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Well-being for Life!  作者: chai
2章 新しい生活
28/29

来客

※2013年4月現在、改稿中です。


 目立ったトラブルもなく今週の仕事を無事に終え、芦田はパソコンの電源を落とした。

 座ったままの状態で腰を捻ると、隣の島から鞄を抱えた佐倉が近づいてくる。


「最近順調だな。もう帰れるだろ?」

「ああ、平和なもんだよ」


 その言葉通り、芦田にとってこの一週間は、公私ともに平和なものだった。

 気になっていた里緒からの妙な視線は今週に入ってからぱたりと感じなくなり、あれはやはり自分の気のせいだったのだと芦田はそう思うことにした。


 後ろめたさを感じていた家政婦云々についても、週明け早々に手を打っておいた。

 予想していた通り、昇給の提案には首を横に振られたが、業務内容の曖昧さを改善したいとの名目で、後日改めて取り決めすることに落ち着いたのだ。

 芦田としては色々なことが解決し、すっきりとした気分だった。



「――次の角、いや、次の次だな……」


 

 自分の前を歩くこの男は、よほど記憶力がいいらしい。

 ぶつぶつと独り言を繰り返し、周囲の景色と過去の記憶とを照合させる作業を行っている同僚の後ろ姿を見ながら、芦田はそう思った。

 10分強の、駅から自宅までの道順は途中、幾つもに枝分かれする細道に入るため複雑でわかりにくい。

 近いとはいえないこの距離を、芦田は当然ながらタクシーを利用するつもりでいた。

 ところが佐倉ときたら、最近の運動不足を理由に、徒歩で行こうと言いだしたのだ。

 気乗りしない意を込めて「おまえが道を覚えていたらな」と返したのを本気にとって、颯爽と歩き出す姿に最初はポーズかと思ったが、結果はご覧の通りである。

 

「おまえ、よく覚えてるな」


佐倉が自宅を訪れたのは過去3度。

 招待した覚えのない新築祝いパーティーに押し掛けられたのがまず初回。

 大口の取引成立を祝った席で飲み過ぎた自分を送ってもらったのが2回目。

 そして――

 2度目の訪問から数日と経たぬうちに行われた、美波の告別式に参列してもらったのが最後だった。

 あのときは葬儀屋の手配で、大通りを行くわかりやすい順路の各箇所に、黒字の看板がたてられていた。

 

 

「……だな。俺も今、自分の奇跡的な記憶力を自己称賛中だよ」


 にっと口の端を引きあげて軽口をたたく優秀な同僚に、『だからタクシーを使おうと言ったんだ』と言ってやれる機会はきっと、廻って来ないだろう。芦田は少し残念に思いながら、先を行く男の影を踏みながら歩みを進めた。

 はたして佐倉は、悩みながらも一度も道を誤ることなく、無事に目的地に辿り着いた。

 途中コンビニに立ち寄ったのも、予定通りの行動だった。

 外ではビールにワイン、日本酒を飲みもするが、芦田は基本的に自宅には、ウイスキーと焼酎しか置いていない。そのため、そこで6缶入のビールを購入したのだ。 

 今夜の宅飲みを提案したのは、言うまでもなく佐倉の側だった。

 とはいえその目的は、お宅訪問でも酒でもない、里緒に会うことだ。

 何しろこの男は芦田から彼女の容貌を聞いて以来、“童顔巨乳の家政婦”とやらを一目見てみたい、と興味津々なのだ。

 厄介事はご免だと、最初はのらりくらりと断っていた芦田だったが、佐倉の想像以上のしつこさに根負けして、渋々彼の訪問を承諾したのだった。






  ♢♢


 給仕姿の若い男が両腕に皿を抱え、頼りない足取りでホールを回る。

 追加注文を受けて厨房に戻る彼を、気難しい顔をした料理人が待ち構えていた。

 おどおどとした手つきで新しい皿を手に取った青年が思わず動揺して手を引くと、掴みかけていた料理が音を立てて床に落下する。


『おい新人っ! テメェ、何やってんだよ。ふざけんなっ!』

「ひぃっ!」


 テレビに釘付けになっていた上総は、料理人の、どすの利いた罵声に肩を縮こませた。


 最近お手伝いに嵌ってる上総は、今夜来客の予定があることを知ると、ご馳走作りの助っ人役に名乗りを上げた。

 そのため里緒は保育園の迎えを早めて、上総同伴でスーパーに寄ったのだが、結局のところ終始一人で料理の準備をすることとなった。

 なぜなら帰宅した途端、上総がテレビの前から一歩も動かなくなってしまったからだ。


 リビングに入り、何気なくリモコンのスイッチをつけると、料理人を志す若者が様々な試練を乗り越え奮闘するという、昔の人気ドラマの再放送がやっていた。

 すると上総はお手伝いの事をすっかり忘れ、ドラマに夢中になってしまったというわけだ。


 ――これぐらいの年の子って、ホント変なものに興味を持つわよね。

 微動だにせず、テレビ画面にかじりついている上総の様子を目で追いながら、里緒は料理の手を進めた。




『もう、やってらんねーよ! こんなところ辞めてやるっ』


 主人公らしき男が捨て台詞を吐いたところでドラマがエンディングを迎え、上総はようやく立ち上がった。

 夕飯のお手伝いという使命を思い出したらしく、慌ててキッチンに掛け込んでくる。  


「里緒ちゃん、これは今日のご飯じゃないの?」


 カウンターに並べられた皿が目に入った上総は、どんな料理ができたのか確認しようと爪先立ちになった。しかし残念ながら、彼の身長ではその中身を目にすることは叶わない。

 里緒は一番手前にある“烏賊の塩辛”と“ねぎぬた”の2皿を手に取ると、それらを上総の目の高さまでもっていった。


「今日のお客様はパパのお友達でしょう。これは苦いし、こっちは辛いの。ここにあるのは大人向けのお料理なのよ」


 料理から発せられる独特の匂いに顔を顰めると、上総は「うっ」と唸って後ろに飛びのいた。そして遠目から、訝しげに料理に目を凝らす。 


 

「私たちはオムライス食べようね。はい、これ運んで」


 代わりにサラダが盛り付けられたプラスチックの器を差し出され、上総は気を取り直すと、それをゆっくりと慎重にテーブルに運んだ。

 先ほどのドラマのように、ひっくり返しでもしたら大変だ。

 というより実のところ、上総は昨夜、すでにそれをやってのけていた。

 ふざけてスキップを踏みながらデザートのプリンを運んでいたら、足を滑らせカップを床に落としてしまい、里緒から注意を受けたばかりだったのだ。

 残念ながら食後のデザートは無残な姿になってしまい、大のプリン好きの上総はちょっとだけ落ち込んでしまった。そして2度と同じ失敗はするまい、とプリンに誓ったのだ。


「食べたらお風呂入っちゃおうか。いつもよりちょっと早いけど、今夜はお客さんも来るしね」


 2人は両手を合わせて“いただきます”の挨拶をすると、オムライスを口に運んだ。



 


「わ~お! 君が、ベビーシッターさん? 若くて可愛いくって、まるで新妻みたいじゃん」

「……佐倉、オカマみたいな声を出すな」

「芦田ったら、もう妬いちゃってぇ。心配しなくてもお前の事は愛してるから!」

「……。」


 両手を胸の前で交差させて、しなり声を上げる客人を、里緒は複雑な笑みで出迎えた。

 芦田の友人にしては、あまりにも正反対といえる人種だ。 


「ね、名前なんてーの?」

「若宮です」

「じゃなくって、下の名前」

「里緒……ですけど」

「オッケイ、里緒ちゃん! 俺、佐倉。芦田とは同期仲間。仲良くしようね」


 ずいっと近づくと、佐倉は両手で里緒の右手をぎゅっと包み、勢いよく上下に振った。

  前言撤回だ。相手の反応の有無にかかわらず、自分のペースで話を進める強引さは、デパートで出会ったときの芦田の振る舞いを彷彿とさせる。

 ちらりと芦田の顔を窺うと、この手の軽口はお気に召さないのか機嫌のよい表情とはいえない。

 これは、さっさと退散するのが利口というものだろう。

 里緒は、椅子の背に掛けておいたエプロンを素早く手に取って、芦田に声をかけた。


 

「テーブルの用意だけして失礼しますね」

「いや、それぐらい自分で――」

「か、カズも運ぶ!」


 上総の可愛い主張に口元が綻び、自然と声も柔らかくなる。


「――て言ってますから、2人で準備しちゃいます」

「じゃあ、お言葉に甘えよう!」


 芦田の代わりになぜか佐倉が、満面の笑み付きで返事を返してきた。



 いそいそと里緒の後を追う上総は、夕方に調理の手伝いが出来なかったぶんを挽回するべく、俄然、張り切っていた。

 忠犬ハチ公よろしく、お声がかかるのを、今か今かと待ち構えている。

 芦田家のキッチンは対面式の造りとなっているため、難なく料理の受け渡しは出来てしまうのだが、この小さな給仕係は自分の使命に燃えていたのだ。

 里緒はその意気込みに応えるため、さっそく一つ目のお手伝いをお願いした。


「じゃあ上総くん、これお願いね」

「そうっと、そうっと」


 呪文のように唱えながら、お通しの枝豆を運ぶ。

 すると突然、上総は鼻の奥にむず痒さを感じた。


「はっ、ハックチュっ!」


 思い切りのいい大きなくしゃみをひとつ。

 その拍子に上総の手から、つるりと皿が滑り落ちた。

 あっと思った時にはすでに時は遅く、床一面に枝豆がばら撒かれる。

 ――あんなに気をつけて運んだのに!

 上総の顔は、見る見るうちに真っ蒼になった。

 一瞬のうちに、昨夜の失敗や夕食前のドラマ映像が蘇り、頭の中はパニックを起こしている。

 べしゃりと潰れて原形もとどめない昨夜のプリン。厨房で鬼のような形相で怒鳴り声を上げる料理人の顔。

 浮かび上がった幾つものシーンに加え、子ども特有の未知数な想像力が繋ぎ合わされ、上総はこの後の展開を予想した。 


「ああ、もう。何やってるんだ、ったく」

 

 父親の呆れたような声が耳に入り、上総は俯いたまま、ぎゅっと目を瞑った。

 スリッパの音が近づいてきて、頭の上に影を作る。


「あ、あの……お皿」


 震える声で何とか声を絞り出した上総の肩に、そっと手がかけられた。

 恐る恐る顔を上げると、目の前にしゃがみ込んで自分を見つめる優しい瞳がある。


「り、里緒ちゃん?」

「くしゃみ大きかったね、びっくりしちゃった」


 はっとしてテーブルを振り返ると、父親は椅子に腰を下ろしたままの状態でこちらに顔を向けていた。

 軽く眉を顰めているものの、ドラマの料理人ほど凄まじい形相ではない。

 自分の予想とはずいぶん違った展開に、上総は小さく動揺した。けれども彼には、とにかく主張しなければならないことがあったのだ。

 上総はごくっと唾を飲み込むと、真剣な顔つきで里緒に向かい直った。


「あ、あのねっ! お皿、ちゃんとこうやって、こういうふうに――」


 焦りや緊張のあまり、思ったように口が動いてくれない。そのため上総はジェスチャーを用いて何とか自分の気持ちを伝えようと力を尽くした。

 落ち着かない上総の様子とは反対に、里緒はのんびりと構えていた。


「そうだねぇ。上総くん、今日はしっかり両手で持って、気をつけて運んでて、えらかったねぇ」


 優しく頭を撫でられ、一気に安堵の気持ちが押し寄せる。

 何度かの瞬きの後、上総の瞳から、どっと涙が溢れだした。

 それに驚いたのは里緒である。

 テーブルの向こう側でその様子を窺っていた芦田も、手前に座っていた佐倉も、何が何だかわからぬといった表情を浮かべている。

 ぼろぼろと涙を零す上総の背中を優しく撫でながら、里緒は何がこの子の涙腺を崩壊させたのだろうと思いあぐねいた。


「どうした? 昨日と同じことやっちゃったと思ってびっくりしたかな。大丈夫だよ、今のは失敗じゃないからね」


 とりあえず、一番最初に思い当たったことを挙げてみたが、はたして涙の原因はこれで正解だろうか。

 同じ間違いを繰り返してしまいプライドが傷ついたのか、それとも昨夜注意を受けたばかりなのに立て続けに失敗をしたことを酷く怒られるのではと怯えていたのか――。

 子どもにありがちなケースをいくつか照らし合わせてみたが、上総の性質や状況からいって、どれも理由としてはいまいち弱い気がした。

 けれども、いくら里緒が子どもの心理について精通しているとはいえ、彼らの気持ちを必ずしも正確に言い当てるなんてことなど不可能なのだ。

 大丈夫だよ、という言葉を優しく繰り返し、里緒は上総の気持ちを落ち着かせることだけに意識を置いた。


 しばらくすると上総は落ち着いて、小さくしゃっくりを上げながらも、大人たちが枝豆を拾うのを手伝い始めた。

 軽く雑巾がけをされ、すっかり床がきれいになった頃には涙のあとも消え、上総はようやく小さな笑みを浮かべた。 

 芦田たちは気を取り直してビールを口に運び、再び談笑を始める。

 里緒は枝豆の入った皿を端によけ、残りの料理をテーブルに運んだ。

 ところが上総は、先ほどと同じ場所で立ち尽くしたまま動かない。声をかけてみたものの、返事もなかった。

 里緒はシンクの上で両手を振って水をきると、上総に近づいた。

 すると上総は内股の状態で、両膝をもじもじとすり合わせているではないか。 


「上総くん、もしかして、おしっこ?」


 その顔には、先ほどとは違った種類の緊張の色が見られ、一歩でも踏み出せば緊急事態といきそうだ。

 里緒は濡れた手をエプロンの裾でさっと拭うと、上総を抱え、足早にトイレに掛け込んだ。

 



「すみません。何だか慌ただしくて」

「いやいや、子どものお世話も大変だね。すぐ泣いたりするし」


 何とか間に合いました、と里緒は小さく笑う。

 佐倉もそれに笑顔で返した。

 そんな和やかな空気の中、芦田だけがひとり、仏頂面を崩さない。

 料理皿をひっくり返すという失敗をやらかしたこと。

 とうの昔にトイレの自立を迎えているにもかかわらず、限界間際まで尿意に気付けず里緒の助けを借りたこと。

 そのどちらもが芦田にとって眉を顰める出来事だったが、彼が何より気に入らなかったのは、上総が涙を見せたことだった。



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