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Well-being for Life!  作者: chai
1章 出会い
8/29

元営業マンの実力 

 デパートでの出会いから3日が過ぎた。

 本日は不況の中、多くの会社で実施されている“ノー残業デー”の水曜日だ。

 里緒にとっては全くもって関係ない話なのだが、芦田の勤務先は例に漏れず終業時間には社内放送までかかるらしい。

 この日なら確実に早く仕事を切り上げられるとのことで、食事がてらに先日の話の続きをすることとなった。


 現在の時刻は午後7時。

 数か所の教室をローテーションして教えている里緒の今日の現場は御茶ノ水ということで、芦田の勤務先の日本橋からも近く、待ち合わせには都合が良かった。


「あの、こんなに高級そうなところ、ちょっと困るんですけど」


 連れてこられた先は、高層ビルの上階にあるイタリアンレストランの個室部屋だった。

 この先引っ越しを予定している里緒にとって、サービス料だけでお腹いっぱい食べられそうな価格をする高級店で財布の紐を緩めるのは不本意だ。

 それに何より庶民である自分がこんな場所で親しくもない男性と2人で食事をすることに、緊張せずにいられなかった。

 ――マナーとか、知らないんですど。


「この間イタリアンに嵌ってるって言ってたし、ここは僕たち2人しかいないんだからマナーなんて気にせず食事を楽しんでください。当然こちらでご馳走するんで」


 以前、ダダ漏れだと言っていたのは冗談ではなく本当のことだったらしい。

 顔色を読まれたばかりか、自分でさえ記憶していない世間話の詳細まで覚えているなんて、この男なかなかの切れ者だ。さぞかし職場では有能なことだろう。

 まあ、自分には関係のないことだけれど。里緒はどうでもいいことを思った。


 運ばれてきた料理を目にした途端、里緒はその色どりの美しさに目を奪われた。

 そして予想以上に繊細で上品な料理の数々に舌鼓を打つと、今までの緊張やら警戒やらの気持ちがすっかり抜けきってしまい、里緒は最後に運ばれてきたデザートに夢中になった。

 艶やかなチョコレートブラウン色をしたクラッシックショコラの隣には、新鮮なベリー系の果実とこれまた濃厚そうなバニラアイスクリームが添えられている。

 そして、その上にちょこんとのせられているミントの葉がこれまた上品さを醸し出していた。 

 里緒はここに来た本来の目的をすっかりと忘れ、目の前の美しいデザートにうっとりと酔いしれた。 

 食事中の芦田は興奮状態だった自分に対し、控えめにだけれどもいい具合に相槌をうってくれたり、料理のトリビアを面白おかしく聞かせてくれた。まるで高級接待でも受けているかのようだ。

 しかし、(あなが)ちそれは間違いではなかったのだ。



 芦田からしてみれば、待ち合わせをしてから今に至るまで、全てが彼の思う通りに事が運んでいた。

 まずは慣れない場所に身を置かせてこちらのペースにもっていき、彼女が気分よく自分の話を聞いてくれる状況を作り出すことに成功した。

 ここからが、過去“落とせぬ客はいない”と上司からも太鼓判を押された芦田の営業の手腕を振るう独擅場(どくせんじょう)の始まりだ。  

 実に見事な食べっぷりで全ての料理を完食した里緒が落ち着いたところを見計らい、芦田は脳裏にある完全(パーフェクト)なる計画を切り出した。


「先日話した通り、僕たち親子はこれから2人で新しい生活を始めるんですが、あの子はまだ4歳と小さいし、諸事情から普通の子よりもちょっと手がかかるところがあって――」 


 と、そこで芦田は先日には伝えきれなかった、自分たちが離れて暮らしていた理由や、また今になって息子を引き取ることになった経緯(いきさつ)を詳しく里緒に説明した。

 神妙な顔つきで話を聞いている里緒が、自分に同情を寄せているのが、目に見えてわかった。


「そうですか。また環境が変わってしまうのは、まだ不安定さを残している上総君にとってはなかなか受け入れ難いかもしれませんね」

「はい。当面は姉の助けを借りられることになって、保育所の手続き等を任せることにしたのでひと安心なんですが、問題はその後なんです」


 芦田は慎重に話を進めた。

 自分が必要としているのは事業サービスの手続き代行や、一過性のサポートではないということを暗に示しながら彼女の反応を窺う。


 一方里緒は、この男性は自分が思っていたよりも息子のことを大切に考えているんじゃないかと思い始めていた。

 形式的な生活基盤が整えられていたって、子どもの心のケアがしっかりと為されていなければ何も意味がない。そのことを彼は言っているのだろうと、里緒はそう解釈をした。

 実際のところは、彼の思惑は別にあったのだが。


「芦田さん、私もそう思います」

「は?」


 思わぬ里緒の反応にきょとんとした芦田の表情に気付くことなく真剣な面持ちで、里緒は少し興奮気味に熱弁を振るい始めた。


「芦田さんのお考え、お父様として素晴らしいと思います。いくら環境だけ整えても、上総君の不安感を取り去って、今後とも心身ともに安定した生活を送ることができなくては、ということですよね」

「?……はぁ」


 なんだか予定していた展開とは違った方向に話が向かっているようだが、自分のもっている技術(テク)を駆使すれば簡単に軌道修正することができるはずだ。冷静にそう頭の中で判断すると、芦田はとりあえず里緒の話の腰を折らぬよう静かに様子を見守ることにした。


「正直私、芦田さんって子どもが苦手で、お子さんともどう接していいか困ってるように見えて。仕事第一で育児は人任せにして自分は関わりたくない、みたいな人かと思ってたんです」


 軽く赤ワインを(たしな)んだせいか、結構な失礼発言をしている里緒だが、実際言っている事は全て当たっていた。

 芦田は頬をひくりと引き攣らせながらも、口を出すのをグッと堪えている。


「でも、不器用ながら上総君のこと、すごく考えているんですね。私何だか感動しました」


 感極まったような表情で独り言のようにそう呟くと、改めて芦田の顔を直視して、はっきりとこう口にした。


「芦田さん、私、お役に立てることならなんでも協力します。出来ることがあれば何だって言って下さいね」


 

 ――よしきた!

 ここで漸く芦田のターンが回ってきた。 

 当初と少し予定は違うが、まあ別段問題はない。一気に話を詰めてしまおうと、芦田は里緒の言葉に続いた。


「若宮さん、ありがとうございます。是非とも君に力になっていただきたい」






 ♢♢ 


「それじゃ、気をつけて」


 満面の笑顔で手を振って自分を送り出す芦田を、里緒は狐につままれたような表情をして眺めた。


 

 ――ええと。どうしてこうなったんだっけ?

 里緒はレストランでの取り決めを、頭の中でもう一度整理してみることにした。

 込み合った電車の中で、一つ一つ順を追って確認してみる。

 先ずはそう、彼は里緒に是非とも力になって欲しいと思っていた。

 もちろんそれには同意した、というよりもむしろ自分から申し出たくらいだ。 

 それで彼は、里緒に芦田家の専属ベビーシッターになって欲しいと言ってきたのだ。

 しかし実際問題、里緒にとってそれは無理な相談だった。

 何しろ講師の仕事だってしているし、引っ越しだってしたいし、転職するならば正社員で働きたい。

 これからゆっくりと考えてベストだと思われる道を選択しようと思っているのだ。

 ところが芦田は驚くことに、全てにおいて里緒の先を先を行く提案をぶつけてきたのだった。


 引っ越しを考えていると言えば、現在芦田が住んでいる南浦和の独身マンションを破格で提供するという。もちろん、敷金、礼金など支払う必要はない。

 講師の仕事に差し支えがあると口にすれば、現住まいに比べ新住居からの通勤距離はどこの教室からも半分になると説得された。

 一体どうして事前に里緒の勤務地等を知り得ていたのかと問えば、一昨日前に待ち合わせの件で連絡を取りあった際、里緒の口から職場の話がちょろっと出たものだから、ホームページで調べてみたのだと事もなげにいう。

 更に、先々のことを考えると、キャリア的に正社員で働きたいと主張すれば、数年シッターをしてもらえれば、将来的に自分の会社付属の託児所に口利きすることを約束するときたもんだ。

 当然大手の安定企業なだけに、福利厚生もバッチリと抜かりはない。 

 マンションの写真を見せられれば大層素敵な造りだし、シッターとしてのお給金は思わず二度見してしまうほどの高額だったし、里緒は断る理由が見つからなくなってしまった。

 将来的な約束についてもきちんと書面で残してくれると言われ、実際いつの間に揃えたのか、関連資料までテーブルに広げられて詳しく説明を受けていると、今度はまるで訪問販売につかまった主婦になった気分である。


 そうしてあの手この手で様々な特典を見せておいて、里緒が「さすがに考える時間を下さい」と落ちる寸前まで追いつめられると、お約束のように「こちらも切羽詰まっているので、これだけの条件提示は今だけです」と、即決を促してきた。 

 必死で「じゃあせめて、今日お別れするその時まで」とタイムリミットを最後の足掻きとばかりに延ばしてもらったのだが、それが全くもって意味を為さないことは里緒自身が一番よくわかっていた。


 結局、芦田があの話を持ち出した時点で里緒はすでに網にかかった魚状態だったというわけだ。

 帰り際に「念のため仮の念書を」と簡素な念書にサインをさせられて、里緒には呆けた顔で芦田に見送られることしかできなかった。


 ――もしかして、詐欺にあったのだろうか。

 慌てて念書の片割れをバックから取り出して文面を一読し、怪しいところがないかチェックする。

 特に問題がないことがわかると、里緒はホッと息をついた。




 

 駅で里緒と別れた芦田は、今にも小躍りしたい気分だった。

 全ては自分の思っていた通りに計画が進んでおり、順調この上ない。


 芦田が里緒に目を付けたのは、オムライス屋で、彼女が姪の世話をしていたという話を聞いた時だった。

 もちろん最初は、その場で少し相談にのってもらえればいいと思った程度だった。

 そのためガーデンテラスへと誘いだしたのは今の現状を打破できる糸口が見つかれば、という“あわよくば”といった心境だったのだ。

 それに正直言えば、どうやら虐待でもしているのではと自分のことを疑っている様子の彼女に多少気分を害し、ほんの少しだけ彼女をからかってやろうという気持ちもあった。

 ところが話を聞いているうちに、彼女が思っていた以上に自分にとって有益な人物であることが判明したのだ。

 それでもまだその時点では、保育園では保護者として何をすればいいのかだとか、子どもとの接し方やしつけ等はどうしたらいいのかだとか、体裁を気にして知り合いにはなかなか聞きづらい事を相談にのってもらおうと考えていた。 

 しかし一昨日前、電話越しに何気なく会話の中で出てきた彼女の事情、転職や転居を考えていることや職場の情報、それらを耳にしたところで、芦田の脳裏にある画期的なアイデアが浮かんだ。

 そのアイデアをもう少し現実的なものにするためには、彼女から収集した数々の情報の欠片(かけら)を拾い集め、足りない部分は数日中にその情報収集を行う必要があった。

 数日の間にそれらを(こな)し、そして全てのピースを自分の都合のいいよう上手い具合にはめ込むと、なんとも素晴らしい一つの計画が完成した。

 まさに完璧(パーフェクト)ともいえる計画だ。

 その中でも一番のキーであった若宮里緒の人物像は、育児経験や保育経験者であるところは当然のこと、そのお節介な性格や、情に厚くて押しに弱そうなところまで、スキル、人間性ともに正にこの計画にお(あつら)え向きだった。


 綿密な計画を懐に揚々と里緒を出迎えた芦田は、数年前に培った営業トークで、いかにこの提案が彼女にとって優位な条件でどれだけ自分が譲歩しているかを誇張して説明してみせた。

 そして真実のところ、裏を返せば全てが芦田の都合のためだけに辻褄を合わせられた条件であることにもちろん里緒は気付くよしもなく、芦田は事を成功に収めたのだった。

 

 とはいえ、安心するのはまだ早い。

 やっぱりお断りしますと里緒が気持ちを翻さぬように、出来うる限り彼女にとって条件のよい内容を盛り込んで、この契約を確固たるものとしなくては。

 今夜は自分のマンションに一泊することになっていた芦田は、さっそく自宅に帰宅するが早いか、サイン入りの念書をテーブルに置くと、本契約のための書類作成に取り掛かるべく、パソコンを開いた。



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