鳴ノ海
終章 鳴ノ海
――テルサが沈んだ。
レーネ村にその噂が広まったのは、翌々日の夜明けのことだった。
その日、それまで何日ものあいだ空を覆っていた重たい雲は晴れ、ようやく日を拝むことができた。雨で崩れ田畑を埋め尽くすように被さってしまった土砂をまえに嘆く者もいたが、多くの村人たちは安堵の顔をうかべていた。
だが、そんなさなかである。
レーネ村に流れてくる鳴滝川は比較的細い支流で、なんとか氾濫を食い止めることはできた。しかし、幅広く広大な本流が流れるテルサの中心地では、人々はどうすることもできなかったようだ。
村長の家にテルサから逃れてきた人々が一報を伝え、レーネの者たちは顔をあわせ、皆恐ろしさで身震いした。
昼過ぎ、ミヤはテルサ街へたどり着いた。ソジの父がテルサに向かうというので、無理を言って一緒に連れて行って欲しいとせがんだ。オウキも含め大人たちは反対したが、ソジも一緒に頼んでくれて来ることができた。
テルサの街を一望できる高台へ着くと、ミヤは目前に広がる光景に言葉を失ってしまった。
鳴滝川は溢れ、テルサは一面の海となっていた。土色に濁った水はミヤの知っている鳴滝川の澄んだ水ではなかった。
「川から竜が現れたんだ!」
高台に逃れた街の人々は、口々にそうつぶやく。溢れた川の水は津波となって、テルサの家々を飲み込んでしまった。その光景を想像するだけで、ミヤは背筋が凍るような恐怖をおぼえた。
為す術もなく震えながら沈んだ街を眺めていると、ミヤは遠くに白く光るなにかが沈んでいるのに気づいた。辺りを見まわしてみたが、誰もその光るなにかには目もくれていない。皆、信じられないというような目をして、変わり果てた街を見下ろしているだけだった。
ミヤはだれにも気づかれないように、人々が呆然と街を見ているその場をこっそり抜けだすと、いそいで高台を下りた。
高台を下りるとミヤは、水に浮かんでいる瓦礫のなかに入れそうな木箱を見つけた。だが、手をのばしてもあと少しというところで届かない。そこでそばを流れていた木の板を取って、木箱の端にかけると必死に自分のほうへ引き寄せた。
恐る恐る中へ入ってみると、木箱は舟のようにミヤを乗せ、ゆらゆらと大きく揺れ動いた。
ミヤの頭のなかは真っ白で、ただ高台から見たあの光る何かのもとへ行くことだけしか考えられなかった。
木箱の舟に乗って随分と長い間、海を漂流した。いざ行こうとしてみると、高台から見たときよりもその場所は遥かに遠く感じた。
高台のほうからは、ミヤに気づいて呼ぶ大人たちの声が聞こえてくる。ミヤはそんな声も無視して、ただ前に舟を進めていった。
板を櫂の代わりに漕ぐ手が疲れてきたとき、ミヤは自分が目的地を見失っていることに気づいた。行く手を塞ぐ瓦礫に手をとられているうちに、沈む光がどこにあったかわからなくなってしまっていた。
やるせない思いがミヤの肩を落とした。
(せっかくここまで来たのに……)
ため息をつきミヤが途方に暮れていたとき、頭上を何かが通り、一つの影が水のうえをさっと横切った。鳥だった。
見あげると、雨を落としきりすっかり晴れ渡った青空に、一羽のメクイ(トビ)が旋回しているのが見えた。まるでミヤをどこかへ導くかのように、頭上に円を描きながら飛びまわり、少しずつ先に進んでいく。
ミヤはそれを見て、残った力を振り絞るようにしてさらに舟を漕いでいった。
メクイは道案内を終えると、そっとミヤの舟のうえに降り立った。小さな鋭いその瞳は金色に輝いている。メクイはなにかを訴えかけるような瞳で、ミヤを見てきた。
ふと水のなかを覗いてみると、そこには高台から見たのと同じ白い光が沈んでいるのが見えた。
ミヤは息をのんで袖をまくりあげ、そっと右手を冷たい水のなかに入れた。硬いなにかが手にあたった。それは石のように重いのに、土色に濁った水のなかで浮いている。
そっとすくい上げてみると、雪のように白くて丸い、手のひらに収まるほどの石だった。水中からとりだした途端に光は失われ、白くて形が整っているだけの普通の石のようになってしまった。だがとても冷たく、ミヤの手のぬくもりは奪われていくようだった。
ミヤは不自然なその石を手にすると、ギンのすがたを思いうかべた。
「ギン、ごめんなさい」
ミヤは忠告を受けていても、こうなることは予想できなかった。七色の池でのギンの鋭い目が、脳裏にうかんだ。
王都へ二度目に訪れたとき、皇子は言った。
――私は〈拓きの時〉を迎えるのは、決して良いことばかりとは思っていない。
ソジもミヤも、皇子の言っている意味がわからなかった。シギアの発展を、皇族で、それも帝の世継ぎである皇子が否定したかのように思えて、疑問で仕方がなかった。
だが、いまでは彼が言っていた言葉の意味がよくわかる。
――獣たちは影に隠されていっている。人の手でね。
自分をじっと見つめていたメクイの瞳が、あのときの皇子の瞳と重なって見えた。透き通るようにきれいなのに、深い憂愁に満ちている、金色の瞳。
竜は津波となってテルサを襲い、鳴ノ海となった。
どこからか響いてきたか細い音がとても切ない哀歌のように聞こえて、ミヤの耳から離れなかった。
□
「ちゃんとお祈りをするのよ」
大きな雪洞のまえで、ミヤは手を合わせて目を瞑る。
隣で鼻水を垂らしているトビも、母を真似て手を合わせると、そっと目を閉じた。
「今年も良い年になりますように!」
そのとき、雪洞のうえに乗せられていたハイの菓子を、鳥が持ち去っていってしまった。
目前でその光景を見ていたトビは、鳥を指さし、ミヤの上着の袖をつよく引っ張った。
「お母さん! 鳥さん泥棒したよ!」
鳥は空高く飛んでいき、やがてひとつの点となって見えなくなっていく。
「いいのよ、鳥のためにあるのだから」
〈ナリノカミ〉は、小正月の祭りである。
鳴ノ神を里に呼んで、感謝する。
「あの鳥はね、鳴ノ神様のお使いなの。お空にいるおじいちゃんやおばあちゃんに、お菓子を届けてくれるのよ」
「ふうん。じゃあ、僕も鳥になりたいな」
「まあ、トビったら」
ミヤは眉をしかめながらも、くすくすと笑った。
「それができるのは、皇子さまだけよ」
テルサで起こった<鳴ノ海>の大惨事は、いまでは国中の者たちに知れ渡ることとなった。
帝は戒めとして受け止め、<拓き>に関して慎重に執り行うようになった。<拓き>の波は勢いを失ってしまったが、怒りの竜の噂が飛び交うシギアでは、そのことに異を唱える者は誰もいなかった。
あれから、もう十年が経つ。
この十年の間、ギンがミヤのまえにすがたを現わすことは一度もなくなっていた。
今年もどこかでギンはこの村を、テルサを、この国を見守ってくれているだろうか。
宵のレーネに、今日も子どもたちの拍子木の音が、雪で染まった野山に響き渡る。
□
鳴滝川の滝壺に、一羽の鳥が舞い降りた。雪国の春を告げる鳥である。
桃色の身体をしたうつくしいその鳥は、眠るように静かな岩場で羽を広げた。
「おぅい、春だよ。皆でてきておくれ」
すると辺りの草かげから、次々と大小の獣たちが現われた。
ある獣が、集まった者たちを確認して言った。
「ナリノカミはどうしたんだい?」
その問いに答えられる者はなく、獣たちは皆、首をかしげた。
そのとき、一本の太い木の根にある祠の奥から声がしてきた。それは随分とまえに、日に焼けた少女と一人の老人が置いていった祠だった。
集まった獣たちの視線に、その声は応える。
「私はもう少しここで寝ているよ」
滝壺にはきょうも、麗らかな春の陽ざしが差しこむ。
完結しました*
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