五 六年まえ
五 六年まえ
ミカリが宮に訪れなくなったのは、きっと彼女は、心のなかで自分がしてしまったことに責任を感じていたからなのだろう。
センリはそこまで気にすることはないと思っていたけれど、六年もの間ミカリはひとりで、背に重りを背負いつづけていたのかもしれない。
□
年も暮れ、ケイネルが子を身ごもると、ミカリは毎日のように宮に訪れるようになった。
まだまだ先だというのに、子が生まれる日が楽しみで仕方がないのだろう。宮に来ても、いままでのように自分に会いにくるのではなく、まっすぐとケイネルのほうへむかっていくことが多かった。
(ミカリはのんきでいいな)
センリはというと、この頃一段と〈舟渡り〉をすることが多くなっていた。
ミカリやスミが部屋を訪れなくなると、父も戦や婚儀を終えて国の再建に力を入れはじめ、いそがしい日々を送るようになっていた。
そうやって皆がなにかに夢中になっているように、センリも〈舟渡り〉をすることに夢中になっていたのだ。周りが、あらたに宿ったあたらしい命のことでにぎわう輪から、こっそりとはずれていくように……。
鳥も巣立てばひとりで生きていく。センリにはそのことはよくわかっていた。
けれど人であるセンリには、それは無理だった。鳥のように思いきってひとりで生きていくのは、とても勇気がいる。
センリは〈舟渡り〉の技をつかうたびに、自分はなにかから目を背け逃れているだけがして、次第に心に影を宿すようになっていった。
ケイネルに付きっきりになってしまった乳母のスミの替わりに、あらたにセンリの世話係を任されるようになったのは、ターナンという小柄で髭を生やした、初老の物知りな男だった。
彼ははじめて会うなり、自分のことは〈じい〉と呼んでくれと言ってきた。よく話す、親しみやすい世話係である。
じいはテルサの生まれだったので、シギアのなかでもテルサ地方のことにはとても詳しかった。
そして勉強嫌いなセンリのために、じいはよく、テルサでうたわれる唄をうたってくれた。それは〈ナリノ唄〉という、シギアの農村に広く伝わる小正月の祭り〈ナリノカミ〉の際にうたわれる唄だった。
――森に眠り 泉に眠る鳥よ
ナリを渡り 山を越え 里に降りん
ハイ喰い 羽を休まば 立ちあがれ
ホーイ ホーイ
きょうも何気なくその唄を聴いていたセンリは、ふと気づいて訊いた。
「じい、ナリとはなんだ?」
すると彼は、迷うことなく答えた。
「ナリとは、鳴滝川のことでございます。この唄が特によくうたわれるテルサの村々は、鳴滝川の恵みで栄えております。小正月で行われる祭りは、その川の恩恵に感謝しながら、作物の豊作を祈願するために行われるのです」
「そうか」
王都で生まれ育ったセンリは、〈ナリノカミ〉は聞いたことはあったものの、実際にそれを自分の目で見たことはなかった。
「ナリノカミでは、子どもたちが雪洞をつくるのです。
夜にはその雪洞に灯りがともされて、とても幻想的で美しい世界が広がるのですよ」
その後も、じいは〈ナリノカミ〉について熱く語ってくれた。
センリはじいが熱く語っているのを、ぼんやりと情景を思いうかべながら聞いていた。
それから数日後のある日、ミカリが久々にセンリの部屋へとやってきた。
ミカリは部屋に来るなり、説教をするときのスミの顔をして言った。
「センちゃん、昨日お勉強が嫌で逃げだしたでしょう?」
センリは無言のまま、ミカリを見つめた。
たしかに、昨日は勉強をする気分にはなれなくて、じいが部屋に来るまえに逃げだしていた。
だれからかは知らないが、ミカリはそのことを聞きつけて、きょうは説教をしにきたようだ。
「いいから、あっちへ行ってくれ」
センリは膨れた顔でそう言うと、ミカリに早く帰るようせきたてた。
するとミカリは、急に顔を赤くして、口をへの字に曲げると、目に涙をうかべた。
(あ、しまった……!)
センリは、ミカリが怒ると泣き虫になるということを思いだし、慌てて言い直した。
「わ、間違えた! あ、あっちへ行かないでくれ!」
頭が混乱していたセンリは、とっさにそう言ってしまった。涙をこすって笑みをうかべているミカリを見ながら、センリはほっとしつつも、後悔の入り混じった吐息をもらした。
センリに言われた通り、ミカリは部屋をでるのでもなくセンリのまえに居座ると、いつも通りにこにこして言ってきた。
「きょうは鳥にならないの?」
センリは、思わず息をのんだ。
そして真剣な目をすると、
「ぼくは、鳥にはなれないよ」
と、とぼけて答えた。
けれど、ミカリは当然それでごまかせるような娘ではない。
ミカリはとぼけるセンリに、さらに詰めよってきた。
「わたしね、知っているのよ。センちゃんが押入れのなかに入って動かなくなるときは、鳥になっているって」
センリは、手に汗がにじんでくるのを感じた。
(やっぱり、ミカリは気づいていたのか……)
思い返せば、シギチョウになっていたのがばれてしまったあの日も、ミカリは押入れのなかから飛びだしてきた。
(もしかして)
「ぼくが押入れに隠れるところを見たのだな」
センリがそう言うと、ミカリは満面の笑みをうかべながら、大きくうなずいた。
「でもどうして、シギチョウがぼくだってわかったのだ?」
「だって、瞳が金色だったんだもの」
(それだけで……)
センリは思わず、言葉を失った。
シギチョウは淡い桃色の身体をしていて、その瞳は燃える夕焼け空のように赤い。
一方のセンリはというと、夕日に照らされて輝く山のように、黄金色の瞳をしていた。
〈舟渡り〉をして皇子の身体は押入れに置いていても、どうしても瞳の色だけは皇子の金色のままになってしまう。どうやらミカリは、あの日のたった一度だけで、それを見抜いてしまったようだ。
(油断するのではなかった)
センリはあの日、照りつける夏の陽ざしが耐えられず、すこしの間、羽を休めようと部屋にもどったことを悔やんだ。
そんなことも知らず、ミカリは目を光らせて聞いてきた。
「あれ、どうやるの? わたしも鳥になりたい!」
センリは息を吸うと、静かに言った。
「あの技は、だれにでもできるわけじゃない。だから、ミカリには……教えてあげたいけど、教えられないよ」
また下手なことを言ってミカリを泣かせないように、センリは十分に気をつかって言った。
「センちゃんだけなんて、ずるいな」
口をとがらせているミカリを見て、センリはすこし悩んでから言った。
「それなら、教えるかわりに、あの技をつかってなにかして欲しいことがあったら言ってくれ。なんでもしてあげるよ」
ミカリはそれを聞くと、必死になにか考え事をしはじめた。
けれど結局、この日はなにも思いつかなかったようで、また今度来ると言い残すと、軽い足取りで部屋をあとにした。
後日、ミカリは分厚い書物を持って再び部屋にやってきた。
彼女の願い事は、その書物に載っていたハイの菓子を食べてみたい、という至って普通なものだった。
「ハイの菓子なら、宮の者に頼めばいくらでも食べられるじゃないか」
センリが拍子ぬけて言うと、ミカリは首をふった。
「わたしは宮のハイの菓子じゃなくて、小正月につくられる桃色のハイの菓子が食べたいの」
ミカリは持ってきた書物をひらくと、突きつけるように見せてきた。そこには、通常のハイの菓子は、ハイの実を餡と練りあわせて白い団子包んだものであるが、テルサの一部地域では、小正月に限って桃色の団子がつくられている、ということが書かれていた。
(でも……)
「お供えものをとってくるのか?」
センリは、たしかに自分も見たことがない桃色のハイの菓子を食べてみたいとは思ったが、我が身の立場を考えるとあまり気が進まなかった。
けれどミカリは、書物を腹に抱えて手を合わせると、センリの目を見てこびるように言ってきた。
「大丈夫よ。すこしお裾分けしてもらうだけだから。ね、お願い、皇子さま」
皇子さま、なんてミカリに言われたのは、はじめてではないだろうか……。
センリはそんなことを考えながらも迷った。
すると、待ちきれないミカリが言った。
「皇子さまは、民を幸せにしないといけないのよ」
そこでとうとうセンリは小さく息をつき、肩を落として言った。
「仕方ないな、一度だけだからな」
ミカリは目を光らせて、顔をほころばせた。
年が明けると、小正月はあっという間にやってきた。
センリはミカリと約束した通り、桃色のハイの菓子を手に入れるため、ミカリに留守番を頼むとメクイ〈トビ〉の身体を借りて空にはばたいた。
幸い空気は刺すように冷たかったが、雪は降っていなくて、陽が差し天候に恵まれた。
センリはあらかじめ、じいから桃色のハイの菓子がつくられるのはどのあたりの地域かを聞いて、念入りに地図で確認をしておいた。
宮から飛びだすと、ひたすらその目的地へむけて飛びつづけた。
シギアの冬は、山々から人家まで一面が白く染めあがり、陽ざしを浴びてきらきらと輝いていた。
けれど冬の空には、いつもは群れをなして飛んでいるシギチョウのすがたがなく、静けさを感じた。
シギチョウは冬が訪れると、シギアよりも暖かいサハン〈南〉の国へと飛んでいってしまう。お気に入りの鳥がいなくなってしまうこの季節は、センリにとって寂しい季節でもあった。
しばらく同じ方角へ飛んでいくと、センリはとある小さな村にたどりついた。子どもたちが雪洞のまわりで雪玉を投げあっては、楽しそうに走りまわっている。
雪洞のうえをよく見てみると、藁のうえには宮でもよく見る白いハイの菓子と一緒に、ミカリが欲しがっていた桃色のハイの菓子がたくさん並べられていた。こうしてうえから見てみると、まるで鳥の巣のなかの卵のようだ。
大人たちは、きっと雪洞のなかにいるのだろう。時々笑い声が、円を描きながら上空を飛びまわっているセンリのもとまで聞こえてきた。
(いまなら、とれるかもしれない)
センリは藁のうえの桃色のハイの菓子に狙いを定めると、獲物を捕まえる獣のようにそれを目掛けて急降下していった。
子どもたちが驚いた顔で指をさしたり、口を開けて見ているまえで、センリは見事に狙った獲物――桃色のハイの菓子を捕った。それは気をつけないと潰れてしまいそうなくらいにやわらかかった。
こうして目当てのものが手に入ると、センリはいそいで宮で待つミカリのもとへと飛んでいった。
宮につくと、センリはうれしそうに駆けよってくるミカリの手に例のものを渡し、本来の〈シギアの皇子の身体〉にもどった。
「ありがとう、センちゃん!」
ミカリは桃色のハイの菓子を、やさしく包み込むように小さな手で受けとった。
「半分ぼくにもくれよ」
センリは冗談のつもりで言ったが、ミカリはよろこんで菓子をふたつにちぎると、片方をセンリに手渡してくれた。
そしてミカリの掛け声で、二人で同時に食らいついた。
桃色のハイの菓子の味は、白いハイの菓子となんら変わらず、ハイの実と餡が合わさった甘酸っぱい味が口のなかに広がった。
「おいしい!」
ミカリはソフのようにとび跳ねながら、笑みをうかべた。
あっという間に食べ終わると、その後ミカリは、センリの〈舟渡り〉の旅の話を日が暮れるまで夢中になって聞いていた。
「センちゃん、ありがとう! またね!」
辺りが薄暗くなったとき、ミカリはご機嫌なようすで笑顔で手を振って帰っていった。
まさかセンリは、その笑顔がそれから六年も見られなくなるとは、このときはまだ心にも思っていなかった。
小正月からしばらくが経ったある日、センリは父に部屋にくるようにと呼ばれた。
父に暗い目をして言われたのは、ケイネルの子が流れた、ということだった。
(どうりで、最近突然ミカリが宮に訪れなくなったと思ったら……)
センリは、この頃気になっていたことがようやく解けて、息をついた。
ミカリは子が生まれることをすごく待ちわびていたから、元気がなくなってしまったのだろう。
けれど、不思議とセンリの心は、落ち着いたままだった。
元々センリは、それほどミカリのように子を待ちわびていたわけではなかった。
センリは、子が生まれたとして、ケイネルが子育てをしているところを見るのが怖かったのだ。
(子が生まれたら、ぼくはひとりぼっちになってしまう)
父にその気持ちを悟られないように、センリは父の話が終わると、すぐさま部屋をあとにした。
それからさらに幾日か過ぎたある日、久々にミカリが宮へとやってきた。
ミカリは見たこともないくらいに暗く沈んだ顔をして、センリのもとへ来るなり言ってきた。
「ごめんなさい。わたしがセンちゃんにハイの菓子をとってきてって言ったから、赤ん坊、だめだったのね」
(え?)
どうやらミカリは、自分が祭りの供え物を盗んだから、神が罰をあたえて、ケイネルの子を流してしまったと本気で思っているようだった。
センリがいくら否定をしても、ミカリは全然耳にも入らないようで、ずっと下をむいてうつむいていた。よく見れば、わずかに目も腫れているのがわかった。
センリはそんなミカリを見て、父に言われたことを思いだして言った。
「ケイネル……母上の子が流れたのは、わたしのせいなのだ」
ミカリが驚いて、センリの顔を見あげた。
「父上が言っていた。母上はぼくのことを気にかけていたから、心配と不安が積み重なってしまっていたって。それで、まだ忙しくて赤ん坊を抱いている時期ではないから、神さまがまた今度にしようね、って言ったのだって。
だから、母上の子が流れたのはぼくのせいで、ミカリのせいではないよ」
ミカリはそれを聞くと、大きな声で泣きはじめた。
センリは、いつもはミカリが泣くのは耳がつぶれそうになるので大嫌いだったけれど、この日だけは違った。
ミカリが泣いているのを見ていたら、だんだんと胸がきゅんと締めつけられていくような気がした。
(今度は生まれてきてね)
センリは心のなかで、そうつぶやいた。