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Well-being for Life!  作者: chai
1章 出会い
6/29

家庭の事情

 しばらく車を走らせていると、後ろに座っている息子はどうやら眠ってしまったようだった。くったりとして目を瞑っている様子が、ミラー越しに窺える。

 それにしても、今日は何とも(せわ)しい一日だった。

 それは体力的にという意味だけではなく精神的にも、である。

 


 芦田はいわゆる父子家庭だ。

 いや、正確にはもうすぐ父子家庭になる、といった方がいいのかもしれない。

 現在芦田は南浦和の独身向けマンションで生活をしており、息子の上総はというと、そこから車で1時間ほど離れた母方の両親と共に一軒家に住んでいる。

 彼は2年ほど前に、妻を亡くしていた。


 そのころの、というより結婚当初から芦田は、仕事に追われた忙しい日々を過ごしていた。

 大手広告代理店に勤める彼は、今でこそ目標としていた広告プランナー業務に携わっているものの、入社当時は営業部門に配属され、修行中の身として営業のノウハウを一から十までみっちりと叩きこまれた。

 顔も会話スキルもそこそこだった芦田は顧客からの受けも良く、なかなかの成績を上げたものだから次第にあちらこちらへと引っ張りだことなって、当時は毎日のように終電帰宅だった。

 そんな日々を過ごしてきたものだから当然家庭を大切にしていたとは言い難く、休日出勤も多かった彼は家族との時間もほとんど取れなかった。


 幸い妻だった美波は、近場に住んでいる両親が何かと面倒を見てくれていたこともあり、四苦八苦しながらも初めての育児を彼女なりに楽しんでいたようだった。

 芦田から、数年はこの状態が続くだろうが異動になれば仕事も落ち着くと言われていたこともあってか、美波が夫の忙しさを責めることは一度もなかったし、彼女の両親もまたそれに然りだった。

 彼らからしてみれば、たいそう可愛がっている一人娘の、これまた一人きりである息子の上総が頻繁に自分たちの家を訪問することに両手を挙げての大歓迎だったのである。


 顧客折衝に忙殺される毎日とはいえ、やりがいも目標もある職場環境、仕事に口を出さない家庭的な妻に健康体である一人息子、順風満帆であると信じて疑わなかった芦田が妻の訃報を受けたのは、あと半年も踏ん張れば製作部門への道が開けるだろうと上司から太鼓判を押された、その翌日のことだった。

 息子を実家に預け、車を走らせて自宅へと向かう途中、トラックと衝突した彼女はその場で即死だった。



 毎日終電帰宅である芦田の生活を考えるに、2歳と7ヵ月の小さな子どもと父親での2人きりの生活は、誰が見ても賛成できるものではなかった。

 芦田本人にしてみたって、そんな生活は到底無理だと白旗を上げる心境であった。

 そこで一人娘を亡くして心にポッカリと穴のあいた美波の両親が、是非とも上総を引き取って面倒をみたいと申し出たのだ。

 芦田の両親はというと、母はすでに亡くなっており、父は遠く離れた九州の田舎に一人きりで住んでいる。とはいっても近くには大勢の親戚がいるため、心配の必要はいらぬ環境だ。

 

 結論はすぐに出た。

 美波の葬式が終わると3日もしないうちに上総は美波の両親である伊藤家に引き取られていった。

 芦田はというと、身の回りのことが落ち着いて暫くしてから、ローンを組んで購入したばかりだったマイホームを貸家に出し、数駅離れたマンションで一人暮らしを始めたのだった。


 家を売りに出さなかったのは、ちょうど自分の客が探している賃貸物件に条件ぴったりで、かなりの高額が期待できる、と不動産を営んでいる叔父から諭されたからである。

 実のところ、芦田はできることなら今すぐにでもこの新しい家を売り飛ばしたい気分だった。

 しかし、借り手の希望は2年間の期間限定ということだったし、『売りに出したいのならその後ゆっくり考えればいい。手続きならすべて自分が代行する』そう叔父から説得され、芦田は渋々その指示に従ったのだ。

 現在住んでいるマンションも叔父の計らいで、叔父自身の所有物件であったため、条件なしの即入居とさせてもらった。

 とにかく一気に環境が変わってしまった芦田にとって、全ての手筈を滞りなく済ませてくれた叔父の好意は、非常にありがたいものだった。   



 伊藤家に移った上総には、酷い赤ちゃん返りのような症状が見られ、3歳を過ぎたあたりからはチックが発症した。

 指しゃぶりから始まると、急に意味不明な叫び声をあげたり、様々な身体部位がピクピクと痙攣を起こすようになり、不安定な毎日が続いたらしい。

 それでも最初のうちは母親との突然の別れ、環境の変化に心を閉ざしていた上総が1年、1年半と時を重ねるごとに祖父母からの深い愛情のおかげで少しずつ本来の姿を取り戻し、以前ほどではないにしろ笑顔を見せる回数が多くなったと義母は嬉しそうに語っていた。

 月に2度の義理親宅への訪問は、仕事の忙しさにかまけて1度になったり、下手をすれば2月(ふたつき)に1度となることもあったが、彼らはそんな芦田を責めることはしなかった。

 上総に対しては人並みに親としての愛情はあったものの、正直芦田にはあれぐらいの年頃の子どもと一体どうやって遊んだらいいのか全く見当もつかず、面会の時はいつでも義母を交えてコミュニケーションを図っていたのだが、それでも上総は父親が訪れるのを毎回心待ちにしていたようだった。



 妻が亡くなって1年を過ぎるころになり、芦田はついに念願の製作部門へ異動となった。

 異動当初はもちろん目が回るほど忙しかったが、3ヶ月も経つと営業にいた頃に比べ、随分安定した生活を送ることができるようになった。

 何といっても休日出勤がなくなったのは大きかった。

 とはいっても、相変わらず忙しいことに変わりはないのだが。

 

 そうしていろいろなことが少しずつではあるが、よい方向へと向かい始めた。

 そんなときだ、義父からの連絡があったのは。

 



 あれは2週間ほど前のことだった。

 名古屋への出張から帰ってきたばかりだった芦田は珍しく定時に仕事を終えて、久しぶりに同僚と飲みに行く約束をしていた。

 同僚より一足先に店に辿り着いた芦田は、そこで珍しく義父からのコールを受けた。

 息子のことで義母とは定期的に連絡を取り合っていたものの、義父と直接やり取りをしたことは数えるほどもない。

 息子に何かあったのだろうかと芦田は少し緊張して通話のボタンを押した。


 義父から聞いた話の内容は予想だにしないものだった。

 2日ほど前、義母が脳こうそくで倒れたというのだ。

 思いのほか症状は重いらしく、今後は寝たきりになるとのことだった。

  

 急いで病院に駆け付けた芦田は、義父からこれからの事について相談をうけた。

 付きっきりでの介護が必要な自分の妻に、出来るだけのことをしてあげたいと、義父はそう言った。

 とはいえ自分は定年まであと5年近くあるし、60を過ぎた年でそんなに若いわけでもない。しかし、娘が亡くなっている今、義理の息子である芦田に迷惑を掛けるつもりはないと、そうもはっきりと告げられた。  

 しかし――だ。そうなると、孫である上総の面倒を今まで通り見るのは難しいだろう、と。

 幸い芦田の仕事は落ち着いているし、以前のように休日出勤もない。

 更に、貸家に住んでいた居住者たちは、当初の予定通り2年間という契約期間でこの地を去ったばかりで現在は空家の状態である。

 

「むろん自分に協力できることはするつもりでいる。以前まで住んでいたあの家で、上総と2人で生活をしてはくれないだろうか」義父はそう提案してきた。

 確かに義父の言うことは道理にもかなっているし、むしろ自分も大変な時に、義理の息子への気遣いも忘れない彼に、感謝こそすれ反論のひとつさえ述べるべきでない。

 けれど、正直あのだだっ広い家で上総と2人住まいなど真っ平で、それならいろいろ問題があるだろうが、いっそのこと義両親と同居して義父と助け合った方が幾分マシだった。

 だがそうなると、職場までの距離に問題が生じ、現実的な解決策とはならない。

 だからこそ、芦田はこの急な提案に頷くほかなかった。

 そもそも、芦田はこれまで彼らの好意の上に胡坐をかき、のうのうと生活をしてきたのだ。

 他ならぬ、義理親の頼みとあっては、断るわけにいかなかった。

 これまでのツケが今になって回ってきたのだ。

 実子と共に暮らすことにツケも何もないだろうが、今後の生活のことを考えると、芦田にはそう思わずにいられなかった。



 数日の話し合いを経て、2週間を義理親宅で過ごし、その間に新しい生活の基盤をつくることとなった。

 その間、会社に関しては有給やフレックス制度などを活用して、通勤距離の問題を補うことにした。

 引越を済ませた後の上総の面倒は、保育園などの生活環境が整うまでの当面の間、静岡に住む芦田の姉に手伝ってもらうよう頼んである。

 元々あまり仲が良いとはいえない姉弟ではあったが、今はそんなことにかまっている場合ではない。

 姉にしたって同じ子を持つ母親として、上総が不憫でならないと電話越しにそう話していた。

 家庭を持ちながらフルタイムで働いている姉には、契約社員とはいえ長期の有給を取ってもらうことになり、少々心苦しいが、ようやくこれで大まかな手筈は揃ったわけだ。  

 しかし、姉弟とはいえども、近所に住んでいるわけではないため、今後の日常生活において、度々手助けしてもらう訳にはいかない。

 環境を整えるまでは身内の協力を得て何とかなるだろうが、これから先、正直どうしていったらいいのか芦田には八方ふさがりだった。


 生憎プライドが高い性格も手伝って、芦田はなかなか他人に助けを請うことができない性分だ。

 唯一の頼みの綱である叔父も、住居などの物質的環境を整える手助けはしてくれても、直接的に育児やら日常生活やらのサポートを期待することはできない。

 そうこうしているうちに、またたく間に半月が過ぎ、2人きりの生活が差し迫ってきた。

 そして、そんな切羽詰まった頃に出会ったのが、救世主ともいうべき、育児慣れした見も知らずの若き女性、若宮里緒であった。

 息子の迷子というとんだハプニングで出会った彼女だが、(わら)にも縋る思いで、恥を忍んで育児生活の知恵を請い、ある程度やっていけるようになったらおさらばすればいいのだと、このときの芦田は何とも身勝手な考えをしていた。

 


チック(症):幼児期から思春期に多くみられる脳神経系の障害。原因は身体的・精神的要因が複雑に絡み合って起きるが、精神的要因としては不安、ストレス、緊張などがあげられる。症状は様々。

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