Brown Bear, Brown Bear, What do you see?
目的の子どもの絵本専門店に到着したのは、午後3時を少し回った頃だった。
里緒から幾度となく顔色の悪さを窘められた芦田は、近くのパーキングで車のシートを倒して目を瞑っている。
やはり疲労がたまっていたのだろう。数分も経つとすぐに眠気が襲ってきた。
そして、絵本を抱えて里緒たちが戻ってくるまでの40分の間、一度も目を覚ますことなく、ぐっすりと眠ったままだった。
そのころ里緒たちは建物の1階で、部屋いっぱいに溢れた絵本たちに囲まれ、右往左往しているところだった。
上総は年相応に乗り物に興味をもっているらしく、新幹線のキャラクターが主役の某有名絵本を広げると、嬉しそうにそれを眺めている。父親から一冊だけとの約束で絵本を買ってもらえることになったため、どれにしようか現在模索中なのだ。
そんな上総の様子を時々窺いつつ、里緒は姪が喜ぶであろう最高の一冊を見つけるために、腕組みをして真剣に悩んでいた。
ふと洋書コーナーに目を向けると、育児中の母親なら誰でも知っている、子供向け絵本の代表といえる“はらぺこあおむし”の原書を発見した。
――洋書の絵本ってあまり気にして見たことがなかったんだよね。
ちょっとした興味が出てページをめくってみる。
すると、意外に面白く夢中になってしまった。
『海外に行っても全く困りません』なんて自慢できるほどではないにしろ、里緒は小さい頃から英会話教室に通っていたし、学生時代はわりと英語の成績がよかった。そのため子供向けの絵本なら難なく理解し、楽しんで読むことができる。
言葉というものはリズムや響きによって、その音の情景や世界観を感じ取ることができるものだ。
特に子供向け絵本の場合、言葉の意味よりもそういった音を大切にした作品は多くある。
同じ絵本でも言語が違うとこうもイメージが異なるのだと、里緒は新たな発見に興味深さを感じた。
続いて里緒は、そのお隣にあるクマの表紙をした絵本を手にとってみた。
――あれ、これ確か、彩穂に薦められたやつだ。
同じ保育専門学校でクラスメイトだった彩穂は、帰国子女であったこともあり、現在は子ども英会話教室で講師をしている。
そんな彼女から以前「今は英語ができて当たり前の社会よ。この本お勧めだから亜衣ちゃんにどう?」なんて教室勧誘がてらにこの絵本を見せられたことがあったが、当時まだ1歳だった亜衣に、それはまだ早いんじゃないと笑い飛ばした記憶がある。その反応に憤慨した彩穂から「早すぎて損することはないのよ」と、児童英語教育に対する熱意を昏々と聞かされるはめになったのだけれど。
確かに昨今の保育園、幼稚園ではカリキュラムのひとつとして英語を取り入れるところが増えてきている。小学校での英語教育の義務化が影響しているのだろう。
妹夫婦は特別教育熱心な方ではないし、里緒としても、まだ小さな亜衣には語学を学ばせるよりももっと、幼児期に必要な経験をしてほしいと思っている。
しかしまあ、外国の絵本を見るというのはその国の文化に触れることにもなるし、日本の作品では見られない絵柄はとても素敵だし、これは案外いいかもしれない。
そんなことを考えながら、里緒はその少し分厚い表紙をめくった。
Brown Bear,
Brown Bear,
What do you see?
I see a red bird
looking at me.
テンポの良いそのセンテンスを心の中で口ずさむと、ペラリと次のページをめくる。
そして今度は軽く頷きながらリズムをとって読んでみた。
Red Bird,
Red Bird,
What do you see?
I see a yellow duck
looking at me.
ペラリ、ペラリ。読み進んでいくにつれて、繰り返し続くその決まったセンテンスとリズムが頭から離れなくなる。
うん、これやっぱりいいかも、と手の中のそれを亜衣へのプレゼントにする事とした。
漸くお目当てのものが見つかり満足して、里緒はフフッと口元を綻ばせながら、絵本をパタンと閉じた。
「わっ、上総くんっ? びっくりした!」
今まで自分の世界にどっぷりと浸かっていたせいか、いつの間にか上総が至近距離から興味深く自分をじっと眺めていることに、里緒は全く気がつかなかった。
「そこにいたの、ちっとも気付かなかった。私ね、これに決めたの。上総くんはお気に入りの本見つかった?」
上総の隣にしゃがみこみ、手元のそれを見やすいように広げて見せると「これはね」と絵本の説明をする。
すると上総は、まるでその絵本に吸い込まれたかのように開いたページに釘づけとなった。気に入ったのかと問えば、それに大きくかぶりを振って答える。
「乗り物の絵本よりも?」
こくりと頷いた上総に念のため、もう一度確認する。
「新幹線のじゃなくてもいいの?」
今度はうんうんと、2度頷いて見せる。
それなら、と里緒は同じものをもう一冊、先ほどの棚から抜き取ると上総の手を取って会計へと向かった。
「ふふっ、お揃いだね」
にこりと笑って里緒がそういうと上総もそれに対し、はにかんだ笑顔で答えてくれた。
♢♢
「パパ、よく寝てるねぇ」
どこか遠くでクスクスと笑い声が聞こえる。
芦田は、微睡の中で、これが夢か現実かよくわからないまま、雲の上にでもいるようなフワフワとした気分でいた。
Brown Bear,
Brown Bear,
What do you see?
「上総、クマさん何が見えるって?」
「トリさ~ん!」
「そうだね、赤いトリさん、a red birdだね」
I see a red bird
looking at me.
「…… a white ………… sheep, a goldfish, and ……」
頭がなんだかぼうっとして、ここがどこなのか確認しようにも瞼が重くて目が開けられない。
ここは一体どこだっただろうか。
「…That's what we see. ……お・し・まい!」
ぱたりという音に驚き、芦田はびくりと上半身を震わせて目を開けた。
ぼんやりとした頭で辺りを見回すと、どうやら自分は車中で寝こけていたようだ。
「あ、今ので起しちゃいましたか、ひょっとして」
聞き覚えのない女性の声がなぜ自分の車内から、と眉を顰めたところで、芦田はようやく思考がはっきりとした。
――そうだ、本屋に行く彼女に上総を頼んで……。
慌てて後ろを振り返ると、後部座席に座っている里緒の膝の上に、ちょこんと上総が乗っかっている。その手に深緑色をしたビニール袋を抱えているが、おそらく中身は購入した絵本だろうと芦田は推測した。
先ほど夢の中で何やら聞こえた気がしたが、あれはきっと現実の世界で絵本を読み聞かせていた里緒の声だったのだろう。
「いや、どうもすいません。息子を任せっきりで」
「いいえ、大丈夫です。少しはお休みになられましたか」
「はは、思った以上に。やっぱり疲れていたようで」
休めたようならよかった、と笑う里緒とその膝の上にいる息子を見比べて、かなり仲良くなったんだなと驚く。
さすがに膝から降りなさいと息子に声を掛けるべきだろうかと芦田は迷って、結局別のことを口にした。
「あー、ええと。いい絵本は見つかりましたか」
芦田の口調が完全に会ったばかりの時のような丁寧なものに戻っていることに気づいた里緒は、敢えて指摘するようなことはしなかったが、実は心の中でこっそりと笑っていた。
「はい、それはもう。実は上総くんとお揃いなんです」
「へぇ、一緒の本にしたんですか」
「いえ、偶然にも同じ絵本に興味を持って」
「そうですか」
これが仕事中ならば迷わず『どんな絵本なんですか』などと質問していたところだが、幸い相手は自分の客ではない。自分から振ったくせをして大して興味のないその話題を特に発展させる努力もせず、芦田はそう返答して会話を終了させた。
それにしても、自分は先ほどまで夢を見ていたようだが、それはどんな内容だっただろうか。
夢を見ること自体が久しぶりのせいだからか、芦田はなぜだかそれがとても気にかかった。
「じゃあ、出発しましょうか」
そんな思いを吹き飛ばすかのように、気を取り直してハンドルを握る。
倒したシートを元に戻すと、後ろでガチャガチャとチャイルドシートを固定する音が聞こえた。
♢♢
府中街道沿いのコンビニエンスストアに車を止めると、里緒は礼を述べて車の外に出た。3月になったとはいえ、まだひんやりとした空気が身を纏い、里緒の身体はぶるりと震える。
「本当にここで大丈夫?」
「ええ、ここから3分とかからないんです。ありがとうございました」
そうして開けられた窓から上総を覗き込むと目が合って、里緒は今日一番の笑顔でにっこりと微笑む。
「上総くん、今日はとっても楽しかった。また今度、一緒にあの本読もうね」
ばいばい、と手を振ると運転席の芦田に「それではまた連絡します」と軽く頭を下げられる。
里緒も同様に返すと、2人を見送るために車から少し離れて手を振り続けた。
車が発進する直前、エンジンの音に紛れて「バイバイ」という小さな子どもの声が里緒の耳に聞こえた気がした。
ちなみにこの絵本は“はらぺこあおむし”と同じエリック・カールさんのイラストです。日本版は“くまさん くまさん なにみてるの?”そのままですね。