親友
久しぶりの更新です。
大変お待たせいたしました。
芦田がホテルで翠と過ごしていた土曜の午後、里緒は親友である麻紘のマンションを訪れていた。
久しぶりとなる麻紘の部屋は以前の洗練されたクールなイメージから、暖かみのあるナチュラルなテイストに様変わりしていた。所々に飾られた可愛らしい小物がその存在を主張しており、シンプルかつ機能美を好む彼女のチョイスとしては珍しい。
里緒が部屋中を見回すように視線を動かしていると、飲み物をのせたトレーを片手に麻紘がキッチンの奥から姿を見せた。
最近のお気に入りだという中国茶を勧められてカップを手に取ると、健康茶独特の匂いが鼻を刺激する。口に含むと紅茶に近い味わいがして、里緒は小さく首を傾げた。
「東方美人茶っていうの。これでも烏龍茶の一種なのよ」
「そうなんだ。なんか不思議な味」
麻紘は幼少時代、父親の仕事の関係で台湾や上海あたりのアジア圏を転々としていたこともあり、中国文化に事詳しい。
部屋の模様替えに加え、中国の茶葉を揃えるのも彼女の趣味のうちのひとつだ。
残念ながら里緒にはこのお茶の素晴らしさがよくわからなかったが、麻紘が真面目な顔で茶の効能を解説し始めたので、水を差さぬよう話に頷きながらお茶を啜ることとした。
麻紘の中国茶講義が終了すると、2人の話題はお互いの仕事のことへと移り変わる。
会社の殺人的な業務スケジュールのおかげで難なくダイエットが成功したという麻紘の自虐話に大笑いした後、里緒はここ数ヵ月で大きく変化した自分の生活を身ぶり手ぶりを交えて話し始めた。個人情報の漏洩を避けるため本名を伏せながらも、芦田親子との出会いや今の生活ぶり、上総の祖父母の話に至ってまで大筋を語る。
「それでね、結局あし――その父親はこっそり女性と会ってたってわけなの」
「へぇ、駄目な父親ねぇ」
話が件の口紅事件に差し掛かったところで、それまで相槌を打つだけだった麻紘から茶々が入った。
「それで里緒は今の仕事に身の危険を感じちゃった? 彼ってもしかして女好きかもって」
「……あのねぇ」
話を茶化され声を尖らせると、里緒は真面目に話を聞けとばかりに、じろりと麻紘を睨んだ。
「冗談はともかく。仕事ならまだしも女性関係で息子の存在忘れて放置だなんて、人としてどうかと思わない?」
鼻息荒く里緒が同意を求めると、麻紘は「そうねぇ」と顎に手をやる。
「でもよ、その件は一応なりとも解決したわけじゃない。父親にも多少なりとも反省が見られたわけだし、それを今更掘り起こす気は里緒もないんでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
「ま、ここで鬱憤晴らすぶんにはいいけどね。吐きだすところがないとストレス溜まるし」
「そうなの! この仕事に反対気味の梓には話しづらいし。麻紘が仕事落ち着くの、ずっと待ってたのよ――」
これが話したかったんだと里緒は声を張り上げた。
せっかく穏便に済ませた件の話をわざわざ蒸し返し、芦田とバトルを繰り広げるほど彼女は馬鹿ではない。
しかし、初犯で仕事が理由だということで、あの形で話を収めたのだ。
それが蓋を開けてみれば女性との逢瀬が原因で、その上仕事のせいにするとは何とも呆れた話である。
独身の芦田が女性と会おうが交際をしようがそれは本人の自由だ。けれども独身である以前に、一児の父親であるという自覚を彼は持つべきではないだろうか。
沸々と湧きあがるこの思いの丈を本人にぶつけるわけにもいかず、里緒はここ数日芦田の顔を見ると、ついつい目つきが厳しくなってしまうことを自覚していた。
いけないとは思うのだが、なにしろ条件反射なのだから仕方がない。
そこでこのままでは不味いと、この怒りを親友に吐露することで雲散させようと思ったわけだ。
女性は解決云々を別として、言葉を吐き出すことでストレスを発散させる生き物だ。
女が男に比べてお喋り好きなのは、そんな理由から来ているという説は有名である。
辛口ながらも自分の心内を理解して捌け口の相手を買って出てくれた親友に感謝しつつ、里緒は溜まっていた鬱憤を一通り吐き出した。
「――なんかスッキリした」
「よし。じゃあこのことは忘れて普段通りにしてあげな。真面目すぎる性格だと考えすぎてハゲるのも早いよ」
こんなとき、お節介焼きの里緒だったら、ついつい深入りして相手の領域に踏み込み過ぎてしまうのだが、麻紘はその間逆ともいえる対応をする。相手を慰めるわけでもなく現実的な解決策を提案し、そして同情や同調はしないにせよ、相手の愚痴にも程ほどにお付き合いするのだ。
里緒は麻紘のこういったところをとても尊敬しており、彼女のそんな部分に過去救われたこともあった。
「でもよかったわね。息子は素直で可愛い子なんでしょ、父親に似ないで」
「あはは、まあね。ほわっとした癒し系で、最近までずっと母方の両親と暮らしてたから雰囲気は彼らに似てるかも」
――ふとした時には、親子だなって感じることもあるけど。
上総が時々見せる頑固さ、特にむっとした時に眉間に皺を寄せる表情なんかは親子そっくりだ。
そんなところが似ているだなんて聞かされたところで芦田が喜ぶとはとても思えないので、里緒がそれを本人の前で口にしたことは勿論ない。
2人の顰めっ面を思い浮かべ、里緒はくすりと笑った。
そういえば――と彼女は昨日のうちに送るはずだった未送信メールの存在を思い出す。
文章の作成中に友人から電話がかかってきたため、そのまま忘れ放置したままだったのだ。
「ちょっとごめんね」
麻紘に断りを入れて話を中断し、携帯電話を手に取る。
「なになに? 思い出し笑いといい、もしかしてコレ?」
親指を立てて笑う麻紘は、セクハラ親父そのものだ。
「しーごーとーでーす」
「なぁんだ、がっかり」
里緒は苦笑いを浮かべると、完成させたメール文をもう一度読み直し送信ボタンを押した。
ふと顔をあげると、顎の下に両手を組んでテーブルに肘をついた麻紘がじっとこちらを見詰めている。
「里緒さぁ、相変わらず男の話題ひとつでてこないってどうなの? 元彼と別れてもう2年半よ。いい加減、彼氏の1人や2人作ったら?」
「正式に別れたのは亜衣が生まれた後だもん、まだ2年と4ヵ月よ」
「そんな細かい情報はどうだっていいのよ。こっちに上京してきてから全く男っ気ないじゃない」
「失礼ね、ボーイフレンドくらいいたことあったわよ」
親友のここ数年の薄っぺらい男性遍歴を知りつくしている麻紘はその言葉を鼻で笑うと、ソファにどすんと腰を下ろした。
「たかだか2、3度お茶したくらいの相手がボーイフレンド? ただの“guy friends”でしょ」
うっと言葉を詰まらせた里緒をしばらく眺めた後、麻紘は視線を落として「やっぱり兄貴の家に同居なんて無理やりにでも反対すればよかったわ」と小さく呟いた。
「もう、私の事はいいってば。それより麻紘はどうなのよ、例の彼とは順調なの?」
「ん? 別に。いつも通りよ」
女性から見ても魅力的な容貌をしている麻紘には、その外見を目当てに群がる男たちが常に絶えない。
大きめなパーツがバランス良く配置された顔に長身でモデル体型な彼女はどこにいっても美しいと形容される。
男兄弟に鍛え上げられたという男勝りな性格も、その見事なまでの容貌の前では大した枷にもならないようだった。
麻紘の目下のお相手は、4つ年上の企業マンだ。相手からのアプローチで付き合い始め、もうすぐ2年になるはずだ。
とはいえ、それ以上の情報を里緒はほとんど知り得ていない。
恋愛経験があまり豊かと言えない里緒では頼りにならないからか、本人はいつも多くを語らないのだ。
麻紘の恋愛話はいつだって事後報告で、現在進行形の相談を持ちかけられたことは一度だってなかった。
今こそ親友の恋愛事情を問い詰めるチャンスではないか。
そう意気込む里緒より先に麻紘が口を開く。
「それよりさぁ、最近兄貴と連絡取った?」
「淳平君? 梓と亜衣なら時々電話で話すけど……」
「この間用事があって電話したら里緒のこと聞かれてさ。『雇用主、ろくな奴じゃないんだろ』って。まったく実の妹には素っ気ないのに“義理姉”にはおそろしく過保護なんだから。悪いけど暇なときにでも連絡してやってくれる?」
素っ気ないのは麻紘の方だろう、と里緒は思う。
才色兼備で仕事も順調、恋愛相手は引く手数多。おまけに気が強く、口喧嘩では負け知らず。
そんな隙なしの妹相手に世話のひとつも焼こうものなら『間に合ってます』との冷たい返事が返ってくる。
それに不服だったのか、淳平は昔から妹の親友である里緒を事あるごとに妹扱いしていた。
気さくで優しい淳平に何かの切っ掛けで妹の梓を会わせたところ、何時の間にやら2人は恋仲になり、さらには結婚するまでに至ったことには里緒もかなり驚いた。
しかし信頼できる兄貴分である淳平ならば安心して妹を任せられると、あまりの年の差に猛反対する両親を説き伏せ、里緒は誰よりも2人を祝福した。
その甲斐あって彼らは幸せな家庭を築き、結果的に淳平と里緒は義理とはいえ“きょうだい”になったのだ。ただし“兄妹”ではなく“姉弟”という続柄ではあったが。
それにしても花見以来、梓との間で芦田の話が話題に出たことはなかったのに、いつまでこの仕事に反対する気なんだろうか。
梓は重度のシスコンだし、淳平が里緒に兄貴面するのも昔からのことだったが、過度な心配も困りものだ。
「近いうちに家に顔出そっかな。梓に連絡しとく」
「煩い兄でごめんね、ホント」
「いい機会だから、全く心配ないって事をしっかり伝えてくるわ」
――そうだ、契約書も持っていかなくちゃ。
いい加減あの夫婦には“自分離れ”をしてもらわなくては。
そう思う里緒自身、妹と連絡を取るたび必ず「亜衣はどうしてる?」と聞いてしまう立派な過保護予備軍だった。