誤解
改稿:5・6話をひとつにしました。
唖然とした里緒をそっちの気に、芦田は一頻り笑い終えると漸く気が済んで、ふうっと一息ついてから再び彼女に視線を戻した。
久しぶりにこんなに大笑いをしたせいか、気分がすっきりした気がする。顔中の筋肉を動かしたからだろうか。
芦田は呆けた顔をして座り込んでいるこの女性に感謝の意を示そうと、紳士的な笑顔を浮かべて彼女に手を差し伸べた。
「失礼、笑って悪かった。とりあえず、そちらの誤解を解こうか」
納得いかぬ表情ではあったものの、里緒はとりあえず芦田の手を取った。
芦田がクイっとその手を引っ張ると、思いのほか彼女の身体は軽かったらしく、危うく2人は勢い余って後ろにそっくり返ってしまいそうになった。
至近距離で里緒の顔を目にし、芦田は今頃になって彼女の年齢が気になった。
館内では口調も態度もかなり落ち着いていたから気付かなかったが、よくよく見ると、まだハタチそこそこといったところだ。
どちらかといえば童顔な里緒は、今日はかなりの薄化粧だったこともあり、芦田は彼女の事を学生もしくは家事手伝いみたいなもんだろうと完全に誤解していた。
――となると、さすがに子ども相手にこんなこと相談するだけ無駄か。
実のところ芦田は、初対面であの息子と問題なく接することができたこの女性に、幾つか尋ねてみたいことがあった。
ガーデンテラスに連れてきたのだって、それが目的であったのだ。
どうやら彼女は姪の世話をしていたせいか、ずいぶん子どもの扱いに慣れているようだし、若いくせして驚くほどしっかりしている。
この件に関しては、どうしても自分の知り合いを頼る気にはなれず、見も知らずの彼女は相談役として適任だ、つい先ほどまではそう思っていた。
しかし、いくらそうとは言えど、大の大人が成人しているのかも怪しい学生もどきに頼るのは如何なものだろう。とりあえず、全ては彼女のあの妄想をキッパリと否定してからだ。
芦田は庭の中で遊んでいる息子の姿を捉えると、声をかけた。
父親に手招きされて、小走りで駆け寄ってきた上総の表情は、心なしか少し明るく見えた。
どうやら先ほどの里緒たちの掛け合いを、興味深々で木陰から覗いていたらしい。
「このお姉さんが、パパがお前を虐めているんじゃないかって、おそろしい顔をして怒るんで困ってるんだ」
大袈裟なジェスチャーを交えてそう言いうと、里緒を一瞥してニヤリと笑い、芦田は息子に向き直った。
里緒はそれに、かあっと顔を赤くしたが、父親の隣にいる上総はなぜだか嬉しそうに口元を緩めている。
――あれ、この子、今すっごく嬉しそうな顔してる?
しばらく無言が続いたが、上総がそれでも満足そうな表情をしたままなので、里緒は何となくそのまま芦田の調子に乗っかることにした。
その方が、上総が喜ぶ気がしたのだ。
「あのね、かずさくん。お姉さんは、虐めてたなんて言ってないのよ。パパはとっても力が強そうだから、もしプロレスごっこでもして遊んでたら、かずさくんが怪我してないかなって心配になってね。お姉さんがお医者さんになって検査をしますってお話してたの!」
この親子がプロレスごっこをして遊ぶように見えるかどうかは別として、ちょっと芝居がかったような声色を出し真面目な顔でそう言うと、里緒はハンドバックのなかからiPodを取り出した。
「じゃーん、聴診器」と上総の目の前にイヤホンを広げて見せ、それを両耳に装着する。
おいでおいでと手招くと、上総は父親と里緒の顔を交互に見比べ、それからちょっと困ったような顔をして見せた。
「ほら、腹でも捲って見せてやれ」
「はい、それではまず、お腹と背中をみますねー。冷たかったら言って下さーい」
父親に促され、おずおずと近寄ってきた上総を相手に、なんちゃって聴診器を使ったお医者さんごっこを始める。
里緒はすでに虐待なんて、もう微塵も疑ってはいなかったが、一応形だけとばかりに、上総の身体をチェックした。
このごっこ遊びは、そういった部分では意味を成さないものだったが、この親子にとってはいいコミュニケーションの場になったのではないか、里緒はそう感じた。
芦田は息子の前でも饒舌だったし、上総は父親との掛け合いを――会話としては一方的だったものの――楽しんでいるようだった。
何しろ今まで二人の間にあった、ぎくしゃくとした変な空気みたいなものが、この時間はひっそりと身を沈めているように思う。
「はい、それでは帰るときにお薬を出しますので、しばらくお庭で遊んで待っていてください」
小さな患者の衣服の乱れを整えると里緒は「お大事になさってくださいね」と最後に笑顔でそういって、お医者さん役を全うする。
やはり上総は一言も会話の返答をしてくれなかったが、聴診器がくすぐったかったのか時折声をあげるような場面が見られた。
それに一生懸命お医者さんの指示に従う上総は本当によき患者っぷりで、どうやらこの遊びを気に入ってくれたようだ、と里緒は嬉しい気持ちになった。
少し離れた先で、噴水の中を覗き込んでいる上総の姿を遠目に見ながら、芦田は何とも言い難い気持ちになった。
今まであんなに一緒にいるのが居心地悪く、変に緊張するものだったのが、まるで嘘のようだった。
上総が自分の前で、ああやってはにかんだ表情を見せたのはいつ以来だろうか。
芦田自身だって、あんな風に息子に向かって軽口をたたいて見せたのは久しぶりの事だった。
名を若宮といった、子どもの扱いに慣れているあの女性が、特別自分たちに何かをしたというわけではない。
しかし、あの雰囲気を作り出したのは紛れもなく彼女だ。それは間違いない。
――やはり、ダメもとで話してみるべきか、彼女に。
芦田は神妙な面持ちのまま後ろを振り返ると、里緒の姿をまっすぐ視界に捉えた。
そこで彼はおや、と首を傾げる。何だか彼女の様子がおかしいのだ。
俯いたまま微動だにしないばかりか、よく見ると微かに震えている気がする。
一体どうしたことか。
「若宮さん、どうかしたのか?」
そういえば、彼女の名を呼ぶのはこれが初めてだ。
どちらもお互い『君』『あなた』呼ばわりで(里緒の心の中ではもっと酷い呼び方だった)初対面のくせして、よくまあここまで会話が成り立ったものだ。
芦田はふっと小さく笑った。
名を呼ばれてしばらくしても、里緒は特に反応もしない。
怪訝に思った芦田はゆっくりと里緒に近づき、彼女の肩に触れた。
「若宮さん?」
そして、ようやく顔をあげた里緒の表情を見て、芦田は大きく目を見張った。
♢♢
「……いただきます」
ことり、と目の前に置かれた缶コーヒーを遠慮なく受け取って、その蓋がすでに開けられていることに気付くと、里緒は意外そうな顔をしたままそれに口を付けた。
芦田はその様子を確認した後、テーブルを挟んだ真向かいにある木製チェアに、ゆっくりと腰かける。
そして再び里緒に目をやると、彼女はじっと芦田の動向を窺っていた。
「どうした?」
「……もう、笑わないんですね」
バツの悪そうな顔をして、里緒がぼそりとそう呟く。
「ご希望とあれば、いくらでも笑えるが。正直今日は、君に散々笑わされて筋肉がヒクヒクしててね。これ以上はできれば勘弁願いたい」
腹筋の辺りを摩りながら里緒に皮肉ってみせると、芦田は無糖コーヒーの缶を手に取った
――青くなったり赤くなったり、まぁ忙しいもんだ。まるで信号機だな。
自分の周囲にこんなお笑い要員はいないなと、目の前の女性がまるで宇宙人かのように思えてくる。
それにしてもここ最近、いろいろなことがありすぎて、こうしてゆっくり緑を眺める機会もなかったと、芦田は思いのほか自分が疲労を感じていたことに気づく。
プシュッと缶の蓋を開け、手の中のそれをごくりと飲み込むとその瞬間、口の中いっぱいに苦みが広がった。
瞼を閉じると、頭の中に先ほどの光景が蘇る。
「本っ当に、申し訳ありませんでした」
真っ赤な顔をして小刻みに震える里緒を見て固まっていた芦田は、この状況がさっぱり飲み込めなかった。
目の前の女性は今にも土下座しそうなくらいの勢いで、ガバリと頭を下げて平謝りしている。その姿を芦田は、ただ呆然と見つめていた。
つい先ほどまで「はーい、息を吸ってー、吐いて―」と女医になりきっていたあの姿は幻だったのだろうか。
なかなか動こうとしない里緒の姿にいいかげん焦れると、芦田はゆっくりと彼女の肩に手をかけた。
「おい、さっぱり訳がわからないんだが。とりあえず顔を上げて説明してくれないか」
その言葉に勢いよく正面を向くと、里緒は真っ赤なままの顔で口早にまくしたてた。
「あのっ、本当にごめんなさい! わた……私、幼児虐待してるだなんて、とんだ誤解をしてしまって。た、大変失礼なことを」
「……は?」
芦田は口をポカンと開けたまま唖然とした。
「あやしいとか、ぎこちないとか、余計なお世話ですよね? おまけに犯罪やら通報やら、本当に失礼なこと言ってしまって、わたし……私、もう恥ずかしくて、この場から消え去りたい……」
最後の方は声がか細くなってしまい芦田の耳には届かなかったかもしれないが、里緒にとって、そんなことはどうだってよかった。
両手でガバッと顔を覆い隠してその場にしゃがみこむと「ああ、消えてしまいたい」と再度嘆いてみせた。
♢♢
「ところで若宮さん。この後何か予定は?」
「ええ、と。例の姪へのプレゼントがまだ決まっていなくて、ちょっと移動をしようかと」
ああ、確かそんなことを言っていたっけ、と芦田はオムライス屋での会話を思い出す。
「移動先は決まってる?」
「ええ、表参道に」
「表参道、ね。だったらここから30分くらいだな、渋滞のことも考慮に入れて。車で来ているから、送っていくよ」
芦田は上着のポケットから車のキーを取り出すと、それをひらひらと振って見せる。そして、入口付近にある花壇の傍で土いじりをしている上総に一声掛けると、里緒の返事を聞く前に席を立った。
「ちょっ、結構です! 電車で行きますから」
勢いよく立ち上がると、里緒は慌てて断りの言葉を口にしだ。
ところが芦田はテーブルの上にあった2つの空き缶を素早く掴むと、里緒の声を無視するかのように無言のまま入口に向かい、さっさと歩き出してしまった。
「あっ、ちょ……ちょっと!」
焦ってその背中を追いかけながら里緒はここに来た時のことを思い出し、これもデジャブっていうのかな……いや、なんか使い方間違ってる気がする――なんてことが頭に浮かんだ。
里緒さん、それデジャブじゃないです。
déjà-vu:実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じることである