語りかけるもの
老人はしんと冷える寒さに目を覚ました。
手には数珠を握りしめ、胸には十字架のペンダントを下げていた。
手には仏教で、胸にはキリスト教――
老人はそれらを目に留め、我ながら矛盾を嗤った。
「俺も焼きがまわったな……」と、老人は寂しく呟いた。
彼はここ数週間心が安らいだことがなかった。
老境からではないと、老人は自分では信じている。
たしかに一人暮らしは寂しかったかもしれないが、昼間はなるべく人と会って話したり食事に行ったりもした。夜は落ち着いた音楽を流し、趣味で集めているワインをたしなみながらテレビのコメディにも興じたりもした。
自分ももう年だ。ホルモンバランスが崩れているのかもしれない。
そう思い立って心療内科にも通った。そこでは「少し疲れているようですが問題ありませんね。気になることがありましたら専門のカウンセラーを紹介しますよ」と、言われた程度でなんら問題はないように感じた。
原因はわかっている。
それは、ここ最近見る夢のせいだった。
仄暗い闇の向こうから、怪物が来る夢……
人智を超えた全知全能の神がいるとすれば、それは人を滅びへと誘う存在。
それはどの宗教でも崇められていない、文字通りの悪魔のような――。
こんな話をすれば世間の人は笑うだろう。
まるで夜泣きする子供が見たという夢のようだ、と老人は我ながら思う。
しかし、日に日に度を増し訴えかける何かは、まるで老人を飲み込むように夜な夜な語りかけるのだった。
そんな馬鹿な話があるか……
老人は心の中で言い聞かせるように言った。
妻に先立たれ、息子は独り立ちし、都市郊外で一人暮らすのが寂しかった。心の奥深いどこかで嘆こうとしていたのかもしれない。夢はその寂しさを投影した自分自身の心なのだろう。
老人はベッドから起き上がって机に向かうと持っていた数珠と首に下げた十字架を机に置き、ふとペンを手に取った。
『冥の境にある谷から、一つの声が聞こえた。それは微かではあったが、人々を呼び覚ました。人々はその声の主を呼び求めるように声をあげた。"この世界の主、あなたはどこにおられるのですか?" その問いに対する答えはなかったが、声を聞いたもの同士がめぐりあい、その声の存在を確かなものとした。無から有が芽生えた瞬間だった』
老人はハッとなりペンを置いた。
夢の中の、仄暗い闇から怪物がくる情景と、無意識のうちに書き記した文がどこかで重なり合うようなもののように思えて、ただ不気味だった。
『預言はなされる……』
どこからかそんな言葉が聞こえた気がして老人は怖くなり、自分が書いた紙を丸めてゴミ箱に押し込んだ。
まるで、取り返しのつかないことをしたことを隠すように……
少しでも読みやすく改稿(1/30)