64 閑話 教育期間
《ある見習侍女の独白》
いま私はラルキの王城にて、礼儀修養のために侍女見習いとして登城し務めている。
本来なら私の実家のような小貴族などは、家門の縁者を礼儀作法習得のための見習いとして、王城に出仕させる事など望めない。
よくて上位の寄り親である貴族家に出すことくらいだろう。
それも出来ずに自家の縁戚を頼って親戚筋に出仕させるか、父母が教えることも多いくらいなのだ。
また商家も貴族との取引や付き合いがある所は、やはり礼儀作法を身につけさせるべく見習いとして奉公させている。
そんな中でも、ラルキの王城は異例中の異例であるといえる。
数多くの見習いを貴族商家問わず受け入れているからだ。
過年の戦役と急激な勃興で人手が足らない。そのため各職の見習いを募集していたのだ。(因みに市中の商家等も、人手不足で常時求人している状況であった。)
当然ながら見習いのため、右も左もわからない素人同然の者が大多数。
そのため高官や陛下には、未だお仕えすることはない。
いまは遠目で先輩方の所作を観て学んだり、実地訓練がてら先輩の方々について、練習するのが精一杯であった。
先輩とはいえ同じ侍女なのだから気安いかと言えば、そうではない。
私より上位の家門からも王城に出仕しているため、気が抜けない。
何故、そのような事が判るかというと、私と同室の娘さんが伯爵家の令嬢だったからです。
あ、因みに私は田舎准男爵の娘です。
もっとも出仕して任用辞令交付の際に、出身階級や出自で威張るなと厳命されているので、公然と威張り散らす者がいないのが幸いですね。
更に私にとって幸運だったのは、同室となった当の伯爵家の御息女が非常に『さっぱりとした性格』だったことです。
当初は、上位家門たる伯爵家の御息女という事で、緊張しつつも丁寧かつ礼儀正しく接していたのです。
ですが、その当の御息女から同室な上に同輩たる者に、そのように顔色を窺われたり、恭しく接せられると、『遣り難【やりにくい】上に、息が詰まる』と苦言を呈せられてしまいました。
確かに言われてみれば、教育・訓練期間中は文字通りに、四六時中(一日中)顔を突き合わせていることになるので、堅苦しい礼儀作法で応対していたら双方が精神的に疲弊してしまうのは必定。
時・場所・状況をわきまえていれば、友達付き合いで何ら問題はないとの事でした。そのため、双方が合意の上で気安く接する事にしたのです。
附言しておきますが、私に拒否権はありません。
上位家門たる伯爵家の御息女から『友達付き合いで良い』との有難いお言葉であれば、そのお言葉に従うのが処世術というモノです。
格式・形式に拘泥するあまり、『そのような対応は出来かねます』と固辞し続ければ、余計に拗れてしまう。
如何に同室で同輩たる者とは言え、上位家門たる伯爵家の御息女と一介の田舎准男爵の娘とでは、やはり『格が違う』ものなのです。
その辺の『按排【あんばい】』と『さじ加減』は、もちろん心得ておりますとも。
そんなこんなで、人間関係で肩も凝らずに基礎的な礼儀作法と共に様々な教育課程を修練中なのだが、どうもこのラルキ王城で修養する事項というのは、一風変わっているようでした。
なぜ変わっているのが判るかというと、同期の見習いたちの姉たちや母たちが、かつて受けたベルザル大公家や各地の大諸侯家などでの修養項目とは違うようなのです。
このことはラルキ王家での見習い奉公に来る際に、各家で教えられた『大体こんな事をする』という事前情報と著しく乖離し異なることから判明した事でした。
正確には普通の修養項目たる礼儀作法などの他に、追加項目があるのです。
たとえば今やっている項目が、顕著でしょう。
「このように手指符丁信号【ハンドサイン】により、目標の識別や数、また行動様態の伝達が出来る。詳しい手指符丁信号【ハンドサイン】の一覧は別紙を配るので各自確実に覚えるように。では次に打音明滅信号【モールス信号】についてだが、これは様々に応用が――」
とかですが、控えめに評しても……困惑しきりです。
なぜに侍女が、手指符丁信号【ハンドサイン】や打音明滅信号【モールス信号】なるモノを習得する必要があるのでしょうか?
この一例でも困惑するのに、その他の修養項目もまた困惑するモノばかりなのです。
「よいか、この背嚢【はいのう/背負う方形状のカバン・バックパック】に入れる物資は小分けにし小袋に入れよ。この物資類は全員が指定された共通の位置に入れるように。これは緊急時において他の者の物資を使う際に、探さなくても良い様にするためである」
とか
「此れより七日間、野外生存訓練を行う。また食料については現地での調達のみとする。各自基本訓練を思い出し実践するように。危険な生物もいるので死亡する危険もある、気を抜くな。では散開」
とか
「此れより鉄扇を配る。この鉄扇は開いて用いれば簡易的な楯となり、閉じて振るえば打撃武器にもなる。また鉄扇には細身の棒手裏剣が組み込まれており、振れば遠心力で棒手裏剣が射出される。この射出の有無はこの突起部で操作できるので、教練場にて各自習熟するように。次に――」
とか
「室内戦闘は通常の野外戦闘とは、その趣が異なる。そのためこの藁人形を用いての護衛任務を想定した訓練を行う。また武器はこの鞘付の足巻き紐【レッグストラップ】や同じく鞘付腰ベルトに納め、教えたとおりに外部からは見えないようにしておくように。では次に――」
とか
「此れより城内での夜間戦闘訓練を始める。夜間戦闘では、暗がり故に間合いの見極めが難しくなり負傷の危険も増大する。また訓練中は発声を禁ずるので、各自従前の訓練内容を思い出し工夫して臨む様に。また――」
とか、
「このように財務諸表から、財政状態を判断すると共に会計監査を行うことが出来る。その為、複式簿記にて正確な記帳を行う事と大量の計算を迅速に行う事が肝要である。そのためこの算盤を用いて――」
だったりするのです。
他には、基礎体力増進はもとより、動物の解体、負傷時や毒物摂取時の応急処置だったり、はては着衣を着たままでの泳法訓練に、甲冑組討という格闘戦闘訓練、縄を使った捕縛と登攀・降下訓練があったりするのです。
そして普通の礼儀作法に加えて侍女としての姿勢矯正に美しい歩き方訓練、また広範な教養だったりするのです。
更には希望者には気配の消し方や無音殺傷術まで教えている。
ちなみに教官は『空挺降下訓練が出来ないので総合能力がやや見劣りするが、それは仕方あるまい。何処かでワイバーンなりを捕まえてくるか。(天狗の所在が分かれば簡単なものを……)』と愚痴っていたのを小耳にはさみ、私は狼狽し当惑しきりでした。
『くうていこうか訓練』とはなんでしょうか?
『ワイバーンなりを捕まえる』とはどういうことでしょうか?
なんというか……いやな予感しかしない……。
余りの過酷さに脱走したくなるが、脱走したら実家に連絡されて家名に傷がつき、後年になれば見習い候補から除外される恐れもある。
私自身は良いにしても、後に続くかも知れない家門の者達は難儀することになるだろう。
そのため脱走も出来ず、人目を忍んで涙する事もあった。
中には、先輩の侍女達に『なんでこんな訓練をするのですか?』と涙ながらに相談する者もいた。
そして、相談を受けた先輩の侍女の応えといえば――
『結構便利な物よ? 習っておいて損はないわね』
『最初はキツイけど、そのうち慣れるわ』
『あの鉄扇はとても良いものよ。非売品なのが惜しいくらい。母上や姉も欲しいと言っていたわ』
『あなた、教官は詩織様よ? 貴方、剣聖に教えてもらっているのよ? 普通、こんなことはないわよ?』
『そうそう、男の好みも変わるわね。なにあの軟弱な輩は? 戦闘の一つもできないで妻子を守れるの?』
『やはり詩織様の持つあの刀は良い輝きを放ってるわね。一振り欲しいけど、作れるものなのかしら』
『そんなことより、この剣を見てよ。昨日念入りに研いだのよ。はァ~、この輝き……、まるで血を吸いたいと言っているかのよう……』
『骨をへし折る際の手応えが病みつきになるのよ。やればわかるわ』
『そういえば、この前の間者は、なかなかに良い腕前だったわね(まぁ、私の方が技量と美貌は格上だったけど)』
『小腹が空いたわね。そうだ……狩りに行こう……。ふふ、滾【たぎ】るわ』
『観て、月光を浴びた今宵の我が愛槍が囁【ささや】いているわ。……強敵【友】がきたと。決戦の刻が満ちたと。死線の上に我が身を置くこの緊張感、堪らない。ふふ、楽しみね』
――であったと言う。
何かが確実に変容・変質しているのがわかる。
その応えからしてすでに侍女のそれではなく、戦いに赴く武人の如き趣がある事が窺い知れるのだ。
その事を伝え聞いた私も、それとなく先任の侍女に聞いたのだが……、
「あの……、侍女が……それほどの武術を習得するというのは……その……」
「ふふ、潜入してきた間者や暗殺者が、たかが侍女如きに完膚なきまで翻弄され、場合によっては屠【ほふ】られる。潜入しようとするくらいなのですから、己の腕には自信があるとみるべきでしょう。そんな者達が斃されるのです。此れ以上の屈辱はないでしょう。考えただけでも興奮しますね。はぁ~……」
いやに艶めかしく吐息をつきながら陶然としており、やたらと実感を伴うその姿に既に幾度も殺っているのではないかと慄いてしまう。
わ、私もこうなるのだろうか……。
あれ? ……侍女見習いとして礼儀作法を学びに来たはず……よね、確か?
そのため侍女見習いから逸脱しているのではないかと、意を決して教官である天音詩織様に質問したのだ。
自分の勇気を褒めても良いくらいだろう。
「うむ? お主等、ラルキ王都が戦火に包まれ再起を期すために落ち延びる際に、自らの身を護る気はないのか? 戦火に包まれている以上、物資に余裕がないのは必定。再起を期すにも飢えていては、それも望めまい。それに民草を護れる戦士は必要であり、その戦士たちが斃れれば、何の訓練も受けていないお主達も戦列に立つことになろう。抗する術もなく斃れるのか? 倒れるならまだしも凌辱の限りを被るぞ?」
「そ、そんなことはあり得ないはず……」
「数年前まで、誰がベルザル大公国が滅亡するなどと予想していたのであろうな?」
「そ、それでも……侍女見習い如きが国の一助になることなど……」
「当たり前だ、ただ一人で国を救う事など出来ぬ。
なんでも己一人でできるなどと考えるは、ただの傲慢よ」
「……傲慢……」
「そうよな……、ここに――「天下に信数三有り。一に曰く、智も立つる能【あた】わざる所有り。二に曰く、力も挙くる能わざる所有り。三に曰く、彊【きょう】も勝つ能わざる所有り。《韓非子「観行」編》」――なる言葉がある。
意味としては、
【この世には信じるべき確かな事が三つある。一つは、知恵ある智者と言えど成果・功績を挙げられるとは限らないという事。二つに、如何に力があっても持ち上げられない、成し得ないものがあるという事。三つに、勇ましく強き者が必ず勝つとは限らない、如何ともし難い存在や法則があるという事】となる。
そして、その意の表すところは、『いかに有能といえど、己一人ができることなど僅か故に、他者の協力が必要である』という事よ」
「……」
「大業を期するなら、単独ではおのずと限界が来る。周囲の力と衆知を縒り集め皆で結集できれば、出来ることが遥かに増えることになるのだ。
だが、そうして集う者達も傷つき斃れることもある。
故に『傷つき斃れし者には敬意を払い、なおも立ち上がり立ち向かう者に感謝と敬愛を抱く』のだ。
『一人は皆のために立ち上がり、皆は一人のために立ち向かう』ことこそ肝要よ。
だからこそ一人でやれることを増やすのだ。なにも達人になれとまではいわぬが、そこそこできれば国としても優位であるし、個人としても有為であろう。それから、ついでに初等数学も修得してもらう」
「……あの一応ではありますが、算術は一通り修得しました。いえ、たしかに億までの暗算はまだ覚束ないのは確かですが……」
「おお、それは重畳【ちょうじょう/大変喜ばしい】よな。四則計算が滞りなく出来るのならば、算数の時間は終わりとなろう。早速に初等数学の履修も始めねばなるまい。侍女見習いのお主等が初等数学を学ぶのだから、此度はリーナとエミナに指導させてみるか。教導してみることで己の理解も深まろう。その他にも希望者を募るか。ふふふ、(絶望に)震えるが良い」
「……(身に余る光栄に感謝して震えろと? それに『しょとうすうがく』とはなんでしょう? なぜ陛下や軍師様が見習いを指導するのでしょうか? 私達はいったいどこに向かっているのでしょう? 見習い侍女のはずが……べつのモノになりそう。……嫌な予感しかしないのですが……)」
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《 リーナとエミナ視点 》
昼餉も終わり、休憩がてら茶を楽しみつつ軍師たるエミナと客将たる天音詩織とで歓談していたラルキ国王のリーナであったが、詩織からの何気なくも深刻な提言を聞くや、鬼気迫る勢いで応じていた。
「なんでそうなるの?! 絶対に、いやッ!
なにがなんでも絶ッ対ッにッ、イヤッ!
詩織の他の頼みなら聞くけど、他の者に数学を教えるのだけは、イヤッ!
(そんなことになれば、私がまだ理解が浅くて拙【つたな】いという事が露見してしまう!)
却下ッ! 国王として完全に却下よッ!」
その応【いら】えを、詩織は面白いとでも言いたげな雰囲気と共に目をわずかに細めながら聞いていたのだが、リーナが示した拒絶の意志は無情にも詩織の心を動かさず、それどころかかえって被虐心を煽ったようであった。
「ふむ? ほほう……陛下に於かれましては、論理思考の修練でもある数学を厭うておられるご様子。
これはこれは……。いやはや、かような仕儀が早期に判明しました事、誠に重畳でありますな。フッ。……エミナ、時間を調整しておけ」
「かしこまりました、詩織様」
丁重に応えながら軽く応諾のために頭【こうべ】を下げるエミナであったが、陰に隠れたその口元は僅かだが口角が上がっていた。
それはまるでリーナを生贄に、己は窮地を脱するために奸智【かんち】を弄するかのようであり、まさに軍師と称されるにふさわしき様相であった。
「な、エミナッ?! あなたッ!?
こ、これは反乱よッ! 衛兵、この両名を即刻取り押さえなさい!
……? ……どうしたの?! なぜ動かないの!?」
「陛下、運命をお受け入れください……」
真に痛ましいとでも言いたげな表情を浮かべながら、敬愛する主たるリーナの命に反する衛兵達。
その内心と云えば『巻き添えは御免だ』という思いが、ありありと透けてみえていた。もっとも、その身に纏う雰囲気と云えばまるで敬愛する陛下の更なる成長のための苦渋の決断であるとでも言いたげではあったが……。
そして、その想いは恐らくは三割ほどは本心ではあったのだろう。
「イヤァァァアア~~、もう数学は嫌なのよォォォオオ~~」
「そんなに嫌がるでない。たかが初等数学であろうに」
何でもないかの如く、無情な応えを返す詩織。
「あの詩織様。『初等』数学という事ですが、その他にもあるのでしょうか?」
「うむ? 良いところに気が付いたの、エミナ。当然にあるぞ、高等数学や高次元数学、超次元数学というものがな」
「……そうですか……。高等数学や高次元数学に……超次元数学ですか」
「し、詩織ッ! 数学なんて役に立つとは思えない!
あんなどうでもいいことをやって、いったい何の役に立つと言うの?
大体、数学が論理思考の修練になるとは、到底思えない!」
「リーナよ。数学が『論理思考の修練』になるとは、概論としてはこういう事なのじゃよ。
①獲得できた情報や与条件を整理する能力、
②整理された情報や与条件を適切に分割・分解・分類する能力、
③分解・分類された情報を様々な視点から分析する能力、
④付随して、他分野・他領域の知識や方法を取り入れ関連付けるために、援用する概念や情報を変換・転換する能力、
⑤概念や情報を抽象化・具体化する能力、
⑥得られた結果や概念・情報を構成し、総合的に表現する能力、
――などを会得するための修練を指しておる。
ほかにも細々とあるが、まぁ、大枠としてはこんなところじゃろ」
「……」
多分に愁嘆の色彩を帯びた言いがかりに対して、詩織が答えに窮する事を秘かに期待したリーナであったが、その予想に反して詩織に理路整然と冷静に応えられてしまい、図らずとも思わず聞き入ってしまっていた。
「これらを政【まつりごと】に敷衍【ふえん/趣旨や意味を拡張・言い換え・類推・詳述】するならば、例えば、獲得できた情報を整理する能力は、齎された情報の取捨選択が容易になろう。抽象化する能力は、物事の本質をより浮かび上がらせ、具体化する能力は問題の解決や対処をより具体的に思考できるようになるだろう。また解決策や対処方法を第三者に伝達する際や、新たなる施策を伝えるのにも総合的に表現する能力、それも論理に拠って立つ言語伝達能力や適切な語彙を用いて文章を組み立てる筆記・筆致能力は必須となろう」
気色ばんで抗弁したリーナを詩織は冷徹に見つめながらも、滔々と、そして懇々と述べるその様に、この場に居合わせた者達全てが気を呑まれていく。
そしてそれは、リーナも例外ではなかった。
そんな気圧されているリーナはリーナで、何とか詩織に言い返すべく論を紡ごうとするも、いまの己では言葉が続かず、抗しようにもその術【すべ】も無い事に気がつき、言い淀んでしまう。
「……」
「しかるに、リーナよ。お主の言うところの『あんなどうでもいい数学』如きさえ出来ずに、お主は何を成そうというのだ?
――山のモノに空を飛べ、空のモノに河海に潜れ、河海のモノに山に登れ――とでも命じるつもりか? そんな考えで国を率い導くつもりなのか?」
その一方で詩織が紡ぐその言葉は、ただ単に稚拙さを論【あげつら】うのではなく、情理を尽くして諭【さと】そうとしている事も、理解できてしまう。
そして喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、そんな詩織の言説から心情をくみ取り感じ取り理解できる資質がリーナにはあったのだ。
「そ、そんなことは……」
「お主の論でいえば、こう言っているのと同じなのだ。
――『私が役に立たないと思ったことは、全て無用の長物なのだ』――とな。
だがの、それは『数学を必要としない策、つまりは論理が成立し難い短絡的な策、動【ややも】すれば情動的な策しか、私には思い浮かばない』と言っているのも同義なのだ。これでは選択肢の幅が極度に狭まってしまうだろう。
そもそも、己にしか理解も納得もできぬ情動的な策では、誰も付き従おうなどは思わない。そのような理解も納得もできない策には共感も出来はすまい。なにせ、余人には理解も納得もできないのだからな。
さらには『私は使えるほどには、数学に習熟していない』と自白してもいる。
ついでに『数学は実用のみに供すべきなのだ』とも述べているな。
数学というモノが、論理思考の育成に資することにさえ気が付いていない。
これでは『私は論理的思考に難がある』と喧伝しているのと同じことになるのだ。
リーナよ、――『人皆有用の用を知りて、無用の用を知る莫【な】きなり《荘子「人間世編」》』――という言葉がある。
意味としては、『皆が、有用なものが役に立つことは知っているが、役に立たない無用なものが、実際は大きな役割を果たしている事を、皆が知らない』となる。
無用の用を有用に用いられるかは、正に己次第ぞ。
さてリーナよ。どうじゃ、お主に出来るか?」
そしてなによりもリーナであるならば『物事の理非も含めて理解できるはずだ』という強い想いを、詩織が抱いている事もまた窺い知ることができるのだった。
そうであるならば、己が出来る応えは……、唯一つ!
「そ……そんな……、私は……。
わかったわ……、私はやる。
やってやるわ!」
頤【おとがい/下顎】をクッと上げ、決意の輝きをその瞳に宿すリーナ。
「うむ。その気概、見事なり!
ならば妾もその心意気に応えねばなるまい。
リーナよ、初等数学が終わり次第、高等数学の初歩の初歩と確率統計も修得してもらうでな。楽しみにしておくがよい」
「なんでそうなるの?! やっぱり絶対に、イヤァァァアア~~~ッ!」
『絶望とは斯【か】くあるべし』を体現するが如き啼き声を上げるリーナ。
そんなリーナをエミナは「なんと、おいたわしや(お気の毒に)……」と、憐憫【れんびん】の情を湛えた面持ちで見守っていたが、その口角は極々僅かに笑みで上がっている。その様たるや正に「我、死地を駆け抜けたり」と、無言ながらも雄弁に語っていた。
「それから、エミナも同席せよ」
しかし無情にも、現実が追いついてくる。
死地を駆け抜けたら、そこはまだ死地だったのだ……。
「は?! えぇぇエエ~~~~~~~~~~ッ!」
『罠師、罠にかかる』もしくは『策士、策に溺れる』とでも云うべきか……。
想定外の事態が発生し、理解が追いつかないとでも言いたげな表情のエミナ。
そしてようやく事態を理解したが、その『理解できた事態』自体が正に驚天動地であったのだ。
そのため、図らずとも動揺の声を思わず上げてしまう。
そんなエミナをリーナは「おお、死地で巡り合いし同志よ!」とでも言いたげな面持ちで見守っていたが、その口角は明確に笑みで上がっている。
その様は正に「同志よ、共に征こう。あの虹の向こうへと!」と無言ながらも雄弁に語っていた。
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◆◆◆
「高潔なる者に導かれるも……蒼天の遥か高き御座、未だその頂は見えず。
……じっと我が手と己が紡ぎし式を見る」
―― 後年において、数学が趣味と公言するラルキ国王リーナと軍師エミナが、共に語った言葉と伝えられる ――
お読み頂きありがとうございました。




