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私の上司、マスダさんは36歳の妻子持ち。まだ2歳のひとり息子を保育園に預けて共働きらしい。
気の強い奥さんはマスダさんより稼ぎが良くて、家事は分担、とくに料理はマスダさんが担当するそうだ。
いかにも現代の夫婦という感じで輝かしい。本人は家庭優先で定時そこそこに退社するもんだから、周りから少し叩かれていたりして大変そうだけど私にとっちゃ頼りになる最高の上司。
私が業務で右往左往している時、彼はいつも決まってこう言った。
「うるさい」
基本的にドライなのだ。美しい薔薇には棘があるという。
私は負けず嫌いだから与えられた仕事にそこそこ情熱を注ぐ。できれば誰にも頼らずこなしたい。だけど寝る間も惜しんでのめり込むほどハングリーにもなれない。あくまで8時間の労働中限定である。
私の集中力が途切れ途切れになってきた頃、「構ってほしそうな顔をしているな」そう呟いて解決の道しるべを敷いてくれる。
「困ったことがあれば相談しろ。俺は最後までお前の味方だから、そのかわりきちんと報連相しろ」
好き。よくもそんなカッコいい台詞をさらっと言えるな。私を殺す気か。
「マスダさん」
「は?」
「ありがとうございます」
「この程度のことであたふたするなんて、お前にも可愛い所があるんだな」
殺してください。私はこの飴と鞭の絶妙な配分に殺され生かされながらなんとか4年間勤めてきた。
でも。
お局軍団とのやり合いも、一見仲が良く見える同期と密かにライバル視しあうことも、繁忙期の社内での八つ当たり合戦も、部署間の責任の押し付け合いも、この会社独特の新人を余所者扱いする風習も、もううんざりだった。特に弱者に対して強気な態度を見せる奴らを見ていると、その人の劣等感を浮彫りにしているようで私は本当に見ていられないのだった。
どこの会社にいても悩みはあるのかもしれない、ならば私はもう組織に属していたくないとさえ思う。
「お待たせ」
会社の最寄り駅から2駅の居酒屋で待ち合わせた。てっきり会議室へ呼び出されるのかと思ったら、店への地図が書かれたメモを渡された。私たちは4年間の付き合いで、初めてふたりでご飯を食べに来た。もしもマスダさんがまだ独身で、歳も近かったりしたら彼は私を飲みに誘ったりしてくれるのかな。そんなことを何度か妄想したりした。それが叶うのが退職を申し出たタイミングだなんて、ちょっと切ない。
「何飲む?俺、ビール」
「じゃあ私はシャンディガフで」
あくまで普段通りなマスダさんのその大人な態度に気後れする。
飲み物と一緒に上田さんが適当につまみも注文してくれて、私たちは乾杯した。少し、照れる。
「どうして辞めようと思ったの?」
手始めに世間話をするでもなく、マスダさんは直球に投げかけてきた。
「どうして、って・・・」
辞めようと思った理由。いざ問われると返答に困った。次のステップが明確だとか、会社の方針について行けないだとか、そういう具体的な理由はない。
私が会社を辞めたいと思うのは、ただ単に感情だからだ。そんな曖昧な精神状態を他人に言葉で説明するのは難しく、今になって退職するに値しない気がしてくる。
「まあお前は会社にすがる理由もないよな。まだまだ若いし、可愛らしくて少し風変りな面もあるし、もっと活かせる生き方があるよな。直感を大切にするといいよ」
彼は穏やかな口調で言った。少し気が楽になる。
「マスダさん、すみません。たくさんお世話になったのに。私は業務内容はそれなりに気に入っていて、でも違う世界も見てみたいって、ただそれだけなんです。ただの我儘です」
今日は日頃の愚痴を思う存分吐いてやろうと覚悟を決めていたのに、ひとつも出てこなかった。いざとなると本音をぶつけられないのは私の欠点だ。
でも、業務以外の個人的な人間関係やメンタル面で迷惑をかけることは、上司と部下の枠を逸脱している気がして、できればしたくないというのが私のちっぽけなプライドだった。
「この店さ、20代の頃よく来てたんだ」
そう言って、マスダさんは昔付き合っていた彼女の話を聞かせてくれた。
「大学時代、サークルの後輩で、入部してきてたその瞬間に一目惚れした子がいたんだよ。下着が見えそうなくらいスレッドの入ったミニスカにピンヒール履いて、金髪で化粧濃くて、どうしようもないくらいカッコ悪かったんだけど、放っておけない雰囲気に惹かれてどんどんハマっちゃったんだ」
「意外ですね。もっと可憐で儚げな正統派女子が好みなんだと思っていました」
「はは。ちょっと悪そうな人に憧れる時期が誰にだってあるんだよ」
ドライなマスダさんの恋焦がれる姿はいまいちピンとこなくて新鮮だ。
「その彼女とはすぐに同棲しだして、いつもこの店で飲んでた。そしたらある時、カウンターの隣の席に座ってたおじさんに話しかけられたんだ。おふたりさん、俺の仕事手伝わないか?って」
「仕事?どんな内容ですか?」
「サンフランシスコ条約で禁止されてる動物とか植物の密輸」
「ぶっ」
私は2杯目に注目したモヒートのミントを思いっきり飛ばした。そもそも、サンフランシスコ条約って何だっけ。
「その時は、俺学生なんでって断って終わったんだけど、彼女はその後ひとりで飲みに来た時におじさんと再会したらくてね。それ以来、彼女の持ち物がみるみる高価なものになっていったね」
「愛人ってやつですか」
「今から思えばね。俺は本気で惚れていたし、やましいことはないって言い張る彼女の主張を信じるフリしてた。気の強い女だったから、俺と喧嘩したら夜中にでも家を飛び出して朝まで帰ってこないことなんてしょっちゅう。あの時、神経すり減ったなあ」
週の真ん中にもかかわらず店の中は仕事帰りのサラリーマンで賑わってきて、そのざわつきとほどよく回ったアルコールのせいで私はすっかりマスダさんに親近感を抱いていた。
「ウケるんですけど」
「ウケる言うな。それから半年くらい経ったある日、ふたりでこの店で飲んでたら美人の女性が話しかけてきたんだ。主人が亡くなりました、と」
「どういう意味ですか?」
「おじさんの奥さんだったんだよ。脳卒中で突然亡くなられたんだ。で、俺の彼女にご丁寧に報告に来てくれたわけ」
「えっ?!」
「でさ、彼女、おじさんから借りてる本とかCDがあるとかで、俺がひとりで葬式会場まで返しに行った」
私は大げさなくらいにのけぞり返って笑った。勢いでお箸が床に落ちた。
それからマスダさんは自身の若い頃の話をたくさんしてくれて、終電ギリギリで解散した。
「ご馳走さまでした」
店の前で別れる時、お酒が入っていたからだろうか。それとも彼の昔の彼女の話なんて聞いたからだろうか。この後、なんて言うんだろう。つまらない期待を込めて、そう思う。もしもマスダさんがまだ独身で、歳も近かったりしたら。彼は、私を。
「じゃあな。遅くなったけど明日遅刻するなよ」
いつもの完璧な笑顔で、マスダさんは私のおでこを小突いて、そして私が期待するような言葉も、勘違いさせてくれるような迷いの間もなく夜の闇へ消えてしまった。
その手を思い切って掴む自分を、頭の中で何度も繰り返してしばらくその場でぼうっとしていた。