【第25閑】 「剣で岩をバターのように切る」を斬る! 前編
さていきなりだが、以前【第14閑】でエリザベス1世とメアリー1世という異母姉妹の女王の話に触れたことがありましたけども……彼女たちが生きた時代の前後、英国王室とその周辺にはエリザベス1世以外にも、エリザベスという名の女性が大勢いたことをご存知だろうか?
例えばエリザベス1世の母親――アン・ブーリンの母親もエリザベス、さらにその母親もエリザベス、さらにさらにエリザベス1世の父親ヘンリー8世の母親もエリザベス、その母親もエリザベス……斯様な具合に血縁だけでもエリザベスばっかりで、非常にややこしい訳である。
だがメアリーの方も負けていない。
ヘンリー8世の妹でフランス王妃になったのはメアリー、ヘンリー8世の甥であるスコットランド国王ジェームズ5世の妃の名はメアリーで――そしてその娘であり、エリザベス1世のライバルと言われたスコットランド女王メアリー・ステュアート……因みに彼女は血縁上、エリザベス1世と伯従母と従姪の関係である。
さてこのメアリー・ステュアート、日本でも知っている人が多い有名な人物であると思われる。
その原因は彼女を悲劇の女王として語った、「ジョジョの奇妙な冒険 第1部ファントムブラッド」にあるに違いない。
でその作中では、メアリー・ステュアートに仕えていたという設定で、二人の騎士が登場する。
二人は忠義を全うして殉死してより、数百年後……主人公のジョジョことジョナサンの宿敵たる吸血鬼のディオに屍生人として蘇らされ、ディオの僕として主人公たちと戦う……という敵役だった。
『タルカスはその剣で岩をバターのように切ることのできる勇者だった』
これは作中において語られた解説文である。
刺客の騎士の一人、巨漢の騎士タルカスというキャラが怪力によって大剣を振るった際、その威力に対して評した言葉が先に挙げた解説文だった訳だ。
……ってことで、懲りずにまたジョジョネタを繰り出してしまいましたが、実はこれいつもの前振りではありません。タイトルにもあるとおり、今回のテーマがまさにこれなのである。
『バターのように切る』――これは一見、何の変哲もない在り来たりな語句のように見えるし、創作の界隈では誰もが一度は見た覚えがあることと思う。これは実際、筆者も当サイト「小説家になろう」において何度か見掛けた覚えがある、よくある表現である。だが……そもそもこの『バターのように切る』という語句、よくよく考えてみればおかしいのだ。
冷蔵庫で保管されているバターを見て貰いたい。低温下に置かれたバターは固いのである。
冷蔵庫から出したばかりのバターを、まな板の上に置いて包丁で切るなら簡単に綺麗に切れることだろう。だが普通はバターを切るのは包丁ではなく、刃の付いていないバターナイフで切るものなのである。
そうつまり、刃の付いていないバターナイフ程度ではバターは硬過ぎて、それこそタルカスがやった『剣で岩をバターのように切る』みたいな感じに、『滑らかに』は切れないハズである。
このバターの塊をバターナイフで『滑らかに』切るとすれば、バターを常温で三〇分くらい晒して柔らかくするしかない。でもこれで『剣で岩をバターのように切る』の答えになるのかと言えば、残念ながらそれは否なのである。
漫画などのバトルモノでは珍しくない、近年見掛けるこの『剣で岩をバターのように切る』に類似する語句自体は、ジョジョに影響された結果ではないかと筆者は考えているが……とは言えそれが果たして本当にそうなのかは自信ないけど、そもそもこの言い回し自体もジョジョのオリジナルではない。
実はこれ、英語圏で存在する有名な慣用句らしい……で、それがこちらである――
"like a hot knife through butter"――これを意訳すると「暖めたバターナイフで、バターを切るように」とでもなろうか。
お分かりになられたでしょうか? これが先程「バターを常温で柔らかくして切る」とすることを否定した、その答えなのです。
これは要するにだ、古くからバター食のある西洋において、冷えて固まった状態のバターを『火で炙って熱くしたバターナイフで切る』のが当たり前だった訳である。
実際その証左として、"hot"を省いた"like a knife through butter"でも、その意味は通じるくらいであるのだから。
とは言えこの "like a hot knife through butter"という慣用句がいつ頃生まれたのか、その起源は定かではない。筆者が軽く英語のページをググってみても分からなかった。だがそこまで古い慣用句ではないだろう。何故ならば、バターはチーズと違って長期保存に向かない、という事情があるからだ。
冷えて固まって保存出来る状態のモノが一般的になったのは、氷を入れて冷やす「冷凍箱」が発明された19世紀初頭以降だと思われること……故に例の切り方や慣用句が生まれたのも、おそらく近年に入ってからだと考えられる。
余談だがバターと言えば、その主な用途は食パンに塗って食べる、というものであろう。で食パンに塗る物にはバター以外にも、ジャムやマーマレードやピーナッツバターなど色々ある。
これらを総称して英語では"Spread"(スプレッド)というが、不思議なことに日本語では"Spread"の和訳や独自名称が無く、今では「スプレッド」とそのままで呼ぶか、或いは単に「塗りもの」と呼ばれることが一般的なようだ。
日本では19世紀に様々な英単語を日本語に翻訳したが、"Spread"が和訳で置換されなかったのは、食パンを食べる文化が日本に広く根付いたのが、戦後になってからだった為なのかも知れない。
因みに中国語では"Spread"を、「傳播(伝播)」と訳しているらしい……。
話を戻そう――発祥の時期の方は兎も角、"like a hot knife through butter"という本来の慣用句を鑑みれば、『その剣で岩をバターのように切る』は正しくは、『その剣を、熱くしたバターナイフを振るうが如く、岩をバターのように切る』みたいな感じになる訳である。
とは言え、この言い回しでは、あまりにも回りくどいのも確か。だが何度も言うが西洋の文化圏では『火で炙って熱くしたバターナイフで、バターを切る』のが常識だ。
その前提条件があったればこそ初めて、『剣で岩をバターのように切る』という省略された語句であっても、その意味するところを西洋人であれば、誰もが正しく理解出来ているという訳である。
これは日本で例えれば――『豆腐の角に頭をぶつけて死ね』という言い回しは、日本人であれば誰でもそれが不条理な語句であることを理解出来るが、豆腐そのものをまったく知らない外国人であったら、正しく理解出来ない……みたいな感じなのかも知れない。
【後編に続く】
※注意
西洋では現在、バターナイフは乾電池が内蔵された電熱式が主流みたいなので、今となっては火に炙って……という方法は古いかも知れない、ということをお断りしておきます。
後編は2018/11/07 08時に更新されます。




