76 未知の勇者様?!
*本話は【75 未知への途】とほぼ同じ時間軸での展開となっております。
《 とある旅客者の私 》
「キャ――ッ!」
いま現在、私は非常に緊迫した状況下にある。
一縷の望みをかけて、力の限りに叫び声をあげ、それと共に眼をこれでもかと見開きながら辺り一帯を見渡すが、援けとなる者は現れない。
・
・
・
私は中規模な隊商に、なけなしのお金を払って同道させてもらっていたのだ。
乗車賃を払って同乗する者は他にもいたようで、荷馬車に乗りこみ揺られていく。
揺られ揺られての旅情。同乗する者達と物も幾度か入れ替わっていく。
そんな長閑な旅も、いつしか国境を越える。
見知らぬ光景と旅の厳しさに一喜一憂するのもまた旅情の偽らざる一面であり、醍醐味でもあるのだろう。そんな旅路も途中までは可もなく不可もない、まずまずの旅路といった風情ではあった。
だが、それが徐々におかしくなり始めていく。
つかず離れずでついてくる者がいるらしい。一見すると隊商に参加する財貨をケチって追走している旅人の寄生行為かと思われたが、あまりに長い時間に渡り尾行してくる。
どうやら『盗賊団に目を付けられたようだ』と、商隊主と護衛は苦々しくも判断したようであった。
やむを得ず行進速度を上げて様子を観れば、やはり同じく尾行してくる。
最早、疑義を挟む余地はない。
……それを見て、この隊商の緊張度は急速に上がり始めていく。
様子を観る段階は、いま終わりを迎えたのだ。
もはや、盗賊団からの襲撃が『いつ、どこで行われるのか』に移行していると言っても過言ではない状況なのだろう。
かと言って安易に迎え撃つという選択肢は採れない。
この商隊の運ぶ荷が何なのかは、私では判断のしようもない。だがその運ぶ荷が村などの存続に係わる場合もあるのだ。したがって尾行者を撒くか盗賊団を撒く方向で思考と判断が動いていく事になるのは当然だと思う。
商隊主の下した結論としては、別種の危険を招くかもしれないが森に立ち入って撒くことにしたようだ。あまりに深く森の深部へと踏み込めば危険の度合いは急上昇するので、浅いところを突き進んでいくことにしたようだ。
普通ならここで盗賊は諦めるだろう。何も危険を冒して深追いする謂れもない。平素なら商隊なぞ、いくらでもいるのだから。
だが、この盗賊団の下した判断は普通ではなかった。何と森の中にまで追走してきたのだ。今にして思えば、この盗賊も戦乱の余波が及んで盗賊稼業が厳しくなっていたとも思える。
切羽詰まった故の判断ではあるのだろうが、それは商隊にも盗賊にも好まざる結果を招くことになるのではないかと、一抹の不安が過る。
そして案の定というべきか、森の中で盗賊団の襲撃を受けてしまった。
それでも、この商隊の護衛は優秀だったようで、なんとか撃退はできた。
希望の光が燈り『このまま森を抜けられる!』と云う安堵感が商隊内に漂うが護衛の考えは違った様で、様子見の襲撃ではないかとのことだ。つまり今の襲撃でこちらの力量と構成が露見した事になる。森の中という状況を考慮して諦めてくれれば良いのだが……、相手にしても盗賊行為を働くくらいには覚悟が決まっている。無理かもしれない……。
不安に苛まれながら、漫然と次の襲撃を待つ訳にも行かないと商隊主は考えたようで、危険を承知で森に深く踏み入っていく事になった。
『道なき道を征く』のかと不安になったが、どうやら『旧街道』と云うものが有るらしい。疑問の表情を浮かべている私に商隊員が説明してくれた。
恐らくは善意からでは無く、己の不安を紛らわすために、そして己を納得させるために説明してくれているのが判る。そしてその件の『旧街道』とやらは、森の拡大に伴って森の中へと没してしまい、廃れた街道との事であった。言い換えれば、獣や魔獣の領域の中に在る事になる。
つまり、『旧街道』を行くと云う事は森に深く入る事であり、それだけで十二分に危険な賭けと云う事が判るのだ。そしていま現在も、森は静かに拡大しているのだと云う事も判ったのだった……。
いずれにせよ『真面【まとも】な盗賊?』であるならば『森の深部に立ち入る』と云う時点で諦めるはずだが、この盗賊団は粘着質なのか、それとももはや後がないのか、執拗に機会を伺っているようだった。
幾度かの襲撃に対して護衛の者達は勇猛に応戦していたのだが、このままでは状況が劣勢になると早々に判断したのか、強行離脱をその隊商を率いる者に進言したのだ。結果、その隊商は荷車を切り離して逃走を開始する。
高額で価値ある物資類は隊商の長が乗る馬車に積み込まれており、荷車の方は雑貨を始めとする荷が積まれていたのだ。
そしてその雑貨には、どうやら私達も含まれているようであった。
置き去りにする事は、道義的には非難される事かも知れないが、同乗する際には『危険である旨』と『万が一の場合は見捨てる』という事も、事前に告知されているので、法理上は問題ない。置き去りにされる方から言えば、当然ながら納得は出来ないが、『納得したいのならば、大金を払って大規模商隊に運んでもらうか、乗合馬車を乗り継いで行けばよい』と返されるだけだろう。しかもそれらとて安全が完全に保障されている訳ではない。その上、高額だし時間は掛かるしで痛し痒しでもあるのだ。
なんにせよ、私達は『置き去り』にされたという事実が重く圧し掛かる。
つまり私達は、野盗の前に差し出された『活きの良い生贄』とも云うべき状態なのだ。当然のことながら、野盗は商隊を追うのを止めて、『お楽しみ』の時間に耽溺することになるだろう。
くそ! 切羽詰まっている盗賊ならば盗賊らしく『財貨を積んでいる商隊の方を追えよ!』と喚きたくなる!
欲望に忠実なのは盗賊稼業では当然なのだろうが、もっと下半身の頭ではなく上半身の頭を使ってほしいと切に願いたい。
とにかく、いまこの状況は、私にとっては、何の『お楽しみ』でもない。
つまりは、今度は私が切羽詰まっているといって良い。
それも『非常にッ!』 だ。
因みに『私達』から『私』へと人称が変わっているのは、置き去りにされると判った瞬間に、同乗者達は早々に逃げ出したからだ。当然ながら私も逃げようとする。だが不慣れな不整地での逃避行で転んでしまい、足首を捻ってしまったのだ。それほどまでに動転していたとも言えるだろう。全く以って笑えない状況である……。
そんな笑えない状況を看過し許容し認容する訳にも行かず、手近にあった枯れ折れていた枝を杖代わりにして旧街道沿いを足を引き摺りながら遅々として進む。
聞きなれない森の音に怯え慄き、折々に触れては振り返りながら路を進んでいくが、幸運にも大過なくそれなりの距離を進んで行くことが出来た。
だが、その幸運も今をもって、遂に尽きたようだった。
舌なめずりしている盗賊どもと対面してしまったからだ。
森の影も深い場所、犯行現場としては、此れ以上ないほどに好適地だろう。
武器を持つどころか、寸鉄すら帯びていない此の身。まして武術など体得している訳でもない。女の身である事がこれ程までに、恨めしく思った事は無い。
現実のあまりの非情さに気力と体力が尽きて、へたり込んでしまう我が身。
こんなクズ共に、この身を弄【もてあそ】ばれ、嬲【なぶ】られ、舐【ねぶ】られ、穢【けが】され、辱【はずかし】められるのかと思うと、身の毛がよだつ。
刀剣の一振りでも持って、振り回す練習くらいはしておけばよかったと悔恨の一念が我が心中に満ちていく。最早、この身にできる事は数少ない。
このクズ共に『哀願して助命を乞う』などしたくもない。今際の際に立ったならば舌を噛んでの自裁も厭わず!
本当はしたくは無いけれど……。
だが、そのような最後の手段の前に『人事を尽くして天命を待ちたい!』のだ。
そこで、渾身の力を振り絞り切り裂くような甲高い声を上げていく!
誰に向けたのではないが、期待した誰かに届くように。
まさに『君に届け!』と願いを込めて、その甲高い声は轟いていく。
・
・
・
「キャ――ッ!」
こういう風に叫べば、流離【さすら】う放浪の勇者様が、喩え砂漠の真ん中であろうが海の中であろうが必ず助けに来てくれるらしい。愚かしいにもほどがあるとしか言いようがないが、いまは期待するしか選択肢が無い!
そんな淡い期待をしながら、一縷の望みをかけて、力の限りに叫び声をあげていく。
だがそんな悲鳴は、この襲撃者の被虐心を余計に煽ってしまったようだ。
「うへへへ! こりゃァ~~、たまんねェ~~ぜ!」
眼をこれでもかと見開きながら辺り一帯を見渡すが、当然ながら颯爽と勇者様は登場しない。それどころか盗賊の他には誰もいない。
やはり現実は非情である。判っていた事とはいえ、誰かが駆けつけてくれる事など無かった……。終わった、万策尽きた……。
こんな小娘一人を弄んだところで、腹の足しにもならないどころか、逆に腹が減るだろがいッ! 「商隊を追えよ、商隊を!」と内心で盛大に毒づく。
そんな襲撃者を睨みつけながらも、頽【くずお】れていた私だけは気が付いたのだ。私の魅力的な臀部を通じて微かに響いてくる振動が、徐々に大きくなってきていることに。
地を揺るがす振動が伝わってくるほどの白い巨大馬に騎乗して、乙女の窮地を救うべく駆けつけてくれたとでもいうの?
嘘……でしょ? そんな非現実的な物語のようなことが本当に起きるの?!
恐るべきは『ご都合主義に彩られた乙女の悲鳴!』の効果!
――やあやあ、 近くにあらば寄って刮目して見よ。
遠からん者は音にも聞け。此の場に居なき者は風の噂に耳を傾けよ。
これぞ霊験あらたかなる乙女の叫び声なるぞ!――
まさに『伝承』として、語り継がれるに相応しいと断言できる!
そして目前の襲撃者もようやく気が付いたのか、警戒の念も露わに周囲を見回し始めた。間を置かずに『バキバキッ!』と、樹々が圧し折れる音を靡かせて颯爽と現れる。
「来た! 私の勇者さ……ま?! って……、あれ?」
顕れたのは血まみれの大型魔獣。それもかなり息が上がり、焦燥感を纏っている。
いうなれば、追い立てられた手負いの獣……というか、深手を負った魔獣?
そんな魔獣を見て、私を見捨てて? 一目散に踵を返し逃げだしていく襲撃者たち。
一応は助かった? らしいが……、これはこれで我が身の危険を感じる。
大型魔獣をここまで追い詰めた原因があるはずだ。
喩えその原因が現れなくとも、おそらく……というか、ほぼ確実にこの手負いの魔獣は私を食べようとするだろう。
おそらくは、いえ……確実に……この『食べちゃいたい』という欲求は、最近流行りの薄い艶本での「わァ~、かわいい娘さん! うひひィ~、食べちゃいたい!」という意味ではなく、字義通りの栄養素として捕食したい! という意味だろう。
そして手負いであることが、より深刻な想像を掻き立てる。
つまりは『八つ当たり気味に、そして短絡的に一気に食べようとする』のではないか? いや、まァ……じっくり、たっぷり甚振りながら、ゆっくりと喰われるのも願い下げだが……。
しかしそんな悪夢は杞憂に帰した。
数瞬後に更なる絶望が森から飛び出してきたのだ。
その際に私を襲おうとした襲撃者たちは蹴り飛ばされて、肉片を四散させて飛び散っていく。
思わず「天誅ッ!」と叫びそうになりましたが、淑女にあるまじき醜態であると考え、心の中で歓声を挙げました。
結局は叫んでいるのと同義ではありますが、私とて感情を伴う淑女。
そこは『是非も無く、やむを得なく、致し方なし!』と言ったところでしょう。
大事な事なので三度、現状を許容し認容しました。
凄惨なまでに肉片を飛び散らかして、颯爽と現れた待望の私の勇者様は、手負いの大型魔獣に比肩どころか、さらに大きい巨躯の持ち主でした。
いえ、巨躯というか……甲冑を着込んだ巨人!
え~と……あの、この後の展開としては――『助けた私に一目惚れした勇者様は、紆余曲折、波乱万丈の果てに激しく燃え上がる愛情に身を焦がし、遂には私を妻として娶り、そして愛らしい子供達を授かり幸せな生涯を共に送り、添え遂げて万事めでたしめでたしの大円満な結末』――になるのは確定だと思うのです。
そうであるならば『看過できない問題』を認識せざるを得ません。
……それは、全体的に巨躯すぎるという問題です。
……いえ、『なに』がとは言いませんが、あの巨躯なのです。やはり……その分身もまた『大きい』と推定せざるを得ません。。
その……『営み』が出来るのかしら? と一抹の不安が過ります。
そんな益体も無い考えを巡らせていると「グオォォオオ――ン」や「ギャインギャイン……」と魔獣の絶叫とも断末魔の叫びともとれる声が響き、『メキメキッ』と異音に続いて『ズシィィ――~~ン』という音と振動が響き渡りました。
そして私の近くに倒れこんできた魔獣の傷口から血が押し出されて、私に『ベチャッ!』と飛び掛かってきたのです。
……いま傷口と便宜上申しましたが、正確には半身です。其れも口腔から体軸に添って引き裂かれた魔獣だったモノ……。 縊【くび】り殺す等という生温い方法ではなく、口腔に手を突っ込んで力任せに引き裂くというこれ以上ないであろう凄惨極まる惨状を呈しています。
な、なんという膂力なのでしょうか……。
全身に渡り上から下まで真っ赤になり、異様な惨状を見せつけられて、へたり込んだまま茫然として身動きできない私は、視線を動かすことすら出来ずに巨人を凝視し続けることになりました。
一方の巨人と言えば、返り血を浴びて全身が真紅に染まり、その手に持つ長大な剣を振りかざし討伐? 殺戮? した魔獣の上半分の首を刎ね飛ばしていました。
そんな巨人が私の方に、ゆっくりと近づいてきたのです。
真っ赤に染まった私と、真紅に彩られた巨人。
『まぁ。お揃いの色合いで、お似合いね。相性もよさそうで安心しましたわ』と暢気【のんき】には言い切れない状況である。
重々しい足音……というか実際、かなりの重量があるのでしょう。
その歩に合わせて微かな振動が伝わってくるが、私は微動だにせず唯々、固唾を飲んでその巨人を観察している。
周囲一帯には肉片と血臭が充満しており、おもわず嘔吐【えず】きそうになるが、ひたすら身動ぎもせずに耐える。
ここをうまく乗り切れば、この窮地を脱する事が出来るかもしれないのだ。
そう私は肉片。血塗れの一塊の肉片。
魔獣が捕食したであろう胃の内容物が撒き散らされ、辺り一面に饐【す】えた匂いが立ち込めているこの現状ならば、討伐された魔獣に『食べられていた肉片』に擬態できるはず。
そう私は、貴方が討伐した魔獣に捕食され、その胃に格納されていた『一塊の肉片』なのよ。
私などに構わず、森にお帰り。
ここは、貴方がいるべきところじゃないのよ?
さァ~、何も怖くない。森にお帰り……。
しかしそんな願いも虚しく、件の巨人は私をしげしげと眺めて観察し始めたようだ。
微動だにしてはいけない。こちらを観察しているのだから、視線の動きすら気取られる事も考えられるのだッ!
しかしながらそんな願いも虚しく、その巨人は同じく巨大な腕をこちらに伸ばしてきた!
ま、まずいッ!
私は脱兎のごとく駆けだし逃げようとするが、挫いた足では機敏に動くことも出来ず、更には足下の地は血で滑【ぬめ】っており、脚を取られて転倒してしまう。
まるで地虫のように藻掻く【もがく】そんな私を、差し向けられたその手で器用に捕まえ、己が前に運んでいく。
余りの恐ろしさに、もはや身動【みじろ】ぎすることさえ出来ず、為すがままされるがままである。
握り潰されるのではないかとの恐怖に震えていたが、今度は巨人の胸の辺りが大きく開いていく。
普通に考えて大きく開いていくのは、口である。
そして何故開くかと言えば、それは『喰う』ためッ!
文字通りの開口部に私を握る手が近づいて行く段になり、私は喰われるのだと悟り、己の意識を手放し、それと共に全身が弛緩したのだった。
・
・
・
「おい! 大丈夫です……か……? あれ、気絶……してる? ……なんで?」
機体の腕を胸元に持ってきて、胸部装甲兼搭乗口を開きながら、安否確認と意思疎通を図ろうとしたのだが、なぜか気絶されてしまった。
慌てて機体を操作し、細心の注意を図って要救護者を地面に横たえさせる。
そして困惑しながらも自ら地面に降りるべく、段差を創る様に器用に両の腕を操作していく。
腕を固定した後、その腕伝いに飛び下りて、要救護者の下に駆け寄っていき、真っ赤に染まった衣服の上から、急いで負傷の具合を確認していった。
血塗れではあったが、どうやら重大な外傷や内傷は一見では無いようである。
だが自分は衛生兵の訓練課程を修了してはいないので、どうしても一抹の不安は残ってしまう。
接触しなかったことにして、このまま立ち去ってしまおうかとも考えたが、肉片と血臭が充満しているこの現場では、要救護者をこのまま放置していけば、森の掃除屋たる獣などに喰われてしまう。
やはり保護するしかない無いだろうと考え直して、まずはこの場から離脱しようと機体に乗り込んだ際に通信機が鳴り響いた。
『三〇七応答せよ。こちら大隊本部、三〇七応答せよ』
『こちら三〇七、受信』
『三〇七、現況を報せ』
『三〇七、当該魔獣を討伐。その際に所属不明者と接触【アンノウン・コンタクト】。要救護者と認めこれを保護。現在、要救護者は意識不明なれど重大な負傷はないと思われる』
『はァ~? 森の中で要救護者? んん……了解した。回収機はいるか?』
『機体に損傷はない。此れより帰還する。オーヴァー』
通信を切って再び地面に降り立つ。そして横たわる者を抱え上げて、降ろした機体の両の掌に横たえていく。
そして自らは機体に駆け上がり操縦席につき、両の掌をお椀のように組んで慎重に機体を立ち上がらせていく。
その後、機体をゆっくりと動かして辺り一帯を見回していく。
他に要救護者がいない事を確認すると、再び森の中に分け入っていく。
追撃中に河の近傍を通り過ぎた事を思い出したのだ。
まずはそこまで行って、この要救護者を身綺麗にしないと。
血糊を全身に浴びたままでは、如何にも不衛生だろう。
それにその……下半身が濡れて……。
あ、いや、その……ほら、なんだ……え~、ああ……そう、あれだ!
恐らくは局所的に降雨があり、局部的に雨露に濡れてしまったのだ!
そうだ、そうに違いない!
なんにせよ、こう血塗れだと何かの病にかかってしまうかもしれない。
なにより、本人にとっても愉快な事ではないはずだ。
それに血塗れとはいえ、観た限りではそれなりに仕立てが良い服装のようだ。
良家のお嬢様なのだろうと当りを付ける。
そんなお嬢様が血塗れなうえに、異臭を放つ……、あ、いや、その、ほら、なんだ……、え~、あ~、そう、血臭! その血臭を纏ったまま軍営に連れていくのは、さすがにどうか? とも思うのだ。
同じ女人として、そんな醜態を衆人に晒されるのかと思うと、その身に抱く心情は理解できる。
恐らくは二日~三日は食事も満足に喉を通らない事だろう。
もっとも四日目あたりで空腹に耐えかねて食べざるを得なくなるだろうが、それでもしばらくは味はしないだろうと思う。たぶん……。
そんな事を考えながら河岸に着くと、躊躇なく機体を河の中へと進ませていく。
その際に両の掌を軽く合わせて球の形に組み替えていく。そして要救護者をその両の掌に軽く包み込んだまま、徐に川の水に『漬け』て、丸洗いすべくジャボジャボと揺り動かしていくのだった。
・
・
・
「がぼォ?! ゲがァ、ガハぁッ! や、やめ……ゴボゴボゴォ……!?」
水に浸かっているのだろうか?
突然、口中に水が押し寄せて喉奥にまで水が入って来る。
そのあまりに息苦しさに瞬時に意識が戻るが、そんな事はお構いなしに今度は世界が……廻っていく?!
「ゴボゴボゴォ……?! ブハッ、ごほゴホッ! やめゴボゴボ!?」
い、一体何が起こっているのか?!
とにかく現状を把握しようとするも、またもや水に浸かる。
『なぜ水なんぞが?』と考える暇も心の余裕もない。
視界が歪む。それどころか上下左右の区別なく目まぐるしく体が廻っている。
どこかに打ち付けられているのか、形容しがたい感覚も覚える。
痛みを防ごうと手足を伸ばすべきなのか縮みこむべきなのかすら判らない。
だがまるで丸く握られて捕らわれているかのように、此の場から脱することが出来ないのだけは、判った。
嵐を避ける小鹿のように、ただただ身を震わせ危難が去るのを待つ事しかできない。
そして、微かに視界に捉えた光景と云えば、僅かな光と血のように紅い水。
其れでも容赦なく揺り動かされ、口中のみならず鼻腔にも容赦なく水らしきものが入って来る。
ガ、ボゴボゴォ、ガハッ?!
もはや得体のしれない不快を通り越して、身の危険を切実に感じる事態と言えよう。なにせ呼吸する事すら難しいのだから。
……そんな無間の煉獄と言える責苦が、幾度となく繰り返されていく。
一瞬なのか、数瞬なのか、一日なのか、数日なのか……数年なのか……。
もう時間の感覚すらも無い。
色彩すら感じなくなっているのか、視界に映っていた紅い色も徐々に消えていく……。 そうか、私の命の灯火が、いま消えつつあるのか……。
もう、生きているのか、死んでいるのか……、それすら最早判然としない。
私の脳裏には『今どこにいて、そしてどんな状態なんだ?』という至極もっともな疑問だけが朧気ながらも浮かぶ。
そんな思考すら、この無間の煉獄の中で、やがては消えてゆくのだろうか。
だが未だ思考力は消えていないのもまた事実!
それ故に、この状況をなんとか理解し、あわよくば脱しようと私の脳裏には有りとあらゆる可能性が走馬灯のように駆け巡っていく。
走馬灯……、それは生命の危機的状態下において、窮地を脱する術を頭が探し回っている状態であり、その際に陽炎のように見える記憶であると聞き及んだことがある。
だが、一向に現況に対応する策が思いつかない。
焦りが焦りを呼び込んでいく……。
溺れる経験など、母の胎内でしか経験が……、あッ?!
ま、まさか……、出産の過程なのか?!
水……いやこの場合は羊水か? そして球体の中にいるような感覚、絶え間ない揺動、微かな垣間見える光、薄く紅い色合い。
全てにおいて、辻褄が合致するッ!
す、すると……今この瞬間の思考でさえ、そして走馬灯のように消えては現れるこの考えすら記憶の一部ということなのか?!
ならば、今まで生きて来た時間と記憶は『前世の記憶』とでもいうのか?!
じょ、冗談でしょう?! あ、ありえない!
そんなバカげたお伽話なんて聞いたことが無い!
「ゲがァ、ガハぁッ! ゴボゴボゴォ……」
だ、だめだ! 意識が遠のいてしまう。
この責苦から逃れたい……。もう、考える事を止めたい!
いまボンヤリと思い浮かんでいる事は、唯一つの事だけだった。
「くッ……、殺せ」
このときほど『終わり』を迎える事だけを切に望んだ事は無いかも知れない。
そして願いが通じたのか……、此の永劫に続くと思われた責苦は突如にして終わりを迎えた。
今迄の天地が目まぐるしく廻る動きから一転したのだ。
移動しているのか?
全身に軽い振動を感じる。だが果実を圧搾するかのような感じではない。
圧し潰すという感じではなく、生まれたての赤子を大事に運んでいる感じとでも言おうか……。
そしてまるで卵を掴んで床に置くように繊細に地にうつ伏せ気味に降ろされ横たえられる。
横たえられた際の安堵。其れと共に全身をあちこち打ったのか、痛みで意識も徐々に覚醒していく。
次いで様々な感覚も戻ってきた。
苦しみから逃れようと藻掻き足掻き、遂に辿り着いた先で感じたのは全身が外気に晒されている事。
もしや、私は――『生まれた』――のか?
『初めまして、新世界。こんにちは、新たなる我が人生』
ようやくのことで息がつける。そんな何気ない普通の事に、感謝する。
そして朧気だった視界が晴れてくる。
其れと共に私の目に入ってきたのは、私の見慣れた手である。
……苦楽を共にした『成長した私の手』が見える?
そして無意識に喘ぐ様に、そして貪り尽くすが如く空気を求めて口を大きく開き息をするが、それと同時に無意識に咳き込み始めた。
「ガハッ! ゴハゴホ! ウェッ!」
急激に意識が明瞭になり始め、感覚も戻り始めた。
暖かい陽光の抱擁、慈しみの微風、確かな存在の大地の感触。
体内に無理やり入ってきて、未だ残る水。
吐瀉物に塗れ、饐えた匂いを放つ土塊。
無理に呼吸した際に呑み込んだ虫の苦み。
咽て咳き込み、体中に響く痛み。
その全てが、『私』が生きている事を教えてくれる。
生まれ変わったのではない。
あの憎み、そして愛したあの見知った『この世』に戻ってきたのだ。
そう……、私は生きて還って来たのだ!
「ガハッ、グへ……、ぜェゼぇ……。か……神々よ、感謝致します。必ずや御前に贄を、ハァはぁ……お供え致します。必ずや……ゼぇぜェ…… 」
うつ伏せからヨロヨロと弱弱しくも身を起こし、両手と両膝をついて愛しい大地の感覚を我が身に馴染ませる。
「あ!? 気が付かれま「てッ」したか?! よかった! ……て?」
ぜェゼぇ……。
肩で息をしながら、この馬鹿げた気遣いの言葉を投げつけてくる小娘を『キッ!』と鋭く睨みつける。
「て、てめぇェ――~~かぁァアアッ!」
殺意を込めた絶叫と共に掴みかかるが、体力を消耗して身体が上手く動かない。
その上にこの小娘、その身を軽やかに動かして躱しやがった!
ドシャッ! と痛ましい音を立てて倒れ込み、今度は吐瀉物と泥塗れになってしまう。それと共に足首から言葉にならない激痛が走った。
「にぎゃァァアア――?! 痛ぁァアア!?」
余りの激痛に叫び声をあげながら、脚を押さえて虫の様にのた打ち回ってしまう。
そんな光景を観ながら『まぁ、これだけ動けるならば大事は無いな』とでも判断したのか、安堵の表情を浮かべていた小娘。
恐らくは性根は良い奴なのだろう……、たぶん。
そんな感慨とは別に、泥と吐瀉物に塗れて、またもや汚れていく光景を額に手をやりながら見遣り「あ~あ、また汚れちゃったな……」とでも言いたげに愁嘆している小娘が、私を憐憫ぎみに眺めているのが見て取れた。
『問題は、其処じゃないやろがいッ!』と声を大にして言いたいッ!
・
・
・
苦々しいが、こう饐えた薫りと泥塗れでは不快極まりない。またもや河に杖を突きながら浸かり泥汚れを落とそうとするが、河の中に生身で入っていくのは危険とのことで巨人が岸辺に穴を掘って水を満たしてくれた。私がその水で身を清めている間に、離れた場所に火を起こしてくれたようだが、やたらと手際が良い事に内心では感心しきりであった。
マントと大盤の布を借り受けて、脱いだ衣服を絞って水気を切る。そして焚火に晒して乾かしていった。煙があまり出ていない割に、火勢が強い。これなら短時間で渇く事だろう。この時間を用いてこの小娘を『詰問』していく事にした。
「でも、ここは河岸だし……」
何故、河水に漬けたのかと問い質したが、この娘は伏し目がちに困惑しながら応える。
「河岸なら猶の事、清めるならば服を脱がせるとか、水を汲むとか他に方法があるだろが!?」
「そんなこと言っても、河岸は危険地帯だし……、悠長に時間を掛ける訳には……、それに……」
またもや伏し目がちに何故か私の下半身を観ながら応えていく小娘。
「なんで河岸が危険なのよ! 認識がオカシイと思わないの!?」
私の知る都に流れる河に危険などは無い。なぜに河岸が危険などという認識になるのか、理解できない。
「そんなことないよ? 森の中の河岸なんだから、水の中にもいろんな生き物がいる。それに獣やら魔獣やらも水場として用いるし、それを狙って……ん?」
「な、なるほど……、そう言われれば確かに危険な――「静かに!」――な、なによ?! そんなに怒ることはな――「黙れと言っている!」……」
突然態度と雰囲気が豹変した小娘……、失礼、女戦士殿が鋭い声調と裂帛の気迫で私の声を押し留めた。
バサバサバサッ!
突然、遠くで多くの鳥が羽搏【はばた】いたのが判る。
空の色が変わるほどに、羽のあるもの達が舞い上がったのだ。
つまり……あの下か、その周辺に『何かがいる』もしくは『何か変事があった』という事だ。
それを此の女戦士殿は掴んだというのか?!
この小娘……、いえ、女戦士殿は強いッ!
・
・
・
《 名も無き商会主 》
ガラガラガラ!
馬車の車輪が破損するのではないかと思うほどに、全速でひた走る。
そんな騒音に比して、皆が皆、一様に押し黙っている。
殊にこの馬車列の主たる商会主の表情たるや、忸怩の念を通り越して苦汁を煮詰めた種を噛み砕いたかのような表情を浮かべていた。
その心中に宿る思いたるや、置き去りにしてしまったことに良心の呵責を覚えているとも、廃棄せざるを得なかった荷車と積荷の事を惜しんでいるとも、森の深みに立ち入り旧街道を行くとした己の一連の決断を悔いているようにも見える。
だが、どれなのかはいまいち判然としない。
だが、商いの基【もと】とも鼎【かなえ】ともなる『信用と信頼』に大きな傷がついたと考えている事は確かであったが、その考えの軸となっているのは『己への信用と信頼』であって、置き去りにされた者や納品する品物を喪った事で難儀する納入先の事でないのが、透けて観えていた。
どうやら『局所的な損を甘んじて受け入れてでも、大局的な利得を得る』とか『たとえ回り道してでも、信義を顕てる』といった考えには至っていないようで、他者が抱くであろう『心の機微』には未だ疎いようである。
中規模の商会にまで成っているのだから、そこそこに財務上の余裕はあるはずであり――『心無くば信を得ず、信無くば義は立たず、義無くば事も成らず』――くらいの事を眉一つも動かさずに嘯【うそぶ】いて行いを為せば、一気に大成し大店【おおだな】へと躍進する端緒になりそうなものの、この辺の匙加減が拙い事が未だ中規模商人に留まる由縁なのかもしれなかった。
いずれにせよ、まずはこの場から逃げる事こそが肝要と、この商会主は考えているのは明白であり、付き従う者達もまた同じ考えに踏み留まる者達であった。
その様な『まずは己等だけが逃げる』という崇高な信念の下で、逃走を図っている此の者達がやがて出くわしたのは、激闘と言っても過言ではない魔物同士が入り乱れて争う場であった。
其れも単独の争いではなく、群同士の戦いの場である。
遠目に、一つの群を率いる頭目に相応しい大きさの骸が一体、首を喪って横たわっている。だが、その骸を仕留めたであろう相手の個体が見えなかった。
あの大きさの頭目と思しき個体を仕留めたのだから、同じくらいには大きいかそれ以上の個体がいるはずなのだが、そのような個体は見当たらない。
狙った獲物を追っていったのか、どこかに潜んでいるのかまでは定かではないが、此の場を迅速に離れた方が良い事は、確実に判るのだった。
慎重かつ大胆に森の外に向かう進路を取りながら、商人の馬車と商隊は駆けていく。
だが、あの強大な魔獣の群同士の争乱から逃れようと、雑多な魔獣やら獣やらも一旦森の外に逃れようとしているようであった。
偶然にも、そんな逃避行の潮流に商人の馬車と商隊も乗ってしまい、押し流されるように森の外にまで至ってしまう。
一難去ってまた一難……。問題はここからだ!
ここまでは、その心を軌を一にして供に難を逃れた同志【商隊と獣と魔獣】ではあったが、危難を脱しれば生来の本能が目を醒ます。
獣と魔獣にとって、その逃避行で消耗した体力と腹の空き具合によっては、逃避行の同志たる商隊が餌の第一候補となるだう。
街に居を構えて住む者達は、よく勘違いしてしまう事が多いのだが、人なぞ荒野や森に棲む強者たる獣や魔獣にとっては、単なる『ひ弱で無駄に肥えた至上の餌』とも云うべき存在なのである。殊に動く箱【馬車】に入っている獲物は、何故か『美味い』と学んでいる事すらある。
『さて、どうする?!』等と思索に耽る猶予はない。
そんな時に、森の際に屯【たむろ】する者達が眼端に映ったのだ。
どうやら彼奴らは、武装もしているらしいのが遠目にも判る。
ならば、思案するまでも無い……。
森の外に出た時に目端に捉えた屯する者達に、押し付ける!
あ、いや……、此方【こちら】が彼方【あちら】に一方的に協働を持ち掛け、彼方に労苦と危険を単独で背負ってもらうのだ!
専門用語で云うところの『緊急避難的処置』というやつだ!
そうであるべきだし、そうであるに違いないッ!
ならば、早急に協力を申し出なければならない!
「転進しろ! あいつ等の方向に寄せていけッ!」
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