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目を開けてから、しばらくぼんやりしていた。ただひたすらに空中を見つめ、昨日、彼に電話で言われた「やっぱり女の子は長い髪が色気あるよね。女は黙って黒髪ロングだよ。あ、何もニシに髪を伸ばせと強要しているわけじゃないよ。ショートヘアが好きって言っていたしね、自由にすればいいと思うよ。俺は優しい男だから」という台詞を思い出した瞬間に目からビームが出て天井に穴が空いた。焦げた箇所からしゅうしゅうと黒い煙が出る。
パタパタパタ、という足音を意識の外で密かに感じていて、すぐ側まで来ただろうという頃にはっとした。
「起きましたか?お母様がいらっしゃいましたよ」
おそらく同世代の、厚化粧の看護師さんがキリッとした笑顔でそう言った。
目が覚めるとそこが病院だなんて、なんてドラマチック。心の端っこで密かに憧れていたやつだ。此の期に及んで私は若干うっとりした。
「なんだ、顔色良いじゃないの。会社から倒れたって連絡があったから慌てて来たのに。先生が、寝不足だって言っていたわよ。毎晩遅くまで彼氏と電話ばっかりしているから」
明るい母の声を聞くと、ほっとするのは幼い頃と変わらない。いくつになっても私はこの母の子どもなんだと実感する。
「今日はもうお帰り頂いて結構ですので、ゆっくり休んでください」
看護師さんに促され、私と母は病院を後にした。
念のため上司に連絡を入れ、本日のところは仕方なく家へ帰ることにした。やらなければいけない仕事があったのに、本当に申し訳ない。そう思うと、足取りは軽く自然とスキップを踏んでしまう。
「やれやれ、ゆっくり休まねば!」
今朝のまま、人型に穴の空いた布団にすっぽり潜り込む。最高。みんな働いているんだと思いながら眠るのは格別。
そうだ、奴を心配させてやろうと携帯を開き、『いつも通りに出勤したはずなのに、気づけば病院のベッドの上だった。体調悪いみたい』と彼へメールを送信した。
このメールに対しての模範解答は『大丈夫?仕事が終わったらすぐにお見舞いにいくよ』である。
しかし、人間の心を持たない奴にそんなことができるはずもなく、結局夜まで返信はなく、鳴らない携帯が気になって仕方ない私は苛立ちのあまり一睡もできなかった。
夕食を終え、明日こそは会社行かなきゃ面倒だなと思いながら歯磨きをしているところにやっと返ってきた奴のメールの内容はこうだった。
『今日からホワイトニングを始めたよ。ニシも歯が少し黄色いから行くといいよ』
本当に自分のことしか頭にない男なんだ、と客観的に思った。自分に送られてきたメールだと理解するのにやや時間がかかった。
私は、『お見舞いにいくよ』『いいよ、遠いんだから大変でしょ』『大変じゃないよ。そんなことより心配だよ。食べたいものある?』『本当?じゃあ・・・、キルフェボンのタルト。ホールで』そんな普通の甘いやり取りがしたい。
こいつはきっと私が浮気しようと、国外逃亡しようと、ウシガエルに突然変異しようと興味ないんだ。考えれば考えるほど腹が立って歯ブラシにこめる力がどんどん強くなって、奴の言うその少し黄色い歯が血で赤く染まった。それは見事な様だった。
たまたま通りかかった妹が、血塗れの姉を見て絶句した。その絶句した顔を見て、私は明日会社を辞めようと決意した。
「おはようございます。昨日はご迷惑おかけしました」
「はい。もう体調は大丈夫?」
「お陰様で。それと、私会社辞めます」
「うん。・・・は?」
翌日出勤して早々、私は手汗で湿った退職願を上司に提出した。その完璧な顔立ちが歪むのを初めて見た瞬間だった。
みんなのキーボードを叩く音が止まったのがわかる。場の空気が凍るとはこのことかと思う。
「決めたことなので」
少し声が上ずった。張り詰めた空気に負けそうだ。ただ、こんな風にみんなの前で堂々と言ってやったのも後に引けなくするためだ。私の退職は、この瞬間に確定したも同然なのだ。
「業務終了後、少し話そう」
上司は冷静に言った。いつもの完璧な顔立ちだった。