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Well-being for Life!  作者: chai
2章 新しい生活
27/29

母の日とクレヨン

ずいぶんと間が空くことになり申し訳ありません。

大変お待たせいたしました。

何とか今年の内に更新できてホッとしております。

 リビングで新聞を流し読みしていた芦田は窓の外に目をやった。

 日差しはまだ暖かいものの、太陽はすでに西の方角に近い。

 のんびりしていれば、あっという間に夜を迎えてしまうだろう。

 今夜は向こうの家で食事をとることになっている。

 ――日が傾き始める前に出発するか。

 芦田はゆっくりと身を起こすと、玄関の隅に無造作に置かれた紙袋を掴んで車に乗り込んだ。 


 

 高速道で車を走らせることおよそ30分。

 目的のインターが近づくにつれ、車の速度が遅くなる。

 どうやら渋滞に巻き込まれたようだ。

 人差し指でこつこつとハンドルを叩きながらいつもの癖で左腕に視線を落としたが、そこには帯状の日焼け跡がくっきりと残っているだけだ。

 芦田は小さく舌打ちすると前方に向き直り、車内時計を確認した。

 時刻は17時23分。夕食の時間にぎりぎり間に合うといったところか。

 態勢をそのままに視線だけを左斜め下にずらすと、助手席にくしゃりと置かれたクリーム色の紙袋が視界に映る。

 芦田は昨晩のことを思い出しながら、車線変更を示すべくウィンカーを点灯させた。


 




 ホテルを出ると、外は小雨がぱらついていた。

 小走りで大通りに向かい、タクシーを拾う。

 後部座席で肩にかかった水滴を払い落としていると、翠からメールが送られてきた。

『忘れ物。次回まで預かっておくから』

 メールボックスには他にも幾つかの未開封のメールがあったが、とりあえずそれらは後回しにジャケットやパンツのポケットを探る。

 財布と自宅の鍵、それに携帯電話。この3つの必需品さえあれば何の問題もない――というよりその他の持ち物はないに等しい。

 最初の2点の存在が確認できると、芦田は未読のメールを確認しようと携帯電話の画面を顔に近づけた。


「――ああ」


 

 低い呟きとともに落胆混じりの溜息が重なった。

 風呂と就寝時以外には外すことのない腕時計が左手首から姿を消していたのだ。

 あれはあまり持ち物に拘りをもたぬ芦田がめずらしく一目で気に入った限定モデルで、3年前にボーナスをはたいて購入したものだった。


 普段から注意深い彼が持ち物を置き忘れたり失くしたりすることは殆どない。

 確実に翠の手元にあるという意味では紛失に至らずほっとしたものの、気分任せでホテルを飛び出さなければあれを置き忘れることもなかっただろう。

 芦田は腕組みをすると、背もたれに重心を預けて瞼を閉じた。

 これではまた近々、翠とホテル会議をする羽目になる。余計な面倒事を自ら増やしてしまったようなものだ。 

 お互い気が向いたときに関係をもつだけなら、別段厭わない。しかし最近の翠の態度や雰囲気からは、それ以上のものを求められているように感じられてならないのだ。

 芦田としてはもちろんその期待に応える気など一切なく、そうなるともう2度と翠と寝るつもりはなかった。

『仕事に支障が出るから、月曜の朝そっちに取りにいく』

 手早くそう打ち送信ボタンを押すと、彼は携帯電話を上着の内ポケットにしまい込んだ。


 


 自宅に到着する頃には本格的に雨が降り始めていた。

 芦田は頭からタオルを被り、コーヒーを啜りながらリビングをうろついた。

 ソファの傍に設置された自宅用の電話が赤く点滅している。

 休日に自宅宛てにメッセージを残すような人間がいただろうか。

 疑問に思いながら電話機に近づいた。

 人差し指が再生ボタンに触れたところで突然電話が鳴り響き、思わず後ずさる。


「――はい、」 

「あっ! こんばんは、若宮です。お休みのところ夜分に恐れ入ります。今お時間大丈夫ですか?」


 驚きが混じったような第一声のあと、いつもと変わらぬ柔らかな声が受話器の向こうから聞こえてきた。


  

「若宮さん、どうして自宅に?」

「あの、携帯にもメッセージを残したんですけど。連絡がつかなかったもので、ご自宅にかけさせていただきました」


 慌てて確認すると、確かに留守番電話が1件とメールが2通、里緒から連絡が来ている。

 そういえば、翠とのやり取りにげんなりしたあまり、それ以降携帯電話を手に取る気になれず放置してしまっていた。


 

「すみません、ちょっと色々ありまして。何度も連絡もらってますね、申し訳ない。何かありましたか?」


 メールを読んでも電話で話したいと書かれているし、何か緊急な用事だろうか。

 息子は祖父母の家でいつも通り過ごしているのだから特に問題はないだろうし、もしかしたら明日の仕事を休ませて欲しいという話かもしれない。連絡に気付かなかった自分が悪いのだがそれだと少し困る。

 そんな身勝手な感想をもった芦田だったが、里緒が語った内容は彼を拍子抜けさせるようなものだった。


   

 金曜の夕方、里緒と一緒に祖父母の家に到着した上総が自分の荷物を開けたところ、鞄にしまったはずの袋が入っていなかったという。

 途中で落としたとは考え難く、大方上総が荷物に詰め忘れたのか、家を出る前に鞄から転げ落ちたのではないかと思うので、家の中を探してみて欲しい。そして見つかったらば、上総を迎えに行く際に持っていってもらいたいとのことだった。


「用意は下でしていたので、おそらく1階にあると思うんです。お手数ですがこのまま移動していただけますか?」


 芦田は言われるまま、子機を片手に腰を上げた。

 

 電話越しに探し物の特徴を聞きながら階下に着いた芦田は、ものの1分でそれを見つけることが出来た。

 畳部屋の隅っこに、ぽつんと転がっていたのだ。

 芦田はそれを手に取ると、首を傾げた。

 使い古しのクリーム色の紙袋にはセロハンテープで軽く封がされており、隙間から覗くと器用に折りたたまれた画用紙のような物体が目に入る。

 こんなゴミみたいなものがそこまで大事なものなのだろうか。

 休日にわざわざ電話までしてくる彼女の気が知れない。

 芦田は電話を切った後しばらく紙袋を眺めていたが、すぐに興味を失うと無造作にそれを玄関先に放り投げた。

 そしてリビングに戻ると、酒盛りしながらのんびりとサッカー中継を楽しむことにした。


 

 今夜の一戦は対デンマークだ。

 一昔前の日本チームは弱小だというイメージがあったが、最近の日本選手たちの活躍には目が見張るものがある。やはり監督の影響が大きいのだろう。

 芦田はソファにふんぞり返ってウイスキーを口に含んだ。

 アウェー戦とはいえ、なかなかいい勝負を繰り広げている。

 強国に対し、1-1の接戦が続き、芦田は次第に気分がよくなってきた。

 やはり、一人きりというのは気楽でいい。息子を預かるという提案をしてくれた義父に心から感謝だ。

 仕事自体はそう忙しくなかったものの、がらりと変化した慣れない生活の間で、気付かぬうちに少しずつ蓄積した疲労は、思いのほか芦田の気力や体力を奪っていたようだった。







 ♢♢



 車が到着すると、伊藤と上総はすでに庭先で待ち構えていた。

 父親から件の紙袋を受け取った上総は、一目散に八重子の元に向かう。


「保育園で母の日プレゼントを作ったみたいでね、里緒さんの提案で上総は八重子のために作ってくれたようなんだよ」

「……はあ、なるほど。母の日、の」


 芦田はこの手のイベントにはかなり鈍い。

 今の今まで、今日が母の日であることすら気付かなかった。

 


「これがお星さまでしょ、こっちはお月さまなの!」

「あらぁ、素敵ねぇ」


 上総から少し遅れて大人2人が家に入ると、リビングの奥から楽しそうな声が聞こえてきた。


「なんだか自信作らしくてね、パパにも見せるんだって言ってたよ。来た早々慌ただしくて悪いね」


 苦笑交じりの伊藤に促され芦田が奥の部屋へと足を進めると、リビングのテーブルに散らばったクレヨンと開きっぱなしの自由画帳が目に入る。きっと、自分が来る直前まで遊んでいたのだろう。

 奥の部屋に足を踏み入れると、ベット際にいる上総が後ろを振り返り、手招きしている。

 近寄ると、八重子の手の中に上総の作った作品が見えた。  


 中心に合わせて両サイドが折られた白画用紙は窓を形取っており、その表面はクレヨンと青色の絵の具によってはじき絵が施されていた。

 “窓”を開くとその内側はカーネーションを手にした女性の塗り絵となっている。

 印刷された『おばあちゃん ありがとう』の前半部分には修正テープの跡があることから、元の文字は“おかあさん”だったのだろう。

 保育園側もなかなか手の込んだものを作るものだと、芦田は素直に感心した。 


 ぱっちんとウィンクをかました絵の中の女性は、オレンジ色のドレスに真っ青なエプロンを纏っている。 

 60近い八重子をモデルとしたにしては少し色合いが派手だが、受け取った本人は至って満足そうだ。

 ふと気付くと、左隣にいる息子がじっと自分を見つめていた。

 その顔は明らかに、作品に対する感想を期待しているものだ。

 言葉に困った芦田はしばらく黙って顎を掻いていたが、「おまえ、青色が好きなのか」とへったくれもない感想を述べた。

 ところが意外にも、上総はその言葉がいたくお気に召したようで「うん、あお好き!」と頷くと、満足気に頬を緩めている。

 子どもが考えることは自分にはさっぱりだ。

 芦田は複雑な視線を息子に送ったが、上総は笑顔をそのままに、今度はターゲットを祖父に絞ったらしい。伊藤から褒め言葉をもらい、ますます上機嫌になって部屋の中を飛び跳ねだした。


「一史君、お茶でも出すからあっちの部屋にどうぞ」

「ああ、ありがとうございます」


 伊藤の言葉を受け、芦田は八重子に軽く会釈をするとリビングに移動した。

 テーブルの上を片付けるよう伊藤から言われ、上総もその後に続く。


「ここに来たばかりの頃は全然口を利かなくなって、黙って絵ばかり描いとったよ」


 

 散らばったクレヨンを片付ける上総を眺めながら、伊藤が半分独り言のように言った。

 当時を思い懐かしんでいるのか、孫の成長を喜ばしく思っているのか。きっとその両方だろう。彼の上総を見つめる瞳はいつも以上に慈愛に満ちていた。

 その視線がゆっくりと芦田に向けられる。


「ほら、君が会いに来てくれる時もいつだって、お絵かき帳を手離さなかっただろう」


 

 ――そうだったろうか?

 正直なところ、芦田は過去の訪問の際、息子がどんな様子だったのか、殆ど記憶にない。

 『そうですね』でも『そうでしたっけ』とでも、何か適当に相槌を打ってしまえばよかったのだが、芦田は何となくそうせず黙ったまま伊藤を見返した。  

 誰も言葉を発しない中で、上総がクレヨンを片付ける音だけがリビングに響く。

 クレヨンを一つ残らず箱に納めた上総は、今度はテーブルの下に転がっている蓋を拾うために、絨毯に這いつくばって手を伸ばし始めた。


「ここの2色だけ種類が違うんですね」


 視線を外さぬ伊藤と静寂した空気に耐えきれなくなって、芦田は口を開いた。

 左端に納まっている橙色とその隣の青色の2本だけカバーが違っているように見え、思わずそう口にしてしまったが、それがなんだというのだ。自分の発言内容の下らなさに、芦田は思わず首を掻いた。


「良く気付いたね。あんまりにも同じ色ばかり使うもんだから、あっという間に擦り減ってしまってね。その2本は2代目なんだよ」

「はぁ、そうなんですか」


「他の新品のクレヨンは出番もなく未だにタンスに眠ったままなんだけれどね」


 自分の言葉を聞き流すこともなく会話を続けようとする義父の優しさには感謝するが、それ以上どう話を広げればいいのかわからず、芦田はまたしても口を閉じてクレヨンを眺めるはめになった。

 そうしていると、どうでもいいことばかりが目についてしまう。

 2代目にも拘わらず、その2色のクレヨンは他と比べて減りが早いようだった。

 青色が好きな割には隣に並ぶ水色のクレヨンはきれいなもので、あまり使われた形跡がない。

 あんな小さな子どもにも何か拘りがあるのかと、芦田はほんの少し可笑しく感じ、左端の口元が自然と釣り上がった。


 そういえば前回の訪問時、里緒を送った車の中で、上総の好き嫌いが話題に出たことがあった。

 彼女は宣言通り週明けにあのノートを持ってきたが、芦田は未だそれを開いてみることすらしていない。

 『まだ見ていなかったんですか』と責めるような視線を浴びる前に、一度くらい目を通しておくべきだろうか。

 そこまで考えたところで、なぜ家政婦ごときの非難を恐れる必要があるのだと思い直し、芦田は再びテーブルの上に視線を落とした。 

 並んだ12色の一番右には、カバーが剥がされて丸裸になった黒色のクレヨンが納まっている。

 こちらはちょうど真ん中のあたりでポキリと折られ、2つ合わせても随分短く感じられた。



「とーれた!」


 弾んだ声とともに、絨毯からがばりと起きあがった上総がクレヨンの箱に蓋を被せた。


「ほれ、このお絵かき帳は保育園のだろう。忘れないうちに鞄にしまっておいで」

「はーい、じぃじ」 


 

 テーブルの上は、あっという間に片付けられ、代わりに伊藤によって用意された緑茶とお茶菓子が並べられた。

 


※はじき絵…クレパスなどで絵を描き、水性絵の具でその上を塗るとクレパスで描いた部分が水をはじいて綺麗な絵が完成する。保育園や幼稚園でよく使われる。



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