サックマン
墓場を出ると風に乗って歌声が聞こえてきた。
音程を上げて下げる。たったそれだけの、リズムなんて何も無い、耳障りな即興歌。
音の聞こえてくる道の先を見ると、頭に紙袋を被った不気味な人間がこちらに向かって歩いてくる。
思わず身構えた四葉だが、紙袋はまるで気が付いていない様子で、横を通り過ぎ、そうして去って行った。
紙袋の去っていく後ろ姿を眺める四葉に、仁が不安そうな声を掛ける。
「今の、何だったんだろう? 変な人?」
仁の言葉を無視して、四葉は紙袋に背を向けて、紙袋がやって来た道の先へ駈け出した。
四葉は紙袋の事を知っていた。何処で、そしていつ見たのかは思い出せない。けれど四葉はあの紙袋の事を知っていた。あの紙袋がとても強い事を知っていた。あの紙袋の傍にはいつも傷ついた人が転がっている事を知っていた。
だから四葉は紙袋のやって来た道へ向かう。そこにきっとまた、誰かが倒れている事を知っているから。そう確信して走る。
そうして四葉が道を駆け、曲がり角を曲がり、そこに血を吐いて倒れている女を見付けた。近くの高校の制服を来た女は気を失った様子で倒れ伏している。その顔が載ったコンクリートに血が広がっている。
「やっぱり」
そう言って倒れた女へ駆け寄りながら、四葉は自分の言葉を不思議に思う。間違いなく自分はこの結果を予想していた。あの紙袋が居たのだからきっと誰かが倒れているのだろうと。けれど何度思い返してみても、あんな紙袋を被った人間を見た覚えが無い。それなのにどうして自分は。
倒れた女が血を吐いた。
四葉は思考を打ち切って、倒れた女の傍に屈みこんだ。一先ず魔力を送り込む。
「四葉さん」
追ってきた仁が四葉の隣に屈みこむ。
「仁君、この人をお願い。私じゃ治療出来ないから」
「え? うん。それは勿論。だけど」
仁の心配する様な視線に、四葉は微笑みを投げた。
「私はさっきの紙袋を追う」
「駄目だよ!」
悲鳴の様な声を上げた仁を無視して、四葉は立ち上がる。
「その人をよろしくね」
それだけ言って、背後から聞こえてくる仁の言葉には答えず、四葉は来た道を戻って紙袋を追った。
すぐにまたあの調子外れな歌が聞こえてくる。
角を曲がると、遠くに紙袋が見えた。飄々として歩いている紙袋の背に向かって、四葉は思いっきり叫ぶ。
「待ちなさい!」
紙袋が振り向く。
不思議そうに首を傾げ、かと思うと顔を背けてまた歩き出した。
「待ちなさいって言っているでしょ!」
四葉が再度叫ぶと、紙袋は振り返り、自分を指さして首を傾げた。
「そう! あんたよ、あんた!」
「俺に何か?」
静かで落ち着いた声音が、距離が開いているにも関わらずはっきりと、紙袋の向こうから聞こえてくる。何だか威圧感がある。四葉は恐そうになる自分の心を叱咤して、もう一度声を張った。
「向こうで倒れてた女の人、あんたがやったんでしょ!」
紙袋が振り返る。
「ん? ああ、そうだけど?」
だからと首を傾げてくる紙袋の男に向かって、四葉は人差し指を向けた。
「大人しくお縄につきなさい!」
「どうして?」
「どうしてって! じゃあ、あんたはあんな事して良いと思ってるの?」
「蹴り飛ばした事? 勿論良い事をしたと思っている」
四葉が男の言っている事を理解出来ずに目を見開いた。
それを見て、男は溜息を吐く。
「どうやら君は、俺が何の罪も無い人を一方的に傷付けたと思っている様だね」
「違うの?」
確かに相手の事情はまるで知らない。けれどあの倒れていた女が何か悪い事をしていたとも思えない。
「ああ、違う」
「なら、あの人は何を?」
何かの復讐の為? それとも誰かを襲おうとしていた?
四葉が思考を巡らしていると、男が言った。
「道端にゴミを捨てた」
「は?」
「彼女は道端にゴミを捨てた。だからお仕置きをした。分かってくれたか?」
「そんなの」
男の言葉がこちらをからかっての事か、それとも本気で言っているのか分からない。
「そんなの納得出来る訳ないでしょ! たったそれだけで」
「確かにたったそれだけの事かもしれない」
「あんた」
「だがそのほんの些細なきっかけが人の社会を壊す」
男の言いたい事が分からずに法子は口を噤む。
「人は脆弱だ。俺が蹴るだけで死んでしまう程弱々しい。そんな人間の作った社会はやはり脆い。小さな悪であろうと拡大し、いずれその虚弱な文明は破壊されてしまう。だから俺はポイ捨てを許さない。万引きを許さない。いじめを許さない。信号無視も速度違反も、未成年の飲酒喫煙も、全て止める」
「意味が」
「分からないならそれで良い。だが俺はどんな小さな悪も許さない」
四葉は反論しようとして、けれど言葉が口から出てこない。男の言葉は絶対に間違っている。どんな理由があったって人を傷付けて言い訳が無い。そう思うのだけれど、一方で四葉は共感していた。紙袋の悪を潰すという考えに。確かに町中では法律やマナーに対する違反や人の事を考えない行動が横行していて、それを止められたらなと思っていたから。
共感してしまった以上、反論の言葉が浮かばない。結局四葉は負けたくない一心で、一言だけ言い返した。
「馬っ鹿じゃない」
男が静かに答える。
「馬鹿じゃない」
それに対して四葉が再度言葉を重ねる。
「ばっかじゃない! ばっかじゃない!」
「馬鹿じゃない」
「じゃあ、あんたが人を傷付ける事は悪い事じゃないの?」
「当然悪い事だ。許される事では無い」
「じゃあ、そんな事しておいて、そんな、そんな事してるのに、何馬鹿な事言ってんの!」
「馬鹿じゃない。世の中に正しい事だけを貫いている者なんて居るものか。だからと言って、誰も悪を止めてはならないなんて言っていたら悪は蔓延するばかりだ。誰かが罪人に対して石を投げなければならない。だから俺がやる。誰もやらないのなら、俺がやる」
静かな声音には確かな自信が感じられる。狂気掛かった確固な男の意志に、四葉は説得出来そうにないと思った。そもそも共感してしまっているのに、何と言えば説得出来るのか分からない。
けれど間違っている男を前にして黙っている事も出来ない。もう何を言っても負け惜しみにしかならない気がしたけれど、それでも何とか言い負かしたくて、四葉は言った。
「悪い事をしてるって自覚はあるの?」
「善か悪かで言えば、悪だろう」
「じゃあ、私がそれを止めても文句無い訳?」
紙袋の中から掠れた息遣いが聞こえた。どうやら笑っている様だった。
「俺を悪だと断じるなら、止めてみせろ」
男が構える。
その隙の無い構えに四葉は一瞬怯んだが、すぐさま歯を噛み締めて男を指差した。
そう言うならやってやる。そっちが言ったんだから。
四葉が男を指差した瞬間、男の立つ地面の辺りから幾つもの巨大な蔦が生まれて男に襲いかかった。
相手は素手、しかも構えを取ってこちらの出方を伺う様子だった。だったら距離を取って戦えば。
蔦が男を襲ったのと同時に、四葉の視線の先で、男は迫る蔦に目もくれず大きく一歩踏み出した。たったの一歩で数メートルを踏み出し、四葉との距離を詰めながら、悠々と蔦を躱す。蔦を避けられた事に四葉が驚愕した瞬間、男の姿が消え、足元から声が聞こえた。
「ほら、人間はこんなにも脆い」
その言葉が聞こえた時には既に、四葉の体は宙に蹴り飛ばされていた。
そのまま壁に後方の壁に叩きつけられ、体から何かを吐き出す感触を覚える。
やられた。そう頭で考えた時には、体が無意識に動いていた。必死で息を吸い、自分の胸に手を当て体の中を修復する。
「四葉さん!」
顔を上げると、仁が心配そうに立っていた。
「仁君、どうして? さっきの女の人は? 治療は?」
「消えちゃった」
四葉の背筋が凍りつく。
「消えた?」
それはつまり、男の所為で死んだという事か?
驚愕した四葉を宥める様に、仁が言った。
「そうじゃなくて、あの女の人、人間じゃなかった」
四葉は何とか立ち上がりながら、問い尋ねる。
「人間じゃない? じゃあ、魔物?」
「魔物でもない。生き物じゃない。多分魔力で作られた人形」
「どういう事?」
「分からない。けどあれは生き物じゃなくて、四葉さんが犯人を追ったすぐ後に、消えちゃった」
どういう事なのか分からない。だったら紙袋の男から聞き出そうと、道の先を見ると、既に紙袋の姿は消えていた。
誰も居なくなった道の先を眺めながら、四葉はまた既視感に苛まれ始めた。同じ状況が前にもあった。紙袋の男が襲ってきて。その時には撃退した。そうして逃げ去った道の先を今と同じ様に眺めていた。そして隣に立っていたのは。あれは。誰だったか。思い出せない。
墓石の前に立ってからずっとこうだ。何だか次々と既視感が襲いかかってきて、それ等全てが思い出せない。単なる勘違いとは思えない。錯覚ならこんなに何度もやってくるはずがない。
きっと実際にあった事のはずなのに。
「四葉さん?」
「何とかしないと」
そう何とかしないといけない。あの紙袋の男は怪しい。きっと何か知っている。きっとこの既視感についても。
このもやもやとした不快感を何とかしないと大変な事になる。自分の周りの日常が破壊されてしまう。そんな予感があった。
だから何とかしないといけない。あの紙袋を見つけ出し、この既視感の正体を暴かなくてはいけない。
「駄目だよ。今もやられちゃったんでしょ? 勝てないよ」
「分かってる。でも何とかしなくちゃ。そうでしょ? 放っておけない」
「そうかもしれないけど。でもあんな怖い人」
「怖いとか関係無い。私達はああいう人から町を守らなくちゃいけないの! そうでしょ?」
「そうだけど。でも危ないし」
「何で分かんないの? 私達ですら危ないって事は、他の変身出来ない普通の人達はもっと危ないんだよ?」
「そうだけど」
何だか苛々する。
そのほとんどが夏の暑さと奇妙な既視感から来る事は分かっていたけれど、どうしても目の前でおどおどと言い訳を重ねている仁にぶつけそうになる。何か酷い事を言いそうになる。
辛うじて堪えつつ、四葉は会話を打ち切る為にそっぽを向いて歩き出した。
「もう良い!」
言ってから失敗したなと思う。思った以上に強い口調になった。
案の定、仁は泣きそうな声でついてくる。
「ごめん。四葉さんの言いたい事は」
四葉は振り返りもせずに、その言葉を遮る。
「もう良いって。食事遅れちゃうんじゃないの?」
「え? え?」
慌てて携帯を取り出し始めて仁を無視して、四葉はその場を離れた。
苛々とした心を沈めようと深呼吸するも、夏の熱気を吸い込んで、更に嫌になった。
嫌になった心は不快感をそのままに段々と沈み込んでいく。苛々が罪悪感に変わっていく。
酷い態度を取ってしまった。次にどんな顔をして会えば良いのか分からない。
嫌われてしまったかもしれない。
純や律と一緒になって、糾弾してくるかもしれない。
みんな二度と会ってくれなくなるかもしれない。
どうしようと悩みながら歩いていると、突然肩を掴まれた。
驚いて振り返る。
仁か、もしや紙袋か。
四葉は緊張で息を飲んだが、肩を掴んだのは全く別の人物だった。
安堵の息を吐く。
「真桜」
クラスの友達の真桜がにやにやとした笑みで立っていた。その後ろには、同じくクラスの友達の深聡も控えている。
四葉が親友の二人に笑顔を浮かべると、真桜が笑みを深めた。
「いや、嬉しそうだね。うん」
「そう、かな?」
自分はそんなに嬉しそうな顔をしているのだろうか。けれど仕方が無い。親友に会えたのだから嬉しくならないはずが無い。
「うん、で、単刀直入に聞くけど、さっきの男の子、誰?」
「は?」
真桜が何度か首を縦に振る。
「うんうん。分かるよ。一足先に彼氏が出来て、ちょっと優越感入りつつ、でも噂になったら恥ずかしいって思ってるって」
真桜のにやにやとした笑みの理由をようやく理解して、四葉は慌てて否定した。
「いや、え? 違うよ。さっきのは違う。私が好きなのは」
「ん?」
「あ」
思わず退きかけたが、真桜に腕を取られた。呆然としている内に、腕を組まれて、連行されていく。
「ちょっと話聞きましょうか。何か飲みながら」
深聡に助けを求めると、目の前に紙切れを差し出された。
「クーポン券あるよ」
クーポン券がひらひらと揺れている。
真桜に視線を戻すとにやにやと笑っている。
秘密を聞き出そうとする親友達に呆然としながら、一方で冷静な自分が語りかけてくる。
この幸せな時間が奪われるかもしれないんだぞ、と。