの金なんて……」
「そんなものはいらぬ。水蠆丸の友人だからのう。いつでも遊びに来るが良い」
肌脱ぎをして左肩をさらしていた袖を戻して、服を整える義綱。
「来なさい。特別に儂の武術の真髄を見せてしんぜよう」
そう言うと、義綱は飛若と水蠆丸を道場の庭へと連れていく。
すると、そこには刀を腰に差した門弟が待っていた。
「師範。此度もよろしくお願いいたしまする!」
「うむ」
一礼する門弟に頷く義綱。
「よろしいですか?」
「いつでも」
すると、門弟は腰の鞘から刀を抜き始めた。日の光が銀色の鋭い刀身を煌めかせる。
「お、おい! 何してんだ!?」
飛若はそれを見て慌てだした。何も武具も持っていない相手に対し、弟子が刀を上段で構えたのである。
「まさか、丸腰相手に斬りかかるんじゃ……!」
「無論。そのつもりである」
隣で平然と答える水蠆丸の言葉に、取り乱す飛若。
「バカ! 今すぐ止めろ!」
正気の沙汰ではない。素手相手に真剣で勝負する光景を前にしながら、彼はそう感じた。
「心配いらぬ」
水蠆丸は自信満々に答える。
「うりゃあああああああああああああああ!!」
門弟が叫びだした瞬間、勢いよく真剣で義綱の脳天に目掛けて斬りかかると、
ドクン!!
義綱の心臓の音が高鳴ったその刹那、彼は真剣の軌道に沿って手を上げ、
パシィッ!!
「なっ!?」
その瞬間、飛若は驚愕した。
なんと義綱は、両の掌で上段から振り下ろした真剣の刃を受け止めたのである。
「ヌェイ!」
更に義綱は真剣の振り下ろす流れを利用して、そのまま門弟を投げ飛ばした。
「ごわっ!」
勢いよく投げられ、刀を取られた門弟は、そのまま地面に伏してしまう。
「バカな! 真剣を素手で受け止めただと!?」
ありえなかった。一歩間違えれば外すどころか、受け止めたとしても、血まみれになってしまう荒技である。
ところが、義綱の掌は切り傷はもちろんの事、血の一滴も流れてはいなかった。
「なっ? 父上は凄いだろ?」
「ああ、凄い……!」
神業を披露した義綱を見て、驚嘆する飛若。
(一体どういう原理だ? てか、そもそもどんなカラクリで受け止めたんだ?)
頭の中が混乱してしまう飛若だが、少なくとも義綱は只者ではない達人であったのは間違いなかった。
「見事です! 師匠!」
門弟が起き上がると、義綱は受け止めて取った刀をそのまま無言で返す。
「父上の真剣白刃取りは、この吉ノ国でも名高い神業。まさに、雲原一の武者であられる」
その技名を聞いた飛若は息を飲む。
「これが、真剣白刃取り……初めて見た……!」
決して自分のような素人が、到達真似出来ぬ領域の技であった。
「見習わなくても良い。お主には、五十年早い技だからのう」
義綱は先ほどの仕合いでよれた服を改めて整える。
「ごく一握りの者でしか習得できぬと謳われる体術三大奥義ですら、ものにするのも儂はエラい苦労したからのう」
「体術三大奥義?」
初めて聞くその言葉に、飛若は首を傾げた。
「うむ、この世で体の真髄を極め、頂点の域に覚醒する究極の奥義。かつて、黎教で名高き迦沙羅様が会得したのが起源と言われておる」
またしても、凄そうな技名を初めて聞く飛若。
「特別に、これもお主に見せよう」
そう言うと、義綱は庭にあるすぐ近くの大岩へと近づく。
目の前にある大岩の前で、義綱は突然上半身の服を脱ぐと、鋼のように鍛えられ、引き締まった体が晒けだす。
「これが体術三大奥義の一つ、『呼吸』!」
カハァァァーー!
義綱が深い息吹を吐いた直後、大の男十人ですら運べそうにない大岩を両手で持ち上げてしまった。
「あの大岩を持ち上げた!?」
飛若はまたしても驚愕する。
やがて、自らの力量を見せた義綱は大岩をゆっくり下ろすと、飛若に振り向く。
「そして、これが『鼓動』!」
ドクン!!
その瞬間、義綱の姿が目にも止まらぬ速さで消えると、飛若の背後に立った。
「い、いつの間に!?」
気付かぬうちに後ろを取られた飛若は、一体何が起こったのか頭が追いつかなかった。
(なんだ今の……! 全く見えなかった……!)
義綱の目にも止まらぬ速さに唖然とする飛若。
「力量の根源を制し、強き力を目覚めさせる『呼吸』。神速の世界を制し、速き身を目覚めさせる『鼓動』。この二つこそ、体術三大奥義の覚醒である」
自らの奥義を披露する義綱を見て、飛若はまたしても驚嘆する。
「先ほどの真剣白刃取りも、この『鼓動』を応用した技である』
そう説明する義綱に飛若は納得した。
(なるほど、速さを制する奥義だからこそ、あの刀を受け止められたわけか)
体術三大奥義、この技は決して人がそう簡単に習得できるものではないと、彼は悟った。
「ん? 二つ?」
その時、飛若は疑問に思った。
今さっき見せてくれた奥義は二つ。という事は。
「すみません。三大という事は、もう一つは?」
飛若が質問すると、義綱は答える。
「もう一つの奥義は、見せられるほどのものではないぐらい、地味じゃぞ」
義綱はそう言いながら、脱いだ上半身の服を整えようとするが、
「構いませぬ。出来れば、もう一つの技も見せて頂きたいです」
(こいつが一体、どれだけ強いのか、全部見ておかないと)
彼はそう思い、なんとしてでも彼の強さの全てを知ろうと頭を下げて願った。
「そこまで申すのなら、見せてしんぜよう」
すると、義綱は服を整えようとしていた手を止め、左の
上半身だけを晒け出した。
「誰か! 小刀と食い物を持ってこい!」
義綱が門弟達にそう言うと、ごく最近、入門したばかりの見習いが、小刀と豆の入ったお椀を持ってきた。
すると義綱は、その小刀を取り、自らの左腕に切りつけた。
「な、何を……!?」
突然行った義綱の自傷行為に飛若は戸惑う。
引き締まった左腕から鮮血が流れる傷口を飛若に見せつけた義綱は、もう一方の右手で、門弟の持っていたお椀に近づけると、その中に入っている豆を一握りした。
「とくと見よ。これが三つ目の奥義、『摂食』である」
そう言うと義綱は、その手に取った豆を食べ始めた。ボリボリという咀嚼音がしばらく流れると、やがて、最後にはゴクンと喉を通すのが聞こえる。
すると、義綱に異変が起こった。
なんと、先ほど刀で傷つけた左腕がみるみると治癒されていったのである。
「傷が塞がった!?」
飛若はその未知の能力と人間離れした体質を前にして驚愕する。
ありえなかった。あれだけの血が流れるほどの傷を、こんなにも早く治すなど、到底ありえなかったのだ。
だが、事実、目の前にある義綱の傷は、すっかりと塞がっていた。
『生きとし生けるものから、生命の源を食らい、傷や病を癒やし、体を作り変える。それがこの『摂食』である』
塞がった左腕の傷跡を見せて説明する義綱。
『先ほど見せた二つの奥義よりは味気ないが、この『摂食』は三大奥義の中でも、頂点に立つほどの奥義である。日々の鍛錬に利用すれば、自ずと体は成長し、短期間で強き体に作り変えられる』
(短期間で強き体に作り変えられる? それって、一番凄い奥義なんじゃ……?)
飛若は心の中でそう確信した。
人間の力量を覚醒する奥義『呼吸』。
人間の速さを覚醒する奥義『鼓動』。
そして、人間の治癒力と成長力を覚醒する奥義『摂食』。
まさに三つ合わせて、体を制する奥義であった。
「これが達人か……!」
飛若はそう呟きながら、義綱の武術の凄さに驚嘆するが、同時に裏ではこう思ってしまった。
(コイツは、敵に回したくない相手だ……!)
彼は心の中でそう呟き、義綱の強さと怖さを思い知った。




