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第四十五話 小舟

 



 ――――――――――





 天候は悪く、雲行きが怪しい空の中、強い風が吹き荒れる海に隣接する小さな山があった。地元の人間はその山を松がたくさん生えている事から、松山と呼んでいた。


「母様。海が見えますよ」


「これまた、何とも荒れておるのう」


 その松山の山中を歩いていた福族親子は、丘から広大な海を眺めていると、砂浜には多くの舟が置かれてある船着き場があり、荒海には多くの漁師達が庶民の食べ物を獲るためのイワシ漁に精を出し、舟の上で網を引っ張っている光景が見えた。


 この松山の海では、波は荒れるものの、魚がたくさん獲れる漁場であり、以前、親子が住んでいた里の人間だけでなく、隣里の漁師達もやって来て、共同で漁をする場であった。


「何とかここで、舟を借りられぬものかのう」


 母親は昨日、老人が言い残した通りに、この松山の海で舟を借りようとしていた。


 とはいえ、彼らは金になるものは一切持っておらず。到底、舟など借りられるのは難しい事であった。それでも、母親はこの港なら、何か得られるものがあるのかもしれないと思い、この松山の海にやって来た。


「お魚……」


 遠くから眺めるミカヤは、漁師が獲っている大量のイワシに目が移ると、小さな涎を垂らし、ぐぅ~とお腹を鳴らす。


「ミカヤ。もしかしてあれが食べたいのか?」


 母親は伺うように娘に問うと、当の本人は無言で首を横に振る。


「ミカヤ。もう嘘はつかなくてよい。正直に申しておくれ」


 母親は両手で娘の頬を掴み、真剣な目で見つめた。


「遠慮はいらずに答えておくれ。本当は食べたいのじゃろう?」


 ミカヤは言いづらそうに目を逸らすが、母親のその真剣な目につい負けてしまう。


「はい、食べとうございます……」


 それはミカヤが本心から出た正直な言葉であり、母親はそれを見て、和やかに笑った。


「なら、食べさせてあげようぞ」


 母親は娘の頭を優しく撫でると、その手を掴んで、船着き場へと向かった。




 丁度、漁師達も漁を終えたばかりなのか、次々と浜辺へと舟が上がってくる。


「おい! いつも通り、全部締めたから、さっさと運ぶぞ!」


 漁師達は、砂浜まで帰る時間を利用して、手際の良い速さで締めた大量のイワシをたらいに移して作業を始める。



「相変わらず、ここらの海はよく獲れるな」


「とはいえ、イワシしかねえぞ」


「こいつら、すぐ腐るからな」


「別に良いだろ? 俺こいつら好きだし」


 大量のイワシを運ぶ漁師達は、景気の良い会話をする。そこへ、



「もし、海人(あまびと)(漁師)様方」


 あの福族親子がやってきて、母親が男達に声を掛けた。


「あん? 誰だ?」


「見たところ、この辺じゃ見かけない福族だな?」


「今忙しいんだ!」


 漁師達は仕事の最中に割って入ってきたを親子を、機嫌が悪そうに睨みつけた。


「我らは、ここから海を渡りたいが為に、どこかで舟をお借りいたしたいのですが」


「海を渡るって、どこ行くんだよ?」


「とにかく、遠くへです」


 母親のその言葉に怪訝な表情を浮かべた漁師達は、あることを尋ねる。


「金はあるのか?」


 彼らは金銭を要求すると、母親は懐に手を入れる。


「これしか……」


 そこに取り出されたのは、あの福族の秘石、夫婦石の首飾りであった。



「母様! それは!」


「よい。何も申すな」


 母親は手に持つ夫婦石を、手放したくないように握りしめながら、覚悟を決めようとしていた。


「どのみち、これは我らの力では扱えぬ代物、この際、売ってしまおうぞ」


「されど、それは父様とチノシリ様の形見では……!」


「ミカヤ。我らを生かす為ならば、きっと夫もチノシリも本望であろうぞ」


 母親はそれだけを言い残すと、夫婦石を漁師達に見せた。


「これは一見、ただの火打ち石ですが、福族にしか伝わらぬ幻の宝です。どうか、これと交換出来ませぬか?」


 すると、漁師の親方がその差し出された夫婦石を取り上げて凝視する。


「なるほど、金なしの乞食が身の程知らずに、これっぽちの変な石ころで舟と交換したいと。しかも、これしか金目になる物がないと。おい、オメェらどうする?」


「そうだな。一応、古い舟が一隻あるが」


「あれだって、大きくて、まだ使い道はあるから譲ろうにもなぁ」


「とはいえ、その石ころがどれだけの価値があるかは知らんが、どのみち、それっぽっちじゃあ釣り合わねえ。だろ?」


 一人が仲間達に伺うと、彼らは腕組みしながら頷く。


「そうですか」


 しょぼんと肩と耳を落とす母親。



「だが、良いぞ」


「え?」


 一体、どういう風の吹き回しなのか、親方は母親に舟を与えることを承諾した。


「よろしいのですか?」


「ああ、全然構わねえ」


 親方は優しい笑顔で答え、その周りにいた仲間達もまた納得する。


「こんな石ころなんか入らねえから、あそこにあるやつを持ってきな」


 親方は夫婦石を返すと、親指で後ろの古い小舟を指す。母親はそれに感謝の敬意を込めて深々と頭を下げた。


「大変、かたじけのうございます」


 唯一の形見である秘石を受け取らないばかりか、無料で舟を与えてくれる漁師に母親は頭が上がらなかったが、彼女は娘の為にも、もう少しだけ欲を出した。


「あの、折り入ってもう一つだけ、お頼みたいしたい事がございます」


「なんだ?」


 これだけでも十分なのに、母親はもう一つだけ欲しいものを漁師達に求めた


「もし、いらない網がございましたら、私に頂けませぬか?」


「一応、古いやつならあるけど、何でだ? まさか女子が漁に出るってんじゃねえだろうな?」


「左様です」


 母親は真っ直ぐな眼差しで答えた。


「やめとけ! 今日はいつもより波が穏やかとはいえ、この荒海だ! 第一、お前さん泳げるのか?」


「いえ、カナヅチです」


「だったら、尚更、漁なんかに出るんじゃねえ! 諦めてそのまま海を渡れば良いだろ!」


 しかし、母親は首を横に振る。


「お気持ちは嬉しいのですが、旅路で食べ物を調達する為にも、どうしても網が必要なのです」


 すると、母親は漁師達に土下座をしてまで、網を頂けるよう頼み込んだ。


「お見苦しいとは思いますが、どうかこの通り」


 母親のその姿に困惑した漁師達は、彼女に問い詰めた。


「なぜ、女子がそこまでする? 漁は遊びじゃないんだぞ!」


 すると、母親はゆっくりと顔を上げ、真剣な目で漁師達に答える。




「ちゃんと食べさせたい子がいるのです」




 母親のその言葉に漁師達は制止するように立ち尽くす。


「なるほど」


 彼らは母親の隣にいるミカヤに目を向けて納得した。


「分かった。俺達の負けだ」


「網は危なくてやれねえが、釣り竿だったらやるよ」


「ほら、これ持ってきな」


 すると、漁師の一人がどこからか釣り竿二本を持ってきて親子に渡す。



「俺達もガキ持ちだから分かる。食わせたい子がいる奴に、男も女も関係無いよな」


 親方はポンポンと母親とミカヤの肩を優しく叩く。




 その後、親子は渡された釣り竿と餌を小舟に乗せ、櫂を漕いで海に出た。


 潮の香りと共に吹き荒れる風と、襲いかかるような荒波が小舟を大いに揺らすが、親子は最初だけ戸惑うものの、やがて慣れていき、大海原へと目指す。


「気をつけていけよ!」


 漁師達は舟に乗る親子に手を振って、遠くから見送った。




 ところが、



「これでいいだろ……!」


 漁師達の態度が突如変わり、焦りながら後ろにある林に声をかける。


「うむ、よくやった」


 そこに現れたのは、三ッ山翁と武具を用いた村人が十人以上現れた。



「約束は守ったんだから、俺たちのガキを解放しろ!」


 屈強な体を持つ漁師達は、自分達の子供を人質に取られていたのであった。


「無論、解放するとも」


 冷徹な声で答える翁は、村人達に手をかざして合図をする。


「ぐあっ!」


 ところがその途端、若手の漁師が呻き声を上げながら倒れてしまう。その背中にはまさかりが刺さっており、周りにいた漁師達はそれに驚愕する。


「うぐっ!」


「ぐぁっ!」


 そして、次々と漁師達は里の者達に竹槍で刺されて、倒れてしまう。


「て、てめぇら……!」


 かろうじて、まだ息のあった親方は、その背後から襲った里の者達に睨み返す


「細工舟だけを与えるよう申したのに、次いでに釣り竿を渡すなどという勝手な真似をしたのだから、約束はなしじゃ」


 翁は倒れている漁師達を見下しながら答えた。


「なに、安心せよ。儂はあの小娘のように鬼ではないから、童だけは生かしておいてしんぜよ」


 翁はそれだけを言い残すと、そのまま見捨てるように後ろを振り返る。



「い、行くな……戻……」


 うつ伏せに倒れている親方は、海に出てる親子の舟を見ながら、最期の言葉を言おうとするが、やがて、それは最期まではちゃんと言えずに息絶えてしまう。


「これで全部か?」


「おそらくな」


 里の者達は、一人残らず漁師達の息の根を止めた事を確認する。


「あとはあの世へ行くのを見送ろうぞ」


 その後、翁は見晴らしの良い場所へと向かった。






 一方、海に出ている福族親子は海鳥が飛び交う、漁場へとやって来た。


 周辺は海鳥の鳴き声が祭りのように騒ぎ、彼らは舟の下に大群の魚がいる事を察した。


「それ!」


「とぁ!」


 親子は餌を付けた針を海に投げると、その直後に竿がブルブルと震え始めた。


「ミカヤ! かかったぞ!」


「こちらもです!」


 親子は竿を引き上げると、活きの良いイワシの姿が現れる。


「釣れました! 母様、釣れましたよ!」


 ミカヤは魚が釣れた事に大いに喜ぶと、母親はそんな笑顔に満ちあふれる元気な我が娘を見て、顔がほころぶ。


 だが、呑気にしてる場合でもなかった。


「ミカヤ、喜ぶのはまだ早いぞ。イワシは腐りやすいから、すぐに締めなくては!」


 そう言うと、母親はすぐさま漁師から頂いた鯖裂き包丁を手に取り、鮮度が落ちないように釣ったイワシを締めた。



「まだまだ、行くぞミカヤ!」


「はい!」


 親子は続けて針を投げ、竿を立てて釣りを続けた。それはもう、面白いぐらいに釣れるわ釣れるわ、気づけば半刻もしない内に、舟に乗っているイワシの数は百匹ほどにまで達していた。


「母様! 大漁ですね!」


 思ったよりもたくさん釣れ、食べきれぬほどの数を前にする親子は、その釣果に喜ぶ。


「ミカヤ、今宵はご馳走じゃ」


「本当ですか?」


「うむ、たくさん食べようぞ」


「やったー!」


 つい先日まで人を容赦なく殺し、肉を喰った娘とは思えぬ無邪気な笑顔であり、母親はまるで、娘が人間の心を取り戻したかのように感じ、顔がほころんだ。



「ミカヤよ。そなたに渡したいものがある」


 すると、そんなミカヤに母親は後ろから手を回し、首にあるものを掛けた。


「これは?」


 それは、福族の秘石、夫婦石の首飾りであった。


「私よりも、そなたが持っていておくれ」


 微かに緑色に光る夫婦石を首に掛けられたミカヤは驚き、後ろにいる母親に問いた。


「何故です? だって、これは……」


 自分達が使える狸火という名の妖術を、奥義として最大限に引き出させる最強の秘石、夫婦石。


 父、タグリと叔父、チノシリの大切な形見であり、使えば持ち主の身にも、その炎に焼かれてしまう諸刃の剣である危険かつ大事な石を、なぜ自分に渡したのかミカヤは理解できなかったが、その理由を母親が答える。


「伝説によると、夫婦石には良縁を引き寄せる力も宿しており、持ち主を縁結びに導かせてくれるとも伝えられておる」


「良縁? 縁結び? すなわち、嫁ぎ、輿入れ、縁組み、嫁入り……?」


「うむ、如何にも」


 つまり、いい男と結婚しろという事である。


「ミカヤ、私の望みは、そなたがいつか良い殿方と結ばれ、嫁に行く事じゃ」


「母様……」


 母親の優しい手で頬を撫でられるミカヤ。


「そして、その者をたくさん抱き、たくさん子を産み、どうか孫達に会わせておくれ。それが、私の何よりの一番の望みである。それ以外は何もいらぬ」


 その時、ミカヤは今まで自分を叱ってきた母親の姿が頭に過ぎった。


 これまで母親は、ただ単に女として、はしたなかったミカヤを叱ったのではなく、ただ純粋に彼女に嫁に行ってもらいたいが為に、なんとか女を受け入れて欲しかったのであった。


 ミカヤはそれを悟ると、しばらく考え込むが、やがて、小さな声で母親に答えた。



「はい。母様」



 今まで男に憧れ、強い戦士に憧れていたミカヤは、我が身を削ってでも自分を守り、育ててくれる母親の為に初めてここで、自分を女として受け入れた。


「あの……母様……」


「ん?」


 その時、ミカヤは俯きながら、母親にある事を伝えようとする。だが、彼女はとても言いづらそうな素振りを見せ、その様子に母親は無邪気な表情で首を傾げる。










 ――母様なんて、大嫌いです……。



 ――母様なんて大っ嫌い!! 



 ――こんなことになるならば……父様とチノシリ様の代わりに母様が死ねばよかったんだ!!








 これまでミカヤは、母親にさんざんひどい事を言ってしまった過去を振り返り、その罪悪感を今更になって自覚し、謝罪しようとしていた。



「その……今まで……」



 言いたくても中々言えないミカヤは、口を揃えて勇気を振り絞りながら母親に謝ろうとしたその時、異変が起こる。



「ミカヤ、何か変ではないか?」


 一番早く異変に気づいたのは、母親であった。それはイワシで埋もれていた足首が、いつの間にか水に浸かっているのが見えた。


「水が! 船底が浸水しておるぞ!」


「そんなまさか!」


 ミカヤは一瞬、母親の言葉を疑ったが、事実、船底は水で浸水し始めていた。


 母親は大量のイワシを掻き分けながら、浸水する穴を必死で探すが、一体、どこに穴が空いているのかも分からず、ただ困惑する。


「何とか、水を投げましょう!」


 ミカヤは両の手のひらで水を汲んで外に出すと、母親もそれに続いて時間稼ぎをする。


 タライがあれば良かったが、そんなものはこの舟には乗っておらず、着々と舟は沈んでいく。



「誰か助けてえ!」


 ミカヤは周囲に助けを呼ぶが、周りには舟一隻も浮いておらず、漁師達の姿も見えなかった。


「母様は泳げないのです! 誰か助けてくだされ!」


 それでもミカヤは、せめて砂浜にいる人達に、声が届くように大声で叫んだ。ところが……。


「あ、あれは……!」


 ミカヤの目に映ったのは、あの里の者達が、砂浜で一斉に並び、こちらを冷たい目で眺めている光景であった。


「もしや……!」


 彼女はそれを見てハッと察すると、船底に溜まった水に目を移すと確信した。


「おのれ……謀られた!」


 ミカヤはようやくここで気づき、浜辺にいる里の者達に怒りを露わにする。



「ミカヤ! もうダメじゃ。沈んでしまう!」


「嫌です母様! 最後まで持ちこたえましょう!」


 みるみると浸水し、太ももの位置にまで海水が溜まる舟に母親は絶句するが、ミカヤはそれでも諦めなかった。



「先ほど仰ったではありませぬか!? 今宵、私と共にご馳走を食べると! いつの日か私の子に会わせてくれと! だからどうか、私のワガママを聞いて下され!」


 だが、残酷にも荒波が容赦なく舟を揺らし、その勢いで浸水の流れを早め、遂には腰の位置にまで海水が溜まってしまい、沈没寸前の状態となる。


 母親はその絶望的な状況を見て、覚悟を決めた。



「ミカヤ。そなたに申す」


 母親はこの期に及んで、娘にある事を伝えようとした。


「いつか……」


 その瞬間、最後の荒波が舟の上に被さり、母親は小舟ごと沈んでしまう。


「母様!!」


 ミカヤはすぐさま母親を助けに海に潜った。水中では釣ったばかりのイワシが散乱し、沈没する小舟と共に母親の姿があった。


 カナヅチである母親はまるで石像のように沈んでいき、ミカヤはなんとか助けようと必死に手を伸ばす。


(ミカヤ……!)


 母親もまたその手を掴もうと伸ばすが、沈む速さの方が勝り、海底へと引きずり込まれる。


(駄目! 届かない!)


 いくら、早く泳いでも追いつかず、徐々に母親の手から離れていく。


(嫌! まだ謝ってもいないのに、まだちゃんと仲直りもしてないのに……!) 


 ミカヤはせめて、母親に謝りたかった。今まで困らせたことを、ひどい事を言ってしまったことを。


(ミカヤ……)


 母親はそんなミカヤを虚ろな目で、優しく見ながら、心の中で囁いた。


(ミカヤよ。せめて、そなたが祝言を挙げる姿を見たかった……孫が出来るのを見たかった……)


 母親は将来、自分の娘が素敵な男性と並び、その子供が集まる姿を思い描いた。


(されど、それは叶いそうにもないのう……)


 寂しそうな表情をする母親が、心残りとなることはそれだけであった。


(だが、ミカヤよ。せめて、そなただけでも生き、どうか私の一番の望みだけでも叶えておくれ……今でなくともよい……いつの日か、その夫婦石の導きにより、好きな殿方と出会い家庭を築くのじゃ……)



 やがて、意識を失いかける母親は、最期の言葉を心の中で囁きながら、我が娘に目で思いを伝えようとする。



(どうか……たくさん子を作っておくれ……)



 母親はそれだけを目で伝えると、海底の闇へと消えていく。



(母様ぁ!!)



 しかし、必死で母親は助けようとするミカヤにはその思いは伝わらず、また、水の中で叫ぶミカヤの声も、母親を無慈悲に連れて行く海底の闇には、一切届かなかった。







「ようやっと沈んだか」


 浜辺では、翁とその村人達が、福族親子が海に沈んでいくのを遠くから見届けていた。


「終わったんだな……」


「ああ、全てな……」


 村人達は自分達の手で福族親子に報復を与えられた事に、達成感を得るが、同時にどこか切なさも感じた。


 自分達とは違うケダモノの部位を持ち、奇妙な妖術を使い、人にも化けられ、挙句の果てには人を殺すだけでなく、その人の肉を喰い、それを翁にも食べさせるほどの狂った蛮族の娘。


 そして、それを守る為に、強大な力を以てして、数名を変わり果てる姿にまで変えるほどに焼き殺した母親。


 彼らにとって、福族親子はそれだけ特別な存在であり、邪魔者であり、恐れられていた。


「婆さん。仇は討ってやったぞい」


 翁はそれだけを言い残すと、寂しそうに海に背を向けて里へ帰っていき、残りの村人達も無言でその後を追って、去っていく。






 ――――――――――





 米粒のように小さな雹が散るように降る曇り空、荒波がうねり水しぶきを上げる海、木や枝などの残骸が打ち上げられる砂浜、その浜辺にミカヤは打ち上げられていた。


「うっ……」


 意識を取り戻したミカヤは、ゆっくりと体を起き上がらせ、虚ろな目で周囲を眺めた。



 ここは一体どこなのかは分からない。


 先ほど舟を借りた場所なのか、それとも里の近くの浜辺なのか、もしくはどこか遠くの地へ流れ着いたのか。それは彼女にも分からなかった。



 だが、今のミカヤにとって、そんな事はもはや、どうでもよい事であった。


 ただ、唯一分かっているのは、母が死んだことである。



 女の仕来りばかりを押しつけ、弱いくせに叱りつけ、本当は泣き虫で臆病者で大嫌いな母親がこの世からいなくなってしまった。


 海の底に消え遺骨すらもない。唯一残っている遺品は、母親から託された夫婦石だけである。



「母様……」



 ミカヤの胸の奥には、ポッカリと心が空くように、ただ喪失感と虚無感だけが残ってしまった。



 憧れの父と叔父が死に、友であるタヌキも殺され、そして遂には、大嫌いだった母親までもが、嫁入り姿を見せる前にこの世から去ってしまい、ミカヤはただ、一人ぼっちになってしまった。


「父様……チノシリ様……カマジ……母様……」


 辺境の地で孤独になった彼女は行く当てもなく、ただ、砂浜をユラユラと彷徨う。



 どこへ向かっているのかは、本人も分からない。ただ、何も考えずに足を進めるだけであった。


 もうどうでもいい。このまま野垂れ死ぬのも悪くはない。彼女はそう思った。


 しかし、そんなミカヤの意思とは別に、腹だけはまるで逆らうかのように、ぐぅ~と空腹の音を鳴らした。


「こんな時でも、お腹が空くとは……」


 ミカヤは皮肉を吐き捨てるように、自らの腹を見て呟いた。


 とはいえ、いつの間にか大きくなった胸が邪魔をして、腹がよく見えない事にも呆れてしまう。



 そんな時、丁度、下を向いていたミカヤの目にある物が見えた。


「これは……?」


 それは、砂の中に埋もれながらも微かにキラリと光り、彼女はそれを手で掘ると、それは先ほど使っていた鯖裂き包丁であった。


 おそらく、ミカヤと共に打ち上げられたのであろう。


「まだ鋭い……」


 ミカヤは爪先を刃に当て、その切れ味を確かめながら、銅鏡のように刃に映る、自らの発育した胸を見た。






 ――こいつ! 人間喰ってこんなに乳を大きくしやがって!




 ――喰われた奴の無念を思い知るがいい!




 ――よく……覚えておけ……人の肉喰ってデカくなったその胸には……喰い殺された奴の怨念が宿ってるからな……いつか必ずお前に……災いが訪れるからな……この呪われた乳を持つ……化け物が……。






 人肉を食べて育った自らの胸を蔑み、罵る里の者達の声が頭に過ぎり、彼女は底知れぬ劣等感を覚える。


 すると、ミカヤは突如、上半身を脱ぐと、その自らの胸に鯖裂き包丁を当てた。


(本当に怨念が宿っておるのなら……母様は私の胸に宿るこの呪いのせいで死んでしまった……なら、いっその事、切り捨てて……)



 その時、



「やめよ」


 胸を切り落とそうとしていたミカヤを、止める者が現れた。


「誰ですか?」


 ミカヤはその声がする方へ振り向くと、そこには数名の子供を連れた比丘尼がいた。



「我が名は百千比丘尼ももちびくに



 妖艶な美貌を持つ不思議な比丘尼は、無表情でそう名乗ると、ミカヤに伺う。


「その美しい胸を切るのか?」


「はい。こんな醜いもの、入りませぬ……」


 ミカヤは早くこの怨念の塊から解放されたいが為に、包丁を握る力を強くした。


「まあ待て、少し話さぬか?」


「何を話せと?」


 心の籠もってない声で、素っ気ない態度を取るミカヤ。


「その方、人を喰ろうたな?」


 すると、ミカヤは一目で自分の正体を見通した比丘尼に眉をひそめる。


「何故、それを?」


「いくら海の水などで落としても、その方から、微かだが、人の血の臭いが香る」


 ミカヤは虚ろな目で比丘尼に問い詰めた。



「それだけですか?」


「無論、それだけではあらぬ。妾はこれでも占術に長け、一目でその者の素性を見透かす事が出来る」


 当時のミカヤは最初、百千比丘尼の言葉に半信半疑であったが、人喰いの身である自分を見透かせた事に納得をせざるを得なかった。


「でしたら、私から離れた方がよろしいですよ。今、とてもお腹が空いておりますので」


 空腹のミカヤは内心、苛立っていた。はっきり言えば、しばらくは誰とも言葉を交わしたくないほどに。


「そうカッカするでない。別に妾はその方の悪行を責めたりはせぬ」


 すると比丘尼は、まるで品定めをするかのように、彼女を見つめた。


「妾がその方に声をかけたのは、ふと、その方から多大なる導きが見えたことである」


「多大なる導き?」


 ミカヤは怪訝な表情で比丘尼を睨んだ。


「うむ、我が占術によると、人喰いであるその方には、いずれ、母の導きがあると見た」


「母様の導き……?」


 その時、ミカヤは手に持っていた鯖裂き包丁の力を緩める。


「如何にも、その導きに辿り着くには、決してその胸を切ってはならぬと出ておる」


「この胸を切ってはならぬと……?」


 それを聞いたミカヤは、比丘尼に問い詰めた。


「何故に、このような醜いものを切ってはならぬと申すのですか?」


「そこまでは妾にも分からぬ。我が占術にも限りがあるからのう。されど、その方の母の導きによると、その胸もまた、この先なくてはならぬものと見た」


 比丘尼のその言葉に、ミカヤは疑った。


「何を今更……母様の導きだか、なんだか知りませぬが、このまま胸を切り落とした暁に、どこかで野垂れ死ぬ道を選ぶ事だって出来ます」


「自害の為に野垂れ死ぬ道を選ぶのであれば、それはやめておいた方が良い。その死に方だけはそう簡単には死にきれぬからのう」


「そんな事など、どうでも良いです。自分の死に方ですから……」


 ミカヤにとって、故郷を失い、両親すらも失ってしまったこの世に、生きる未練も価値もなかった。ならば、このまま死を選ぶのも悪くない。そう思っていた。この醜い胸を切り捨てた後に。


 ところが、そんなミカヤに比丘尼はある提案をする。


「その方、自ら死を選びたいのであれば、いっその事、出家をせぬか?」 


「出家を?」


 すると、比丘尼は懐から剃刀を取り出し、ミカヤに差し出す。刃こぼれをしている鯖裂き包丁よりも遙かに鋭い刃物である。


「さすれば、その方の答えも見つかるのかもしれぬ」


 黎門は福族にとっても信仰の深い宗教であり、福族が作るその彫像は世にも名高い代物であった。


 ミカヤもよく祭壇の前でお経を唱えた事があった。そんな黎門に福族である自分が出家するということに、何か運命のようなものを感じた。



 髪を切って出家し、僧侶になるか。それとも胸を切って、どこかで野垂れ死ぬか、その二つの選択肢を前にしたミカヤは、俯きながら、しばらく無言で考え込むが、やがて決心する。



「母様の導きというものは知りませぬが、故郷を失い、両親を失い、人の肉を喰らい、大罪を犯した私は、もはや死んだも同然の身、この身は迦沙羅かさら様に捧げてみましょう」



 そう言うと、ミカヤは比丘尼が持つ剃刀を手に取ると、その灰色の長髪を切り始めた。


 砂浜に散乱する髪の毛が、海の波によって洗い流されていき、やがて、彼女の頭は不細工ながらに尼削ぎの髪型へと変わっていく。


「比丘尼様、この度私は、出家をいたします」


 ザンバラのような尼削ぎの頭に変えたミカヤに、比丘尼は微笑む。


「よかろう。ついて参れ」


 比丘尼は最後にそう言うと、数名の子供達と共に彼女を迎え入れ、旅に連れて行った。




 こうして、福族の姫であるミカヤは出家し、かつての名を名乗るのをやめ、木葉尼という僧名を名乗った。



次回、ようやく飛若が出ます。

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