46 不可避の戦と魂魄哀歌
本話内において、上手くまとめられずに視点が頻繁に転換しております。
上手い表現でまとめられるようでしたら、折を見てまとめてみます。
避難民とラルキ国軍との合流場面につき、詩織の行動を加筆修正致しました。
本話本文中におけるストーリーに齟齬はありません。
急遽ラルキ諸侯軍の捕虜は解放され、ラルキ国軍として再編されていく。
参陣した諸侯は各領地に戻りたがっているが、小勢で戻ってもベルザル国軍に捕捉されればどのような扱いになるかわからず、ラルキ城に留めおかれていた。
会戦時、諸侯あわせて三千三百を数えた兵力は千五百強まで討ち減らされており、ここから重傷者を除いて何とか動けるものを入れても千二百弱までに兵力が減じられていた。万全とは言えないが実際に戦える者となると、一千を割り込んでいる。
実に将兵の損耗率は七割にも及び、実質的に壊滅状態と言って差し支えない状態であった。
そんななかで伯妹リーナ・デ・ティリス改め、ラルキ国王たるリーナ・ラ・ティリスが捕虜であった部隊指揮官や参陣した各領の領主達を集めてラルキ市国の成立を宣言し、現在の状況を説明していく。
ベルザル国軍が旧伯爵領のみならず各貴族領を略奪し放題に荒らしまわったこと、各領を防衛することもできずにいたこと、またベルザル国軍が各領民を殺害、凌辱して回ったこと、避難民が流民と化している事などを包み隠さず述べ、係る事態に陥ったことを率直に謝罪し協力を求めた。
状況の概要を聞いた指揮官や幹部は部隊に戻り、現在の状況を部下に説明していく。聞いた部下は市中に出て自棄酒を飲み、酔って思いを吐露していった。
ここでラルキ市中の市民が初めて外の状況を理解し、リーナの評価が一変していく。今までは領地を売り渡し保身を図ったのではないかと、まことしやかに噂されていたのだ。
さらに独立祝賀の名目で糧食や軍資金を提供し、そして避難民誘導のために捕虜の解放に応じ、軍再編に協力した諸宮の評価も一変とは言わずとも、相当の改善が成されていた。
また特筆すべき評価になったのは、天音詩織である。
剣聖であること、またその剣聖がラルキの客将として迎えられていること、そして伯妹が交渉した際の顛末と、ラルキの行く末にまで気を配り尽力してくれたことが侍女や城中の者などから漏れ伝わると、感涙に咽び泣く者が続出していった。
『獣人だからさァ~(笑)』などと侮蔑的な態度を取る者がおれば、裏道の側溝に畳んで捨てられている事が散見していくほどに支持されていく。波及効果として占領軍の獣人達への感情も改善されていった。
なにせ、同じ人族たるベルザル国軍が城外であれだけの惨事を引き起こしているのにもかかわらず、穏当に占領しているのだから、評価が改善するのは当然と言えた。
リーナに対して糾弾の声は特に上がらなかったが、ベルザル国軍には敵意が集中していく。軍民合わせて、逆に暴発する事さえ危惧するほどに士気……否、殺意が高まっていた。
また解放された捕虜の中にはリーナの兄たる伯爵に仕えていた補佐官もいたが、自分が伯爵を刺殺したことを告白し、遺書を残して自害してしまった。事の経緯と真相が包み隠さず認【したた】められた遺書により状況が明らかにされると共に、伯爵が死亡したことも認定され、リーナが国主として正式に王位についた。
伯爵殺害の件は『ラルキ諸侯軍全滅の危機』から止むを得ずに行った最後の手段として評価され、お咎め無しとなり不問に付されることになった。
また遺族には、内々に幾許か増額された一時金と恩給が支給されることになり、少なくとも残った妻と子の生活に支障がない様に取り計らわれた。
そして当の伯爵といえば『戦場での陣没』として記録されている。
独立したので『ラルキ国軍として再編する』と簡単に言っても、実態はそう容易ではない。指揮命令系統の確立、武具類の支給や補修、各領軍との調整、物資の調達と分配、参加人員の名簿作成などなど多岐に渡る。此れだけですでに三日過ぎていく。各兵達は鈍った動きを解【ほぐ】すため、個々人で思い思いに訓練していく。
原隊が残っている部隊は兵の補充を受け入れて再編されていくことになるが、部隊としての根幹が残っているので状況的にはまだましな方と言える。
問題は新編成の部隊で、一応部隊という名前があるだけで、とても部隊として機能しているとは言えなかった。
そのため部隊毎の演習など出来ようはずもなく、ぶっつけ本番での運用になることは、当人たちも理解していることであった。
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そんな中、ラルキの国王執務室に急報が齎された。
イザヨイの偵察隊が避難民の集団の位置を捕捉し知らせてきたのだ。
すでに移動を開始しており、ラルキまで一日の距離にまで接近しているという。
イザヨイの偵察隊は即時の接触を控えたため、ラルキ側の将兵を伴い再度避難民の集団との接触が試みられた。
件の避難民の数は膨れ上がり、すでに一万を大きく超えていた。
そのため、もともと乏しい食料が一気に払底【ふってい】し、やむなく移動を開始したようだった。
だが一万以上の集団が移動すれば、なんらかの痕跡は残る。
結果ベルザルの国軍にも察知されてしまい、緊迫した状況が不意に出来上がってしまった。
そのベルザル軍も近々補給が行われることから、近隣域に『分散配置』されている隊を呼び戻しており数が膨れ上がり、その数一万三千にのぼっていた。
そして『所属不明の大規模なる集団を発見』という報せをベルザル国軍上層部が受けた際の反応といえば、「その『軍勢』は、敵か味方か?」というものであった。
もはや避難民という考えは欠落しており、敵か味方かという二択でしか状況が見れていない。
ベルザル本領からは補給隊はくるが、別の部隊なり軍なりが増援として派兵されたという報せはない。
ならば先ほど発見した一万を超える集団は敵方、すなわち占領しているダンジョン勢の増援という事になる。
双方が展開している軍配置的にも、その集団が『進撃』してくる方向がおかしいのだが、それは糧食なりを略奪して回った敵軍だろうという事で納得してしまった。
自分達国軍もやむを得ず略奪しているのだから、敵軍もしているだろうという自己弁護めいた論理展開であったが、自己正当化するためにも自分で自分を説得し納得するしかなかったのだ。
緊張が高まっている最中にラルキの使者が一騎近寄り、矢文を射ってよこした。
その内容といえば「ラルキ王国より速やかに退去されよ」という簡潔な文であったが、受け取ったベルザル国軍側は挑発と受け止めた。
ラルキ伯爵領はベルザル大公国の一領地にも拘らず、無断で『王国』と称し、こともあろうに救援にきたべルザル国軍に対し『去れ』とは、如何なる了見かと考えたのだ。
ラルキ側としては、先日ラルキ独立を『認めてやる』との趣旨を携えた横柄な使者が来たことから、この展開している軍も当然の事にラルキが独立国として成立していることを『了知している』と考えていたのだ。
しかし件【くだん】の使者は、第二公子から速やかに『ラルキに通達せよ』と厳命されていたため、ベルザル国軍本陣を素通りし直接ラルキへと赴き、帰参する際も急ぎ本領へと戻るという口実で、簡単な挨拶の後に速やかに辞去している。このような苦境に陥ったのは軍の無謀な行動であるとも考えており、無意識に隔意を抱いていたからだ。
またこの使者は『軍には軍の命令系統がある』とも考えており、別途で命令が届けられていると考えていた。
そのため結果として『独立云々の報せ』は展開しているベルザル国軍には、一切知らされなかったのだった。
そして当のベルザル国軍といえば『自国民でもあるラルキ領民を襲撃していた』という負い目もあり、何とか『戦功を挙げて汚名を糊塗【こと】したい』という考えになっていた事は、当然と言えば当然であった。もっとも、その考えを理解でき賛同するのは当人達のみではあったのだが……。
そんななかで、なぜか無防備に接近してくる『敵の軍勢』がいる。
確かにベルザル国軍は空腹ではあるが、飢えているとまではいえない。
また糧食に乏しいとはいえ補給も間近。士気は低いが一会戦くらいは何とかなる。
しかして此れ以上の好機はないと考え、進軍してくる無防備な敵軍(実態は避難民の集団)への攻撃準備が行われていく。
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ラルキの国王執務室でリーナは指示を出していた。そんな中で避難民受け入れのための市内への告知と、軍勢の派遣準備も漸く終えて、いざ出発しようとしていた矢先に急報が飛び込んでくた。
「ベルザル……敵軍移動を開始。避難民へと向かっています!」
「こ、この期に及んで、まだ避難民を狙うのか?! 口封じのつもりかッ、ふざけやがって! 我らも出るぞ、民を護れ!」
予期されていた事態とはいえ、現実にその報せが来れば激怒するのは当然である。
事実リーナも執務室で公務中であったが、報せを受けるや椅子を倒す勢いで立ち上がり、激情のあまり机を叩いて感情を爆発させていた。
開門と同時に千百に及ぶ軍勢が雪崩を打って出陣していく。隊列を組む余裕などない。とにかく避難民の集団にベルザルより先に辿り着かなければならないのだ。
動ける軽傷者は言うに及ばず、若干の従軍経験のある民兵と有志の冒険者が馳せ参じて、なんとか一千を超える数は揃ったが、相手は一万を優に超えている。
ラルキ単独では、とても抗する事など出来ようはずがない。
すでに諸宮に対しては支援・増援要請は成されており『応諾』の旨を受け取っている。後続の諸宮の軍勢も随時進発してくることは既に作戦要諦として示されており、数的には伍していけることは、ラルキの軍勢も了知してはいる。
それでも、たとえ数的劣勢であったとしても、ラルキが第一撃を担う先陣を務めねばならないのだ。
事の発端は、ラルキとの作戦会議で、リンが突然先陣をラルキに譲ると言い出したことだった。
この案を聞いたとき、エミナは「ラルキを使い潰すおつもりなのか!?」と感情を抑えた低い声で問い質すが、その応えはこうだった。
「違います。この先、本当にラルキが我らと共に歩む気があるのか否かを、確かめるという意図ももちろんあります。ですがもっとも重要な点は、今後リーナ・ラ・ティリス殿が執り行うラルキの統治の事なのです。現状ではラルキとして戦う事もせず、領民を護ることすらできなかったという負い目があり、払拭せねば諸国との交渉時においても、いらぬ波風が起こりましょう。それは戦うことすらせず自国民でさえ護らない者が、他国との約定を守れるのかという疑念です。つぎにラルキは独立国であって諸宮の服属国ではないと内外に示さねばなりません。したがって、戦端を開くのは必ずラルキ単独で行わなければならず、諸宮の増援はラルキからの要請に従って助勢したという形式が必要なのです。以上から領民保護の名目で、まずは貴国が先陣を切って戦端を開き、第一撃を担ったという事実が必須となるのです」
この案を聞いていた詩織は感心していた。実はこの事に対して言及がなければ己が言わねばなるまいと考えており、イザヨイの面々の表情を見るに、この案はリンが自分で辿り着いた答えと理解したからだ。
エミナも短絡的な感情で性急な答えを出した己を恥じた。言及されるまでその点に思い至らなかったからだ。確かに全てが他国任せでは、ラルキの独立さえ疑われて信用も信頼も得られはしないだろう。決定権すらないともなれば『重要な話を通すなら、貴国の宗主国へと話を通す』となるのは当然である。これではとても独立国と称することはできないと思うに至った。
リーナもまた確かに言われてみれば、全くもって『その通りだ』と理解し納得した。戦う事すらせずに、自国民すら護らない者が信用してくれと言い募っても、甚だ疑わしいとしか言いようがない。少なくともそのような者がラルキに来たとしても、私なら『信用はしない』だろうと考えていた。
三者三様の感慨を抱くが、おそらく勝てるであろう会戦で、自分達(諸宮)の戦果や戦勲だけではなく、独立国としてのラルキの立場を配慮できるという政略上の見識を披露したことで、リンの評価はかなり上昇した。いままでは傀儡とは言わずとも『凡庸なのでは?』と見られていたのだ。
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「見えた! 避難民です! 間に合った!」
隊列もなく急ぐラルキの軍勢はラルキ伯爵旗を掲げ、避難民の集団と合流した。
思いのほか早く合流できたことは、まさに僥倖【ぎょうこう】であったと言える。
ラルキに報せが届く間にも避難民は移動し続けており、彼我の相対距離が短くなっていたことが功を奏した。
一時は安堵したリーナと言えば、いま目の前にいる避難民達の惨状に言葉すら出てこない。
着の身着のままならまだ良い方で、女性は衣服を引き千切られている者が多数おり、申し訳程度にその身を隠している。乳飲み子は項垂れて母に抱えられているが声すら発していない。歩ける幼子は大地を一人で歩いているが、その手を引く親の姿は見えない。傷を負った者で歩ける者は歩いているが、傷からは血が滲みでている。壮年層はいるにはいるが、例外なく傷を負っている。難民の列の外周側にはまだなんとか動ける者達が女性を含めて護衛に立ち、中には志願したのか十二にもならない子供たちが、杖に包丁などを結び付けて槍の代わりにして、健気にも護衛の任についているのが多数見られた。そして皆が皆、痩せている。
そんな中でも、僅かな種子の入った小袋を大事そうに隠し持っているのだ。
この冬を乗り切ったならば……この地で生きていくために……。
まだ見ぬ春のために……。
そして、この寒さの中での『最後の行軍』を行い、ここラルキまで辿り着いたのだ。
――『よくぞ、よくぞ……この日まで生き永らえ辿り着いてくれた』――
唯々その一念のみが、胸中を去来する。
この現状を鑑みれば、あの嫡子の言葉は正しい。
確かに『限界だったのだ』と今更ながらに実感する。
そんななかでも合流した者達から、家族を探す声がそこかしこで響く。
妻の名、夫の名、兄弟姉妹の名、娘の名、子の名を呼んでは、喜声と歓声、嘆声と啼声が拡がっていく。
そんな光景をリーナは渦巻く感情と共に見ている。
間に合った安堵と救えなかった悔恨、なんのためにこのような惨状を生み出しているのかという疑問と困惑。
『国主として将として、何が起きているのかは見ておくべきでしょう』とイザヨイ・リン殿から進言された。
また詩織からも『知らない方が良い事もあれば、知らなければ良かったと思う事もある。そして知ったからには、動かねばならないこともある。それはお主の受け取り方次第だが、国主としても将としても見ておくべきではあろうな。その間は護ってやる』と言われたのだ。
何のためにと疑念を抱きつつ、進言通りに前線に出てきたのだ。
……そして観たのだ、なにが起きていたのかを。
全てにおいて『感情の整理』がつかない。
だが、確かにあると断言できるのは『憤激』だ。
それはこの惨状を齎したベルザルに対しても、また防ぐことも出来ず、それどころか『知ろうともしなかった自分』に対しても抱く偽らざる感情だった。
リーナが衝撃を受けて避難民を見つめている間、詩織はリーナの傍らから片時も離れずに側にいた。
いくら避難民とはいえリーナに対して、この惨状の招いたと難詰し暴徒と化す恐れは否定できなかったのだ。また避難民に紛れて間者が潜入し、リーナに対して危害を加える恐れもあった。
さらには暴徒化した避難民(即ち領民)を『実力』を以て鎮圧するという行為を、建国されたばかりのラルキの国軍が行うことは後々に続く禍根を生み、いらぬ『しこり』となって疼【うず】く懸念もある。
故に鎮圧するならば、ラルキとの関係性が薄い客将たる己が鎮圧しなければならないと詩織は考えていたのだ。その為、詩織はベルザルとの闘いの最前線には配されていない。エミナもそんな詩織の考えと懸念を内密に聞いて、その心配りに敬意の念を抱く。
ともすれば民衆を鎮圧するという『汚れ役』ともなる役回りを、文句も言わずに、ただ黙して全うしようとしてくれる詩織に対して、感謝するほかなかった。
このことはラルキ城市を発つ前に、エミナは各隊長格や諸侯はもとより、リーナにも詩織の考えを説明していった。
言及され指摘されれば確かにその通りで、反論の余地すらない。
その為、今回の戦闘には参加しない詩織を非難する声は時を追うごとに消えていき、逆にそんな事にさえ思い至らない自分に恥じ入った。
そして血に酔わず激情にも流されない、そんな詩織の冷静沈着ぶりを『さすがは剣聖である』として高く評価し、賞賛が寄せられていくことになる。
そんな一幕があることは露知らずに、リーナは労を労うべく、指導者の男爵の嫡子を呼び出そうとしたまさにその時、声が挙がった。
「敵襲! 歩兵が突っ込んでくるぞ!」
「防御陣形! 民を護れ!」
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戦端はすぐに開き、そこかしこで悲鳴と絶叫が飛び交い始める。
ベルザル側は軽装歩兵らしく、本隊からは一足先にこの場に到着したらしかった。
そのまま攻撃に移ろうとしていたベルザル側の兵達は、奇妙な違和感を覚え始めている。
戦端を開くべく接近しつつあるが、敵方の反応があまりにも遅い、遅すぎるのだ。
奇襲攻撃を受けてすら、これほどまでに対応が遅いことなど本来はないはずだ。
困惑し疑念には思いつつ、彼我の距離が近づいていく。
そして『敵兵の姿』を視認した瞬間、違和感への理解と後悔が同時に押し寄せた。
「!?(馬鹿野郎、なんてこった?! こいつ等軍兵じゃない、避難民だ! 何考えてやがるんだ、上の馬鹿どもは!?)」
それでも外側に配置されていた年少兵が粗末な槍を突き入れてくる。素人が突き入れてくる槍とはいえ、殺意と共に突いてくるのだ、当たれば死傷もする。
敵意あれば対応せざるを得ないのが軍兵であり、悔恨と共に年少兵を切り捨てていく。そんな光景がそこかしこで現出していた。
そんな中でも、一人の志士が奮戦している。体の動きは明らかに正規の訓練を受けているのが見て取れる。
外周の年少兵を相手していたベルザル兵達も後味悪いからか、その烈士の相手をしようと集まり始めた。
だがその意図は、その志士の死を早める結果になってしまった。
確かに腕は立つが、取り囲まれては捌き切れるものではない。
腹部を槍で刺し貫かれるが、握り締めた腕で剣を振るい、その槍の穂先を斬り落としていく。だが、そこで動きが停まってしまった。
戦場で動きが停まれば、待ち受けるは殺意の一撃。次々と斬られ槍で刺し貫かれていく。
もはや己の剣すら握っていないが、代わりに己を貫いた槍を掴み離さない。
離せばその槍が避難民たちに向くことが判っているからだろう。
周りの兵は業を煮やしたのか、その死力を尽くす様に恐怖したのか、幾本もの槍で烈士を刺し貫き渾身の力で掲げ上げていく。戦果を誇るかのようなその行いは非常に目についた。
ラルキ国軍は避難民の集団を護るためには、前線を押し上げて敵を押し戻すしかないのだが、ラルキ側の殺意に満ちた異様なまでの士気の高さが功を奏したのか、徐々にではあるが、前線を押し返し始めた。
そんな中、前線からやや離れた中陣付近にいたリーナは、幾本もの槍で刺し貫かれた志士が持ち上げられるその様子を目撃するが、遠方にも拘らず掲げられた者と不意に視線が交錯した気がした。もはや視力さえ喪いつつあるその志士は、力なく片方しかない腕をリーナに伸ばそうとしていた。もうもう片方の腕は既に斬り落とされ、その傷口は焼け爛れていたのだ。
リーナはその志士が『男爵の嫡子』だと直感する。
その者は確かに微かに口を動かし、そしてリーナを見据えて、何かを渡そうとするか様に、手を伸ばしていた。
「殿……下、決起なさ……わたしでは……もはや、たみをまもれ……。たみを……頼み……たみにひか……りを……」
戦場の喧騒の中で、死に行く者の小さい囁きなど聞こえるはずもなく、遠方故に視線が交錯するなどあるはずもない。
だが確かに聞こえた。そしてリーナもまた志士たる死に行く者に視線を向け見つめ返し、手を伸ばし掌を握り締める。
確かに受け取り、そして聞き届けたと小さくとも力強く頷き返した。
その者は安心したのか満足したのか微笑みを返したようだが、それとて一瞬のうちに戦場の剣戟【けんげき】の中に消えていく。
刺し貫いた槍を引き抜こうと、その身を地に打ちつけられたのだ。そして、その姿も戦場の喧騒と戦塵に消えていった。
一方でラルキの軍勢では、一種異常ともいえる士気、否、殺意が充満していた。
「てめェーら、生きて帰れると思うなよ!」
「……殺す。サミアの仇だ!」
「あの子の声が……笑顔が……もう」
「おい、どんな気分だよ? え~、刺されてのたうち回る気分はよォ~? ああ? どんな気分だ! 聞こえねェぞ、言ってみろ!」
「こうか、こうか? おい泣いてちゃわからんねェよ?」
「おい、去勢って知ってるか? こうやるんだぜ」
「やめてくれだ? あァ~? おい、なにいってんだ? キールは同じことを言っていたそうだぜ?」
「あ? 子供がいる? だから?」
「子を助けるのに、ルティはその躰を差し出したんだとよ……。散々輪姦した後でルティの前で子供を殺したそうじゃねーか。えェー、おい。胸糞悪いんだよ!」
「てめェらか? 木の実まで奪ったって奴は? その木の実は乳代わりだったんだよ。寒さと飢えで逝っちまったよ、二人ともな。ははは、俺にはもう……何も残っちゃいない。……なんにもな……」
「次の奴、もってこい。こいつはだめだ。もっと活きの良い奴がいい。すぐに死んじまっちゃ……、俺の心が満たされねェんだよ」
負傷すら気にせず前線を押し上げていくラルキの軍勢。
そんなラルキの軍勢と斬り結んで、そのまま死亡できれば運が良い方だった。
負傷して隊から落伍した兵は悲惨である。戦闘中にもかかわらず凄惨な拷問が起こっていた。
しかも避難民も負傷兵を避難民の隊列に引きずり込み、これでもかというほどの、より凄惨かつ凄絶な拷問が始まる。しかも止める者が皆無という状況が現出していた。
しばらくすると、ベルザルの後続が続々と到着する。
先鋒の戦況を見るに『のんびり布陣する暇はない』と判断したのか、即時に戦力投入が始まる。
だが、それは戦力の逐次投入でもあった。
まさにその時、ラルキ勢の後背に諸宮の軍勢も布陣し始めており、リン率いる『青のマキナ第一大隊』と、ノリス率いる『黒のマキナ第二大隊』及びリリムル率いる『赤のマキナ第三大隊』が揃い、更に各大隊付き野戦猟兵団と諸宮連合軍戦士総監のルイム・アスワム率いる七〇〇〇の歩兵集団、同じく諸宮連合軍弓兵及び魔術師総監のクララ・シャンセオン率いる魔術士隊二百と弓兵七百が前進を開始していく。
マキナ第一大隊から、指揮官機(リンが搭乗)と思しき巨人が歩を進めて陣列の前に出てくる。それに追随して他の四機も出でて、ラルキの軍勢に近づいてくる。
その左手には旗が括り付けられた大槍を持ち、各機が立ち止まるや大地に石突を突き立てた。
風を受けて翻るはラルキの大旗とイザヨイ、シャンセオン、マフラル、アスワムの大旗。
余りにも不意のことで、両軍の戦いが止まる。
『何をする気なのか』と思い固唾をのんで窺うや、突如巨人が大声を挙げて喋り始めた。
「我らは諸宮連合の軍勢である。ラルキ国の要請により参陣した。此れより取り交わしたる『約』と『義』により、暴虐なる匪賊の徒を此処に討つ!」
巨人は右手で腰に佩いた大剣をゆっくりと抜き放ち、頭上に掲げる。
陽光を受けてぎらつくその大剣を振りかぶり、そして振り下ろしてその切っ先をベルザル国軍に向けた。
そして決定的な命令を唯の一言で、明瞭かつ力強く覇気を伴って言い放った。
「吶喊【とっかん】ッ!」
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「『各隊に通達。
弓兵隊、射撃用意。攻撃指向、正面の敵。二連斉射後各個自由射撃。
魔術士隊、魔術錬成陣にて3重火焔弾準備。攻撃指向、同じく正面の敵。二斉射後各個自由射撃。
各隊、友軍誤射に注意せよ。マキナ隊と戦士隊が取り付き次第支援射撃を中止。その後は指示あるまで待機せよ』」
そろそろかとマキナの方を見やれば、号令が発せられようとしている『まさにその時』だった。
「吶喊ッ!」
「『よし、撃ちィィィ方……始めッ!』」
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「吶喊ッ!」
「よ~し、いくぞ! 楔型隊形を崩すなよ、前進ッ!」
命令しながらも、自分たちの頭上を『放たれた矢と火焔弾』が轟音を挙げて通過していった。
なかなかに壮絶な光景ではある。もっとも更に壮絶かつ凄絶なのが着弾点の敵軍だった。
着弾と同時に土が爆風で吹き荒れ土煙が巻き上がる。その爆風には、つい先程までは『人であった肉片と臓物』が混ざり、土煙には血が混ざって赤茶色の煙となって辺りを覆う。それが連続して着弾し、敵の陣形が崩れたところに更に矢が降り注ぐ。
とてもではないが、陣形を維持するどころか、立っていることすら出来ないだろう。
罷り間違えれば『友軍誤射』にすらなりかねない戦法だが、こんな危険な芸当ができるのも、配備されているこの通信機のおかげだ。
「『弾着修正。前方に二百。次で最後の術法撃だ、歩兵隊が取り付くぞ!』」
「『了解、弾着修正。前二百、五ビヨ後に一斉射。撃ち方用意、撃てェ!」
そんなクララ殿の声が同時に聞こえ、同じく頭上を『ゴォ―~』と音を立てて火焔弾が通過していく。
「『五、四、三、二、一、弾~着~、いまッ! 支援術法撃終了、武運を祈る。通信終了』」
ズゥ――ンン、ズズゥ――ンン、ズズゥ――ン……。
腹に響くような重低音? が聞こえ、大地が微かに揺れている。
クララ殿の『実況解説』通りに着弾し、土煙が巻き上がり、そして肉片が飛び散っていく。
「戦列が崩れた! いくぞ、喰い破れ! 全力襲歩、突撃!」
・
・
・
同じ頃、騎兵総監ザムル・マフラル率いる率いる八百の騎兵隊は迂回しつつベルザル方面の後方域へと進出していた。
さて『弥生殿の見立て』だと、ここらにいるはず……だが?
ん? ……おっと?!
――『はい、大当たり!』――。
物資を抱え込んだ補給隊が、ぞろぞろといました!
それではと……、
「よしそれじゃ、位置と護衛の数を送ってくれ」
そばにいる通信兵に命じる。
『こちら騎兵団。目標の補給隊を発見。護衛は歩兵四百弱。位置は一二七、八七、五一、以上』
『こちらラルキ駐留軍、受信。一二七、八七、五一、確認おくれ。指示があり次第運搬部隊を回す。以上』
「もう運搬部隊を回していいぞ。すぐに終わるからな。それから物資がかなり多いから荷車は多めにな」
『一二七、八七、五一、確認。運搬部隊を出してくれ。物資が多量のため多くの荷車を要請する。通信終了、オーヴァー』
「団長。オーヴァーって、どういう意味なのでしょうか?」
通信を滞りなく終えた担当の兵が以前から疑問に思っていた事を口に出して問うた。
「俺にわかる訳ないだろう? 弥生殿に聞いてくれ。それよりもお仕事の時間だ。征くぞ、全力襲歩、吶喊!」
「はッ!」
「……」
主力のスケルトン騎兵が『無言の応え』を返す。
「やはり、こう『ウォ―~!』といったある種の『鬨【とき】の声』が挙げられないのだけが、不満だな~……」
そんな感想を抱きながらも、騎兵での強襲で補給物資の護衛隊を散々に引き裂き、首尾よく物資を強奪していく。
逃げた護衛隊への本格的追撃は見送るが、追い回す振りで装備を脱ぎ捨てさせていく。まさに追剥の所業であった。
ラルキに帰参した際に、この装備一式は何かと問われて「落ちていたから、拾っただけだ」とは騎兵総監ザムル・マフラルの談である。
こうして恙無く補給物資の強奪も済み、ザムル・マフラルは思索に耽っていく。
御題は――『どうやって如月弥生をマフラルへと迎えるか』――である。
招聘【しょうへい】競争は、いまもって熾烈を極めているのだ。
だがおそらくは『無駄な努力で徒労に終わる』であろう事は、衆目の一致するところではあった。
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マキナ装甲機兵連隊【マキナ三個大隊(一個大隊三四機)と連隊付二個小隊(六機)】の総勢一〇八機は、支援術法撃後の前線を突破して後方に布陣しているベルザル本陣に目掛けて疾走していく。そしてその頭上を支援術法撃が間断なく飛び越えていき、次々と敵陣に突き刺さっていく。舞い上がるのは、当然ながら肉片と臓物と血が混じった土煙であった。
『リン、あと二斉射で支援術法撃を終了する。個別支援が必要なら座標を指定して! 乱戦模様ともなれば、さすがにこちちからは支援ができない』
戦の気配に充てられたのか、いつもなら閣下と呼び習わしているクララが、以前の口調でリンと呼んでいることに思わず笑みが零れる。
(因みにこの口調はクララがわざと『リン』と呼んでいることに、当のリン本人が気がついていない。クララとしては親密さを演出し、親近感を抱かせる作戦であったのだ)
『支援に感謝する。マキナ隊、これより敵本陣に突入する。通信終了』
応答を聞いたクララが思わず苦笑してしまうくらいに、まったく気の効いたことが言えないリンであった。
激闘が繰り広げられている戦域を見渡せば、もはや形勢は決していた。
諸宮の戦士隊が突入して、敵の前線を散々に喰い破っている。
また一隊が分派され、ラルキ勢と相対していたベルザルの先鋒隊に後背から喰い付いていた。後背からの攻撃と、前方に殺意が漲るラルキ勢に挟撃され、ベルザル先鋒隊は漸減から急減に移行して瓦解していく。進むことも退くこともできなくなった隊は散々に打ちのめされ、取り残された兵達には、戦死か拷問かの道が残されているのみだった。
加えて敵本陣に突入したマキナ隊と野戦猟兵団は、鉄床【かなどこ】戦術を現出させていた。マキナ隊が敵を引き付けて行動を束縛し、側面に回り込んだ野戦猟兵団がこれを狙い撃つのである。また野戦猟兵団が後退すると釣られて前に出た敵部隊の側面に今度はマキナ隊が強攻突入し、動きが止まった敵に反転攻勢をかけた野戦猟兵団が攻撃を仕掛けていく。
ベルザルとしては、突入してきたアイアンゴーレムを数的優位で押し返そうとするも、ゴーレム系統への対策装備もなく、またトタルの森外縁部にて糾合【きゅうごう】した侵攻軍残余兵達が恐慌状態に陥り混乱を助長。その恐慌が本陣主力に波及し、最後には壊走状態に陥った。
最後方にいた部隊すら、装備類を投げ捨て逃げ始めていく。
また後詰め【遊撃や前線の補強の任に就く部隊】としての予備兵力が逃散し始めたことで、戦力の補強が出来ず損耗が急拡大し、遂に前線に穴が開き始めた。
更には、前線に穴が開き始めたことで『包囲される』という恐怖が伝播し、前線に位置していた部隊も浮足立ち始め、勝手に戦線から個々人で逃げ始めていく者達すら見受けられた。
軍として投降しようにも、自分たちが行ってきた今迄の凶状故に、降伏することもできないという窮状に陥ってしまったのだ。
それでもまだ何とか戦力を維持していた部隊といえば、自己判断で強行離脱をし始めていた。
正規の完全な『国軍として編成された軍』ではなく、増援として急派された各諸侯の軍勢の寄せ集めとしての実態が、窮地の際で露呈してしまったのだ。
司令部は、なおも指揮統制力を維持しようと奮闘していたが、指揮すべき実働部隊が自己判断で戦域から離脱し始めたことで、敢え無く脆くも崩壊してしまった。
結果、『全軍総崩れ』となり、ここに後にいう『ラルキ戦役』は一応の終結となったのだった。
戦局は一応の終局を迎えたが、後方では別の戦いが続いている。
魔術士隊は医薬品などを抱え、簡易ながらも治癒術を施術していく。また後続の補給隊も到着し始めており、食料や衣服類などが避難民に配布されていく。
安撫政策の一環として諸宮も物資供出のみならず、物資の運搬や負傷者の救護とその移送に協力しているのだ。
確かに、後方では別種の『熾烈なる戦い』が繰り広げられていたのだ。
『命を救う』という戦いが……。
この治癒術と物資の提供、救護と移送という簡単であるが確実な安撫政策は、かつての敵ともいえる諸宮と獣人への『隔意と敵意』を大幅に低減させていくことになったのだった。
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既に遠目にもベルザルの国軍は壊走状態であり、追撃の好機ともいえる。
この機を逃すべきではないと考えたのか、軍官がリーナに進言してくる。
「閣下! 諸宮の軍勢が側面を衝き、敵方は分断、後退しつつあります。追撃されますか?」
「追撃……は、やめておこう。まずは避難民の救護と収容をする。重傷者を見捨てるな。我らの同胞だ、一人でも多く救わねばならない!」
おもわず激情に駆られて、追撃の下知を下しそうになる。だがそれは一時の自己満足なのだろうとも思う。
確かに自分は無傷だが、それは誰かが代わりに負傷している事の証左ともいえる。
それに苛烈なまでの戦闘で、負傷兵が続出している。また今は興奮状態で疲労も気にはならないだろうが、そのうち限界が来る事もわかっていた。
「帰ろう、ラルキに……。我らの国に……」
あの志士から『願いと思い』を確かに受け取った。
ならば『光を紡ぎ育み、次に繋ぐ』ために、今は戻ろう。
我らが国に……。
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日も暮れ、夜の帳が下りた戦場跡。
遠く離れたラルキ内での戦勝祝いの賑やかさとは対極の『静寂と沈黙』が、ここにはある。
燦然と輝く月とその月光に照らし出され、青みがかった色彩に彩られた大地には、儚くも虚ろなる雰囲気が醸し出されている。それはさながら夢の中、幻の中にいるような幻想的な風情であった。
しかし目を凝らし周りを子細に見やれば、兵達の亡骸や流民の亡骸がそこかしこに転がっている凄惨な戦場の跡であると窺い知れる。
それとて日が昇り朝を迎えれば、遺留品や遺棄物を掻き集めようとする者達が集まるだろう。
その行状は、さすがに良い顔をされることはない。
だがある一面では、限られた資源の再利用とも言えなくも無く、また名のある家門の者の遺留品があれば、その生死の判定の一助ともなるのだ。
逆に、このような行為に勤しむ者がいないと、精錬された金属製品の回収が一向に出来ずに『野晒し』のままとなる。
(因みに回収された金属類は鋳潰【いつぶ】されて、その地域の復興資材や生活資材、農具などに用いられる事になる。また質の良い武器類は現品のまま盗賊などからの防衛用武器として再利用されることになるのだった)
また名のある出征者が生死不明では、家督相続などの問題を引き起こしてしまう事にもなり、更なる要らぬ混乱をも誘発しかねない。そのため、このような回収は黙認されているのだ。
(附言するならば、戦が終わり三カ月経過しても戦闘中行方不明者が帰還しない場合は生死不明、半年経過で死亡推定、一年経過で戦死扱いになるのが通例である。また高貴なる者やその係累が捕虜になっている等の状況下では、身代金を払わせる都合上、捕虜として遇されていることが相手方に『通告される』のが習わしとなっていた。だが当然ながら過大な出費を伴うため『身代金を払わない、乃至は払えない』といったことも散見されることになる。そして、その際に演じられる悲喜劇は、貴族や有力家門の稀によくある『あるある話』であった)
また、このような戦場跡の『掃除人』は、亡骸の処置(埋葬・火葬)などを簡便ながらに行うという理由で戦場跡に立ち入ることになる為、実際に亡骸の処置なども行うことになる。そして、これは『衛生条件の改善』にも繋がっていた。
(実際問題として、亡骸まで『野晒し』となっていては『疫病発生の直接的または間接的原因』にも成りかねない事は、経験則として知られている事柄でもあった)
ただ同時に『敗残の落ち武者狩り』を行う破落戸や無頼者なども集まる為、そこかしこで新たなる犠牲者達が生まれるという悲喜劇をも、現出する事にもなるだろう。
だが今宵は、まだ人の手の入らぬ凄惨な戦場跡のまま。
それ故に、人の手が創り出した屍山血河【しざんけつが】が織り成す凄惨さのみが際立っていた。
そんな凄惨な戦場の跡を、リュートらしき楽器から流れていく旋律と流麗なる歌声が静かに撫でていく。
時に激しく、時に和やか。そして賑やかに、そして物悲しく……。
いまこの場で、この旋律に耳を傾けて聴いている生者は、極々少ないだろう。
ましてや月光に照らされ青みがかった色彩を纏【まと】う大地自体が、旋律と流麗なる歌声に誘われ、微かに青白い燐光を発していることに気がついた者など皆無であっただろう。
幻想的な風情の中で、音曲を紡ぐ奏者は天音詩織であった。
紡がれている聞いた事のない曲と旋律は、誰に手向けてのものだったのだろうか……。
奏送した詩織は戦場に落ちていた剣を大地に突き刺し、大地に静かに身を屈めて持ち寄った花束をそっと置く。そしてゆっくりと立ち上がり、そのまま二歩ほど下がった。傍らの袋から同じく持ち寄った酒と杯を取り出し、まずは酒で満たした杯を献杯し、己が一献飲み干す。続いて再度杯に満たした酒を豪快に振りまいたのだった。
そして再び満たされた杯と残りの酒は花束の横におき献酒する。
次いで静かに吟じていく。
『祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
兵どもが夢の跡、偏に風の前の塵に同じ。
下天の内をくらぶれば、夢また幻の如く。
猛き者も久しからず、唯春の夜の夢の如し』
「戦いに赴き斃【たお】れし全ての勇士に捧ぐ。勇士の園にて暫しの宴を楽しまれよ。その魂魄【こんぱく】、未練と恩讐を断ち、迷うことなかれ。さらばだ」
声は大きくないが、涼やかに凛とした明瞭な口調で口上を述べると、腰の太刀を抜刀して横薙ぎに紫電一閃。
次いで月光を映す太刀をゆっくりと納刀した。すると微かに青白い燐光を発していた大地も静けさを取り戻していき、あとには月光の青みがかった色彩に彩られた大地があるのみだった。
詩織はその様子を見て、威儀を正し胸に手を当てて哀悼と敬意を表し、暫し黙祷を捧げる。
ここにいう『兵【つわもの】』とは、生きるという『営みを行う者』全てを指し、そして『戦い』とは生きるという『営み自体』を指す比喩表現として詩織は用いていたのだが、その『言の葉』を聴く者は周囲にはいなかった。
其処【そこ】には、いままでにない『新たなる剣聖』として姿が確かにあった。
かつて剣聖がこのような儀式めいた事を執り行ったという記録は存在しない。
だがこの儀式を遠くから隠れ見ていた者達は、その厳粛なる儀式を垣間見て、そのあまりにも高潔なる様に『正にこれこそが剣聖のあるべき姿』と感銘を受けていた。
そして詩織が、この厳粛なる戦場跡を立ち去る際には、自然と膝を折り、威儀を正して己の知り得る最上の礼と敬意を以て、身じろぎ一つせずに見送る。それは、この『高潔なる剣聖』の姿が見えなくなるまで続いていた。
因みに『激戦の戦場跡』につきものの『亡霊』や『ゾンビ』と言った脅威は、後年になってもこの地では発生どころか目撃さえされずにいた。
様々な調査が幾度も行われたが、その全てにおいて『原因不明』という結果のみが残っている。しかしながら、そのようなことは余談に属する話である。
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