第四十話 干潟
海というものは、命を育む母であった。
海中に覆い茂る海藻、色鮮やかなサンゴ、糧となる浮遊生物、数えきれぬほどの種がおる大群の魚、エビやカニなどの甲殻類、イカやタコなどの軟体動物、クジラ、海牛(即ちジュゴン)、アザラシなどの海の獣達、それらの海洋生物は皆全て、母なる海という名の羊水の中に宿していた。
陸地の川で生きる魚も、中には海に帰る種もおり、鳥や獣、我ら人間もまた海の生き物を食べて暮らしたりもした。
そうして昔から、生き物は母なる海にすがって生きていた。
しかし、海自体もまた生き物で気まぐれや病気になることもある。
浜に波が押し寄せるのは、ただ、息をしておるだけだが、干潮から満潮になる時はあくびをしており、津波を起こす時はくしゃみをする時で、嵐を起こす時は風邪を引いており、海水が汚れてる時は病気を患っている時である。
そのように海もまた生きており、全ての生き物の子守をすることは完全には出来ず、時に見捨てたりもする存在であるが、それでも多くの生き物は母なる海なしでは、生きてはいけなかった。
全ての生き物には必ず母がおり、我々、人間もまた母を求めたり、すがったりするのも、ある意味、太古の時代に海から受け継がれた本能なのかもしれない。
とすると、我々人間は即ち、母なしでは生きてはいけぬ種なのであろう。
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快晴の空、潮の香りが漂う海辺、この日は海が引き潮によって、一面が泥と砂で広がる干潟と化し、多くの村人達が潮干狩りに来ていた。
貝はご馳走であり、昔からこの地で暮らす村人達からも好まれていた食材である。
荘園の里であるこの地では、租税制度として『調』即ち、特産物もまた納めなければならない仕来りであるが、この辺りの海は貝も豊富であり、役人にある程度の量を貢いでも十分に食べていけた。
そのため、村人達は畑以外の定期的に獲れる貴重な生活源として、昔から盛んに貝を漁ってきた。
浜辺では、筵(藁の敷物)の上に次々と大量のアサリが集められ、近くではその辺で打ち上げられた枝を集めて火をおこし、鍋に一晩砂抜きした貝を入れて貝汁を作り、炊事に勤しむ者もいた。
そんな賑わう海に福族の親子、母、アマカヤとその娘、ミカヤもまた来ていた。
手には、たらいと熊手を持ち、貧乏な彼らもまた貝を獲りに砂浜へと近づく。
「おい、待て!」
その時、村の男が不機嫌そうに親子二人をを止める。
「誰の許しでここに来て良いと言われた!?」
「誰の許しも何も、本来ここらは、里の者達、皆共有の海である筈であるが?」
母の答えに、村人達は聞き捨てにならぬという表情で集まる。
「なめてんのか? 余所者のくせに!」
「あんたらタヌキの親子が、いつ里の者になったんだよ!」
「それに、潮干狩りの許しは全て三ッ山じじいの親方が取り仕切ってんだ!」
そう言うと、そこへ二人の老夫婦がやってきた。
彼らは昔から、この辺りの土地にある茅山、蓼山、松山の三つの山を牛耳り、里の人達から三ッ山翁と三ッ山媼と呼ばれた長老夫婦である。
福族親子は本来、山専門に取り仕切っている筈のこの老夫婦が、この海まで牛耳っている事など初耳であり、怪訝な表情を浮かべた。
「まあ、皆の者、そうカリカリするでない。折角、潮が引くこの景気の良い日に、砂場で争うようなことをするでない」
すると、翁は意外にも、優しそうな笑顔をした。
「しかし、爺さん……!」
「よいではないか。あたしの顔に免じて今日くらい無礼講にはなってはくれんかのう」
媼もまた優しそうな笑顔で村人達を説得した。
「すまぬのう。お主らだけ、のけものにして」
「ここのところ、皆、飢えていたので、気が立っておったのじゃろうな」
意外にも親切に接してくる老夫婦に対し、母は少し戸惑った。
「いえ、こちらこそ図々しく現われて申し訳ございませぬ」
母はそんな優しく接してくる老夫婦に頭が上がらず、ミカヤと共にペコリと下げた。
「ここらはもうじき取り尽くされるから、そちらの方で漁った方が良いぞ」
翁は奥の方にある砂場に指差すと、母はその助言に感謝した。
「どうも、ご親切にかたじけのうございまする」
「お爺様、お婆様、此度は潮干狩りの許しを与えて頂き、感謝いたしまする」
福族親子は老夫婦にお礼を言うと、そのまま奥の方の砂場へと向かう。
しかし、その光景を見て、許せない者達がいた。
「親方! 良いのですか!? あんな奴らを招いて!」
「あのタヌキの親子なんかに、儂等の貝が食われるのは我慢ならねえ!」
村人達は老夫婦が福族親子に潮干狩りの許可を出したことに納得出来なかった。
「何も怒ることではなかろう」
だが、翁は村人達が騒いでも、揺るぎはしなかった。
「放っておくのですか!?」
「無論、放っておく」
「親方! 一体、何を考えて……」
すると、それまで親切そうにしていた翁は途端に目を怪しく光らせ、ニヤリと笑みを浮かべた。
村人達はその表情を見ると、何かを悟るようにニヤける。
「なるほど」
「そういうことか」
「なら、騒ぐことねえな」
村人達はそれだけを呟くと、それまで騒いでいたのが嘘のように静まり返り、彼らは事が済んだかのように自分達の持ち場へと戻った。
一方、奥の方の浜辺で砂を掻いていた福族の親子は……。
「母様見て! こんなに獲れました!」
彼らは予想以上に貝が獲れる事に喜んでいた。
「母様、あのお爺様の申される通り、ここらは沢山獲れますね!」
「うむ! 此度は大漁じゃのう!」
たらいには、次々と大量の貝が積まれ、アサリの他にカガミ貝、バカ貝、中にはハマグリまでもが混じっていた。
「今宵はご馳走ですね!」
「何を申しておる。一晩、砂抜きをしなくては食えたものではなかろう」
「あ、そうでした。となると、食べるとしたら明日になりますので、結局、今宵も夕食抜きですか……」
「これ! ミカヤったら、皮肉を申すでない!」
「あはははは!」
親子のその表情はとても明るく、無邪気に笑っていた。
父と叔父を亡くし、故郷を去り、この里で暮らし始めた時から、ひもじい目に遭い、貧乏のあまりにすっかり心を荒み、疲れ果ててしまっていたが、それがまるで嘘のように吹き飛んでしまっていた。
この里に来て初めて、親子は笑顔を取り戻していた。
「あら?」
二人が景気良く潮干狩りに夢中になっていたその時、母は砂を漁って前屈みになっているミカヤの胸元に目が入った。
「ミカヤ、少し大きくなったのではなかろうか?」
「え? 本当ですか!?」
その時、ミカヤは嬉しそうにはしゃいだ。
「私もついに、大人の背の高さにまで、一歩近づいてきたのですね!」
「いや、そういうことではない」
すると、母は背の成長の事を否定する。
「母が申しておるのは、背のことではなく、発育の事じゃ」
「発育……?」
ミカヤはキョトンと首を傾げた。
「女子らしく、胸が膨らんできたと申したのじゃ」
その時、ミカヤの表情は青ざめた。
「き、ききき、気のせいですよ……! だって、私は……!」
「男などとは申させぬぞ」
母はそれ以上言わせまいと、ミカヤの言葉を黙らせた。
「ミカヤ、そなたが男に憧れておるのは分かるが、残念ながら、どうあがいても女子なのじゃ。何よりも、胸元に膨らんできたその乳が証じゃ」
「嫌だ嫌だ! 私は男! 男になりたいの〜!」
その時、ミカヤは泥まみれになりながらも、その場で駄々をこねた。
「全く、この子と来たら!」
母、アマカヤはそんな隙だらけのミカヤに襲いかかり、その腹をくすぐり始めた。
「きゃっ! か、母様やめてよ!」
「こちょこちょこちょ!」
「きゃははははははは! ひゃ、ひゃめて!」
砂場で大いにじゃれ合い、楽しそうに戯れる親子。ミカヤはこれまで母親が嫌いであったが、この日、母親といるのがこれほど心地よかったと実感したのは初めてであった。
そんな風に楽しく潮干狩りに夢中になっていると、やがて、日が暮れ始め、砂場は足首ほどにまで海水が上がってきた。
「そろそろ潮時じゃのう」
満潮により、辺り一面、海が戻ってきたかのように、海面が現われ始めた光景を見て、母親は頃合いだと悟って、娘を呼んだ。
「ミカヤ! もう引き上げようぞ!」
「はい! 母様!」
ミカヤは母親の呼び声に反応し、溢れるのではないかと言わんばかりに、山盛りいっぱいに貝が積まれたたらいの前に近づく。
「こんなに沢山獲れた」
夢なのではないかと思った。これまで、ごく僅かな麦で飢えをしのぎながら、ひもじい目に遭ってきた彼女は大量に獲れた貝を見て、まだ、口にしてもないのに不思議と心が満たされていくように感じ、胸がいっぱいになっていた。
しかし、そんな喜びに満ちたミカヤに異変が起こる。
「おわっ!」
その時、母親が何かにつまずくような声を出した。
「母様?」
ミカヤはその声に反応し、母親の元へと訪れた。
「どうされました?」
心配そうな表情をするミカヤに、母親は答える。
「少々、ハマってしまってのう」
そこには、母親が膝の位置にまで泥沼に沈んでいる光景が見えた。
「なに、心配のう。この程度、自力で……」
母親が力一杯、脚を上げようとした途端、
「あ、あれ?」
母親の脚はビクともしなかった。
「ぬ、抜けない……!」
泥沼に埋まった脚は、まるで何かの罠に捕らえられたかのように、全く動けなくなってしまっていた。
「うぐぐぐ!」
それでも母親はなんとしてでも泥沼から抜け出そうと必死になった途端、
「うわっ!」
まるで何かに落ちたかのように、母親の腰が一気に泥沼に沈んでしまった。
「母様?」
ミカヤが首を傾げたその時、母親の表情が青ざめた。
「まずい……抜けなくなってしもうた……!」
母親はここで遂に自らの身の危険を感じ始めた。
「ミカヤよ。手伝っておくれ!」
「はい!」
母親が手を差し伸べると、ミカヤは言うとおりに、その手を掴んで力一杯、引っ張っり始める。
「ぬぐぐぐぐ!」
彼らは、二人がかりで泥沼からなんとか抜け出そうとするが、
「ダメです母様! びくともしませぬ!」
まだ子供のミカヤの力では、母親を引き上げる事は出来なかった。
更に、いつの間にか海水が母親の胸の位置にまで達してしまう。
「もうじき、ここも潮が満ちる! 早くここから去らねば、私は溺れ死んでしまう!」
「そ、そんな……! 母様、どうしましょう!」
ミカヤはその場で慌て始めるが、母親はそんなミカヤに今一番に優先すべきことを言い聞かせた。
「慌てるでない! すぐに誰か助けを呼ぶのだ!」
「はい!」
ミカヤは言うとおりに、村人達の元に向かい、助けを呼びに行った。
「誰かぁ! 助けてくだされ!」
浜辺にまだいた村人達にミカヤは大声で叫んだ。
「母様が干潟にハマりました! このままでは、溺れ死んでしまわれます!」
必死に助けを呼ぶ娘の声に、村人達は反応する。
「母様は泳げないのです! だから、助けてくだされ!」
ところが、肝心の村人達は……。
「なぜ……?」
誰一人、駆けつけて来ようともせず、助けに来ようとする素振りも見せなかった。
「なぜ、皆、ただ、そこで見ておるのですか……?」
刻々と水が満ちていく海面で呆然と立ち尽くすミカヤ。
そこへ、あの親切そうな老夫婦が何人かの村人達を引き連れて、ゆっくりとやって来た。
「爺様……婆様……?」
先ほどまで親切そうにしていた老夫婦のその顔は無表情であった。
そして、彼らがやって来たのは、親子が一生懸命、獲って溜めていた貝の入ったたらいであった。
老夫婦が引き連れた村人達の中から二人の男が前に出ると、その山盛りに貝が積まれているたらいを持ち上げる。
「そ、それは我らが一生懸命獲った貝!」
やがて、村人達は無言でその場から去ろうとする。親子が沢山集めた貝を持っていきながら。
「いや、返してくだされ!」
ミカヤは血相を変えて、村人達の元へ走った。
しかし、その時、村の男一人がミカヤの前に立ちはだかり、その腹に蹴りを入れた。
「ぐっ!」
ミカヤは勢いよく蹴り飛ばされ、悶絶する。
「そ、そんな……! 返して! 我らの貝返して!!」
彼女はせっかく獲った貝をなんとしてでも取り返そうと立ち上がり、村人達の背を追いかける。
「はて、お主の母はどこへ行ったのかのう?」
その時、翁が何気に呟く。
「え?」
その一言を聞いた途端、ミカヤは辺りを見回すと、そこには一面が海と化し、母親の姿が消えてしまう光景が目に見えた。
「母様……?」
ミカヤは一瞬、呆然と立ち尽くすと、その表情が徐々に青くなる。
「母様!!」
彼女は満潮で深くなった海に飛び込み、必死で泳ぎながら母親を探した。
「母様! 母様! どこにおられますか!?」
ミカヤが母親を呼ぶ中、その返答が聞こえる。
「ここじゃミカヤ!! 助けておくれ!!」
母親の絶叫が聞こえた途端、その方向に顔を向けたミカヤは絶句した。海水が頭部にまで達し、必死で口を上に向けて呼吸をしている母親の姿があった。
自然の一部に過ぎないほんの小さな波が、母親の口に何度も当て、その呼吸を遮らせ、徐々に溺死へと追い込む。
「いや……いやぁあ! 誰かぁ!!」
母親が今まさに溺れてしまう光景を見てミカヤは錯乱し、必死に人を呼ぶが、浜辺にはもう村人の姿も人影もなく、皆、家に帰ってしまった。
村人達は親子の貝を取り上げ、見捨てたのだ。
ミカヤは絶望するが、海は容赦なく母親を沈め、その命を奪おうとする。もはや一刻の猶予もなかった。
「フィォォォォォォン!」
その時、獣の小さな吠え声がミカヤの耳に過ぎる。
「カマジ!」
そこには、どこからか漁師の道具である縄を口に咥え、浜で吠えていたタヌキがいた。
「それを使えと? かたじけない!」
ミカヤは急いで縄を取りに行こうと、タヌキのいる砂浜に向かう。冷たくなってきた水と波に揺れる海面で、しょっぱい海水の味を感じながら、ミカヤは必死に泳いだ。
そして、ようやく彼女は浜辺にたどり着く。
「この恩は忘れぬぞカマジ!」
そう言うと、ミカヤは取り上げるように、タヌキから縄をもらう。
「でも、これだけでどうすれば……!」
ミカヤが慌てているその時、近くで手綱を木に繋がれている牛に目が入った。
「これだ!」
ミカヤはその牛を見て、何かを閃いた。
見たところ、荷を運ぶ為の牛のようで、近くに牛方がいるのかもしれなかったが、この際使えるものは何でも使うことにした。
そして、ミカヤは縄を手に持ち、まず最初に母親の元へと向かうが、既にそこには母親の姿はなかった。
「逝かないでください母様!」
そう言うと、ミカヤは海に潜ると、母親の姿があった。海中で必死にもがく姿を見て、まだ生きていることを確認すると、そのまま母親の両手首に縄を縛った。
海中で息を止めている母親は何かを悟るように、ミカヤに頷く。
そして、彼女は急いで浜まで戻ると、先ほど見つけた牛の手綱を解き、その角に母親の手首を繋いだ縄を縛った。
「すまぬ!」
ミカヤはそう言うと、手から狸火を出し、それを牛の尻へ押しつけた。
ジュウゥゥゥと肉が焼けるような音がした途端に、牛はヴォオオオオ!と雄叫びを上げながら走り出すと、その力強い勢いに身を任せて、母親の体を引っ張った。
そして、見事に母親は牛の力によって、泥沼から抜け出す事が出来た。
「母様!」
だが、まだ安心出来なかった。母親が満潮の海に沈んでから随分と時が経ち、意識があるのかも疑わしかった。
「プハァ! ハァ、ハァ……!」
その時、海岸の浅瀬まで引っ張り上げると、海面から母親が顔を出し、息をしてる光景が目に見え、ミカヤはすぐさま母親の元へと向かい、その手首に縛った縄を解いて、浜まで連れて行く。
「母様! ご無事で?」
「なんとかの……!」
流石の母親も大分焦った様子であり、息と気持ちを落ち着かせるように深呼吸をする。
「たらい、取られました」
「そうか、残念じゃったのう」
母親のその言葉にミカヤは納得出来なかった。
「何が残念ですか!? あの者共、母様が危機に瀕しておったのに、それを見捨てただけでなく、我らの貝まで取り上げたのですよ!?」
「命あっての物種じゃ。また獲れば良いことであろう」
だが、母親は気にするなと言わんばかりに説得しようとした。
「なぜです!? なぜ怒らないのです!? 母様はあの者たちが恨めしくないのですか!?」
「恨めしくないわけなかろう!!」
その時、母親は何かにぶつけるような勢いで叫んだ。
「私とて、あの者たちに怒りを感じないわけがない。だが、仕方なかろう。あの者たちを敵に回して、我ら親子に勝ち目があると思うか?」
母親は声を震わしながら、ミカヤの肩を掴み、説得するように言い聞かせるが、
「本当に……折角、我らで一生懸命獲ったのに……!」
「か、母様!?」
母親はもう耐えられないと言わんばかりに、目から涙が溢れ、落胆する。
「そなたに美味しいものを食べさせたかったぁ! そなたと共に楽しい食事を取りたかったぁ!!」
大の大人であるにも関わらず、母親はまるで子供のように泣き喚く。
どんなに長生きする種族とはいえ、結局、彼女もまた同じ人間であり、か弱い女性であった。
「うわあああああああん!!」
ミカヤは生まれて初めて母親が泣きじゃくる姿が目に焼き付いてしまう。
いつも自分を叱り、女の心得や作法を押しつけてくるうざったい母親がまるで別人のように見えた。
その時、ミカヤの奥底から怒りが爆発し、復讐心が芽生える。




