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非常用ドアコック。この中のハンドルを手前に引けばドアは手で開けられます。やむをえず車外に出るときは・・・云々。56分間の京阪電車を、私は立ったまま揺られる。基本的には音楽を聴いていて、近頃の私はクラッシックなんかを嗜んじゃっている。G線上のアリアをBGMに窓の外を見ると、素晴らしい朝が来たような気分にさせてくれる。太陽の光に反射する川の水面とか、逆光でシルエットしかわからないビルとか、なんてことない景色がなんかトキメク。
不意に窓枠の注意書きに目がとまる。やむをえず車外へ出る場合ってどんな場合だろうか。もし、今この目の前でヨダレを垂らして寝ている受付嬢風のお姉さん(推定32歳)が実はテロリストだったとして、その安物の鞄の中身が時限爆弾だったとして、私はアクション映画鑑賞で培った感の鋭さを活かして犯行に気づいたとして、そしたら咄嗟に非常用ドアコックのハンドルを思いっきり引いてドアを開けるだろうか。皆さん、ここは危険ですから順番に逃げてください!はっと気づいてからそう叫ぶまで僅か5.36秒間。ヒステリックな感じじゃなくて、少し低めの落ち着いた声で叫ぼう。説得力がある方が良い。
そういえば私は昨日、上司を説得しきれず嫌いな仕事から逃れきれなかった。私の言い分としては、絶対に私には関係ない仕事なのに成り行きで担当してしまっている、そんなことのために私は周りから指図され罵られボロ雑巾のような扱いを受け、気分が悪いから正式な担当者へ引き継いで頂きたいはやくこの仕事から逃れたい。と、勢いよく正論をぶちまけたのにどうやら心に響いてもらえず、「んー。」と曖昧な唸り声がその濃い髭の奥から漏れて、間もなくして席を立たれてしまった。と、いうわけで私は今日も出勤するとまずその仕事に手をつけなければならない。はあ、とため息が漏れたのとほぼ同時にガコンと音を鳴らして車両が停まった。その瞬間に進行方向へ体が揺られる。私はこのタイミングで毎回、「あ、慣性の法則」と思う。小学生の頃に習ったやつだ。ちなみに「てんびんとてこ」は「テンビントテコ」というひとつの単語だと思っていて、「てんびん&てこ」だということには最近ふと何かのタイミングで気づいた。
京阪電車を下車し、いつもの姿を探す。最近、同じ車両に近年稀に見るドストライクのお兄さんが乗っていることに気づいた。切れ長の奥二重と、主張しすぎないが形の良い鼻は繊細なのに確固たる何かを持っていて、もう本当に素晴らしい。4番出口から出て行くその輝かしい後ろ姿を見送ったあと、私は地下鉄御堂筋線へ乗り換える。ここからさらに15分。私は毎日ちょっとした旅行に行くような距離を経てお勤めへ出る。先日何気なく計算すると、1年のうち1ヶ月間分の時間を通勤に費やしていることに気づいてからはもう無差別に何もやる気が出ない。何故だろう。私はそもそも何故働くのだろう。眠いときは寝たいし、お腹が空いたら食べたいし、溺れたいときには呑んだくれたい。今日は昨晩の酒で胃が荒れて体がだるい。帰って羽毛布団にくるまって眠らなければならない状況にある。
それでも小心者の私はやっぱりタイムカードを切ってオハヨウゴザイマスという機械の声に軽くお辞儀をし、デスクについてパソコンを立ち上げる。数えきれない程のくだらないメールを流し読みした後、隣に座る上司の横顔を盗み見る。言っておくが、私の上司は男前だ。なんだこの整った顔は!と、出会った当初は恐れおののいた。同じ車両のお兄さんとはまた違う、目元も鼻筋も主張しまくりでハンサムという単語がよく似合う。ああ、今日はいつもの黒縁眼鏡を外していて眩しい。ああ、くらくらする・・・と、ぼやっと考えているうちに私の思考はどんどん遠のいて、「大丈夫ですかー?」という後輩の女の子の間延びした声がノイズして聞こえたような気がした。