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近頃の私は  作者: 山田文香
8/8

チケットを購入した映画が始まるまで、まだ3時間あった。

私は渋谷にいた。いつもSNSで見ていた憧れのモデルさんがよく通っている映画館に、私も行ってみたいと思った。黒くて短めのワンレングスがセクシーな受付のお姉さんからチケットを購入し、わくわくしながら映画館を後にする。

せっかくだから散策しようと、方角もわからないけれど適当に歩いた。

そこはラブホ街だった。露出が多くて、その厚化粧を剥がせば絶対ブスだろう下品なお姉さんと、もう奥さんとはしばらく口をきいていなさそうな冴えないサラリーマンが微妙な距離をあけて、一応並んで歩いていた。

ほほう。あのお姉さんは、このオシゴトでいくら稼ぐのだろう。その身なりからは決してお金持ちそうには見えない。あのサラリーマンは、少ない小遣いからやりくりしてこんなサービスを購入するのかな。見てるこっちまでなんだかやる気をなくす二人だ。

そんな要領ですれ違う人間を査定するのは面白かった。

あるラブホの入口に、張り紙を見つけた。

「清掃スタッフ募集。日給2万5千円~」

まじかよ!ひとりだっていうのに、思わず声を出してそう言った。

キャバクラや風俗や、ホストやラブホ経営、そしてその清掃スタッフも全部ひっくるめて「水商売」というイメージだ。そういう世界はどんなだろう、と想像する。

ふと、学生時代にたまにやっていたイベントコンパニオンの仕事を思い出す。

あれは仕事内容も給料もたいしたことなかった。時給2千円で、場所は主に旅館。客はどこかの会社の社員旅行団体であることがほとんどで、夕食をお供するだけの仕事だ。食事こそはもらえないものの、給料をもらいながら酒を飲むのは最高に楽だった。ひとりにつき5人くらいを相手にするから話のネタにもさほど困らないし、薄っぺらい会話に可愛らしく相槌をうつだけで時間が過ぎた。

長年この仕事をしているリーダーの女達はたしかに細かいところに気がきくし、最初に定められた2時間の宴会から延長を取るなどの取引もこなしていた。延長が取れれば、それだけ私たちの給料にも加算された。

私はコンパニオンとしての誇りはなかったし長く続ける意志もなかったけれど、女のどういう仕草がモテるとか、どういう発言が男を気分よくさせるかを観察するのは楽しかった。

聞き上手な女、お笑い担当でキャラを築き上げている女、厚化粧で金髪のいかにもという女、大人しそうに見えて男には案外大胆な女。いろんなコンパニオンがいる中で、私は化粧こそは薄くないものの自慢の黒髪をストレートに肩までのばし、赤い口紅をしっかり塗っていた。

黒髪は私を知的に見せてくれていたと思うし、黙っていれば実年齢より随分年上に見られた。だからこそ会話のなかでへらっと無邪気に笑えば、客の笑顔も誘えていたと思う。当時の私は、その団体の中の社長さんや会長さんといった幹部クラスのおじさんに気に入られることが多かったし、それは恥じらいを忘れない控えめな態度がポイントだったと思っている。

「俺の嫁さんの若い頃に似ているんだよ」という文句は最高の褒め言葉だと思っていた。私はモテていたと思う。あらゆることを無意識に計算して振る舞える自分は天才だと思っていたし、もしかして水商売の才能あるんじゃないのと思っていたけれど、ある日急に冷めた。

その日の宴会の客は、どこかの部品メーカーの営業部の社員旅行だと言っていた。私はいつものように、専務だと言うにはまだまだ若そうなおじさんにキープされていて、おとなしそうに見えて案外アルコールが強い娘を演じながら熱燗を一緒に飲んでいた。すると、おじさんは私の真っ赤な制服の中に5千円札を忍ばせてくれた。

おじさんは、妻子がありながら愛人がいるという。愛人なんて普通だよ、と。男はみんな浮気するからね、君の彼もきっと浮気しているよ。だけど愛しているのは妻だけなんだ。浮気と愛していないはイコールじゃないんだ。そう話すおじさんは、最近奥様に浮気が見つかって離婚裁判中だと言う。

私はその頃特に彼氏もいなかったけど、男はみんな浮気をする生き物だということくらい心得てるつもりだったし、離婚裁判中だと聞いて大袈裟に驚くほど純粋でもなかった。

だけど、なんだろう。離婚裁判中という身で、さっき初めて会ったコンパニオンの女の子に懲りずに小遣いをやっているんだこのおっさんは、と思うとその浅はかさに無性に呆れた。

彼氏や旦那に浮気をされて気分が悪いのは、そこだ。なんて馬鹿なんだ、と思うからだ。

今日みたいに、給料とは別でこっそりお小遣いをもらうことはよくある。だけど、そこに感動や切実なありがたみはない。ラッキー。せいぜいこの程度。さすがに彼氏のことを財布だと思うほど私の心も曇っちゃいないけど、この仕事で出会う客のことは「私の今日の収入源」といった認識だ。

健気に貯金なんてしていない。美容院代、ネイル代、洋服代と湯水のごとく流れてゆく。こうやって酒を飲んで稼いだせいぜい日給8千円程度は、酒に消えることだってしょっちゅうなのだ。

そんな馬鹿な女に、自分の彼氏や旦那が金をばらまいているのかと思うと恥ずかしいことこの上ない。マニュアル通りの上目遣いにまんまと鼻の下を伸ばしているのかと思うと、それが腹立たしいのだ。

「それじゃあ、近頃はお疲れなんですね。短い時間ですけれど、リフレッシュしてください」

そう言って、私は馬鹿な中年のお猪口に酒を注いだ。

私という女は、いや、女という生き物は目先のお金のために笑顔を取り繕えるのだ。

と、当時を思い返すと今となっては微笑ましい気持ちになる。幼かったなあ、と。

それからいくつかの恋をし、浮気されたり仕返したりを繰り返すうちに気がついたことがある。

人はみんな、騙されたいのだ。

行き遅れて屈折した女の先輩になじられたり、自分より年下の上司に顔色を伺ったり、トドのように真ん丸くなった妻のお尻を眺める日々の中で、束の間の刺激や癒しをお金で買う。そういうサービスを購入できるのは、自分で稼げるようになった社会人の特権でもある。

水商売は、エンターテイメントなのだ。あの頃の私には、まわりの女と自分を比べることばかりだったように思う。エンターテイメントである自覚がなかったような。

ただ、もう一度エンターテイナーになろうとは思えない。

私は、良く言えばあの頃の私を卒業していて、だからこそこのことにも気づけたのだと思う。

人は一度卒業し、主観的にとらえていた物事を客観的に見えるようになるともう中心には戻れない。行くとすれば次のステップ、マネジメント業務なのではなかろうか。

なんて、するわけでもないのにボヤボヤと考える。まず、コミュニケーション能力を著しく欠落させてこの世に生まれ落ちた私が、マネジメントだなんて。2秒で倒産だわ。

そういえば、すっかり忘れていたのだけれど私は彼に振られたのだ。あの状況で、振られたのは私なのだ。

どれほど腹がたっても、別れを切り出されると「捨てないでっ」と泣き叫び喚き散らかしてしまうのは何故なのか。

そして、あの状況で私をあっさり振れる彼の精神状態も何なのか。

「でも今まで付き合った彼女の中でも、まあ君は良いほうだった思うよ。お洒落だし、自分の世界持ってるしね」

これは私が彼に言われた最期の言葉だ。

奴は、私のことを「君」とか呼んだのだ。そんな言い方、今まで一度だってしたことなかったのに。

私が憧れたお上品な彼はもういない。死んだのだ。もはやお上品だったのかどうかさえ今となってはもうわからない。

コンタクトを紛失するくらい号泣したのに、次の日にはけろりとしていて「あ、東京行こ」と突然思い立ち、電車と新幹線を2時間半乗り継いではるばるやって来た。

計画なし、仕事なし、恋人なし。ただし、金はある。お金しかないのに、お金があるからもうすべてを手に入れた気分だ。今の私、絶好調。

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