(6話) 人類が残せる最大限のもの
あてがわれた部屋は、先ほどいた部屋同様に、もとの部屋を診療所として使うために改装した部屋だった。ベッドが三つ並んでおり、それぞれに白いシーツがかけられていた。壁紙は白く塗りなおされていた。几帳面に整えられ、清潔にされている部屋だった。暗くて、細かいところまでは見えないが、きちんと掃除されているような印象だった。縛られて転がされた部屋の、埃っぽさや黴臭さはなかった。
一番奥のベッドに、コンラッドがいた。とっくに眠りに落ち、盛大にいびきをかいていた。セトは、置いてきた荷物が気になっていた。取りに行くべきか、それとも明日にしようか。シエラの管理下にあるならば、盗まれる心配はないだろう。胸ポケットに、手を当てた。写真だけは手元にある。それで、ほかの荷物は明日にしようと決めた。一番入り口に近いベッドに、ごろんと横になる。
体は疲れているのに、なぜか寝付けなかった。ありえない、と毒づく。枕が変わったくらいで眠れなくなるようなタイプではない。そんなのでは、考古学者なんてやっていられない。
胸のあたりが、ざわつく。
変な予感が、神経を小さく揺さぶっていた。
何度となく寝返りを打って、結局諦め、ベッドを出た。風に当たろう。そう思った。部屋の空気は熱く、淀んでいた。
ランプを手に廊下に出て、階段を探した。もう、アルノも眠っている頃だ。彼がどの部屋で寝ているのかは分からないけれど、物音を立てないよう、慎重に階段を上った。屋上の扉は、鍵がかかっていなかった。それどころか、扉はわずかに、開いていた。予感は、正体の分からないままに膨らみ続けていた。蝶番は軋んで、やけに大きな音を立てた。
その音が、向こう側にも聞こえたのだろう。
「誰」
かすかな、けれど鋭い声が、開いた扉の向こうから聞こえた。
屋上には、先客がいた。アルノかと思ったが、そうではない。
あの、青年だった。
夜の冷気が頬をなでた。風が強い。昼間の暑さを奪い去るように、激しく彼の肌をたたいた。
青年は柵にもたれ、じっと下を見ていた。
「どうした?」
「……来るな」
今度ははっきりと聞こえる声。初め見たときに想像していたよりもずっと、低かった。落ち着いた、柔らかな声だ。
振り向いたその顔が、ランプのわずかな明かりの中で、ひどく憔悴して見えた。ランプをそっと、下に置き、少年のすぐ横まで歩いた。
「こんな時間に、どうした」
「来ないで。……部屋に、戻って」
予感の正体はこれか、と思う。
「このまま、死なせてほしいんだ」
その体が、あやうげにふらりと揺れた。とっさに、腕を掴む。そのまま勢い任せに、セトはこちらに引いた。
「何を……」
どさり、と折り重なるように倒れこむ。
「お前、足の怪我、治ったばっかりなんだろ」
「離せ」
こちらの言葉を頭から無視し、掴んだ腕を、振り解こうとする。けれどもその力が、余りに弱弱しい。頭をぶんぶんと振って、どうにか逃れようとしているのを、無理やり押さえつけて、座らせた。なおも立ち上がろうと、子どものように足をばたつかせる。
「もううんざりなんだ!」
その目が、セトを鋭く射抜いた。
負けじと、叫んだ。
「いいからとにかく座れって!」
はっと、息を呑むのが聞こえた。強く吐き出したセトの言葉に、動きを止めた。こわばった体が、かすかに汗ばんでいる。
「とりあえず、二、三回、深呼吸してくれるか」
肩で大きく息をしていた。それが落ち着くのを待つ。
「一応、確認しとくけどな」
腕を放し、少年の隣にあぐらをかいて座る。
「お前、ここから飛び降りようとしていたのか?」
「死なせてくれって、言っただろ」
「今夜は延期してくれ」
首を小さく、横に振る。俯いているせいで、顔は見えない。
「死なせて……」
それからしばらく、嗚咽が続いた。いきなり立ち上がって、また飛び降りようとするのではないかと警戒したが、そういう様子はなかった。先刻の抵抗で、精一杯の力を使ってしまったようだった。背をぐったりと柵にあずけ、声を殺して泣いているようだった。それをセトは、どこか居心地の悪い思いで見ていた。
いつまでも続くような嗚咽が、言葉になるのを待った。
「……助けて」
ひとしきり泣いて、そこで青年はようやく、絞り出すように、言った。ほっとして、セトはその淡い色の髪を、くしゃくしゃと掻き回してやった。なんとなく、子ども扱いしてやりたかった。
「ごめん」
「いや、別にいいけど」
「馬鹿みたいだ、俺」
「自分でそこまで分かっているなら、十分だ」
「………」
ふと上げた目に、月が映った。研ぎ澄まされた刃物のような、細い三日月だった。自らの黒い影を、重たそうに抱きしめている。もう失ってしまったものを、大事に守り続けるように。その周りに、弱々しく光を放つ星が浮かび、ゆっくりと空を巡っていた。
「喋れるんだな」
頷く。
「ちなみに俺はセトっていうんだけど」
名乗ると、青年はもう一度、頷いた。
「俺は、スイ」
「スイ、か。大変だったな」
「え?」
「一か月も黙ってたんだろ。俺には真似できねえな、と思って」
スイが、かすかに笑ったように見えた。
「あの写真は、どこで?」
スイが問う。
「あれはな、うちにずっとあるんだ。ずっとずっと、大昔から。俺は親父に、ネビュラスという場所で撮られた写真だと教えられた。最初は、鼻で笑い飛ばしたよ。冗談でも言っているんだと思った」
けれども気がついたら、その伝説の町が自分を捕らえて離さなかった。
「あなたは、ネビュラスを探して、どうするつもり」
「さあな。辿り着くことで、何か分かることがあるかもしれない、って程度の話だな」
スイは、いぶかしげな表情で、しばらくセトの顔を見ていた。
セトは、言葉を探した。
「……うまく言えないけど、作り物じゃないものを見てみたいと、思ったのかもしれない」
「作り物?」
「俺が生まれたところでは、空も海も山も作り物だった。そういう形のあるものだけじゃなく、上手く言えないけど、全てが用意されたものでしかない気がしたんだ。生まれたときから、生きるための場所を―――箱庭のようなものを用意されて、ここでこういう風に生きていけ、と言われているような、味気なさがあった」
「だから地球に来たの?」
「そうかもしれない。こんなに酷いところだとは思わなかったけど」
「どんなところが?」
「こんな暑いところで、よく動き回れるよな」
「夏は暑いものだよ。でも、あなたが言おうとしていることは、分かったような気がする」
「そうか」
しばらく、沈黙があった。どことなく、意味深な沈黙だった。隣に座って空を見ているスイは、今にも何かを言おうとしているように見えた。そして、ようやく何かを決心したように、口を開いた。
「怖かった」
やっと、搾り出したような声だった。
「乱暴な連中が、あそこを―――ネビュラスを見つけたんだ。みんな殺して、自分たちのものにしてしまった」
「蛮族、ってシエラは言っていたな」
頷く。
「生き残ったのは、お前だけか」
もう一度、頷く。
「うんざりだった。もう、全部終わってしまえばいいと思った」
その白い横顔は、濡れて透き通って見えた。
綺麗だ、と思った。セトは素直にそれを受け入れた。綺麗だ。
「せっかく今日まで続いてきたものを、簡単に終わってしまえばいいなんて言うなよ」
スイは、腫れた目をこちらに向けた。
「俺がこういうこと言っても、アレだけど。死に物狂いで繋いできた命じゃねえの?」
セトは、無意識に、目の前にいる青年と、写真の少女を重ねていた。一枚の紙切れが、宇宙と地球に人々が遠く隔てられてなお、それぞれ大切に残されていた。そこに、何か強い意思が感じられた。紙切れではない、何か大事なものを、次の世界を生きる人々に必死で繋いでいこうとする、強い力のようなものを。
スイは意を決したように、口を開いた。
「あなたは、ネビュラスに行きたい?」
「ああ」
「今、ネビュラスを目指すのは、危険かもしれない。それでも?」
その目にははっきりと、恐怖が浮かんでいた。
「ネビュラスは存在する。幻なんかじゃなく、現実に。けれども今、あそこには蛮族がいる。俺から全て奪った人たちが。何かを得られるとは限らない。反対に、色んなものを失うかもしれない」
その恐怖が、彼を揺さぶり続けている。
彼が今の今まで沈黙を続けた理由が、不意に理解できた。雨が止んで、晴れ間が覗くように、鮮やかに、はっきりと。
これ以上、失うまいと思ったのだ。そして、自分の中に残ったわずかなものを抱いて、死んでいくつもりだったのだ。
孤独だ。
それが、彼の恐れの正体だ。
「あなたが見せてくれた写真は、きっと、昔、ネビュラスを出て宇宙に上がった人が持っていったものだよ」
頷く。きっとそうなのだろうと、彼も思っていた。あるいは、そうだったらいいと思っていた。今はそれが、確信に変わっていた。
「だとしたら、あなたは、あなたの言葉通り、自分のありかを探しにきたんだ」
「……ネビュラスってのは、そもそも何なんだ?」
「人類の痕跡。証拠。存在のすべて」
「……確かに、伝説ではそんなことが言われてたけどな……人間が生きた証が残されている、みたいなことが」
「人類がこの世界から姿を消したあとに、この星に生きる何者かのために、人類が残せる最大限のもの」
「人間がいなくなった、そのあとに……?」
「あなたたちはまた、地球に戻ってこようとしている。その気持ちは、たぶん、俺にも理解できると思う。でもあのとき―――あの戦争のとき」
と、そこで一旦、言葉を切った。そして、何かを思い切ったように、続けた。
「人間は滅びるべきだったのかもしれない」
遠くで鐘の音が響いたのは、その直後だった。