三 滝壺
三 滝壺
夏祭りをひかえたある日の昼下がり、ミヤはお祭りにつかう笛を持って、あの山へと入っていった。
はじめてギンに会ったときはまだたくさん残っていた雪も、いまはもう溶けてしまってどこにも見あたらない。山のなかは静寂を保ち、ときおり吹きつける心地よい風が、生い茂る夏草やミヤの頬をなでた。
地面にはたくさんの枝や葉が落ちていて、布団のようにやわらかい。
鳴滝川につくと、ミヤはしばらく川上にむかって岸を歩いていった。川はきょうも、陽ざしを浴びて光りながら、うねるように流れている。
ミヤは立ち止まり、大きく息を吸った。この川へ来ると、不思議と心が落ち着き、全身に力がみなぎってくる気がした。耳を澄ませば、ギンが頑なに行くのを拒んだ滝壺のあるほうから、水の落ちる音が聞こえてくる。
頭にふっと蘇ってきた濁り池でのできごとを振り払うと、ミヤは川上を見つめた。
(このまま川岸を歩いていけば……)
今ならギンはいない。水の流れる音を聞きながら、ミヤはゆっくりと足元に気をつけながら歩きだした。
岩場をのぼっていったとき、ついに滝壺が目のまえにすがたを現わした。
激しい音をたてて流れ落ちる水は、しぶきとなって風に乗り、乾いた衣を湿らせた。深い淵には、透き通る水が溜まっている。
ミヤは角ばった大きな岩のうえに静かに腰をおろすと、衣と帯の間に挟んでいた笛をとりだした。そしてそっと指穴に指を置くと、口をあてた。
そのとき、滝壺のまわりに生い茂る木々の底から、細く高い音が響き渡り、ミヤは驚き咄嗟に辺りを見回した。
笛のようなその音は、長く尾を引くように鳴りつづけている。
(なんの音?)
毎日田畑へ行って作業をしていたが、このような音を聞いたのははじめてだった。
(鳥ではない)
ミヤは思った。
それなら、この音は一体なんだろう……。
だが、しばらくその音に聞き入っていると次第に音は小さくなり、やがて聞こえなくなった。辺りは何事もなかったかのように、また滝を流れ落ちる水の音だけになる。
音が止んでからもミヤは森を見つめ、耳を澄ました。小鳥が枝から枝へと飛び移るたびに、葉がカサカサと擦れる音が聞こえてきた。
気のせいだったのだろうか。そう思ったとき、突然対岸の森の奥から大きな破裂音が聞こえ、ミヤは身体を硬直させた。
(銃声だ)
狩人が獣でも狙っているのだろう。また一発、また一発とその音は聞こえてくる。ミヤは顔をゆがめながら、その音が鳴り止むのを待った。心を撃たれ、ぽっかり穴が開いたような哀しい気持ちがした。
「ミヤ」
背後から名前を呼ばれて、ミヤはうしろを振りかえった。ギンが、こっちを見て立っていた。
「ギン、どうしてここに」
ミヤが驚いてそう言うと、ギンも答える。
「それはこっちのセリフだよ。あんなに危ないって、言ったじゃないか」
ギンが鋭い目で見てきたので、ミヤは戸惑った。
「……ごめんなさい。でも、大丈夫でしょう? ほら」
ミヤが笑みをうかべたとき、また森の奥から一発の銃声が聞こえてきた。小鳥たちが驚き、一斉に木の上から飛び去っていく。
「……この辺りは狩人がよく来るんだ。獣たちが飲み水や魚を求めて集まってくるから、そこを狙っているんだよ。行こう」
ギンは暗い目をしてそう言うと、ミヤのまえに手をだしてきた。ミヤはなにも言わずにその手をとると、ギンのあとについて岩場をおりていった。
滝壺が遠ざかり、水の落ちる音が小さくなってきたとき、ミヤはギンに訊いた。
「もしかして、ギンが危ないって言ったのは狩人のせい? わたしにあの銃声を聞かせたくなかったから?」
ギンはちらっとミヤの目を見たが、なにも言わずに黙ったまま歩きつづけた。もしかしたら、勝手に滝壺まで行ってしまったことを怒っているのかもしれない……。そう思い、深く追求することはやめ、仕方がないので、ミヤは話を変えることにした。
「春に一緒に川で遊んだでしょう? あの日の帰りにわたしのおじいちゃんを見たのを覚えてる?」
ギンはうなずいた。
「覚えてるよ」
ミヤはそれを聞いて安心すると、笑って言った。
「おじいちゃんがね、わたしのことをからかうのよ。ミヤの隣にはだれもいなかったって。おかしいでしょう?」
ギンは表情を変えずにこっちを見ている。心配していたが、その表情からは怒っている様子は読みとれなかった。それを見て、ミヤはつづける。
「よく言われるの。ミヤはおかしな子だって。でもたしかに、時々不思議な夢を見るの。雛鳥が巣から落ちてしまったり、獣が怪我をしたり、池から落ちたりする夢。それで目を覚ましてその場所へ行くと、ほんとうに雛鳥が巣から落ちていたり、獣がいまにも池のなかへ落ちそうになっているの。
このまえも、それで池に落ちたソフを助けようとしたらわたしまで落ちちゃった」
ミヤが照れながら話しているのを、ギンはずっと静かに聞いていた。
「あと……」
そこまで言いかけて、ミヤは話すのを止めた。オウキから聞いたまだ乳飲児だったころの話をしようかと思ったけれど、突然そんなことを話されても困るかと思い、止めたのだ。
「わたしは、生きているかもわからない親に似ただけだと思って、全然気にしてないけどね」
ミヤはがゆっくりと風に乗り流れていく雲を見あげて呟いたとき、突然ギンが切り出した。
「ミヤのお母さん、知ってるよ」
(え?)
ミヤは足を止めて、ギンのほうを振り返る。はじめは聞き間違いかとも思ったけど、たしかにギンは、静かな声で言った。
(お母さんを知っている……?)
胸の鼓動が早まるのを感じる。口を開けたまま呆然と立ち尽くしているミヤを見て、ギンも立ち止まった。
「お母さんの話、聞きたい?」
ミヤは迷った。ずっと、母はどんな人だったんだろうと気になってはいたけれど、いざ聞くとなると怖かった。
オウキには物心がついたころには、既に父も母も星になったのだと聞かされていた。心のなかでは、もしかしたらまだどこかで生きているかもしれない、と祈るように思うこともあったけれど……。
なんだかんだ、ミヤはオウキとの暮らしには満足していたし、オウキの言うとおり、星になってしまったのだと思っていたほうが楽でもあった。
生きていたところで、置き去りにされていた私はただ嫌われて捨てられただけかもしれない。もしそうなら、ほんとうは生まれてきてはいけなかったのだと、そんなことばかり考えてしまうからだ。
ずっと黙ってこっちを見ながら返事を待っているギンに、ミヤは言った。
「どうしてわたしのお母さんを知ってるの?」
ギンはなにかを思いだしているかのように、すこし間を置いてから答えた。
「さっきの滝壺に、よく赤ん坊を背負って来ていたよ」
(赤ん坊と滝壺に?)
ギンが言うとおり、ほんとうにそれが母なら、その赤ん坊は恐らくミヤということになる。
一体あの滝壺になにをしに行ったのだろう。自分と同じように心が安らぐから、それで行ったのだろうか。……というより、自分が川へ行って不思議と安らぐのは、そうしてまだ自分が小さなころ、母が連れていってくれていたからなのだろうか……。
ミヤは波のように次々と押し寄せてくる疑問を、必至に整理しようとした。
「どうしてわたしのお母さんだってわかるの?」
ギンはなにも答えずに、なにかを秘めているかのように、堅く口を閉ざしている。
「いつ見たの?」
恐る恐る聞くと、思っていたとおりの言葉がかえってきた。
「もう九年はまえだよ」
オウキがミヤを連れ帰ったというのも、ちょうどそのくらいまえだった。
レーネのような小さな村では、村人たちは皆、どの子がどこの家の子か、見ればすぐにわかる。けれどオウキの話では、ミヤがどこの家の子かわかる者はだれもいなかったという。
(わたしは、ほんとうはレーネの子でもない)
母は、滝壺で身を投げたとでもいうのだろうか。赤ん坊のミヤをレーネに置き去りにして。
ミヤは大きく息を吐くと、
「いいの。わたしには、おじいちゃんがいるから」
と言って歩きだした。
するとギンも、なにも言わずにゆっくりとミヤにつづいて歩きだした。
「ギンのお家はどこなの?」
ずっと黙って川沿いをくだっていたとき、沈黙を破るように言った。
「滝壺の先にある村だよ」
それを聞いて、ミヤはまた足を止めた。
「ごめんなさい。なにも知らなくて……。こっちまで来たら、帰るのが大変でしょう?」
すると、ギンは笑った。
「大丈夫だよ、近道があるから」
(それならいいか……)
ミヤは安心すると、手に持っていた笛を見せてにっこりして言った。
「きょう川へ来たのは、この笛を吹く練習をするためだったの。あさって、村の夏祭りで吹くの。お祭りには、テルサから来た人たちが屋台もだしてくれるのよ。夜は暗いから、来れたらでいいからギンも来て。一緒に屋台をまわりましょう」
ギンはミヤの話を聞いてうなずくと、
「わかった、行けたら行く」
と笑顔で言ってくれた。
「それじゃ、きょうはここで。いつも送ってもらうのは悪いから、またね」
ミヤは手を振って、ギンとわかれた。
夏祭りのその日は、昼間は陽が照りつけていたものの、夕方にはにわか雨が降った。
ギンは、祭りには来なかった。
(やっぱり遠いし、無理だったのかな)
ミヤがそんなことを思っていたとき、一緒にいた隣の家のソジが屋台を眺めながら言った。
「そろそろ屋台は終わりだから、神社のほうで送り火がはじまるよ。行こう」
ソジは焼き菓子にかじりつきながら、神社へむかって走りだした。
「ちょっとソジ、待ってよ」
ミヤも慌てて、ぐんぐんと遠ざかってゆくソジのあとを急いで追って行った。
神社にはすでに大勢の村人たちが集まっていて、ソジやミヤに気づいた村の子どもが、二人にむかって手を振ってきた。ミヤはソジとおしゃべりをしながら、人だかりの中心に積み上げられたハイの木に火がつけられるのを待っていた。
そのとき、ソジの父がこっちへむかって走ってくるのが見えた。
「悪い、ソジ。うっかりして夕立ちでハイの木を濡らしてしまったよ。なかなか火がつかないから、いますぐこの桶に七池の水を汲んできてくれないか」
ソジは空の桶をうけとると、わかった、と一言返事をした。
「わたしも行く」
「いいよお前は」
そう言ったけど、さっき来た道を走ってもどりだしたソジを、ミヤも走って追いかけた。
ソジはレーネの村長の息子で、とても責任感がつよい。なんでも任されたことは一人でやろうとする性格で、父に七池と呼ばれた七色の池にむかって、ものすごい速さで駆けていった。
村外れなだけあって七色の池まで来ると、お祭りでにぎわう人の声は全く聞こえなかった。辺りは薄暗く、虫の声だけがしている。灯りがないから、月の光だけが頼りだった。
「気をつけてね、落ちないでね」
やっと追いつきすでに池の水を汲みはじめていたソジにむかって、ミヤは言った。
「手伝おうか?」
ソジは大丈夫だ、と一言かえすと、池の水が入れられた桶を軽々と持って、また来た道をもどりはじめた。
「便利だよな、この池の水は」
黙って並んで歩いていると、ソジが口を開いた。
「知ってるか? 王都のほうじゃ、まだこの水はあまり知られていないんだってさ」
「え? そうなの?」
驚いて聞きかえしたミヤに、ソジはすこし得意げになってつづけた。
「そうだよ。テルサでも最近になってやっと使われるようになったくらいだよ」
(この水が知られていないなんて……)
レーネ村では、七色の池の水は村人の暮らしをささえる、とても大切な資源のひとつだった。木を切らなくても、この水を使えば簡単に火は点く。池に石を投げ入れると七色の輪ができることから、村人は〈七色の池〉や〈七池〉という愛称で呼んでいた。
ミヤはソジが持っている桶のなかでゆらゆらと揺れている月に目をやりながら、七色の池のない暮らしを想像してみた。
(もし、この水がなかったら……)
いまの畑仕事にくわえて、毎日木を切ったり、薪を集めに山へ入らないといけないかもしれない。寒い冬に入るまえには、それこそたくさんの薪を蓄えなければいけない。それから……。
考えれば考えるほど、七色の池のありがたさを感じられた。
「あのさ」
ソジが顔をのぞき見てきた。
「今度、一緒に王都に行かないか」
「え? 王都に?」
ミヤは驚いてソジの顔を見た。
レーネ村から王都へ行くには、テルサ街へ行くよりも遠い。馬車で行っても、半日以上はかかる。
「今度、皇女さまの誕生式典があるそうなんだ。宮城から父さんに招待状が来たんだよ。……ちょうど、王都の暮らしも見れると思うんだけど……」
〈皇女さま〉と聞いて、ミヤは胸を躍らせた。王都へ行くのはもちろん、式典にでられるなんて滅多にないことだ。それからソジが言う王都の暮らしというものも興味がある。
「でも、わたしなんかが一緒に行っていいの?」
それを聞いて、ソジは笑って言った。
「問題ないさ。……別に、行きたくないならいいけど」
ソジは気が変わるのが早い。やっぱり来るな、なんて言われるまえに、返事をしなければいけない。
ミヤはそう思い、慌てて言った。
「い、行きたいです!」
すると、それを聞いてソジは満足そうに微笑んだ。
翌日、ミヤは再び鳴滝川のある山へと入っていった。けれど、どんなに川辺を歩いていても、とうとうギンは現れなかった。
やがて日が沈みはじめると、ミヤは適当に辺りに茂っていた背の低い木から青い葉を一枚もぎとり、葉の裏に爪で文字を書いていった。
葉がぎっしり文字で埋まると、目立つ岩のうえに風で飛ばないように、石を重ねて置いた。
(気づいてくれるといいな)
そう思いながら、ミヤは足早にオウキの待つ家へ帰っていった。
「どうして鳴滝川へは行っちゃいけないの?」
寝床で横になりながら、隣でいまにも寝息をたててしまいそうなオウキに、ミヤは聞いてみた。
オウキはすこしうなると、目を閉じたまま言った。
「あの川にはな、……だよ」
「え?」
よく聞きとれなくて、聞きかえした。
「なに? おじいちゃん」
すると、オウキはまたも聞きとりづらく言った。
「……喰らうんだ……」
(喰らう?)
「なにを?」
ミヤはそう聞きかえしたが、オウキの言葉は返ってくることなかった。
(なにが、なにを喰らうんだろう)
オウキの寝息を聞きながら考えていると、次第に寝息も遠ざかり、ミヤは深い眠りに落ちていった。
ミヤが鳴滝川を去っていったあと、岩のうえに残されていた青い葉を、興味深そうに見る一つの影があった。
一字一字丁寧に刻まれたその文は、ギンへ充てたものだった。
――ギンへ
友だちと王都の
誕生式に行ってきます
見たら声かけてね
ミヤ