老公の家令
引っ越しの間ネット接続ができないときに浮かんだ小説です。
色気なし、戦闘無しで書いてます。
主人公、渋い、カッコいいを目指していますが・・・どう感じられるか?
先ほどまで人々が騒がしく動いていた屋敷がたちまち静かになったようだ。
わずか6人がいなくなっただけだというのに、いや、原因は、その中の一人なのだろう。
手は尽くした。あとは選んだ5人にすべてを託すしかない。
「どうか、ご無事で、お楽しみを・・・」
彼はこの場にいない主人に呟いた。
きれいな白髪を肩で切りそろえ、のばした髭が翁の風格を高めている。
顔に刻まれた深い皺は老人の激動に満ちた半生のようであった。
先ほど息子の常水純に公爵位を譲り渡し、穏やかな雰囲気で佇む老公は長年、連れ添ってきた家令に対し、無茶を言っていた。
「老公、お忍びで旅をしたいというのは危険すぎます。お考え直しください。」
「家令よ。だがこのままだと、儂が助けねばならぬ人間が助けられないようなのでな。そういうわけにもいかん。」
「純公に老公がご助言いただければ、ご自身が出向くより多くの人間を助けること叶いましょう。ご再考を。」
その言葉に老公は苦い笑みを浮かべると、辛そうに話した。
「純に話をしてもその人間だけは助けることができまい、というのも儂が助けたい人間というのは他でもない儂だからよ。」
意表を突かれた言葉に家令が呆然としていると、老公は言葉を続けた。
「名君よなんのそのと、言われながら、40年以上の治世をしてきた。むろんそのことで恥じる気もないし、恥じることもない。だがいつからか、澱のように心の底に澱んだものがあってな。多くの人間を救ってきた儂を、誰かが救ってくれるのだろうか?そうして長いこと考えて得た結果が自分で救うしかにないということだ。」
「ご自分でご自分を救われるとは?」
「ようは人生のご褒美に好きなことを我が身にやらせてやるということだ。今まで立場上できなかったことが多い。それを我が身に味わらせてやりたいのじゃ。」
「それがお忍びでの旅でしょうか?」
「長年かけて行ってきた治世の結果を直視する。よきことも悪きことも見たい。そして悪き点は純に意見して直してやらせたい。」
「そういわれると、私としてはお気のすむように、としか言いようがありませんが・・・せめて供を連れるように手配させてください。それは譲れません。」
「わかった。最低限にせよ。」
それから二月がすぎた。季節は初夏になり爽やかな日が多くなっていた。
そんな涼しい空気の夜明け間近に、城の堀の内側をジョギングしている集団があった。
以前より伸びた白髪を後ろで結び、同じく白い長い髭が朝日に煌めく人物が先頭を走っていた。
ただ走るだけでも周囲に威厳を振りまく、彼はこの城の主だった常水光前公爵である。
その足取りは隠居した老人とは思えないほど軽やかで、成人男子でもついていくのは厳しい程速かった。
その周囲を固めるのは護衛の近衛騎士達である。
10名ほどが警備体制を示すように前公爵を輪を組んで囲み走っていた。
気づきにくいがその輪の中にいるのは前公爵だけではなかった。
走る際の砂埃に紛れるようにもう一人男性が走っていた。
その男性は鶴のように痩せて見えた。
彼の視線の先には前公爵だけがいた。
(呼吸は60前後、心拍数は120から130・・・発汗も軽いようですし、健康に問題なしということですね。)
メッシュのように入った白髪が、その男の人生の年輪のように刻まれ、もう若くはないことを示していた。
彼の雰囲気は一言でいえば空気そのものといえた。
街角に佇めば町の風景に、宮殿に控えれば宮殿の装飾に紛れ込み、人々の目を引くことはない。
希に近づいた時に僅かに漂う爽やかで華やかな香りが、市販品ではないことがわかる人間が興味を抱く程度だ。
しかし、彼を知っている数少ない人々は、そこに彼がいなければ、いないことを感じ取り、強烈な不足感を催す。
「縁の下の力持ち」それを体現したような人物だった。
堀を半周も走ったときに、彼は手を振り、指の形で指示を与え、待機させていた看護士を持ち場に戻した。
彼の指先一つで使用人達は軍隊を越える統制で動いていく。
彼は常水公爵家の家令だ。
常水家は三公爵の筆頭であり前当主は将軍の叔父にあたり名君の誉れも高い常水光公爵が60歳を過ぎても矍鑠として息子の純を後見している。
公爵家の政を補佐するのは前公爵から仕える侍従長の「風正」であり、侍従長は常に公爵と供にいた。
侍従長は信頼も厚く、諜報部門も司っているとの噂もある。
対して家令は本来なら常に公爵と別行動である。
公爵が個人的に雇う使用人、食堂のコックやメイド、庭師から世継ぎの家庭教師にいたるまで彼が面接・決定し責任を持つことになる。
彼の仕事は使用人を使って公爵の生活を快適にすること。
この一点だけである。
このため公に公爵に会う回数は一年でも数える程なのに、彼の仕事は24時間365日体制である。
(私的には朝のジョギング等毎日会っているが・・・)
結婚式の時に3日程休暇をもらったが、その時公爵の生活が大いに不便になったことから、以降一度も休暇を取ったことはない。
彼の仕事はオーケストラの指揮者ではなくオペラの楽団の指揮者に似ている。
どちらも楽団の指揮には変わりないがオペラの指揮者は舞台から降りることでオペラに華を添え、目立たないまま重要な仕事をこなしていく。
たとえば彼が直に公爵に会うときは殆どが体調管理のための休暇要請である。
公爵の体調が崩れると確信したときは政治がどのような状況であろうと、きっちり休みを取らせる。
休みの間も心労をのぞくため状況報告と多部署と連携した対策の報告は公爵が望めばすぐに行われる。
疲れたままの判断で致命的な結果を生みかねないときに、的確な操作で状況を凍結して、公爵の回復後に対策に当たらせる、その手腕は、国政に携わるもの皆が熟知し信頼していた。
彼を越える力量の家令は国内には存在しない。それ故、彼は「あの家令」とだけ呼ばれる。
名前を呼ばれることはない。
結婚後の家庭も、常に常水公を第一に営まれ、子供の教育は妻に任せきりになった。
その子供も20才を超え、結婚相手を考える必要ができた頃、光公が隠居を宣言した。
光公は世継の常水純に家を任せることを将軍に告げた。
公爵領の家臣である侍従長である風正は純に仕えることになったが、家令はあくまでも光公の個人的な使用人である。
そのまま光公に仕えることになった。
純公から光公へは家令の譲り渡しが嘆願されたが、家令から新しい公爵は新しい家令を持つべきであるとの意志が伝えられ、決着がついた。
純公にとっても家庭教師を通じて、よく見知った家令は信頼が置ける人物であったのである。
純公は新任の家令として彼の息子を指名した。
家令はこれを固辞したが、純公から子供の頃からの知己で
信頼が置けると判断した、といわれると、新公爵の判定に不服を唱える訳にもいかず、渋々了承することになった。
なにしろ彼は息子に対し教育をしたことはなかった。
そのような時間は家令には存在しないというのが教育であった。
代わりに彼は急いで息子の嫁を決めると妻に嫁の教育を任せた。
妻からの支えは家令にとって必要不可欠なものだったのである。
そのあたりのこもごもとした引継ことが終わった今日の朝である。
汗を拭き、執事用の燕尾服に着替えた彼に、同じく執事用の燕尾服を着た男性が訪ねていた。
「父上、このたびは公爵家の使用人をご紹介いただき誠にありがとうございます。」
息子の現家令が前家令である父親に挨拶をしていた。
公爵家が世代交代したときに、多くの使用人が隠居である光」についていくために公爵家が人手不足に陥った。
それを救ったのが前家令であった彼である。
公爵家の使用人は腕はもちろん人格や秘密保持等、厳しい基準が求められる。
このため、常に使用人が去ったときに備えて、予備の人材リストを彼は作成していた。
必要になってから探したのでは間に合わない。その理由で常に国中から人材を求め、捜し、繋ぎをつけておく。
それは家令の業務の中でももっとも神経を使う作業だった。
純公の家督相続に伴い、彼の使用人を推薦したのは現家令である息子だったが、それには前家令の人材リストが大きく力を貸していた。
もっとも彼は現家令が息子でなくても、隠居の光のため純公に力を貸したのは間違いない。
なぜなら純公は光公の息子である。
それ故に光公に余計な気を使わせないため、知らぬ間に不足していた人材が配置されていた、ということが起きたであろう。
そういう意味では純公の家令指名は前家令に報いるという意味でも正しかったのだろう。
今回の人材登用で現家令は勲功をあげたといってよい。
以後の活動に制肘が加えられる可能性はなくなったし権威も発生した。
公爵家の運営も軌道に乗り、順調に生活が流れ出した。
そして純公が叙勲して正式に常水公爵になった後、光公は常水公領の公都である水都にちなんで「水都の御老公」と呼ばれるようになっていた。
「感謝はいらない。譲った人材をいかにうまく生かして公爵家の安寧を保つか。老公のお側で見ているぞ。」
「は、肝に銘じて職務に勤めます。」
親子の間での仕事の話は、この会話だけだった。
老公は隠居したといってもまだまだ元気な老人である。
朝のジョギングは現役の頃からの日課である。
城の堀の内側1週10kmを約40分で走りきる。
60代の男性としてはかなり速い。
現役公爵の頃には一緒に侍従長、看護士等も走り、警備も倍程いたため毎朝大量の砂埃が幌に沿って移動していたが、隠居してからは気楽に走れるようになっていた。
(だいぶメンバーが寂しくなりましたね。)
かつて大汗をかきながら走っていた侍従長や親衛隊隊長も現公爵のもとに出仕するようになったため、走っているのは家令だけになってしまった。
(それにしても、老公にも困りましたね・・・領内に何かあったら老公による純公への力量不足を指摘という形になりかねないのですが・・・)
老公にしてみれば今までの自分の治世で足らないところがなかったか見て廻りたいのだろうが、その行動は見る人によって変わって見える。純公への不満からの動きと見られるのは決してよい結果は生まない。
家令はそのような事態を招かないように細心の注意を払ってお供の人材を選んだ。
まずは老公の槍の師範でもある梨飛。彼は30代半ばでは槍の腕と人格には問題がない。いささか生真面目なところはあるので、老公を諫めることもできるだろう。
もう一人護衛役に叙を選んだ。彼は町民ではあるが、梨飛の弟子で筋もよいと聞いている。お忍びの時の市民に溶け込む知識を期待しよう。
情報収集役に観、彼は以前から家令の個人的な情報収集官として働いていてもらった。
老公に会ったことはないが、問題はないだろう。
危害を加えられそうなら事前に察知して逃げればいいのである。観には、その兆候を注意してもらうことにしよう。
後は早足の漂、この男まるっきり腕は立たないが足の速さだけは自慢できる。緊急時の連絡役として走り回ってもらおう。
あとは老公のお世話係にメイドから一名選抜して、洗濯や身の回りの世話をしてもらおう。
そこそこ武芸を納めている、30代から40代のメイドの方が目立たなくていいんだが・・・銀杏か?
40代で腕も立つが、問題は見た目が20代にしか見えない・・・おまけに美人である。余計な、もめ事の種になりそうな気もするが、むしろ好都合かもしれない。老公の健脚についていけるメイドは殆どいない。
初孫の世話からちょっと離れて仕事をしてもらうことにしよう。
翌日、5人は城の離れの一室に集められた。
前に立っているのは家令である。
集められた5人は前に立っているのが、家令であることを知り、集まった面々の顔を見ながら、なにを命令されるのか不安と疑問で心中穏やかでないが、それを表情に出していたのは漂だけであった。
「みなさまには、新しいお役目についてもらいます。」
静かな室内を家令の声が広がっていく。
「新しいお役目は老公の領内見回りのお供になります。また、この見回りは老公たってのご希望によりお忍びで行われることになりました。」
並んだ5人が一様に動揺する。
「この見回りの間、警護から身の回りのお世話までこの5人に一任します。老公の体に危険が及びすぎないよう気をつけてください。」
ここで家令の目が細く狭められ声が低く聞き取りにくくなる。
「なお、領内の発見される問題はあまり大きなものですと現公爵の落ち度になりますので、せいぜい貴族の横暴や犯罪者の摘発にとどめてください。それ以上のことを老公が見つけそうなときには、漂、全足でこちらに知らせるように。」
漂をしっかりと目線で押さえた家令は次に観をみる。
「観、あなたは見つけてはいけないものを探しだし、うまく避けてください。そういう大きな問題を見つけた場合は漂を使って、私か風正まで報告してください。こちらで対処いたします。」
梨飛が納得顔で声を上げた。
「つまりは老公のお守りですか?」
家令は目線をさらに冷たくすると、温度を感じない声で告げた。
「違います。お守りなどと思えば、あのお方はその心を見抜きます。本気で通った道筋は悪徳貴族・商人、ならず者を壊滅させる気で進んでください。当然、いうまでもなく危険は避けられません。」
あきらかにひるんだ5人に家令は言葉を続ける。
「大きな問題に触れさせないのは現公爵の権威を損なわないのと、老公の身の安全を5人で守る為です。あのお方は放っておけば領内の大問題を見つけて解決しようとなさるでしょう。そのときは有力氏族の私有騎士団が相手になりかねません。」
ここですこし間をおき理解させると
「そのような事態になれば我々が動いても間に合わないかもしれません。そのようなことは極力回避してください。そのために毎日のように小さな問題を解決して老公が他に気が向かないように、全力で探索をお願いします。」
全員の顔がひきつった。
「もちろん、償いは報酬で報います。給与を3倍にする予定ですが他に希望があれば言ってください。検討させていただきます。」
細々としたことを打ち合わせると家令はそのまま老公の前に5人を引き合わせると、即日、御老公の世直し旅が始まったのであった。
6人が旅立つと同時に、奉公人を老公不在のシフトに切り替えるため矢継ぎ早の命令を出し、諜報部隊を出動させ、老公に過度の危険が及ばないように大きすぎる問題をつぶしていく。
・・・噂と異なって諜報部隊を預かっていたのは侍従の風正ではなく家令だったのだ・・・
その手当を行うと侍従の風正に今日、老公が出発したことを連絡し、不在がばれないように書類関係の行き先を調整する。
純公には老公のわがままは話てあるので、出発の事実だけを耳に入れておく。
はたから見ると家令は目が回るような忙しさではあるが、それでも平常運転である。
普段、本人がいても業務量は変わらない。というかそれ以上は処理できない量が降ってきているので、余った分は他人にやらせるしかない。
実際の業務量は若干減っているのだが、本来ならば家令にとっての家令のような存在がいたのだが、老公につけて出しているため、ちょっと負担は大きくなっている。
そしてその翌日・・・昼過ぎに漂が大汗をかきながら戻ってきた。
「漂どうした?まだ老公は公都周辺のはずだが?」
「それがですね、家令・・・」
老公は公都から半日の農村にいた。
そこで土地の賭博場の親分の破落戸である。「血柳の三次」気に入られ、義兄弟の契りを結ばないかと持ち掛けられているらしい。
(まったく、人たらしにも程があるというものですよ。)
「社会勉強だと賭場に行った老公を止めきれなかった我々も悪いのですが、悪い噂はない賭場なので全員でいったんですよ。」
(賭場ですか、やっぱり出すべきではなかったですかね・・・このままだと岡場所まで顔を出しそうですね。)
「そしたら老公が一人勝ちで、終わったときに勝った分をご祝儀だとばら蒔いたんで、賭場の親分が気にいってですね。・・・」
「それで義兄弟ですか?」
「ええ、老公は隠居なので息子に迷惑がかかるかもしれないからと固辞なさったんですが、親分も自分も隠居して手下に賭博場を譲るから堅気として義兄弟を結んでくれと強引に押してきまして・・・」
「わかりました。」
家令はすぐに馬小屋に向かうと駿馬に跨り、くだんの村へ・・・一刻後に村に入っておくと、珍しく老公の額に冷や汗が流れていた。
「やあ、家令、足労。」
「ご隠居様、今日は家令ではなく大番頭でお願いします。」
「大番頭?」
「まったく、若旦那のことも少しは考えてください。山ほどの問題を一生懸命、裁いているのに親父は賭場遊び。そんなことで顔を合わせられますか!」
「いや、まったく。」
老公も苦り切った笑顔で答える。
「このまま岡場所にも社会勉強とかいって行くつもりだったのではありませんよね。」
「・・・いや、まったく」
今度は冷や汗を流しながら真面目に答えてきた。
(脛に傷がありそうですね…未遂なので大目に見ますか。)
そこで家令は賭場の親分とやらを見てみると向こう傷だらけではあるが、酸いも甘いも?み分けた、なめし革のような肌の任侠である。
家令の鑑定眼にピンときた。
「血柳の親分さんと呼んだ方がいいですか?それとも三次親分の方がよろしいですかね。」
急に話かけられた親分も家令の佇まいに背筋をのばして答える。
「隠居したので三次と。」
「では三次さん、うちの隠居はこのような道楽者。この旅も道楽旅です。それでも良ければ付いていってくださいませんか?」
まさか固そうな大番頭からすぐにOKの言葉が出るとは思っていなかった親分、出目金のような表情で呆気にとられる。
「ただし、義兄弟はだめです。同格の仲間までにしてください。」
「ええ、ついていけるならそれで十分に・・・」
「代わりに観、戻って仕事を手伝いなさい。」
「は、分かりました。」
「それと梨飛と叙、遠慮はいりません。だめだと思うときはがっちり止めなさい。」
「「は、申し訳ございません」」
「では三次さん、ご隠居が岡場所に行きたいといったら、病気をもらわないように止めてくださいね。」
「それはもちろん」
「では漂が戻ってくるまで待ってやってください。彼も駆け通しで疲れているでしょうから。観行きますよ。」
村の外に出て、人気がなくなると
「観、南の江都で将軍が何か画策しているようです。」
「将軍家ですか?」
「老公のお耳に入る前に情報を入手しておきたいので一隊を引き連れ江都で潜伏調査しなさい。」
「はい、報告は一月毎に家令宛でよろしいでしょうか?」
「いえ、私も北の伊伯爵家の動きが妖しいとのことでしばらく北に向かいます。毎週、侍従の風正宛に送ってください。」
「わかりました。お気をつけて」
「そちらも気を付けてください。」
そのまま観は道を外れ、山を突っ切るように江都に向かった。
家令の方も普段着の執事用燕尾服のまま北の境界に向かって馬を進めていく。
その周囲の草むらには時折不自然な揺れ方をする草があるようだった。