(1話) どうして今さら、地球なんでしょうね
セトは、猛烈に不機嫌だった。
「コンラッド教授、ひとつ聞いてもいいですか」
「何だね? 言ってみたまえ」
数歩先を歩く老学者が、足を止めて振り返る。
「なんで、地図も読めないような人が、こんな重要な調査隊に抜擢されるんですか」
「……し、失礼な! 読めないわけじゃないぞ。この地図が間違っとるんだ!」
ひらひらと、手に持った地図を見せながら主張する。セトは、自分よりもふた回りは小さいその体を、どつき倒してやりたくなった。
「まあ、そういう、怖い顔で睨むな」
「……もともと、こういう顔ですよ」
「目つきの悪さが、いつもの五割増だぞ」
「インフレですよ。放っておいてください」
夏の日差しは、容赦なく彼らを痛めつけていた。石畳の道路は陽光を照り返し、じりじりと全てを焼き尽くそうとしていた。沸騰しそうな汗が、じっとりとセトの体を濡らしていた。フードを取り、ぼさぼさの黒髪を掻き回す。耳にぶら下がった銀色のピアスが、音もなく揺れた。
彼らがいるのは、ヨーロッパの一角だった。砂糖細工のような、白っぽい石造りの建物が並ぶ。町の真ん中を大きな川が流れ、水車が静かに回り続けていた。レトロで、美しい町並みだ。けれども、人の姿は見えない。通りを歩いているのは、彼ら二人だけだった。
人間が地球を離れてから、すでに長い年月が経過している。
数百年前、世界規模の大きな戦争があったらしい。そのときに使われたいくつかの大量破壊兵器は、地球をあっという間にゴミに変えたという。そして、困った人間は、ゴミを捨てることにした。そうやって、宇宙に移住した人間の子孫が、セトたちだった。
長い、長い時を経て、宇宙に移住した人々は、地球に調査隊を派遣した。目的は二つある。ひとつは、環境の調査。大気や水などの汚染が、地球の自浄作用によって、どの程度回復しているか。森林資源はどの程度回復しているか。こうした調査の目的は、再び人間が地球に住むことだった。
そしてもうひとつは、かつて地球に生きた人々の痕跡を探ること―――歴史的建造物が、どの程度残っているか、そしてどういう状態にあるかを調査することだった。
セトが属する部隊は、主に後者の任務を担っていた。したがって、構成員の多くが考古学に通じた人々である。セトやコンラッドもまた、その一人だった。
とはいえ、本隊からはぐれてしまっては、任務もなにもあったものではない。セトは、盛大に―――コンラッドにも、それと分かるように、ため息をついた。
「教授、こんなこと聞きたくないですけどね……わざとですか?」
「何がだね?」
「わざと、本隊から離れたんじゃないですか」
「どうして、そう思うのだね?」
「ネビュラスなどという遺跡が、本当にあると思っているんですか」
「幻の都市を探すために、わざと本隊を離れたと思ったかね?」
「なんとなくですけどね、ふと、思ったんですよ」
「だから、君は私についてきた、と」
沈黙。
ややあって、セトは降参したように、両手を挙げた。
「……ええ、そうですよ」
ネビュラス。その名を、胸の中で反芻する。幻の都市。多くの学者が鼻で笑い飛ばし、その存在を否定してきた。けれどもセトは知っている。コンラッドは偉大な考古学者として認められているが、その一方で、ひそかにその幻の都市を追い続けていることを。
地球は、かつて人間が住んでいた頃の姿を、ほどんどそのまま留めていた。今でも、そこかしこに、ここで生活していた人々の呼吸のようなものが残っていた。アパートメントの窓の向こう側に、炊事をする女性や、その周りで遊ぶ子どもの姿が見えそうだった。
けれども、よく見れば、人の手を離れて長い年月が経っていることが分かる。建物の壁にはいくつものヒビが走っている。風雨に晒され続け、大きな染みが出来ている。石畳の道路はところどころめくれ上がっている。ショーウインドウのガラスは一枚残らず割れ落ち、マネキンだったらしいものは、腐って崩れ落ちていた。街路樹は枯れ、通りを吹き抜ける風はひどく乾いていた。
「この辺りは、酷い爆撃は受けなかったようだな」
「そうですね」
暑さで、だいぶ参っていた。自分でも気づかないうちに、息が荒くなっていた。
「辿り着けますかね、ネビュラスという遺跡に」
「存在していれば、辿り着ける。存在していなければ、我々は夢を見ていたのだ」
「夢か……」
コンラッドは、アパートメントの陰に腰を下ろした。セトも、それに倣った。思えば、午前中からずっと、歩き通しだ。大きなリュックを下ろし、シャツをめくって背中に風を入れた。
「君とは、そこそこ長い付き合いになるな」
不意に、コンラッドがそんなことを言った。
「そこそこの長さって、微妙ですね」
「うむ。初対面でいきなり、ネビュラスについて研究したいと言った学生は、君しかいないからな。第一印象はバッチリだったぞ」
「どうバッチリなのかは、あえて聞きませんが」
「君は、なぜ、ネビュラスに固執する? 存在すら定かでない、幻の遺跡に」
セトは水を一口あおり、それが喉を通り過ぎるのを待ってから、口を開いた。
「幻、ね。確かに、どんな地図にも、そんな地名はありません。衛星写真からも、それらしい遺跡は発見されなかった。ネビュラスという言葉が歴史上―――あるいは、伝説上に登場するのは、一度きりです。地球上で行われた最後の世界戦争の、それも末期」
セトはここで一旦、言葉を切った。コンラッドの方を見る。コンラッドは、重々しく、そしてどこか示唆的に頷いた。
「地球から人間が去っていく中で、ネビュラスは取り残された。それは、大量破壊兵器による汚染がもっとも酷い地域だったため、救助の手が入るのが遅れたからだと、伝えられているわけですが―――」
「ネビュラスに取り残された人々は、そこであることを決断する」
「その辺りからはもう、伝説の範囲ですね」
「ああ。彼らは、人間が地球に存在した証を残そうとした。それが―――」
「今も、遺跡として残っている、と」
コンラッドはまた、重々しく頷いた。
「彼らが残したものを、見たいとは思わんかね?」
「それゆえの単独大暴走がこれ、ですか」
本隊に戻ったら、どんな罰が待っているのだろうかと、ふとセトは思った。考えても仕方のないことではあるが。
「ネビュラスに残った人々は、そこで全員息絶えたと言われておるが、私は信じておらん」
「どうしてです?」
「君がそれを問うのか?」
セトは軽く、鼻で笑った。
「いやらしい言い方」
「まあ、生き残って宇宙に上がった人々がいたとしても、彼らは―――あるいは、彼らの子孫は、沈黙を守ったままだ。彼らが何か話してくれれば、私の研究ももう少し、早く進んだのだがな」
「それ、俺に言ってます?」
そこで、コンラッドはゆっくりと立ち上がった。お喋りは終わり、ということだろう。
「日が暮れるまでに、行けるところまで行ってみよう」
セトは頷き、彼の後ろについて歩き始めた。
太陽は少しずつ、西に移動していた。あと何時間と待たずに、日が暮れるだろう。影は徐々に長くなり、空は徐々に赤みを帯びていた。それでも暑さは和らぐこと知らず、彼らを痛めつけ続けた。
「どうして今さら、地球なんでしょうね」
ふと漏らした問いに、コンラッドは歩きながら一瞬、振り向いた。
「こんなとこで生活していたら、寿命が縮みます」
体は弱い方ではないという自負がある。特別鍛えているわけではないが、調査隊の選抜においては、体力テストをそれなりにいい成績で通過している。けれども、今日一日の暑さで、だいぶ消耗していた。こんなところに人間が普通に住んでいたというのは、にわかには信じがたい話だった。宇宙に移って、人間は弱くなったのかもしれない。どこかで、そんな論文を読んだことがある。だとしたら、地球に再び移住するなど、馬鹿げているのではないかとすら、思った。
「人間というのはつまり、風邪の病原体みたいなものかもしれんな」
「地球にとって、ということですか?」
「うむ。治りかけたと思ったら、またぶりかえす」
「宇宙へ羽ばたく病原体……」
「あるいは癌か」
「それはつまり、母体を離れては生きてはいけないと? 微妙だな、それ」
セトはまた、頭を掻いた。考え事をするときの癖なのかもしれない。
「あるいはただ単に、人間が病気なのかもしれん。意味もなく地球に惹かれる病気だ」
「だとしたら、病原体にあたるのは何です?」
「望郷の念」
と。
そこで、先を行くコンラッドが、不意に足を止めた。セトもつられて、立ち止まる。
「何か、聞こえないか?」
耳に両手を当てた。意識を集中する。
かすかに、ほんのかすかに、人の声らしいものが聞こえた。
「よく気づきましたね」
「うむ」
「ほかの隊員でしょうか」
人間が暮らしているわけもなく、いるとすれば彼らの同僚と考えるほかない。目的別に別行動を取っているから、別の部隊と遭遇する可能性は、確かにある。
「行ってみよう」
「え、行くんですか?」
ほかの隊員だとしたら、ここで合流するのが得策なのか分からない。あるいはコンラッドは、別の可能性を考えているのだろうか。くるりと方向転換をし、狭い路地に入っていく。
「どっちから聞こえるのか、分かるんですか?」
「君は、分からないのかね」
分からない。
「……しかも無駄に、足速いし!」
小走りで駆けていく老教授を、慌てて追う。
路地はごちゃごちゃと汚く散らかっていた。ガラスの破片や、木片や、土くれや石くれが、地面を覆い隠していた。それらに足を取られ、歩きにくくて仕方ない。前を見ると、コンラッドは足場の悪さをものともせず、どんどん先へと進んでいく。遅れないように焦るほど、置いていかれるような錯覚を覚えた。
ときどき、人の声が聞こえてきた。
風の音か、あるいは幻聴だろうと、半信半疑で走る。
けれどそれが何度か耳に入ってくるうちに、確信する。間違いなく、人の声だ。
段々大きくなっていく。近づいているのだ。コンラッドを信じたのは、間違いではなかったかもしれない。
そう思った矢先だった。
「こっちだ!」
「ちょっと! 待ってくださいよ!」
急に、コンラッドが走り出した。
「人生は待ってくれないぞ!」
「意味わかんねえし!」
がれきに足を取られている間に、コンラッドは狭い路地から、さらに狭い建物と建物の間に入っていった。
「やれやれ……」
限界だ。
走るのを諦めて、セトはコンラッドが消えていった方に向かって歩いた。