年齢
デパートから書店へ向かいがてら、芦田は自分の置かれている現状を簡潔に説明した。
上総が車に同乗しているため、あまり下手なことは口にできない。そのため大部分を端折ってしまい、十分に状況が伝わっているかどうかは正直微妙だった。
本来であればガーデンテラスで、上総が庭の植物に夢中になっている間にゆっくりと話をする予定だったのだが、状況が変わり、止むなく車中で手短に話すこととなってしまった。
こんな移動ついでの状態ではきっと、大したアドバイスももらえないだろう。こんなことなら彼女をからかったりしなければよかった、と芦田は心の中で舌打ちをした。
ところが里緒は意外にも、芦田の家庭事情に積極的に踏み込んできた。
もう少し詳しい事情を聞かせて欲しい、そして芦田の力になりたいと申し出てきたのだ。
どうやら彼女はとんでもないおせっかい焼き、もしくは頭に馬鹿がつくほどのお人よしらしい。
先ほど『君に出会えたことは正直ラッキーだと思ってる』なんて少し大袈裟に里緒に言ってみせたのだが、実際はその通り、いや期待以上だった。
何より芦田が幸運だったのが、彼女が育児も保育士業も経験済みの“保育のエキスパート”だということである。
♢♢
「今日はこれ以上詳しくお伺いする時間もありませんので、日を改めてご相談下さるということであれば、何か私にもお役に立てることがあると思います」
どこかのカウンセラーのような物言いに、芦田はこの若く幼い面持ちをした女性のイメージに何だかそぐわないな、などと心の中で思った。
「改めてということは、わざわざ時間をとってもらえるのかな? こちらとしては有難いが」
是非とも、と内心食いつきたい提案だったが、そこは紳士らしく控えめに相手の意思を確認する。
「私、実は保育士をしていたもので。うちの保育園には父子家庭の方は生憎いませんでしたけど、母子家庭の親御さんは何人もいました。それに、今は保育士講座の講師みたいなこともしているんです。公的なサービスだったり詳しいので、いろいろと――」
「え? てことは保母さん?」
「あ、はい。4年ほどですけど」
突然の大声に里緒は少し、たじろいだ様子だった。
しかし、芦田の方は少しどころではない。
里緒が「ちなみに今は保母って言葉は存在しないんですよ」なんてご丁寧に雑学を教えてくれたのだが、そんなことは芦田の耳にはちっとも入ってこなかった。
――短大2年として、20歳だろ。プラス4年で24歳……今も働いてるって?
「若宮さん、君いったい、いくつなんだ!?」
あまりの驚きに、大変失礼な質問を致したことに芦田は気がつかなかった。
案の定、ミラー越しに見える里緒の口元は微妙に引き攣っている。
「……女性に年齢を尋ねるって、結構失礼な方ですね。まぁ、いいですけど」
「あ、その、申し訳ない。答えなくていいから」
「いや、いいですよ、別に。今年27になります、今26歳です」
――こ、今年27だって? そりゃ詐欺だろう!
芦田は思わずミラー越しに里緒の顔を凝視した。
服飾科の学生がしていそうな、頭の高い位置でまとめたカジュアルお団子ヘア。
実際はほんのり化粧をしているのだが、芦田からしてみればノーメイクとしか思えない。
少し大きめな瞳は目尻が下がり気味、ふっくらとした唇は小さめで、全体的に幼い顔立ちだ。
黙ってぼーっと立っていれば、すぐにでもキャッチの餌食になってしまいそうな、隙だらけの印象を受ける。
確かにびしっとスーツを着こなして顧客回りをするキャリアウーマンなんかに比べれば、ピンク色のエプロンをして『はーい、お歌を歌いますよ~』なんて、子どもと戯れている方が遥かに納得はいく。
だが、それならむしろまだ学生の身で、『教育実習中なんです』と言われた方がしっくりくる気がする。
言葉にこそ出さなかったものの表情は隠せなかったようで、ジトリとした目つきをした里緒が、逆に質問してきた。
「一体いくつだと思ってたんですか、芦田さんは」
「ああ……いや。酒が飲める年齢なのか――と」
芦田が笑顔を張り付けてそう言うと、里緒はムッツリとした表情になり、ブツブツと文句を言い始めた。
「23、4に間違えられるんなら若く見られて嬉しいですけど、成人してるかどうかだなんて、失礼しちゃいます! 大体、妹の子どもが2歳だっていってるんだから、少しは想像ってもんがつくでしょう?」
「あ、えー……その。本当に申し訳ない」
ゴホンと咳払いをして、芦田はとりあえず誠意をもって謝ってみせた。
まぁいいですけど、と先ほどと同じ言葉を繰り返して、里緒は一旦逸れた話題をもう一度軸に戻した。
「そう、それで公的なサービスや補助って意外とあるんですよ。金銭的な面では今のところ母子が限定だったりするんですけど、それ以外なら父子も対象になることが多いんです」
「ああ、そうなんですか。そういったことには全く疎いので教えてもらえると助かります」
芦田は今更ではあるが、意識して丁寧な言葉を使ってみた。
さすがにこれまでの言葉づかいは、初対面である26歳の女性に対しての話し方としては不適切であっただろう。
と、そこで目的地である表参道に到着した。
近くのパーキングに車を止め、連絡先を交換した2人は、仕事の都合にもよるが数日中にもう一度きちんと話をする場所を設けることにお互い同意し、芦田はせめてものお礼にと、「どうせなら今日は自宅まで送ります」と申し出た。
♢♢
狭苦しいキッチンで、里緒はお玉を片手に本日の夕食を作っていた。
今日は長い一日だったなあ、と改めてそう思う。
芦田親子と出会ったのは里緒にとっても、ある意味大きな出来事であった。
過去6年の間、里緒は何らかの形で常に子どもと関わりをもってきた。
そして今、亜衣の世話をする必要が無くなり、これからの生活をどうしていこうか里緒は真剣に悩んでいた。
現在非常勤としてお世話になっている保育士試験対策のスクールからは、契約社員にならないかとのお誘いを受けている。
里緒の講師ぶりは、生徒たちからかなりの高評価をいただけているらしいのだ。
金銭的な面からいうと、この仕事はなかなか羽振りがいい。保育士をしていたころと比べると雲泥の差だ。
これまで妹夫婦宅に半同居状態だったため、里緒の現在の住まいは一応新宿まで乗り換えなしの20分に位置する駅近物件といえども、独身女性の一人住まいとして快適であるとはとても言い難かった。築30年の6畳一間のアパートはベランダなし、一口コンロの身動きとれないキッチン、おまけに備え付けの収納は半間にも満たないときている。
いいかげん引っ越しを考えなくてはと思っているため、常勤になるのはタイミングとして丁度いいし、福利厚生が割としっかりしているのも魅力的だ。
しかし里緒はこれを機会に児童福祉という業種から離れ、新しい世界に目を向けてみようかと考えていた。
26歳という今の年齢とこれまでの経歴を考えるに、これから新しい業界に飛びこもうというのは少々無茶だという自覚はある。
今の世の中、どこの業界にいってもある程度のパソコンスキルが必要とされる中で、『パワーポイントってゲームキャラクターの体力のこと?』だなんて真剣な顔で質問してしまえる里緒には、とてもじゃないがデスクワークはお呼びでない。
そうなると人当たりがいいことを生かして接客業、それから社会福祉なんかは資格も活かせて向いているかもしれない。
しかし、今日上総と出会い、ああして関わってみて、やはり自分には保育という道しかないのだと再認識させられた。
子どもと向き合うだけではなく、彼らに大きな影響を与える保護者や周囲の環境においても手助けをしていきたい。そう考えると、保育園だけでなく他にも勤務先の選択の余地は広がるはずだ。
赤ん坊の頃から両親と離れて暮らさなければならない子どもたちのために乳児院で働くのもいいかもしれないし、共働き夫婦が増加している中、鍵っ子たちのために学童保育に携わるのもいいだろう。
様々な選択肢を頭の中で描きながら、車中で芦田から聞かされた彼らの家庭の事情について、思いを巡らせた。
芦田から受けた説明は、端的に言うと、3つに絞られた。
一に、数年前妻を亡くして現在は親子離れて暮らしているということ。
二に、今から半月後に、初めての2人暮らしをスタートさせるということ。
そして最後に、芦田はまるきりの子育て初心者であるということ。
以上である。
僅かな情報のように思えるが、芦田親子の現状を把握するのに、里緒にはそれだけの説明で十分だった。
今日の様子を見るに、芦田は養育に関する公共の手続きやその他サービスに関しては無知のようだ。まずはそこから説明しなくてはならないだろう。
それから、息子の上総については度重なる環境の変化のせいで、かなり心に傷を負っているように思う。彼の心のケアは何より優先すべき事項で、出来るだけ早く安定した環境を与えてあげなければならない。
最後に芦田自身も今後は、仕事に家庭にとかなりの労力を注ぎこまなくてはならないため、良き理解者、そして力になってくれる人間が必要だろう。
今日の印象からするに、彼はプライドが高くあまり他人に頼ろうとするのが苦手なタイプのようだ。そうでなければ見も知らずの、それも20歳そこそこだと思っていた女性に相談などする前に、身近な人間に助けを求めるという選択を取るはずだろう。
身近に頼れる人がいないまま時間だけが過ぎ、切羽詰まって自分に相談してきたのかもしれない。
父親の方には多少人格に問題はある気がするが、目の前で困っている親子がいるのにそれを見過ごすことなど里緒にはできやしなかった。
運よく自分は助けになれる知識があるし、今のところ時間にも融通がきく。
――できるだけ彼らの力になってあげよう。でも、自分のこの先のことも何とかしなくちゃね。
完成間近のチキンのトマト煮をお玉でかき混ぜながらそう考えていた里緒は、よもや自分の生活が2週間後にガラリと一変してしまうなんて、この時は思ってもみなかった。