(5話) 全部夢なんだ
はっと、息を呑んだ。
その少年を目にした瞬間、空気がほんの少し、薄くなったような気がした。
「大きな怪我はまだ治療中だけれど、それ以外は治りつつある。起き上がることも、歩くこともできるよ。けれども今はこうして、一日のほとんどの時間をベッドの上で過ごしている。もともと、あまり体が丈夫ではないのかもしれない。体力があるようにも見えないしね」
アルノは小声で言った。
少年の体は、いたるところに包帯が巻かれていた。首や頭、腕。その身に起きた不幸を、細い体がじっと受け止め、耐えているようだった。痩せた頬に、長いまつげが影を落としていた。食事もろくに口にしない、とシエラは言っていた。薄い唇に血の気はなく、陶器のティーカップに描かれた、青い花びらを思わせた。向こうが透けて見えるような、あるいはこの世界から切り離されて存在しているような――そんな印象だった。
少年は薄いグレーの瞳で、セトを見た。まっすぐ。それを、受け止める。細い刃で、すっと射抜くような目だった。何かを見抜かれたような気が、した。
少年、とシエラは言っていたが、年齢は自分とそれほど離れていないように見えた。二十そこそこくらいだろう。青年といった方がいい。ただ、目元はどこかあどけなく、そのせいで幼く見えた。
セトは手近な椅子を引き寄せ、彼の目の前に座った。すぐ後ろにいるシエラが、ひどく苛立っているのが分かった。あるいは、何かを焦っているようにも思えた。それを無視し、その青年と向き合った。
「この写真の場所に行きたいんだ」
宇宙から持ってきた、あの写真を渡した。
差し出された写真を、青年は受け取り、じっと見入った。
長い、長い沈黙があった。セトは辛抱強く、言葉を待った。
「無駄ね」
しばらくして、シエラが大げさにため息をついた。そして、さっさと一人で部屋を出て行ってしまった。
青年は写真から目を上げ、そっとこちらに返した。
何か言うのではないかと期待したが、青年の口はかたく閉じられたままだった。
セトは受け取り、胸ポケットに仕舞った。
「ずっと、こんな調子なんだ」
アルノが言う。
「それで、あの隊長さんもいい加減、うんざりしているわけ」
シエラは出て行ったきり、戻ってくる気配がない。
「ええと、俺らはさっきのところを使えって言われてるんだけど……」
ランプは、シエラが持っていってしまったらしい。
「ここに泊まればいい。この部屋を出て、二つ隣の病室が空いている」
「監視とか、いいわけ?」
「彼女があの様子なら、問題ないだろうね」
「先に寝ていいかね? 疲れたんでな」
「……さっきまで寝てませんでしたか?」
「気絶と睡眠は別物だ」
コンラッドは部屋を出て行った。声には元気がない。疲れているのだろう。猛烈な暑さの中を、歩いたり走ったりの一日だった。
「君も、眠った方がいい」
「……できれば、そうしたいね」
体がだるかった。プールで何往復も泳いだような気分だ。
「彼女に何を言われたかは知らないけれど、疲れただろう?」
シエラのことを言っているらしい。
「別に、そんな酷い目にはあってないけど。しいて言うなら、縛り上げられて、床に転がされたくらいか」
アルノは、小さく吹き出した。
「やり手の軍人だけど、容赦ない一面があるんだ。蛮族の間でも有名らしい。彼女が軍をまとめるようになって、確かにこの町は前より平和になった。けれど彼女のやり方は、人を傷つける。彼も―――」
ふと真顔に戻った。カーテンごしに、青年を指す。
「最初の頃は、かなり酷いやり方で、どうにか喋らせようとしたんだ」
「一言も喋らない、って言ってたな」
「あの子は、ずっとあんな感じなんだ」
「派手に怪我をしたみたいだけどな」
「うん。全身の打撲が特に酷い。殴られたり蹴られたりしたんだろう。それと、両足の腱が切られていた。逃げないように、だろうね」
「あんな坊主をつかまえておいて、どうする気だったんだ?」
アルノはうつむいて、口ごもった。
「……肉体的な暴行もそうだけど、性的暴行を受けたあとがある。多分、そういうことだろうね」
吐き気がするような話だと思った。
「あの子は、僕たちを信用していない。だから何も話さないのではないかと、僕は思っている」
彼はそれを、心底悲しそうに言った。
「けれども、君たちなら―――あの子はもしかしたら、君たちが何か、違うということを分かってしまったのかもしれない。君を見たとき、あの子の顔に、初めて表情らしいものが生まれた」
部屋の片隅に、診察用の机が置いてある。その椅子に座り、足を組んだ。そして、あいている椅子をセトに勧めた。もう少し、話すことがあるとでも言いたげに。
「シエラは伝承に囚われすぎているんだ」
「囚われる?」
「そう……強く」
その声にはどこか、悲しげな温かさがあった。彼女に何か、特別な感情を持っているのかもしれない。ふと、そう思った。勘違いかもしれないが。
「……ネビュラスに、何があるんだ?」
「夢だよ。全部夢なんだ。何があったとしても―――それがどんなに素晴らしい財宝だったとしても、それで人が幸せになれるとしても、それがなんだろう。シエラはそれが分からないんだ。彼女は、今ここにある幸せに気づいていない」
「あの女、軍人辞めて、冒険家にでもなった方がいいんじゃないの?」
その言葉には、アルノも苦笑した。
「そういう君は、どうも冒険家らしくないように見えるね」
「よく言われる」
「なんていうか、色々なものを、一歩退いて見ている気がする。がむしゃらに何かを求めるような人には、どうしても見えないな。初対面でこんなことを言うのは、失礼かもしれないけれど」
躊躇うように、目を逸らす。
「君はもっと、切実なものを求めているように、見える」
「俺が?」
「そう。例えば―――自分の立ち位置のようなものを」
「それは――」
セトは何か言いかけて、やめた。うまい言葉が、見つからない。
自分でも感じていた。
いつだって、何だって、どこか非現実的で、作り物のような気がしていた。どこにいても、張りぼての町に迷い込んでしまったように感じていた。どうしても、自分がこの世界に含まれているとは思えなかった。
自分の属する世界を探しているのかもしれない。ふと、そう思った。かすかに、笑う。
「もう寝るよ。世話になるな」
「ああ、遠慮なく使ってほしい」
アルノは穏やかに言い、棚においてあるランプをひとつ手にとって、慣れた手つきで火を灯した。それを彼に渡す。セトは軽く礼を言って受け取り、部屋を出た。
ランプの火は、明かりのない廊下を、小さく、頼りなく照らした。彼の周囲だけが明るい。それ以外は、完全な闇だった。
ともかく今は、睡眠だ。
きっと眠ったら、昼まで起きないだろう――そう、思っていた。