ピロートーク《後篇》
すみません、前話の最後辺りで家事の原因を変更しました。
6歳児が重たい灯油ケースを倒すイメージがつかず……。
話は3ヵ月ほど前に遡る。
1年で一番寒い真冬の季節、府中市で一般住宅が半焼し、男児が背中に大火傷を負うという事件が起きた。
出火原因は男児の一人遊びで、電気ストーブのヒーター部に差し込んだ広告チラシが着火したというものだったが、何より問題視されたのは、わずか6歳の子どもが1人きりで留守番をしていたということだった。
共働きだった両親は、通常家を空けるときには知り合いに息子を預けたり、ベビーシッターを依頼していた。
ところがその日は休日だったはずの母親が急に仕事の連絡を受けて、職場に向かうこととなったのだ。
不幸中の幸いにも男児が命を落とすことはなく、けれどもその背中に大きな火傷の跡を残した彼は、数週間の入院を余儀なくされた。
テレビ報道では、6歳の1人息子の安全よりも仕事を優先させた母親がクローズアップされ、世間では子どもの両親に強い非難が集まった。
ところでその両親というのが、揃ってS社に勤めていた。
S社というのは芦田たちと同業の某大手広告代理店で、つまり彼らのライバル会社にあたる。
小さい息子を放っておいて酷い怪我をさせたと世間で注目を浴びたその夫婦は、そこの社員だったのである。
この業界は一部の間では、残業手当の未支払は当然のこと、社員の安全配慮義務の怠りが原因で過労死・過労自殺に追いやられた社員の遺族が裁判を起こす等、過労な勤務状況で知られている。
今回の事件が起こったその背景にも、そういったことがあったのは明らかで、S社はこの件が引き金となって芋づる式に過去のトラブルまで持ち出され、行政機関の立ち入り調査が入ることとなった。
結局、会社の経営を脅かすような大事が発覚するまでには至らなかったものの、世間のS社に対するイメージはがた落ちとなった。
この出来事があってからというもの、芦田の会社はますます社員管理の体制を強化することとなったのだった。
「そうそう。そういえばその家のベビーシッター、学生だったみたいよ。それがその手の会社から派遣された人だっていうんだから呆れたものよね、全然プロじゃないじゃない。そのへんも大丈夫? 万が一にも上から聞かれないとも限らないわよ」
どこからそんな詳細な情報を仕入れてきたのか芦田にはとても想像がつかなかったが、それだけ翠の人脈が広いということなのかもしれない。
この女、ひょっとしたら自分よりよっぽど野心家なんじゃなかろうか。
芦田は今後、万が一にも彼女に裏をかかれるようなことがないよう十分注意を払う必要があると心に念じた。
けれども今回の件においては、翠の徹底した忠告は、かえって有難かった。
「元保育士で、日中はそれ関連の講師の仕事もしてる。子育ても一応経験してるし、口煩いが勤務態度は極めて真面目で仕事ぶりも文句ない。普段は俺の帰宅時間まで上総を見てもらってる」
「そう、人柄や経験には問題ないわけね。ところで今日は上総くんどうしてるの? 土曜だけど臨時で見てもらってるわけ?」
「週末は時々妻の実家に預けてるんだ。場合によって彼女に世話になるケースもある」
「なるほどね。けど残業の日なんか結構遅い時間までかかることもあるでしょ、それも突然なわけだし。そこまで融通きくなんて、旦那さんよっぽど理解あるわねぇ」
翠は感心したように掌を頬にあてた。
「いや、独身だし家も遠くない。それを見越して雇ったんだ」
「独身? でも育児経験あるって――ああ、その人も片親なわけね。それなら理解もあっていいじゃない」
己の言葉に納得したらしく2度ほど頷いてみせると、翠は何やら思案した様子でゆっくりとベッドから立ち上がった。
サイドテーブルに置かれたシガレットケースに手を伸ばし、芦田を振り返る。
「けど、知ってる? 最近は中年層になってからの結婚率がわりと高いのよ。特に女性は子育てが一段落するのを待って熟年離婚、年下男と再婚なんてのも流行ね。突然辞めます宣言も、最近じゃ若い子の専売特許ってわけじゃないんだから、女性の雇用は気をつけるに越したことはないわよ」
どうやら芦田の言葉尻から、子持ちの独身中年女性を雇ったのだと勘違いしたらしい。翠は女性ならではの想像力で、アドバイスを述べ始めた。
彼女の見当違いをわざわざ指摘するのも面倒で、芦田は黙ってそれを放置しておいた。
それに、翠の意見も的を得ぬ話ではない。
女性の中途採用においては結婚や子どもの有無とその予定、そして産後は復帰の意思があるのかということは重要事項だ。
女性の社会進出が進んだ現代でも、アルバイト感覚の腰かけOLはまだ多く存在しているし、結婚後は家庭に入る女性だって少なくない。
実際それを“女性差別だ”“偏見だ”と感じる女性は世の中に多くいるだろうが、雇用側からしてみれば採用して数ヶ月で妊娠退職などされれば大きな損失になってしまう。慎重になるのは当然だ。
現在の日本の経済状況を考えてみれば、現実的に仕方がない部分もあるだろう。
芦田も里緒を雇うにあたって、そういった確認は行ったが、そのときの彼女の反応は少し意外なものだった。
『ないです。少なくとも雇用期間内にそういうことはありませんから、ご安心ください』
別に結婚するなと言うわけではない。そういった予定があるのならば仕事に支障ないよう、あらかじめ心構えが必要だと言っているのだ。
ところが彼女の口調は、きっぱりとしたものだった。
しかし契約期間は短く見積もって3年、今年で27になる女性が結婚しませんと断言できる期間としてはいくらなんでも長すぎやしないだろうか。仮に、現在交際している男性がいないとしても――だ。
「芦田くん、聞いてるの?」
「あ? ああ心配ない。結婚には興味がないんだと」
考え事に浸っていた芦田は普段なら話さぬような余計なことを、それも自分の推測を交えて口にした。
「やだ、芦田君。ひょっとして“再婚の予定は?”なんて質問でもしたの? いくら面接だからって、一歩間違えるとセクハラよ、それ。それにいい年こいて2度目の結婚を希望してますだなんて、たとえ心の中で思ってたって面接官の前で正直に話す女性なんていないわよ」
饒舌になった翠はけらけらと笑うと、窓を開けて煙草を銜えた。
翠の中で里緒のプロフィールには、離婚歴まで付け加えられることとなった。
――全く、どうでもいいことをよく喋る。
仕事モードだったはずが、いつの間にやら再び“女”の部分を見せ始めた翠に芦田はげんなりする。
しかし、うっかり口を滑らせ話題を提供してしまったのはこちら側であったし、何せ自分は今、翠に世話になっている身だ。
気が済むまで喋らせておけばいい。そう考えて芦田は再びベッドに身体を横たえると、ゆっくりと息を吐いた。
「それにしても自分の子でもないのに一日中子どもの世話するなんて、私からしたら考えられないけど。ま、楽っちゃ楽よね。数字を気にすることなく、適当に子どもの相手してればいいわけだし」
芦田の予想を裏切ることなく、翠の口は止まることを知らなかった。
メンソールのきいた煙をふかし、馬鹿にしたような口調で言葉を続けていく。
翠の下らないお喋りは、芦田の不愉快な気分を助長させるだけだった。
芦田は険しい顔つきになり、仰向けになっていた身体を壁側に反転させると瞼を閉じた。
思考も一緒に閉じたいところだったが耳障りな声がその邪魔をする。
翠の声は、とにかくよく通った。それだけならまだいいのだが、早口で高音のせいか鼓膜にキンキンと響き、長時間聞いていると頭痛がしてくる。
滑舌が良いので営業向きとはいえるだろうが、仕事で疲れて帰宅したときにこんな声を聞かされたら、たまらないだろう。
あるいは同じ通る声でも、ゆったりとした柔らかい口調ならば歓迎といったところだが。
「でもいいじゃない。そんなしっかりした人なら子どもはもちろん家のことだって、全く心配せず仕事もプライベートも集中できるわね。ふふ、私も結婚したら貸してもらおうかしら、その優秀な家政婦さん」
――家政婦とベビーシッターの違いも分からないのか、この女は。
翠から意味ありげな視線を投げられ、芦田は鋭い眼差しで彼女を見返した。
芦田とて進んでではないにしろ里緒を家政婦代わりとしたような生活を営んでいるのだが、翠が彼女を『家政婦』と表現したことは、なぜだか彼の癇に障った。
相変わらず翠の甲高い声が部屋中に響き渡っている。
せめてもう少しトーンを落としてゆっくり話せないものだろうか。
一度気になると、その声質もトーンも、そしてその話し方さえ何もかもが鼻につくように感じてしまう。
こんな刺々しい口調でなく、もっと穏やかに話せばいいものを。大声な上に語尾がきついから余計やかましく聞こえるのだ、ボリュームを落とせ、ボリュームを!
気に入らない点を並べているうちに、芦田はここ数ヵ月で耳慣れた、物腰柔らかな声を自然と思い出していた。
「――ねえ、芦田君。どう思う?」
突如、耳障りな声が飛び込んできて、脳内のどこかで聞こえていた穏やかな声が一瞬のうちにして雲散する。
芦田は身体を捻って勢いよく身を起こした。
壁側寄りに寝転がっていたのが悪かったのか、左肩を壁に打ちつけて鈍い音をあげた。
「なに、どうしたの?」
「帰る」
「え?」
軽く眉を寄せる翠をよそに芦田は一言そう告げると、壁際に掛かっている上着を引っ掴んだ。
乱暴なその仕草に上着が掛けられていたハンガーが大きく揺れ、音を立てて床に落下する。
突然帰り支度を始めた男の姿を翠がぽかんとした顔で眺めているうちに、芦田はあっという間に身なりを整え、財布から万札を1枚抜き取った。それをサイドテーブルに置いて、さっさと入口に向かう。
「芦田君? ちょっと待ってよ」
はっとして引き止めの声をあげた翠に何の反応も見せぬまま、芦田は振り返ることなくホテルの一室を後にした。