52 捨てられた者の流れ着く先
私ことエミナ・リュティガーは割り当てられた部屋で、真剣な面持ちで職務を果たしている。
この難題をこなさなければならないという使命感。
間違えれば更なる難題が降りかかるかもしれないという緊張感。
正に手に汗握るとは、この事だろう。
パチ……パチパチパチ……。
パチパチパチパチパチパチパチパチ。
パチパチ……パチパチパチパチパチ……。
ジャッ!
パチ……パチパチパチパチパチパチパチパチ……パチパチパチ。
……パチパチパチ……パチッ!
「ふぅう。やれやれ。合ってるようでなによりです」
そして最後の瞬間を迎え、重責から解き放たれる解放感。
感動の一大叙事詩、ここに完結!
まさに、 ――『全ての私が泣いた』―― とはこの事だろう。
感無量とは、この事なのだと実感する。
あとは各項目に所定の数字を書き入れていき、最後に改めて算盤【そろばん】で一気に計算していくことになる。
細目の計算は既に終わっているのだ。
最後の集計とはいえ、そこまで全神経を研ぎ澄まして『全集中で事に当たらねばならない』と言うわけではない。
算盤【そろばん】があれば、再集計も検算も容易なのだから……。
正直なところ幾分どころか大分、気が楽ではある。
もっとも、この算盤がなければ、手計算でやり通さねばならず、今頃は七転八倒【しちてんばっとう/苦痛・苦悶のあまり、のた打ち回ること】している事は確実であっただろう。
この算盤、イザヨイから輸入し詩織様と如月弥生殿から使い方を教えてもらったのだ。
どうもこの算盤、イザヨイ宮の開闢時よりあるようだったが、あまり巷には広まってはいなかったようだ。
理由は簡単で『使い方がよくわからない』というもので、結果あまり広まらなかったらしい。
ただ使い方が解る者には大層便利らしく、イザヨイの財務監殿は使っているとのことだ。
算盤はそれなりの数を生産したのだが、一向に普及しない。そのため子供達の遊び道具となっていたが、その子供達からも本来の用途のみならず遊び道具としても、あまり人気がないとのことだった。
それを弥生殿が使い方の教本を書き、算盤と一緒に売り出したのだ。
この教本なる物は紙を纏めて結ったものであるが、これは紙が無ければ作り様が無かっただろう。そう思えるほどに内容が詰め込まれており、其れに比して厚みもそれなりにある。これを羊皮紙で作成するとなると途方もない時間と手間と財貨が掛かるのは明白。
一方で教本といえば、組み木なる物を組んで版画の要領で量産も出来るらしく、大量に印刷? というものが出来るらしい。
そんな教本と算盤が、いまやラルキ市中は元よりラルキ全域と服属した諸域はもとより、各諸宮国家にまで広まっている。
なぜイザヨイの品がラルキで爆発的に売れているかというと、詩織様の影響なのだ。
前々から詩織様の学識は高いと思っていたのだが、算術にまで精通しているとは思いもよらなかった。
事の発端は、予算計上とその裁可を行うときのことだった。
余りにも巨額の金が動くため、中には不正を働いても露見はしないだろうと考える輩がいたのだ。
リーナ様が、上がってきた概算書に押印して許可しようとしたのだが、それに詩織様が『待った』をかけたのだ。
そして書類を受け取り数瞬を掛けて流し見した後、怪訝な表情を浮かべたのだ。
そして何枚にも渡る書類を見ながら、指をチョコチョコと何かを弾くかのように動かしていき、一言言ったのだ。
「ほう、誤魔化して私腹を肥やす輩がいるな」と……。
説明を聞いたリーナ様は、大層立腹され……いえ、激怒された。
附言するならば、リーナ様は詩織様に対して激怒されていたのではない。詩織様の言葉に対して疑いは微塵も感じてはいない。それほどまでにリーナ様の信を詩織様は得ているのだ。
では何故に激怒しているかと言えば『どうせ理解出来ないだろう』と己が侮られている事と、これまでにも『同じことが繰り返されていた』であろう事が、容易に想像できるからだ。
相当に業腹【ごうはら/怒りや不満で苛立ち立腹している】であったらしく、後日に厳正な監査と検査が行われ、詩織様の指摘通りに不正が発覚し、追及の手が伸びていく。そして関与した者は当然ながら捕縛されていく。
関連していくつかの法衣貴族が閉門したが、それは余談だ。
また余波として詩織様が提案された検地と財務監査を実行し、農作物などの取れ高や税収が確定されていく。
検地と監査に強硬に反対していく者は、逆に徹底して詮議され、案の定誤魔化していたことが露見し、此れも閉門や厳しい処罰が下されていった。
一方で、一目見ただけで瞬時に計算するという詩織様の異能に、リーナ様は殊のほか感心され、詩織様に問うたのだった。
「詩織は、どのくらいの桁数まで暗算で 計算できるの?」
「桁数か? まぁ、垓【がい/10の20乗】までは暗算でいけるのではないか? それ以上の桁数となれば実用性が無いしの」
「そう……。(垓【がい】? )……」
「「「……(垓【がい】って、何? )」」」
その応えに、リーナを含めたその場にいた皆が、最初は冗談かと思いながらも当惑していた。
そも垓【がい】が、何なのかさえ分からない。
ただ話の流れから詩織が当然の事の様に応えたため、桁数の事を言っているのは、なんとなくだが判った。
そして、そういう『桁数がある』ということも判ったのだった。
興味を持ったリーナ様が試しに問題を出したら即答して見せ、しかも正解だった。
この事で更に興味を覚えたのか、伯爵領時代の予算編成書を持ってこさせて計算してもらったのだが、計算違いもなく即答していた。
それも一問ではなく何問も試問を出されて即答して全問正解。
これには驚愕を通り越し畏怖さえ覚えた。
ついでだが、伯爵領時代の予算書類で不正を働いていた部門がこの計算で発覚し、訴追された者がいたが、これもまた余談に属する話だろう。
そんな驚くべき異能の一端を垣間見せた詩織様だが、さらに驚くべきことを語られたのだ。
「慣れれば、億までは誰でも行けると思うぞ?」
この応えを聞いて、リーナ様が俄然興味を抱いたようだった。
「お、億? そ、そう。ならば私もやりたい。詩織、教えて頂戴」
そして、いつの間にか『教えを請う』という流れになっていったのだ。
「うむ、その心意気や良し! 加減乗除までは教えよう。ただ初心者故に道具がいるが、それは弥生に作らせよう」
加減はまだしも乗除、それも複数桁の乗除とまでとなると、高等算術に分類される。
その高等算術を詩織様は暗算まで行うことができるという。
もはやどういう段階なのかさえ理解できない。
さすがに詩織様のような習熟段階までは到達はできないだろうが、それでも道具を使えばそれなりに早く計算ができるとのことだ。
道具を用意するとはいえ、そんな異能の端緒を事も無げに教えてくれるという詩織様。
しかも教えれば、かならず出来るようになるという自信まで窺える。
しかして詩織様主催の講習会が催される運びとなったのだった。
講習会を催すにしても、まずはそのための道具が必要となるので、イザヨイの如月弥生殿に製作可能かと問い合わせると、既にあるという報せと共に現物が一〇個ほど見本として送られてきたのだ。どうやら余剰在庫として結構な数があるらしく、追加も受ける事が可能との一文が附されていたのは、まぁ……御愛嬌と言ったところだろうか……。
なんにせよ算盤の現物が複数あることから、早速希望者を募って詩織様指導の講習会が始まる運びとなった。
当然、私ことエミナ・リュティガーも参加していく。
最初は拙いが、毎日の講習で徐々に慣れていく。
此れがしばらくすると、暗算にまでは至ってはいないが、皆がそれなりの速度で計算できるようになった。
陛下【リーナ】と私も加減限定ではあるが、そこそこの桁数の計算までできるようになっていた。
次の段階に進むにあたり乗法の表【一二×一二の表】を渡されたのだが、これを覚えるのが至難であった。皆が苦悶しているのを観て、暇な時にリズムと共に口ずさむのがコツで、更に就寝前に行うと覚えが良くなると助言をもらう。実践すると不思議と覚えていくもので、皆がいつの間にやら覚えていた位であった。
「ピローン♪ リーナとエミナは、珠算技能を獲得した」
詩織様が茶化して面白く言ったのだが、リーナ様の琴線に触れたのか、「あはは! たしかに!」と大笑いしていた。
「この和やかな雰囲気は心地良い。民達にも届けたいものだ」
陛下はしみじみと言い放っておられる。
この場にいた臣下たちは賛意と敬意を示し、詩織様は微笑みをもって応えておられた。
講習会を受けた者達の計算力が、眼に見えて向上しているのは明白。
結果、この珠算の効用は凄いと殊に財務関係の部署で盛り上がりをみせ、更に算盤を多量に輸入していくことになったのだ。
財務関係者が挙【こぞ】って講習を受け始め、更に自宅で練習をして成果が実感されてくると、今度は自分の子や孫に習わせ始めていく。
また商談などで訪れる商家も関心を持ち始めるという循環が、いつの間にか出来上がっていったのだった。
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検地して算出して、区画整理して、また検地して算出して……。
今ラルキは行政単位を整理し、検地を行って大改革の真っ最中。
元々の伯爵領のみならず近隣の服属した領まで統廃合しているため、事務量が爆発的に嵩んでいる。
もはや元々の人員のみでは足らず、新たに募集するまでになっている。
人が増えれば作業効率は上がっていくと思いきや、それでも追いつかない。
人員が増えるより早く事務量が増えているのだ。
しかも旧ベルザル領からの流民や移民が増大しており益々、事務量が増大していた。
だがこれは国力の伸長も意味するので、歓迎すべきことでもある。
しかし歓迎できない事柄もある。
支出だ。あまりにも急激に国土と人口が急増したため、税の徴収が間に合っていない。
いままでは接収した軍資金で賄っていたが、それとて早晩枯渇するだろう。
逆に今までよく持ち堪えた方だと言える。どれだけ諸宮の攻略に『力』が入っていたのかがわかるほどの金額だったのだ。
冷静に考えればこの金額を領内整備に使えばよかったのにと、他人事ながら考えてしまう。
それよりも接収した軍資金が底をつけば、あとは自己資金のみで国家運営を行うことになる。
まぁ、交易も順調に拡大しているので、直ぐに破綻するというわけではない。だが、資金に余裕はないのも、また事実ではある。
「どこかに、まとまった金額が落ちていないかな(笑)」と財務担当者とエミナは冗談を言っていたのだが、それを聞いた詩織がふと言い放ったのだ。
「そういえば妾が討伐した盗賊の根城に、盗賊どもが奪って貯め込んだ財貨がまだあるやもしれんな」と……。
ただの一言で、捜索・回収隊……もとい、行軍訓練がてらの一百の遠征隊が編成されることになったのだ。
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中規模・大規模な盗賊等は、追討なり掃討なりを避けるためか、その拠点が複数にまたがっていたが、詩織はその場所を覚えており見つけ出すこと自体は容易であった。
隠れ家に蓄えられていた略奪品等は未だに残っている物も多いが、さすがに残された食糧やらは傷んでいる。
それでも装飾品やら衣服類・武器類は残っていた。
肝心の貨幣類は、まぁ……そこそこあったとだけ言っておこう。
当時は戦の気配も強く、盗賊とて早々には出歩かない。そのため、実入りも細くなっていたのだろう。
それでも、残っているだけまだ僥倖【ぎょうこう/」偶然の幸せ】といえる。
これは盗賊故に、その拠点自体が隠れ家として隠蔽されている事、また主街道に近いが街道沿いからは外れている事、そこそこの野生動物や肉食獣などが徘徊しているため危険を伴う事、わざわざ街道から離れて盗賊を探そうなどとは考えない事、などが複合要因として挙げられるだろう。
一箇所の拠点に蓄えられた数々の盗品の価値や財貨の額は一つの盗賊団としてみれば少ないかも知れない。
だが十箇所以上の複数の盗賊団の拠点ともなれば、それなりの総額にはなる。
ついでに残されていた身元の分かる遺品などを集めていく。
残された遺族達もすでに諦めてはいるだろうが、遺品として縁【よすが】を偲【しの】ぶ品くらいはあってもいいだろうという判断だった。
遺品を手元に残すか否かは、遺族が判断すればよい事なのだ。
集めた品々を馬車に積み込み、最後の大規模盗賊団の拠点たる隠れ家に近づいて行く。
その拠点まではまだ距離があるが、詩織は複数の気配を察知し言及する。
「うむ? まて。誰かいるな……。三〇弱といったところか?」
「盗賊でしょうか?」
「この距離では、さすがにわからんよ。よし、エミナと一五名ほどついてこい。残りは馬車の警護だ」
そう詩織が言うと、静かに歩を進めていく。
慌てて一五名を選出し、あとを追っていくエミナ達。
ゆっくりと近づいて、近場の樹々の影に隠れて様子を窺っているのだが、
「それにしても、なんというか……賑やかだな……」
遠方にある洞窟の前では、獣の肉でも焼いているのか結構な煙も出ていた。
盗賊にしては無警戒過ぎる行いに、エミナを始めとした遠征隊は困惑する。
旅人や商隊でさえ、ここまで無防備ではあるまい。
そもそもこれだけ煙を出していれば、それこそ盗賊が寄ってくるだろう。
意図を計りかねるというのが、率直な感想だった。
「うむ? 幼子までいるぞ……、どうなっているのだ?」
誘拐でもされた子供かと思いきや、何やら楽しげに遊んでいるのが見て取れる。
その中心にいるのは、ぎこちない動きで、子供達の相手をしている齢にして十七くらいの女子【おなご】であった。
「傷をかばっているのか? 流民……であろうか?」
警戒どころか歩哨さえ立っていない。
どう対応すべきか思案していたところ、洞窟から黒の甲冑を身に纏う背の高い騎士風の者が出てきた。
肉を焼いている焚火の所に近づきながらも、周囲に油断なく視線を配る。
右から左に、そして右に視線を戻す途中で、詩織たちが潜む樹々の方向で視線を止めたのだった。
明らかに警戒しているが、軽挙妄動に逸るわけではないようだ。
振り返り洞窟の方にも何か指示を出したのか、数人が出てくる。
そして子供達とその相手をしていた女子【おなご】に近づき、声を掛けている。
子供達は何か楽し気に洞窟に走っていく。
女子【おなご】も介抱されながら洞窟の方向に騒がずに退いて行くが、その騎士風の者は樹々の方向から目をそらさずにその場に留まっている。
明らかに『護る』と言う意思と体勢が見て取れた。
これは詩織に気がついたのではなく、エミナと兵達の気配に気がついたのだろう。 だが、詩織たちの数までは把握してはいないようだった。
詩織たちの方向に気を配りながらも、周囲の気配を探っている。
伏兵がいないか、回り込まれていないかを探っているようだった。
「うむ、悪くない。悪くはないが……、妾ならここに乗り込み問い質すぞ」
「あの、詩織様。それができるのは詩織様だけです……」
エミナの的確な指摘に、兵達も同感なのかコクコクと頷いていた。
そんな長閑【のどか】な雰囲気が詩織たちを包んでいるが、一方の者は痺れを切らしたのか誰何【すいか】の声を挙げた。
「何者かッ! 我らは光神教会に連なる者である。
ベルザル大公国へと赴く途上であるが一時の休息を求め、この場にて一時逗留している。
もし、この地の主からの使いならば、まずは出【い】でられよ!
我が名乗りを聞かれても、なおこそこそと隠れこちらを窺うのであれば盗賊と看做し、この私が討ち滅ぼしてくれる!」
「ほう、先に名乗ったか。及第点ではあるが……、妾たちを盗賊呼ばわりとはの。……減点だ」
「あ、あの。詩織様……」
「まぁ、冗談だが……。さて『この地の主からの使いならば出て来い』と云われてはな。さて、エミナどうする? ここは妾が出るか、エミナが出るか?」
「あの者の剣の腕前は、如何ほどでしょうか? 例えば、あの者に斬り掛かられて、私で防げるものでしょうか?」
「無理だな。もって三合といったところか」
「あの、詩織様では如何でしょう」
「一合とて、もたぬだろうな。相手がだが」
「ですよね。では、恐れ入りますが詩織様にお願いします。私では不測の事態に対応できません」
「ふむ、良い判断だ。だが教会関係となると面倒事になるやもしれぬが、まぁ、よい。ラルキに戻ったら奢るのだぞ?」
「それはもう!」
えらく快活に応えるエミナ。
そんなエミナを観て、思わず苦笑しながら『やれやれ』といった感じで動く詩織。
「まずは、見事な名乗り天晴れ。こちらはラルキの巡検隊である。敵意は無い。これより、出【い】でるゆえ、軽挙妄動に逸らないでいただきたい!」
詩織の名乗りを受けても特に動揺などはしていない。
このことから、どうやら『盗賊の類ではないようだ』とエミナは判断するが、全く別の印象を抱く。
――『黒の鎧に、またもや黒騎士風の装い』――
確かに黒い装備というのは、それなりに便利ではある。
傷も目立たず、汚れも目立たない。
だが鎧のみならず、その衣服のまでを『黒系統』でまとめるという事は、そうそうない。これでは逆に目立ってしまうのではないだろうか?
にも関わらずこの者は鎧のみならず、その下の衣服までが黒一色。
はっきり言って、そうそうお目に掛かれない出で立ちと言える。
ここまで『黒一色』に拘るのは、イザヨイのノリス殿に続いて二人目。
絵巻の影響なのだろうか? それとも装備の類に流行り廃りでもあるのだろうか?
どちらにせよ、流行るなら剣聖の詩織様の出で立ちの方が、流行ると思うのだが……。
まぁ、確かに詩織様を真似た装備類となると『特注品の扱い』になるだろうし、見るからに軽装備。
そもそも剣の腕前が伴わねば、あっさり死傷するだろう。
なによりあの太刀は入手できまい。
ならば黒騎士風の装いもありか? とも思えるが、今ではすっかり定番の悪評と貧乏騎士の代名詞扱いである『黒騎士の装備』では、流行るわけがない。
そのため、何故にあの者が身につけているのか、いまいち得心がいかない。
身代【しんだい】、つまりは実入りが苦しいのかと思えば、この者が装着している黒い鎧は丁寧に磨かれており、一見しても錆や傷の一つもない。
詩織様ほどの腕前なら傷一つないのは理解できる。だが、言い換えれば詩織様ではない以上いかな猛者といえども、鎧に傷がつくのは必然であり当然。
そもそも鎧といった防具類は、身体に傷が及ばないように身に着けるのである。
その防具たる鎧に一つの傷すらもないともなれば、新兵か、乃至はよほどの怯懦な者と看做されかねない。
しかもあの磨かれ具合では、下ろし立ての新品の鎧と言われても仕方がないだろう。
いや、聞くところによると、練達の者達は新品の鎧を購入後に自然の匂いに馴染ませる為に、敢えて土を掛けたり草をすり込んだりしていると聞いたことがある。
従って、あのように艶が出るほどに磨くなどありえないだろう。
動くにしても潜むにしても、艶が出るほど磨いては光を反射してしまうのではないだろうか?
新米冒険者とも思えるが、全くの素人というわけではないだろうと考える。
腕前の方は気配を探る事が出来ているようなので、それなりの技量がある事も推量できる。
つまりは、実戦経験はあるが練達の域にはまだ達しておらず、加えて旅慣れていないという事も分かった。
更には、鎧の下の着こみも仕立てが良いのがわかる。
一見すると貴族の係累かとも思えるが、そのような者がお付の者も無く何故このような場所にいるのか? とも思えるのだ。
詩織様も確かに単身ではあったが、比較する方が間違っているだろう。
つまりは何とも『奇異でちぐはぐな印象』を受けるのだ。
そんなことをエミナが考えているうちに、黒騎士風の護衛と詩織様が話がついたようで一旦散会してこちらに戻って来る。
「エミナ、話がついた。指揮官のエミナとの会談を希望しておる」
「はい? 指揮官……ですか? わたしがですか?」
「当たり前だろう。指揮官はエミナだ」
その話を聞いて周囲の兵達が困惑の表情を浮かべているが、当の私も困惑してしまう。
「あの……、指揮官は詩織様では?」
私の発言を聞いて周囲の兵も同意の表情を浮かべている。
「エミナ。妾は客将ぞ。教会に連なると公言している者を相手に、外交の真似事はできんよ」
「ああ、そうでした。これは失礼を。あ、いえ、他意は無いのです。私は、詩織様はラルキの大将軍だと思っておりましたので、当惑してしまいました」
エミナは思わず心からの本心を述べているが、周りの兵も全く持って本心から同意しているのか、『詩織が大将軍』ということに反対意見どころか何の疑問を抱いていない。
「はは、なんとも嬉しき事を言うてくれるではないか。
おっと、あちらも代表者が出てきたようだの。さて護衛はするでな、そこは安心せよ」
洞窟から供回りの者に体を支えられて、ぎこちない動きで先程の女子【おなご】がやってくる。
特段、外傷があるわけではないようだが、何らかの後遺症であろうか?
エミナと相手方の代表者が話しあいが始まる。
「ラルキ領にようこそ。私はラルキ国にて軍師職を拝命しておりますエミナ・リュティガーと申します。こちらは同じく大『護衛の詩織だ』護衛をお願いしております天音詩織様です」
「護衛の任に就いている天音詩織だ」
「これはご丁寧に、ありがとうございます。私は教皇庁にて主教位を預かっておりますティナ・ライデルと申します。お見知りおきを。そしてこちらは護衛のアリシア殿です」
「同じく護衛の任に就いているアリシア・ランバートと申します。お見知りおきを」
光神教会の主教位に就く者が、獣人たる詩織様に忌避感を露わにしないのは珍しい。いや相当な珍事と言えるだろう。
この点だけでも、ティナ・ライデル主教に興味が湧いていくエミナであったが、すでに交渉は始まっている。そしてその交渉の前に、この者が果たして交渉の席に着くに値する者かどうかを評価しなければならないのだが、このティナ・ライデル主教は、獣人たる詩織様に忌避感を露わにしないという一点だけでも、既に交渉相手に値するという評価であった。
簡単な挨拶も終わり、いよいよ本題に入る。
「ではライデル殿、この地に来訪した目的などをお尋ね致したい」
「この地に辿り着くまでに少々無理な旅程を強行したゆえに、体調を崩しております。そのため療養がてら、ここに留まっておりました。出来ますれば快復するまで、この地にて逗留をお許しいただければ幸いです」
「ふむ、ここはラルキ城市にほど近い故、ラルキ市内に移られては如何でしょうか?」
「ラルキに近いのでございますか? それは露知らず、己の不明を恥じるばかりでございます。つかぬことをお聞きしますが、ベルザル大公国へは如何ほどの距離がございましょう? 我が輩【ともがら】が集う光神教会ベルザル管区主教会へと、急ぎ赴くよう指示を受けております」
「ベルザル大公国に、ベルザル管区主教会……ですか」
エミナが、少々苦い表情を浮かべている。
そんな表情を垣間見て、ティナが言葉を紡いでいく。
「あの、なにか御勘気に触れる事や物言いがありましたでしょうか。ならば、世情に疎い不届き者ゆえに、ご寛恕【かんじょ】いただければ幸いです」
「ああ、いや……その、なんと言いますか……。その……ベルザル大公国はすでに滅亡しておりまして。それに、その……」
少々言い難そうなエミナを見て、詩織が受け継いで話を進めていく。
「教会だが、大主教は護衛の狂信者どもに、教会の鐘楼に吊るされて亡骸が今でも晒されておる。いまや、公都は無頼の徒と元からいる狂信者たち、そして別の狂信者たちの流入が続いていてな。その上、争乱と今も続く騒擾【そうじょう】で荒れ果てており、かなり前から廃墟も同然なのだ。正直、あまり……というか、全くお勧めはしない。特にお主のような女子【おなご】にはな」
まさに愕然という表情を浮かべている。
全くと言っていいほど、情勢を調べていなかったようだ。
いや普通は、命令を発する者が状況を説明して注意喚起するのが当然だろう。
にも関わらず、何一つとて説明もされていない事が窺い知れる。
教会上層部からの命令なのだ。教会に属する者が、その命令を疑うことなど普通はしない。
自分で調べろとでも、いうつもりなのか?
それとて、ベルザルの地は遠方故に限度というものがあるだろう。
しかも『急ぎ赴け』とまで言われているらしい。
これではまるで『準備させないように言い含めている』としか思えない。
死地ともいうべき場所に『急ぎ赴け』などと命じるとは……。
いったい如何なる考えと、どのような思惑なのかと勘繰りたくなる……。
「我らは、『急ぎベルザルへと赴き、危難に接する教会と輩を救え』との命を仰せつかりました。それで此度の『事故』は免責され『嫌疑』も晴れる……とのお言葉をうけております」
「それはいつの事だ」
「一カ月と少しですが」
「ベルザルが潰えて、大主教が吊るされたのはもっと以前だ。それならば教会本部にもベルザルの顛末は『報せ』が入っているはずだが……。となれば、導かれる結論としては……『一つ』となるが」
「それはどのような……」
「お主たちが邪魔になって『捨てた』のかもな」
「そんな……」
あまりの衝撃に膝から崩れ落ち、地に着いた両の手で土を握り締めている。
涙で大地が濡れていた。
おそらくは、何か重大な失態でも演じたのだろう。
それ故に、今回の任務でその失態を糊塗【こと】しようとして、無理を押してでも旅に出たというところだろうか。
それが挽回の機会さえ得られずに、捨てられたのだ。
その心中や、いかばかりであろうか……。
しばらく落涙し悲嘆に暮れていたが、いつまでもそうしてばかりはいられないとティナも分かったのだろう。お付の者に支えられて、なんとか立ち上がった。
この予想よりも遥かに早い立ち直りに逆に違和感が滲み出るが、思わず漏れ出たであろうティナの小声の独り言たる「……やはり教会は」の一言を聞き納得もした。
「……やはり教会は」と言葉から、何らかの予兆があり、何らかの責を問われることは予測はしていたのだろうと考えたからだ。
まぁ、その内容までは敢えて問う事も無いだろう。
一応の覚悟はあったとしても、この現在の状況は、どこからどう見てもあまり良いとは言えない。
そんな中で詩織様が、さらに気にかかることに言及された。
「ほかの護衛はどうしたのだ? こちらの黒騎士たるアリシア殿が単独で護衛というわけではなかろうに?」
「食料の調達と偵察を兼ねて外に出ております」
「うむ? アリシア殿を一人残してか? その護衛は、いつから同行しているのだ? それと人数は?」
「光都からでございます。数は十五」
「信徒か?」
「教会より派遣された聖堂騎士となります。ですがその事に『なにか意味がある』のでしょうか?」
「聖堂騎士か……、危ういな。アリシア殿も聖堂騎士なのか?」
「いえ、アリシア殿は途中で雇ったのです。私も含めて女性達の護衛もありますので。聖堂騎士は、みだりに女性には触れないという戒律もあります。そのため女性騎士は何かと重宝されるのです」
(聖堂騎士はみだりに女性には触れないという戒律……であるか。……ふむ……)
チラリと詩織がエミナに視線を流す。
エミナもその視線に気がついた。
エミナもティナの言説を聞いていたが、その聖堂騎士に『襲撃され、凌辱されそうになった本人』として、思わず失笑してしまいそうになる。
何とか平静を保ったが、これは事情を知らない者の前で失笑するのは、いかにも礼を失すると考えたからだが……。
エミナも詩織に視線を返すことで応える。
おそらくは『裏側の事など、全く知ってはいないのだろう……』と、詩織とエミナの考えは完全に一致していた。
そんな別の考えを抱いていたが、話を中断させるわけにもいかず、詩織が話を続けていく。
「ふむ。おそらくだが、その聖堂騎士とやらは刺客であろうな。毒を使っていないところを見ると、治癒術を警戒したか、もしくは確実に仕留めろと命令を受けているか。なんにせよ、あえてラルキ領内でアリシア殿を含めて全ての者を亡き者にしようとしているとみるべきだろう」
「そんな! で、では、すぐにここを離れましょう!」
「いや、まったく問題ないな。できれば捕縛したいくらいだ」
「な、なにをいっているのですか?! 相手は手練れの聖堂騎士ですよ!? いくらラルキの巡検隊といえど同数程度では、危険で……ああ……なるほど!? 別に巡検隊の本隊が近くにいるのですね。だからその落ち着き様なのですね」
「確かに本隊はいるが、妾達で十分だと思うが? どうなのだエミナ?」
「え~と……『妾達で十分』だとは思えません。正確には『妾(詩織様単独)で十分』ではないかと……」
「だそうだ」
「そんな……なんて非道な! こちらの麗しい護衛の天音詩織殿をただ一人、戦いに赴かせるというのですか? それとも囮に、否、この場合は人身御供『ひとみごくう』にして本隊の来援まで待つというのですか? そのようなことなど出来ようはずがありません。そのような非情な策を弄する、それがラルキの政道というのですか!? そんな事は……ゥグッ!? カハッ、ゴホッ!」
急激に感情が昂【たかぶ】り身体に負担が掛かったのか、突如吐血し蹲【うずくま】ってしまったティナ。そんなティナを忠実忠実【まめまめ】しくも、黒騎士のアリシア殿が介抱している。
その様子は手慣れており、なるほど確かに道中でも介抱していただろう事は見て取れた。
そして当のティナは、感情が昂る位で吐血し、肩で大きく息をするくらいには体調が悪化しているのだろう。
「まぁ、落ち着かれよ。それに妾を気遣ってくれたことにも感謝しよう。返礼というわけではないが、良ければその躰、妾が診てみるが如何する? 目立った外傷はないようだが、内傷が酷いようだ。留まるにしても、退くにしてもその躰では満足に動けまいて」
「治癒に精通しておられるならば、お頼みします」
応えられないティナに変わり、黒騎士のアリシアが応えていく。
名乗り合ったとはいえ、まだ間もない。
にも関わらず治癒を頼もうとするあたり、強行した旅程の間に相当に体調が悪化している事が窺えた。
その願いを聞き入れ詩織は、外套を持ってこさせて地に敷いて行く。
その際に、どういう治癒を行ったのかを聞きだしていく。
仮にも主教たる者が治癒術に通じていないなど、ありえないはずだが……。
話を聞くと痛みの緩和はできるが、治癒まではどうしてもできないという。
これは、どの治癒術士でも大主教の治癒術でも同じだという。
そしてティナを寝かせて、掌をティナの躰に添って翳【かざ】していった。
「ふむ? これは神威による聖傷の跡だな。
お主、神域にでも近づいたのか?
もしくは神体物にでも触れようとしたのか?
神威による聖傷となると、人の行える並大抵の治癒術では無理だろう。
それに、この聖痕の跡を見ると、この神威は星霊級ほどの強度を持っていたはずだ。ティナよ、お主よく『消滅』しなかったな?」
苦痛の表情の中に沈痛な面持ちを浮かべて、押し黙っているティナ。
その表情からは、文字通り『痛いほどに身に覚えがある』という事が察せられる。
これは何か『込み入った事情があるのやも知れぬな……』と詩織とエミナは同じ感想を抱いていた。
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