バルコニー
栢沙智の弁明により、ひとまず雅夫の嫌疑は晴れた。
その後もどうにか証言しようとしていた彼女であったが、何かを話す度に頭を抱えたり、吐くように咽たりという有様で、いよいよ医者によってストップがかけられてしまった。
少女の母と響をだけを病室に残し、他は皆追い出されることになったのだが、一同は腑に落ちない気持ちでいっぱいだった。
少なくとも古柳雅夫という探偵が誘拐犯などではないことはわかったが、しかしながら話の大筋に合点がいったわけではなかった。誘拐犯ではないなら、一体失踪事件についてどんな関係のある男なのかという疑問。そしてそもそも、どのように失踪したのか――失踪していた間どこにいたのか、というような根本的な疑問はむしろ根深くなっていた。
しかし、そうした疑問は『彼女の無事』という事実の前に強い追及を呼ばなかった。
もし彼女が深刻な傷を負っていたりした場合は、その犯人であるとか原因について人は追及する。だが、今回のように彼女が至って健康体で、医者のメディカルチェック上も心身ともに異常のないものとされた場合、追及に至る誘因というものが発生しないのだ。今は多少取り乱していても、いずれ元気になるという展望があるなら、無理に今追及しなくとも良いと考えさせる。
こうした考えが支配的であるから、雅夫はあらゆる疑問に強く絡んでいる存在でありながら、これといった追及もされずその場にいることができた。
しばらくして、栢沙智の父が娘の着替えを取りに行くためにその場を離れた。そして柊一郎も会社に今日は戻れないとの託と、他に失踪事件について協力してもらっていた人や、心配していた人たちへの連絡のため一旦引き上げることになった。残っていた警察も2.3質問しただけですぐに帰ってしまった。
そうして一人取り残された雅夫は溜息をつきながら「助かった……」と独り言ちる。
とりあえずあらぬ嫌疑でひっ捕らえられることは無くなったことと、直接栢沙智をこの目で見たことで安堵した。
雅夫は物思いにふけるため、売店で缶コーヒーを買って風に当たれるバルコニーのようなところに出た。
まだまだ風が冷たいせいか誰もいなかったが、じっくり考えたい雅夫にとっては好都合であった。
コーヒーを一口飲み、その香りを感じながら思う。
やはり、昨晩の出来事は夢ではなかった。
それはいくつかの点から言えることで、まず彼女が雅夫のことを知っていた点を挙げられる。そもそも二人には面識がなく、昨晩の記憶の断片の上で会ったのみだ。もし昨晩のことが夢であったなら彼女は雅夫の名前や顔を知らなかったはずだし、知っていたということは、そういうことが言えるのではないか。
それに彼女が度々頭痛や吐き気といった症状を訴える点。それら症状は失踪していたときの記憶を呼び起こす場面で見受けられ、それはまるで雅夫が昨晩の記憶を呼び起こすときに起こる脈打つような頭痛や、強い吐き気に見舞われるものと同じもののように見られた。
そして彼女が言ったいくつかの言葉――"声"――聖域――祈り。文脈というものを掴むことはできなかったが、それらは雅夫の昨晩の記憶に通じるものが多かったように思われる。
これらを総括してみると、やはり雅夫はあの場で彼女と会っていたのだと確信する。
しかし――と雅夫は考える。
彼女は一体これからどのようにして、自身の失踪について説明するのだろう。
ありのままを説明しても、精神異常などを疑われるのは目に見えているし、何かしらの話をでっち上げるにしても、納得のいくような話というものを作り上げるのは不可能だろう。それは雅夫にも言えることで、昨晩の出来事を真っ当に説明する術など何一つ持ち合わせていないのだ。
雅夫はまた平良のことを思い出す。
なるほど確かにこれほど常軌を逸した経験をしてみてわかったが、それを真実であると人に伝えることの億劫さたるや何とも言い難いものである。
人に話せば何かしらの異常を疑われてしまう……なら自分の中で封印してしまいたい、何なら自分の中でもなかったことにしてしまいたいという気持ちが込み上げてくるのだ。
その時、不意にザワザワとした病院の中の音がバルコニーに漏れた。
雅夫は振り返るように見ると、そこには響が立っていた。
響は長い髪を風になびかせ、それを手で押さえるようにしながら雅夫の方へと向かって歩いてきた。
「ごめんなさい」
響は開口そう言った。
雅夫は一体何に対しての言葉なのかわからなかったため、首を傾げるように続きの言葉を待った。
響はその様子を察して、今度は「ありがとう」と感謝の言葉を口にした。
というのも、沙智は発見されてから雅夫の名を口にし、本人を目の前にしたときには涙した。そして最終的には「古柳雅夫を知っています」と指差して言ったものだから、てっきり失踪していた間に雅夫に何かされたものだと思い込んだのだ。さらには信頼していた幼馴染に裏切られたのだという失望感すら芽生えていた。
それが話を聞いてみると、沙智はむしろ雅夫に助けられた身で恩人だと言うではないか。話す度に苦しむし、内容も混乱しているのか支離滅裂ではあった。本当のところはわからない。二人の接点など想像もできないことだが、沙智が言う言葉を彼女は受け入れることにしたのだ。
それにそもそも雅夫は調査をするために柊一郎から依頼を受け、こっそり調査をしていたという事実も聞かされたようで、それについても幾分か驚かされたようだった。
それは誤解したことに対する「ごめんなさい」であり、沙智を助けるために色々尽力してくれたことに対する「ありがとう」だったのだ。
響はそれを丁寧に説明した。
「あー……そういうことか。いやいや、いいんだ。沙智が無事帰ってきて本当によかった……」
雅夫は響の誤解が解けたことで安心した一方で、昨晩のことを聞かれたらどう説明すべきかと考えると怖かった。
できれば聞かれたくないと雅夫は思った。
「……実はね、私沙智ちゃんが帰って来るような気がしてたの」
雅夫はその言葉に耳を傾ける。
「変な風に思わないでね。どれくらい前かなぁ……雅夫くんの事務所から帰るときに、変な手紙を駅前で貰ったの。そうしたらなんか沙智ちゃんがいるような気がして……それからというものね、ずっと沙智ちゃんがすぐそばにいるような……ううん! 今の話はなし! 気にしないで!」
「いや、俺も実はそんな気がしていたんだ」
「本当?」
「本当だ。俺も昨日あの子に会った気がしたんだ。そしたら今日見つかったって聞いたから驚いたよ」
雅夫はあえて本当のことを言った。話の流れにたまたま合ったということもあったが、本当のことを言ったことで気持ちが少し楽になった。
響はそんな雅夫の顔をニヨニヨしながらじーっと見ている。
「な、なんだよ」
雅夫はたじろぐようにそう言う。
「雅夫くんって案外ロマンチストなんだなぁーって」
「な、なんだよそれ。響が言い出したから乗ったのに……」
雅夫がそう言うと響はクスクスと笑ったので、雅夫もそれにつられて笑った。
沙智が戻ったことで、響はかなり救われていた。
そのせいか振る舞いはごく自然なものとなり、そんな響を見て雅夫も安心した。
響は再会してからというもの、ずっと甘えるような振る舞いを続けていた。それはまるで子供に戻ったような振る舞いで、度々雅夫を困らせていたのだ。
こうして少しずつ戻っていく。そのときは自分もいよいよ彼女にとって必要のない存在になってしまうのではないかと思われたが、雅夫はそれもいいと考えていた。
彼女がこうして救われるならそれが本望だし、倉間一族を覆っていた闇も近いうちに晴れるだろう。
そんな楽観的な展望を描いていた雅夫だったが、重大なことを一つ見過ごしていた。
響がさっきしていた話――受け取った変な手紙――沙智がずっとそばにいるような感覚――それらすべて本当の話であること。
それら"声"による御業の存在を――