一 ミヤとギン
一 ミヤとギン
雪解け水が野山を潤しはじめた長い冬の終わり、ミヤは畑のそばの根雪に残る小さな獣の足跡をみつけた。まだ開きかけの、ユリの蕾の形をした細くて長い足跡だった。
「それは、ソフ(ウサギ)の足跡だな」
小さな足跡を目を凝らしてじっと見ていたミヤのうしろから、日に焼けてしわだらけの顔が覗かせた。
ミヤは目を輝かせて、オウキのほうを振りかえった。
「この足跡をたどったら、ソフに会える?」
オウキは顎をなでながら少し考えると、しわがれた声で言った。
「そうだな……会えるかもしれないな」
足跡は目で追うと畑の裏山へと続いていた。ソフはきっと山のなかへ入っていったに違いない。
オウキの言葉を聞いて、ミヤは手に持っていた農具を放りだした。
(ソフに会える……)
急に胸が踊りミヤの顔はほころんだ。そして勢いよく立ちあがると、驚いて自分を見ているオウキに言った。
「わたし行ってくる……すぐ戻るわ!」
簡単に一言告げるとミヤはオウキの返事も待たずに、一目散に足跡が伸びていく山のなかへと入って行った。
足跡をたどりしばらく山のなかへ入っていったとき、ミヤは足を止めた。
(ない……)
ミヤが追っていた小さな足跡は根雪とともに途切れてしまい、辺りを探してもどこにも見当たらなくなってしまっていた。
呆然と立ちつくし、辺りを見まわしていたときだった。山の奥から、かすかに水の流れる音が聞こえてきた。それは、いつもオウキに近寄るなと言われていた、鳴滝川のあるほうからだった。
(わたし、もう十才だもの。川遊びだって平気よ)
ミヤは心のなかでそう言い訳した。すると何かに導かれるかのように、鳴滝川のほうへ歩きだした。
一歩一歩ゆっくりと進んでいくと、次第にその音は大きくなり、やがてミヤの目の前に昼さがりの陽を浴びて光りながら、うねるように流れる水面がすがたを現わした。
(これが鳴滝川……)
思っていたよりも浅く緩やかに流れるその川を見て、笑みをうかべた。そして靴を脱ぎ袖をまくりあげると、そっと冷たい水のなかに足を入れた。
透き通った水がミヤの日に焼けた細い足をなでて、次から次へと流れていく。足を動かせば小さな魚が底に沈む小石の陰からすっとでてきて、また見えなくなった。
「これ、きみの靴?」
時間が経つのも忘れて小石を踏みながら川をのぼっていたとき、うしろから声がしてミヤは振りかえった。草が生い茂る川岸に、濡れた白い靴を持った少年がこっちを見て立っている。
「あ、わたしの靴!」
ミヤは少年の持っている靴を見て、ぱっと頬を赤らめた。その濡れた靴はたしかにミヤのものだった。
「いいよ、ゆっくりで。走ると危ないから」
いそいで駆けよるミヤに、少年は穏やかな声で言った。
靴をうけとって礼を言うと、ミヤは少年に気づかれないように小さくため息をついた。
(流されたのかな、ずぶ濡れだ……)
履き古していた白い靴は水をいっぱい吸い込み重くなっていた。小さな水滴が、止むことなくぽたぽたと音をたてて草のうえに落ちる。
ミヤがうつむいたまま靴を眺めていると、少年が言った。
「川遊びは好き? その靴が乾くまで一緒に遊ぼう」
ミヤはそれを聞いて、一瞬オウキの顔が頭にうかんだ。すぐ戻ると告げて勝手に来てしまったものだから、オウキは自分の帰りを待っているかもしれない。ミヤはそう思ったが、それでも、
(ちょっとだけ、靴が乾くまでだけ)
と、また心のなかで言い訳をすると、少年にむかって笑顔でうなずいた。
「わたしはミヤっていうの。あなたは?」
濡れた靴を持って川をのぼりながら、ミヤは横で並んで歩く少年に言った。
「素敵な名前だね。ぼくはギン」
慣れない褒め言葉にミヤは照れ笑いをうかべながら、ギンの瞳を見つめた。この川の水のように透き通り、陽の光をうけて輝いている。自分よりも少し背が高く、細い手足は雪のように白い。見るからに、身体は弱そうである。
「わたし毎日おじいちゃんの畑仕事を手伝っているから、こんなに黒くなっちゃった」
ミヤがぺろっと舌をだして腕を見せながらそう言うと、ギンは目尻にしわをうかべて笑った。小柄でしわをうかべて太陽のようにやさしく笑う顔は、オウキそっくりだ。
オウキやソフの足跡の話をしながらしばらく川をのぼっていたとき、ふとギンが静かな声でつぶやいた。
「ここをもう少しいくと、滝壺があるんだ。滝壺は危ないから、そろそろ引き返そう」
急に川上のほうを見つめながらそう言うので、ミヤは口をとがらせた。
「ギンはおじいちゃんと同じようなことを言うのね。大丈夫よ、少しなら。わたし、もう十才だもの。ギンも行ったことあるんでしょう? わたしも見たいわ、滝壺」
ミヤがそう言うと、ギンは今度は足を止めて、まっすぐとミヤの目を見て、
「だめだよ、危ないんだ」
と表情のない顔をして言ってきた。
ミヤはギンから目をそらして川上のほうに目をやった。遠くのほうから水がどっと落ちる音が聞こえてきて、耳を澄ました。
そうやってしばらく黙って水の音を聞いてから、渋々、
「わかったわ、行かない」
と膨れた顔をして言った。きっと、自分が何を言っても、ギンの答えは変わらないだろうと思ったからだ。
帰り道は、とても静かだった。拗ねているミヤはもちろん、ギンも気をつかって何も話そうとはしなかったからだ。
機嫌を損ねるとつい早足になってしまうミヤは、何度も滑って転びそうになってしまった。そのたびに後ろを歩いていたギンに身体をささえてもらい、助けてもらった。ミヤの顔は転びそうになるたびに恥ずかしさで赤くなり、気がついたころにはギンと目を合わせられなくなってしまっていた。
黙々と川を下っていき、二人は山を抜けた。
「こんなところまで送ってくれて、ありがとう」
ギンのうしろで夕日に照らされて黄色く光っている山を見ながら、ミヤは言った。今になって自分がわがままを言っていたことを恥じた。
「きみのおじいさん、ずっと心配して待っていたみたいだね」
(え?)
ギンの言葉を聞いてうしろを振りかえると、畑の隅で座っているオウキのすがたが、遠くに小さく見えた。どうやらオウキはずっと、なかなか帰って来ないミヤの帰りを待っていたようだ。
「もう、さきに帰っていていいのに。おじいちゃんたら」
そんなことを言っていると、オウキはミヤに気づいたのか、手を高くあげて大きく振ってきた。それを見て、ミヤもあきれ顔をうかべながらも、手を振りかえした。
「ギンは一人で大丈夫? 暗くなると危ないでしょう? おじいちゃんに頼んで、一緒に送ってあげる」
ミヤが振りかえってそう言うと、ギンはにっこり笑って首をふった。
「大丈夫だよ。それより早く、おじいさんのところへ行ってあげてよ」
夕日に照らされて、ギンの顔も山のように黄色く輝いている。ミヤはすこし戸惑ったが、ギンがオウキのほうを気にかけていたので、少し待っていて、と言うと、いそいでオウキのほうへ駆けだした。
歩きなれた山道をくだっていくと、だんだんと小さくぼやけていたオウキの顔は、はっきりと見えてきた。疲れを隠しながらずっと顔をほころばせて、こっちを見ている。
「ごめんなさい。足跡が遠くまでつづいていたから、遅くなってしまったの」
ミヤはオウキのもとへ着くと、まず言い訳をした。それから、
「男の子と会ったの」
と言うと、来た道を振りかえった。
「そうか、それはよかった。なかなか帰ってこないから、心配していたんだよ」
オウキが隣でそう言っているのを聞きながら、ミヤは山のほうを見つめた。
見つめた先にたしかにいるはずのギンのすがたは、どこにも見えなかった。
(……おかしいな、もう帰っちゃったのかな)
さっきまで一緒にいたあの少年は、たちまち根雪に残っていた足跡のように、ミヤのまえからすがたを消してしまった。
横でソフは見つかったかと聞いてくるオウキの声で我にかえり、ミヤは首をふって笑った。
「ううん。でも、また今度、会えるといいな」
□
「ミヤはほんとうに、おかしな子だよ」
ミヤと炉を囲み、きつね色に焼かれて香ばしいにおいのしているカジ(イノシシ)の肉にかじりつきながらオウキは言った。ミヤは冗談だと言って笑っているオウキを、いじけた顔でにらみつけた。
オウキはいつもこの言葉を口にする。だから、ミヤにはオウキが本気で自分をおかしな娘だと思っていることくらい、もうとっくに気づいていた。
けれど、そんなオウキをにらみつけている自分でも、たしかにそう思うことはしばしばあった。自分はどこか、人とは違うということに、ふとしたことで気づかされるのだ。けれどそのたびに、きっと親ゆずりなのだと思いこみ、それ以上深くは考えないようにしていた。
ミヤは、自分の両親の顔を知らない。物心がついたころには、すでにこの古びた家で、オウキとふたりだけで暮らしていた。だから、ミヤはオウキを自分の親のように慕っていたので、五才の誕生日のときはじめて真実を告げられたときは、自分でもすぐにその話を受け入れることはできなかった。
――ミヤのほんとうのおじいちゃんは、わたしじゃないんだよ
まだ幼かったころ、オウキに真剣な目をして言われた言葉が耳の奥でこだました。それは一瞬で、愛する親から突き放されたようなそんな言葉だった。ミヤは泣きながらオウキにしがみつき、どうしてかと訊いた。
するとオウキは、やはりまだ言うんじゃなかった、という顔をしながらも、ミヤを落ち着かせてゆっくりと丁寧に話しはじめた。
朝から空を覆っていた分厚い雲が消え、ようやく雨があがったある日の夕暮れ。畑仕事の帰りにミヤを見つけたこと。
人里離れたあぜ道で毛布に包まれ、一人置き去りにされていたその乳飲児は、なぜか泣きわめいて親を呼ぶのでもなく、にこにこと笑っていたこと。どうしてもそれが、自分には不思議に思えて仕方がなかったということ。
そして気にかかり、とりあえず連れ帰ったその日が、ちょうど四年前だということ……。それらをすべてを、遠い目をしながら語ってくれた。
そして最後に、オウキは泣いているミヤにつけたして言った。いまはミヤのことを、誰よりも愛しているよ、と。
「わたしのお父さんやお母さんも、おかしな人だったのかな」
ふてくされた顔をしながら、ミヤはオウキに言った。
オウキは熱いお茶をすすり、歯にはさまった肉の筋をとろうと口をもごもごさせながら、低い声で唸った。そして首をかしげると、
「そうだなぁ……」
と、言葉を濁してしまった。
「でも、きょうはたしかにその男の子と一緒に山のなかで遊んだのよ。嘘じゃないんだからね」
壁の隙間を通って入ってくる風に吹かれ、ときおり小さく揺れている炉の火を見つめながら、ミヤは昼間会った少年を思いだした。風に揺れてさらりと流れる黒髪、透き通り輝く瞳に、目尻にしわをうかべてやさしく笑う顔。落ち着いた声、白く細い手足……。
まるでギンは、川のようだった。太陽のように笑うのだけれど、ずっと冷静で、まっすぐ川上を見あげていたその背にはなぜか冷たいものも感じた。
名前しか聞いていなくて、年も家がどこかもなにもわからない少年ではあったけど、またいつかどこかで会えるような気がしてミヤはその日が楽しみになっていった。
(今度は、なにを話そう)
そんなことを考えながら寝床についた。するとすぐに、すやすやと深い眠りに吸い込まれていった。
翌朝ミヤは、雨が激しく地を打ちつける音で目をさました。
オウキがたてつけの悪い重たい戸を開け、降りしきる雨を見つめながら田畑を心配している声が聞こえてきた。
天気のいい日はもちろん、少しの雨でも外へ出て日が暮れるまで田畑にいるオウキは、このような天気の日はずっと薄暗い家のなかでじっとしている。お茶をすすったり、農具を磨いたり、ときには一日中床で横になっていることもあり、見ていてとても退屈そうだ。
晴れていれば時々こののどかな農村の家々を一軒一軒往診にやってくる医者たちも、きょうのような雨の日には訪れない。子どもも外で遊べないから、雨の音だけが延々と聞こえてくる。
きょうのレーネの人々は、静かに一日を終えそうだ。
ところが、ミヤは違った。ミヤは寝床から跳ね起き、壁に掛けてあった蓑を頭からかぶると、一目散に冷たい雨の降る外へ飛びだしていった。
ミヤは、夢を見た。双子池で、まだ子どものソフが溺れる夢だった。
(あの池は、たぶん濁り池のほうだ)
泥を跳ねながら、ミヤは夢中で村の外れのほうへと駆けていった。長い坂をくだり、滑って転んではまた立ちあがり、息を切らしながらひたすら走った。
少し雨が弱まったとき、ミヤは濁り池と七色の池が並ぶ双子池へとたどりついた。どちらの池も水かさが増し、土色に濁っていた。
ゆっくりと濁り池のほうへ行くと、土色の池のそばに、白くて丸いなにかがうずくまっているのが目に入った。
(ソフだ……よかった、間に合った)
ミヤは足元に落ちていた太くて長い木の棒を手にとり、足音をたてて気づかれないようにそっとソフのほうに歩み寄った。
その刹那、目の前は突然真っ白になり、直後に大地を揺るがすような大きな音が、大気に轟いた。
(あ、だめ……!)
激しい音に驚いたソフは、そのまま跳ねあがり水しぶきをあげて、濁り池のなかへと滑り落ちてしまった。
ミヤはいそいで水のなかでもがいているソフを助けようと、草を踏み倒して前へ進みでた。しかしそのとき、濡れてやわらかくなった草はミヤの重みで深く沈み、足元は一気に崩れてしまった。
視界が揺れ、身体が浮くのを感じてミヤは高い悲鳴をあげた。一気に池のなかへと吸い込まれていき、口のなかには細かい草の混じった泥水が、容赦なく流れ込んできた。
(おじいちゃん助けて)
遠のいていく意識のなかで、ミヤは必死にオウキの名を呼んだ。
やがて視界は真っ暗になり、ミヤは冷たい水のなかで、意識を失ってしまった。
ミヤが意識をもどしたのは、夕焼け空の下に広がる静かな森のなかだった。
あの大雨は嘘のようにあがり、朱く染まりだした空には雲ひとつなかった。
ミヤはゆっくりと起きあがり、目をこすりながら辺りを見まわした。すると、遠くのほうから誰かが自分の名を呼んでいるのが聞こえてきた。
(おじいちゃんだ)
すぐに立ちあがり、なつかしく聞きなれたその声のするほうへと走りだした。
森をぬけるとそこは、いつもオウキとミヤが一生懸命手入れをしている畑が遠くに見える、ギンがすがたを消した場所にでた。あのときと同じように、オウキは畑にいて、ミヤに気がついて手をふっている。
ミヤはそれを見て乾いた蓑を脱ぐと、オウキにむかって大きく手をふりかえした。
(もしかしたら、ギンが助けてくれたのかもしれない)
心の底でミヤはふと思った。なぜかはわからないけれど、そんな気がしたのだ。
(ソフは、大丈夫だっただろうか……)
うしろを振りかえると、青く茂る山々は夕日を浴びて、また黄色に輝きだしていた。濡れた土のにおいは、たしかに雨が降った後のにおいだった。
夢ではない。ミヤは、そう思った。
たしかに濁り池へ行き、池に落ちるソフを見た。そしてそのソフを助けようとして、自分も池に落ち、そのまま意識を失ってしまった。その出来事はすべてさっきまであった出来事なのだ。
(ありがとう)
ミヤは自分を救ってくれた正体のわからない何かに礼を言った。
そして踵をかえすと、背伸びをしながらずっとこっちを見て待っているオウキのもとへ駆けだした。