【第10閑】 ライオン東方渡来伝~獅子流転綺譚~ 其の肆
さてこのシリーズもいよいよクライマックスとなりました――狛犬の話の続きです。
狛犬のルーツがライオン→石獅子にあり、大陸経由で日本に渡って来て狛犬に変化した……ってところまでは確実だと考えられます。
そもそも一方で獅子が存在しているのだから、「コマ“シシ”」になるのが自然なハズ。
なのに何故「コマ“イヌ”」なのか?……についても前回も説明した通り、「当時の日本人が勘違いしてしまったらしい」と言うように解釈出来る訳ですけども、では何故「“ズイ”イヌ」でも「“カラ”イヌ」でもなく、「“コマ”イヌ」と言う名前なのか?
これに関しては幾つか説があるようですが、もっとも有力なのは三国朝鮮の高句麗から「モデルとなるモノ」が渡って来たから、そこから名を取られて「狛犬」とした、と言う説です。
中国版獅子が唐の国から渡って来て唐獅子になったように、狛犬もまた高句麗から渡って来て、日本でアレンジされたモノが狛犬と命名された……と言うのは、なるほどこれは納得出来る自然な結論です。
また日本の地名として今に残る「狛」「巨麻」などの古代地名からも、古くから高句麗或いは古代朝鮮と文化的な交流が深かかったらしいことが窺えます。
これはつまり、狛犬と唐獅子は別の時期、別のルートを辿って両者が別物として日本に渡って来た……と言うように考えるしか無い訳ですね。
より詳しく述べると狛犬は、唐代に入ってきた唐獅子よりも前の時代、そのさらに隋代よりも前の……より古い時代――飛鳥時代に「狛犬のルーツとなるもの」が高句麗を経由して日本へと伝わった、と考えるのが自然な結論になるのです。
しかも、そもそもその頃は「獅子」と言う名前すら、まだ日本には伝わる前だった訳ですから、獅子と名付けられるハズも無かったと言うことになりまして……
なお狛犬の場合、時期を絞れる唐獅子と違ってそのモデルが日本に入り、日本に根付いた時期は飛鳥時代の頃だったらしい、と一般的には言われているようですが、筆者は具体的には六世紀の後半だったのではないかと考えています(理由は後述)。
ところで本稿の第二回目で、石獅子は唐代に栄えたみたいなことを書きましたが、誤解を与えるような紛らわしい書き方だったのでちょっと訂正しておきますと……石獅子が中国経由で高句麗に入った時期は、隋代より前だと考えられるので、石獅子は隋代より前から既に存在していたと見て良いでしょう。
また大和王権が正式に中国に使者を派遣したのは遣隋使からです。隋の前の中国と言えば南北朝時代であり、数多の国が興亡していた時期ですので、日本側からすると使者を送れるような状況では無かったハズですから、海外との交易は朝鮮三国を中心とならざるをえなかったのでしょうね。
さらに仏教公伝は六世紀半ば頃であり、朝鮮の百済を経由して日本に伝えられたと言うのが定説ですが……同じく仏教絡みの産物である「狛犬のルーツ」の方に関しては――石獅子自体が元々仏門の守護獣として中国に入ってきた訳ですから、日本と高句麗の関係が安定していた時期……仏教公伝以降の六世紀後半に遅れて入ってきたのではないかと考えられます。
で半世紀ほど過ぎた後――唐代になってから、狛犬とは別物と言う扱いで中国版獅子が日本に入り、唐獅子が誕生した、と言う顛末になったのかと推察されます。
何度も言うように狛犬のルーツは仏門の守護獣だったのですが、実際に狛犬が主に鎮座・守護しているのは、仏門の方ではなく神門の方でして……これはおそらく霊験あらたかな仏法の力を借りて、古来よりの国防の要たる神門の守護を強化しよう、と言う考えが働いた結果なのかと思われますが、何故か仏門では狛犬がいることの方が稀になっている気がします。
さてここまでの流れは理解して頂けたと思いますが、この神社の守護獣の実態と言うのはさらにややこしいものだったりしまして……伝統的正式な配置は以下の通りになっているのです。
神社の正面から見た左側――角を生やし、口を閉ざした「吽像」の「狛犬」
神社の正面から見た右側――角無しで、口を開いた「阿像」の「(唐)獅子」
そう神社の守護獣として、かつては「獅子」が狛犬の対とされていたのである。
今でこそ神社の守護獣と言えば、姿形が同じ一対の狛犬……みたいなイメージが強く、実際にそう思い込まれている人も多いでしょうけど、昔は「獅子」が狛犬の相棒として扱われていたのです。
えーと、これはつまり七世紀半ば頃に、獅子が日本に入って来て唐獅子が誕生した後、後年になってから唐獅子は、狛犬の相方にされて神門の守護獣になった、と言う訳なのです。
しかも獅子の場合、中には「牡丹」の意匠まで添えられたものもあったりしたようで、完全に「唐獅子牡丹」となっていたりする有様。
なお唐獅子が現れる前の時代、日本で誕生した狛犬は今のように寺社仏閣の門番をしていた訳ではなく、当初は宮中の清涼殿に魔除けとして安置されていたのだそうですが、これが平安時代以降になると神社の社殿の内陣に安置されるようになったとのこと。
今のように参道の表に対で置かれるようになったのは、江戸時代に入ってからの事らしいです。
ルーツは同じライオン=石獅子と言う仏門の守護獣ながら、時期をずらして別物として日本に渡来した獅子と狛犬ですが――牛頭馬頭のような見方でもされたのか、合流を果たして対の守護獣として扱われるようになったのは必然だったのか、或いは奇縁と言うべきことなのか……
因みに実は今でも神社では、この獅子・狛犬と言う伝統的な形式を守っているようでして、現在では名前こそどちらも狛犬とされてしまっていますが、阿像の方は今でもデザインに獅子の名残りがあり、実際には吽像の狛犬と姿がまったく同じと言う訳では無い、らしいのです。なお獅子と言う名が廃れてしまった理由は分りません……
余談ですが、ハングルでは獅子も狛犬も、どちらも사자と言うらしいです。
なんかいい加減と言うか、真実を突いていると言うか……それとも只単に「コマ」と言う名称を認めたく無いだけとか……?
ところで先ほど記述した際お気づきになられた人もいるでしょうけど、獅子と狛犬の正式なスタイルは「阿像」と「吽像」――つまり「阿吽」である。
阿吽と言えば東大寺の国宝・金剛力士像でも知られている通り、「阿吽」とは仏教伝来の概念です。
なお余談ですが、第二回で触れた狩野永徳の唐獅子図屏風は国宝ではありません。皇室の私財であり、宮内庁が所管する文化財と言う扱いとなっています。
同じく皇居にある(と言われている)三種の神器なんかも文化財扱いのようです(そもそも実在しているのかも定かではないのですが)。
話を戻しますと――狛犬は神社の守護獣の座に納まった今でも、仏教由来の名残りを未だに残していると言う訳でして……しかもそれは獅子の名がなくなった現在も、一対の狛犬は阿吽の形式を守っています。
因みに(唐)獅子と狛犬の直接の先祖である中国の石獅子の場合、一対の獅子はそれぞれオス&陽とメス&陰を象っており、要するに番い(ツガイ)となっているのだそうです。陽と陰――つまり中国では、道教の陰陽五行を石獅子に盛り込んだと言う訳です。
それが日本に渡来して、本来の仏教由来のスタイルに先祖返りしてしまったのですから、これはなんとも面白いと言うかなかなか興味深い事実ですね。
以上を持ちまして、狛犬についての話は一通り終えた訳ですけど……実は国内には唐獅子以外にも、狛犬の兄弟とでも言うべき存在がまだありまして……察しのいい方は既にお気付きになられたかも知れませんが、狛犬の兄弟と言うのは沖縄にいるアレのことです……ってことで、これについてはまた次回の講釈にて――
【其の伍(終)につづく】
えーと…とゆーコトで次に続きます。次回で本当に最終回です。
とは言え…続けて書くかはまだ未定ですが、番外編を二回予定してたりして…




