(序章) 私を撮って
「先生、私、地球に残ります」
少女は言った。
おだやかな夜だった。月が銀色の光を降らせていた。海と砂浜が、その冷たい光を抱きとめて、キラキラと輝いていた。ゆるやかに弧を描く海岸線に、寄せては返す波の音。それ以外には聞こえない。
その波打ち際に、少女はいた。
ふらりふらりと体が揺れ、立っているのがやっとという様子だった。ちょっと目を離したすきに、波に足元をすくわれてしまいそうだった。それでも、彼女は自分の足で立ち、ゆっくりと、海と陸の境目を歩いていた。
その少女の後ろを、男がゆっくりとついていく。あまり近づきすぎないように。でも、倒れそうになったら抱きとめられるように、適度な距離を保ちながら。
少女の体は、その大部分を白い包帯が覆っていた。腕も足も、あどけないその顔までも。髪は抜け落ち、だいぶ薄くなっていた。原因不明の病が、彼女の体を蝕んでいた。男は主治医として出来る限りのことをしたけれど、進行を抑えることすらできなかった。どこかの国が使った新型の爆弾の影響だといわれているが、本当のところは分からない。
「この病院はもう閉鎖してしまうんだ。それに……」
「先生も宇宙に行かれるんでしょう」
彼は頷いた。
「今度赴任する病院は、設備も整ったところだし、ここよりも研究だって進んでいるはずだから……」
彼女を一緒に連れて行くつもりだった。
今、世界中で、同じ病気で苦しんでいる人がいる。彼はその研究員として、月の裏側にある研究所からオファーを受けていた。
新型兵器とやらが奪ったのは、人間の命だけではなかった。動物も植物も、酷い被害を受けた。いくつもの森が消え、森や海の生物たちが死んでいった。
戦争でボロボロになった地球を、人間は放棄することに決めた。こぞって宇宙に移住した。今地球に残っているわずかな人々も、近いうちに、先に移住した親戚や知人を頼って地球を離れていく。
彼が勤める病院も閉鎖を決めた。患者を順次移送し、職員もどんどん大気圏の外に移っている。
「ここに残るっていったって、どうするつもりなんだ」
少女はそれには答えず、また海岸線に沿ってゆっくりと歩き出した。彼女の目は、遥か海の彼方へ向けられていた。海は大きくうねりを続けている。せり出した岸壁に、波が飛沫を上げている。力強く、美しい、この星の最後の姿。
「きれいですね」
頷く。
「この海で、たくさんの魚が死んでしまったなんて、信じられない。この星でたくさんの動物が死んで、森が燃えて、人が死んでいったなんて、私には信じられない」
その声には、力があった。自分も死に瀕しているというのに、その目に悲壮感はなかった。あるのは、強い意志の輝きだった。彼女は自分の意思で、ここに留まろうとしているのだと、彼は思った。少女は、彼に背を向けたまま、言った。
「ねえ、私、最後まで人間はこの星を見捨てなかったんだって、胸を張って言いたいんです。そのために、ここに残ります」
「………」
「そんな顔しないで、先生。ほかにも、残る人たちがいるでしょう? 大丈夫、ひとりじゃないから」
そして、少女はそっと、顔に巻かれている包帯に手をやった。するすると解く。どす黒くただれた皮膚。包帯は静かに、砂浜の上に落ちた。続けて腕。ゆっくりと、ゆっくりと、全身を覆っていた包帯を解いていく。それにしたがって、ただれた皮膚があらわになっていく。
「先生、カメラ持っていたでしょう?」
「……あるよ」
地球での最後の夜だと思って、小さなカメラを持ってきていた。それを、白衣のポケットから取り出す。
「それで、私を撮って」
少女は海に入った。膝の辺りまで水に浸かっている。海をバックに、白いワンピースが映えた。
「可愛く撮ってね。でも、きれいになんて撮らなくていい」
高潔な少女だと、このとき彼は思った。
痛々しくただれた皮膚は、きっと海水にしみただろう。それをものともせず、少女はレンズに向かって、めいっぱい微笑んでみせた。
彼はシャッターを二回、押した。
一枚を彼女に渡し、残りのもう一枚を大切に持って、宇宙へと上がった。